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朝のテレビ画面に映る最高気温と最低気温は、観るたびに下がっている気がする。それくらい日中も冷え込み、近々初雪が降るらしい。登校する生徒のほとんどはコートやダウンジャケットなどを着ているが、まだ制服にマフラーと手袋だけで堪えている者も少なからずいる。アウターが嫌いなのかオシャレを優先しているのか定かではないが、もし後者だとしたらやはりオシャレには根性と筋肉が物を言うのだ。
ひよりは根性も筋肉もないので、新調したコートを着て登校している。中学時代から身長はほとんど伸びておらず、そのとき着ていたコートもまだ着られなくはないが、三年間でそれなりにくたびれたので新しく買ってもらった。高校生の間はこの温かなコートで寒さから身を守らねばならない。
しかし駅から学校まで走って体が火照ると、保温効果の高さが裏目に出て暑くなる。昇降口に着いて校舎内に入り、汗ばむ首元からマフラーを外すと涼しいとすら思った。
走った疲労と予想外の暑さで、のろのろと靴を履き替えていると、
「寝坊かよ」
と声がした。振り向くと、ちょうど朝練が終わったところなのか、光来と幸郎と、そして白馬が居た。
「う、うん……間に合わないと思って、焦った……」
靴をしまい、上履きに足を入れる。十一月の寒さが染みこんでいて、体が熱くともさすがにその冷たさには鳥肌が立った。そろそろ薄手ではない裏起毛のタイツを検討しなくてはならない。
「頭ボサボサだよ」
幸郎に指摘され、慌てて手櫛で髪の流れを整える。指の間を抜ける髪もまた冷たくて、だけど顔の熱はなぜだか増した。
光来たちも靴を履き替え、三人に混じる形で階段を上がっていく。光来と白馬が「どちらが階段を上るのが早いか」という勝負を始め、光来は二段飛ばしで、白馬は脚の長さを生かして二段どころか三段飛ばしで一気に駆け上がって行った。
「元気?」
「え? うん、元気……」
光来たちに置いて行かれたひよりと幸郎は、勝負に付き合うつもりはさらさらなく、一段ずつ踏み外さないように進んでいく。
「ま、元気じゃなきゃ走れないか」
はは、と笑われ、寝坊したことも必死で走ったこともまた恥ずかしくなって、何の言葉も出てこなかった。さっき整えた髪をもう一度撫でつけ、足下だけを見る。
一年の教室は四階にある。日頃からこの階数には苦労しているが、走ってすでに体力を消費したあとだと普段より体に堪えた。
やっと上がって、各クラスの札が下げられた廊下を歩く。白馬と光来はすでに教室に入ったのか廊下に姿はなく、友人同士でふざけあって軽い取っ組み合いをする男子たちや、お喋りに耽る女子たちが、進行方向をほどよく邪魔している。
以前は恐ろしかった男子のそばも、今でも距離は取るものの、怯えることも体が強張ることもなく過ぎていく。我ながら大した変化だと、たまにしみじみしてしまうくらいだ。
一組、二組と過ぎて、ひよりのクラスまであっという間に着いた。閉じられたドアの向こうでは、クラスメイトたちがささやかな自由時間を楽しんでいる。
「またね」
まだ廊下の先へ行く幸郎が、振り向いて手を振る。
「またね」
ひよりも手を振って、小さく返して教室へ入った。
担任が来ていないこともあり教室内は賑やかだ。一部の女子から「おはよう」と挨拶をもらい、返しながら自分の席に着くと、友人がわざわざひよりの机にやってきた。
「間に合ったねぇ」
「うん。駅からずっと走ったから、もうクタクタ。早く家に帰りたい」
「まだ学校始まったばっかりだよぉ」
嘆くひよりに友人は朗らかに笑った。登校中は行きの車内で合流するのに、今日はひよりの姿がなかったため、どうしたのかと連絡が来たのは、ちょうど駅まで走っていた頃。
電車に乗ってやっと返信し、降りたらまた学校まで駆けた。鴎台は緩いながらも坂を登るのだが、今日はその傾斜がやたらと憎かった。
予鈴が鳴ってすぐに担任教師が教室に入ってきたので、全員が急いで自席に着き、今日の日直の号令が室内に響く。
学校からの配布物や今日の予定についてなど、連絡事項が教師の口から皆に伝えられる。ひよりはそれを一応聞きながら、二日ぶりに幸郎と話したなと、指を折って日付を数えた。
昼休みに定期的に会わなくなって一か月。光来や幸郎との接触は廊下などだけになった。
クラスが違うとなるとまず教室での交流は発生しない。親しくはあるがわざわざ訪ねに行くほどの仲でもないし、教科書を忘れたとしても異性のひよりに借りるより同性の友人を頼るだろう。
春高の予選が終わり、東京で行われる大会への出場が決まった男子バレー部は、朝はひよりよりもずっと早く登校して練習し、放課後はひよりよりもずっと遅くまで学校に残り練習する。ひよりと光来たちは、やはり昼休みくらいしかまともに時間が合わなかった。
それでも従兄妹である光来は、財布を忘れたから二百円貸してくれだのと、親類ゆえの気兼ねのなさで接する機会はあった。
しかし、光来の友人という繋がりしかない幸郎とは、まったくと言っていいほど交流がない。二日前の会話も、廊下でちょうどすれ違ったときに「おはよう」と挨拶を交わしただけ。
寂しい、とは違うと思う。今まで定期的に会っていたので、それが突然なくなって、なんとなく慣れない。
もう少し経てば気にならなくなる――そう考えてもう半月は過ぎたのだが、やはりそう考える以外に選択肢はなかった。
二学期の期末テストは、十二月に入ってすぐ。テスト一日目が終わり、ひよりは友人と共に光来たちと下校した。
約束しているわけではないが、部活停止が始まってからは光来とずっと下校を共にしている。前回の中間テストのときに偶然あの男子と遭遇したので、今回もまたばったり会ってしまうかもしれないからと、そばについてくれるらしい。
入学前に言ったとおり、自分の可能な範囲でひよりを助けようとしてくれている。従兄のそういう責任感の強いところは好感が持てるし頼りになるので、バレーの練習に付き合ってズタボロな物言いをされても嫌いになりきれなかった。
「人多いけど、平気?」
高い位置のパイプを掴む幸郎が、隣でつり革を持って立つひよりに問う。学校行事はどこも似たような時期に行われるため、混雑する車内には同じくテスト期間中なのか、鴎台だけでなく他校の制服を生徒がたくさん乗車しており、もちろん男子もいる。
ひよりのすぐ後ろにも詰襟の学生服姿の男子が背を向けて立っており、自身の友人とゲームの話で盛り上がっていて、たまに彼のバッグがひよりの制服と擦れるほど距離は近い。
「うん。平気」
以前だったら気が遠くなりそうな状況も、今のひよりにとっては怖くない。光来たちがそばに居るというのもあるけれど、意識も体もしっかり自分でコントロールできる。
「克服できたね」
「まあ……話したりとかはしたくないけど」
「したくないんだ」
「だって、いつ嫌なことされるか分かんないし」
関わらなければ何も起きない。関わらなければ相手がどんな人間かなんて知ることもないし、知らなければ互いに背景の一部のままだ。
しかし会話という接触が発生すると、途端に背景の一部ではなくなってしまう。相手は自分を『蓼科ひより』という一人の人間として認識し、見定められてしまう気がする。そして見定められた結果、またいじめられたら――と考えてしまうので、受け答えに慎重になるし、そもそも話をしなければいいとすら思ってしまう。
途中の駅で友人と別れ、ひよりと光来の駅に着き、三人揃ってホームに足をつけた。二人だけでなく幸郎も一緒に降りたのは、また光来の家で勉強をするからだ。
ひよりは光来宅へ行くつもりはなかったが、帰宅途中であの男子に遭遇する可能性もあり、勉強会が終わったあとなら光来が家まで送ってくれるというので、安心安全な帰宅を目当てに参加することにした。
「あっちの高校の制服着てる人いないし、大丈夫そうだね」
周りを見回した幸郎の言葉に安心し、やっと肩から力が抜けた。あの日からずっと近づけないでいた因縁のコンビニにも久しぶりに入り、今日のカップ麺を決めるべく売り場に立つ。
「俺のおすすめは塩」
「俺はとんこつ」
「じゃあ醤油にしよ」
二人が挙げた味とは別のものを選ぶと、光来は「ひねくれてんな」と一言投げて総菜売り場に行き、幸郎は「逆に素直だよね」とその後に続いた。
ドリンクコーナーでいろいろ考えた末、やはりレモンティーを選んで、会計は幸郎たちが決まるまで待って、一人で店の外に出ないようにした。
三人それぞれにビニール袋を提げ、光来の家へ向かう。雪が積もるようになって、光来は自転車を走らせるのをやめ、ひよりと同じく徒歩通学になった。
この時期になると履き慣れた普段の靴はしばらく引っ込んで、オシャレに気を遣う人ですらスノトレやブーツ一択になる。さすがに積雪ともなると、根性や筋肉ではどうこうなるものではないらしい。
光来宅に着いてまずは昼食。ひよりはキッチンで湯を沸かし、光来たちは電子レンジで弁当を温める。
ふと見た冷蔵庫の扉には、学校からのお知らせ、クリーニング店からの割引の案内ハガキ、何かの数字が書かれたメモ用紙がマグネットで貼りつけられており、その中に『春高』の文字を見つけた。
「春高かぁ。本当に行くんだ」
インターハイに続き、一月に東京で行われる春高も、鴎台が長野県の代表として出場する。予選大会で幸郎と共にスタメン入りした光来は、本人曰くなかなかいい活躍ぶりだったらしい。
東京は遠い。テレビ番組で紹介される店の大半は東京にあり、流行りの店は東京でならすべて揃うし、海外から日本へ出店するのもまず東京。映像と音声でしか知らない美味しい物がたくさんあるのに、ひよりのような長野住まいの一介の高校生にはまず手が届かない。
「光ちゃん、お土産買ってきてくれる?」
「遊びに行くんじゃねえんだぞ」
電子レンジを操作する光来は眉間を寄せた。確かに観光目的で行くのではないし、ここからだと東京へは新幹線でも二時間近くかかる。店に立ち寄る時間もないほど、過密なスケジュールが組まれているかもしれない。ふとそちらに顔を向けると、幸郎と目が合った。
「お土産買う時間もない?」
「あるんじゃない?」
「あるって」
「バレーしに行くんだっつってんだろ!」
光来と共に東京へ行く幸郎に問うと、断定はしていないが可能性はあると返ってきたので、それをそのまま光来に伝えるとレンジの扉をバタンと強く閉めながら怒鳴られた。
しゅんしゅんと湯が沸いて、ひよりのカップ麺と、光来たちのインスタントの味噌汁に注ぎ、盆に乗せてダイニングテーブルまで運ぶ。ひよりはあと三分ほど待たねばならない。携帯電話でタイマーをセットして、レモンティーの紙パックを開けてストローを差した。
「ひよりちゃんも東京に来て、自分で買えばいいんだよ」
カップに入ったサラダを箸で口へ運ぶ幸郎が言う。
「伯父さんたち、東京まで光ちゃんの応援に行く? 行くなら私もお母さんにお願いして、伯父さんたちについて行こうかな」
一人で東京へ行きたいと言えば親は難色を示すだろうし、そもそもひより自身も一人では行きたくない。息子の晴れ舞台を伯父一家が会場まで観に行くというなら、親戚のよしみでひよりも同行させてもらえれば渡りに船だ。
バレーの大会だから会場には背の高い男子は大勢いるが、今のひよりならなんとか堪えられそうだし、親戚がそばにいるなら心強い。昔から光来の話によく出てきた『春高』そのものにも興味があるし、一度見物がてら行ってみたい気持ちもある。
「それもいいけど、そうじゃなくてね」
幸郎は箸を置き、口の中のドレッシングをリセットするように、コンビニで買ったミネラルウォーターを一口飲んだ。
「マネージャーになれば、ってこと」
予想外の誘いに驚いて食んでいたストローを口から外すと、コポと紙パックの中から籠った音が鳴った。
「マネになれば自分で好きなお土産を選んで買えるし、俺と光来くんがいるところで俺たち以外の男と交流できる場も作れて、いろんな人と話す練習にもなる。一石二鳥じゃない?」
一本、二本と長い指が立てられる。
バレー部への入部など考えたこともない。男子は怖いし、背が高い男子なんかを前にしたら蛇に睨まれた蛙だった。
それに何より、入学前に光来から自分の部活の邪魔はするなときつく言われている。バレー部はいわば光来の聖域で、ひよりが立ち入ることは許されない気がしていた。
ひよりが入部することは光来の邪魔にならないだろうか。従兄の顔を窺うと、視線に気づいたのか目が合う。
「……いいんじゃね。まあ東京行くまでは忙しいから、入るとしても春高終わったあとにしとけ」
「そうだね。じゃ今回は無理みたい」
熱い味噌汁を啜りながら光来がそう言うと、幸郎はスッと指を下ろしてそのまま箸を取った。
「でも来年は、俺たちが連れてってあげるよ」
自信に溢れた、聞く人が聞けば鼻につく物言いだったが、今年も全国出場を掴み取っているので、不遜で片づけられないのが実際のところ。
誘うだけ誘って、幸郎は光来と部活のことについて話を始めた。光来も母親が作り置いた炒飯を掻きこみながら、ひよりが知らない誰かの名前を出してこの間の練習試合でどうのと返している。
タイマーが鳴り響いたので止めて、閉じていたカップ麺の蓋を剥がした。醤油の香りが湯気と共に食卓の上で広がっていく。
二人に遅れてひよりもラーメンを食べ始めた。食べ終わる頃には、マネージャーになろうと決めていた。