シュガーレス | ナノ
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13

 光来宅で昼食を済ませたあとは、集まった名目のテスト勉強に取りかかった。コンビニでの出来事をまだ引きずっていたひよりはいまいち集中できなかったが、そのうち心も落ち着いてきたのか気も楽になり、幸郎から数学の問題で躓いたところを教えてもらったりもした。
 日が暮れる頃、三人で駅まで向かい、幸郎を見送ったあとは光来が家まで送ってくれた。男子の家は知らないが、同じ学区ということで光来の家より近いので念のため。
 しかし二度目の遭遇はなく、光来は少しだけモンちゃんを構ったあと、自転車で帰っていった。

 翌日は朝練がないということもあり、光来が途中まで迎えに来てくれて、共に駅から電車に乗った。同じ車両に乗り込んでいた幸郎とも合流し、混み合う車内でもひよりは安心して揺れに身を任せられた。
 二日目のテストが終われば停止していた部活動が再開されるため、光来たちは学校に残り、部活に入っていないひよりは先に下校することになる。光来も幸郎も気にかけてくれたが、大丈夫だと言って友人と共に学校を出た。
 自宅の最寄りの駅に着くと、キョロキョロと周りを見回しつつ、できるだけコンビニから距離を取った道を選び、普段よりずっと早歩きで帰路を辿る。
 家に着くとホッとして一安心し、制服から部屋着に着替えたところで携帯電話を手に取る。電車に乗るより前に、幸郎からメッセージが届いていた。

『無事に家に着いたら教えて。光来くんも心配してるよ』

 家に着いたことと、何もなかったことを送り返したあと、ヤカンに水を入れ、コンロに乗せて火にかける。沸いた湯で、母が買っておいたとんこつ味のカップ麺を作り、誰にも気兼ねせずズルズルと大きな音を立ててすする。昨日とは打って変わって、何の変哲もない普通の日だった。



 テストが終わった週明けは、多少緊張はあったがいつもの時間の電車に乗って登校した。
 ばったり出くわす不安は抱えていたものの、そもそも今までずっとあの男子に遭遇してこなかったのだ。乗車する時間がずれていたと考えるのがしっくりくる。だとしたら会う確率は低いはず。
 ひよりの考えは的中したのか、駅舎にもホームにも、車両の中にも男子の姿はない。途中で乗ってきた友人と合流し、鴎台の最寄り駅に着けば、不安は胸の片隅にも残っていなかった。

 先週受けたテストの答案用紙が返却され、各教科の教師から平均点や今回のクラス全体の出来、赤点を取った生徒の追試日や時間などが伝えられ、クラスメイトは思い思いの声を上げる。
 昼休みに入り、ひよりは自分の席に友人を招き、共に持参した弁当を広げた。

「あ……」
「どうしたの?」
「お箸がない」

 巾着の弁当袋には、見慣れた弁当箱は入っていたが、カトラリーセットが見当たらない。どうやら母が入れ忘れたらしい。

「購買でお箸売ってるよぉ」
「あ、そっか。買ってくるね」

 友人に言われ、そういえばと思い出す。購買部では光来曰く、ぼったくり価格で割り箸が販売されている。十円玉一つで問題が解消されるのだから有難いことだと、ひよりは財布を持って教室を出た。
 昼休みが始まったばかりなので、購買部にはまだ人が多い。ひよりも早く箸を買って戻りたいが割り込みは厳禁。列には男子も並んでいるので、なるべく女子の背や頭を見続けて脳をなんとか誤魔化し、じっと順番を待つ。
 やっと割り箸を買い、階段を上がって教室が並ぶ廊下に舵を切ろうと曲がると、幸郎とばったり鉢合わせした。

「わっ」
「お、っと」

 同時に身を引いたことで、なんとかぶつからずに済んだ。相手がひよりだと分かると、幸郎は「ちょっといい?」と、階段を挟んだ奥を指差した。話がしたいのだろうと察し、二人で廊下を進んで、突き当りで足を止めた。

「あれから何かあったりした?」

 話題は予想していたとおり、例の男子との一件以来について。

「特には何も……。今朝も会わなかったし」
「今までも会わなかったんでしょ? ならこれからも大丈夫だよ。乗る方向も逆だし、乗る時間も基本的に被らないと思うから」
「え……なんで、そんなの分かるの?」

 やけに自信のある物言いに引っかかって訊ねると、幸郎は口角を上げた。

「あの制服の高校に電車で通ってるなら、ひよりちゃんたちの駅からだとうちとは逆方向に乗るんだよ。あとバッグが俺たちも使ってるようなスポーツバッグだったから多分どこかの運動部だし、朝練とか考えたら駅を通る時間帯も違うでしょ。この前はテスト期間が被ったとかであっちも部活がなくて、たまたま出くわしたんじゃないかな」
「な、るほど……」

 思わず感嘆の声を漏らした。あのときひよりは動揺していて、相手がどんな制服を着ていたか、それがどの高校でどこにあるのか分からないし、どんなバッグを使っていたかなんて覚えていない。けれど幸郎は数分にも満たない対峙の中でも冷静に観察し、およそ正解に近いだろう推論まで述べてみせた。

「そしてひよりちゃんは今日は箸を忘れた。どう? 俺の推理」

 腕を組み、得意げな顔を向けられる。どうしてそんなことも――と思ったものの、ひよりの手には財布と、買ったばかりの割り箸がある。

「財布と割り箸持ってるんだから、誰だって分かるよ」
「推理なんてそんなもんだよ。見えているものをそれらしくまとめられれば、名探偵の出来上がり」

 解いた腕をパッと広げた幸郎の論は屁理屈だと思うが、理に適ったものにも聞こえる。まさに『それらしくまとめられている』状態で、幸郎には口論で挑んでも勝てそうにない気がした。

「おーい、さちろー」

 幸郎の大きな体の後ろから、彼を呼ぶ声が飛んでくる。ひよりの体が強張ると同時に、幸郎は振り返って、いつかみたいに手を突き出し「ストップ」とやってくる男子を止めた。

「は? なに?」
「ひよりちゃんが怖がるから、そこで止まってて」
「誰?」
「光来くんの従妹」

 距離があるのに、男子が誰であるかは姿を見なくても分かる。ひよりにとって忘れられない声で、もう遅いが見つからないように幸郎の背に隠れ、胸の前で手を組んでぎゅっと身を縮ませた。

「ひよりちゃん。芽生の顔、ちゃんと見てみて」

 自分を見やって、幸郎が促す。先日、あの男子と白馬の顔はまったく似ていないと言われた。怖いが、確かめるべきだと自身を奮い立たせ、そっと幸郎の大きな体の壁から顔を出し、向かいに立つ白馬を見上げた。
 大きい。びく、と体が揺れる。目が合った。怖い――が、幸郎という壁があるので、以前のように血の気が引く感覚はない。

「どう? 似てないでしょ」
「……うん」

 白馬の顔は、あの男子にはちっとも似ていなかった。顔の造作もそうだが、パッと見た印象からすでに違う。白馬には、あの男子を想起させる要素は何一つなかった。

「なんだ? 何の話?」
「芽生は別に怖くないよって話」
「あ、そういや俺は『怖いのジジョー』なんだっけか」

 裏庭でのことを思い出したのか、白馬の表情は不安げなものになる。ひよりの様子を窺い強張る顔なんて、あの男子はしたこともなかった。

「怖い?」

 問われ、ひよりはすぐに首を横に振った。白馬と目が合っていても、慣れない相手なので緊張はするけれど怖いという感情はない。こんなに見上げているのに、眩暈も動悸もしない。組んだ手から力も抜けない。

「よかったね。芽生が平気なら、もう怖いものなしだよ。ここで芽生よりデカい奴なんていないんだし」

 それは確かにそうだ。白馬は一年生にして全校生徒の誰よりも身長が高い。一番背の高い彼が怖くないなら、白馬より身長の低い男子はもっと怖くないはず。
 そう考えたら、急に肩から力が抜けた。気が遠くなるようなあの脱力感ではなく、ふっと楽に緩む感覚。自分の変化に呆然と幸郎を見上げたら、彼も自分を見下ろしていた。

「ね?」

 ぼんやりした頭が、こくんと勝手に頷いた。



 あれからひよりの世界は変わった。
 通学時の電車の中。自分の教室。多くの生徒が行き交う廊下。自宅以外では、ひよりは常に男子の存在に怯えて過ごしていた。
 ところが、あのときから隣の席の男子が急に立ち上がっても、すれ違うときに肩が触れそうなくらい距離が近くても、「蓼科さん」と呼ばれても、緊張はするものの眩暈や動悸は起こらない。
 言葉はまだ多少つっかえるものの、相手の顔を見て話ができるようになり、やっとクラスの男子の名前と顔がまともに結びつくようになった。

 裏庭はさすがにもう寒いからという理由で、昼休みの集まりは光来の教室になった。
 他のクラスに一人で乗り込むなんてできそうになく、友人に頼み込んでついて来てもらい、光来の席の周りをひよりと友人と幸郎で囲む。
 ざわつく教室は、裏庭と違って人との距離が幾分近い。なのでこそこそと、光来に自身の変化を伝えると、

「芽生かよ!」

と、変化のきっかけが白馬であることに光来が大声を上げ、ひよりは慌ててその口を塞いだ。
 正確には白馬だけがきっかけではないのだが、話を要約すると、どうもそうまとまってしまう。

「怖くはなくなったけど……でもソワソワっていうか、緊張はするよ」

 元々クラスメイトの男子たちとの関わりは薄く、彼らが接触してくるのも用事があるときだけ。男子からすればひよりは教室の背景の一部みたいなものだ。
 関心を持たれていないことを改めて認識し、ちょっと安心もした。下手に興味を持たれ、それがまたいじめられることに繋がるより、無関心でいてくれる方がずっといい。

「それに、また会ったら……って、それはやっぱり怖いし、いやだけど」

 しかし、あの男子に限っては、やはりまだ恐怖心は手放せていない。
 彼のことを考えただけで動悸がして、不安という大きくて重たい布をすっぽり被せられ、息ができなくなる苦しさがある。
 ただ、彼以外の男子相手には、体は以前のような強い反応はしなくなった。それだけでもひよりにとっては大きな前進だ。

「よかったねぇ」

 喜ぶ友人はにこにこと笑顔を浮かべている。男子に用がある際はいつも友人を頼ってしまい、迷惑ばかりかけていたことを振り返ると、感謝してもしきれない気持ちが友人にはある。
 それは光来や、もちろん幸郎にもあった。

「あの……ありがとう。今まで、いろいろ手伝ってくれて」

 光来と幸郎。二人の顔を交互に見ながら、ひよりは感謝の念を伝えた。
 最初は荒療治みたいな展開に心身ともに疲弊していたけれど、光来はひよりの心配をしていたし、彼なりに助けてくれた。送り迎えしてくれたときも文句ひとつ言わなかった。
 幸郎はこちらのペースに合わせて接してくれて、アドバイスだったのか揶揄だったのか今でも分からないが、ひよりに言葉をかけてくれた。あの男子を前に体が竦んで動けなかった自分を庇ってくれたし、彼が白馬の顔を確認するように言ったから、今こうして礼を言えている。

「引きこもりは回避できそうか?」
「うーん……多分」
「はっきりしねえな」

 先のことは正確には分からない。もしかしたらまた男子が怖くなるかもしれないし、油断はできない。
 だけど漠然と、なんとなく大丈夫なんじゃないかと思う。
 だってあれだけ恐ろしかった白馬が怖くないのだ。今日も階段ですれ違った際に目が合ったけど、相変わらず大きいなという感想が頭に過ぎっただけで、全然怖くなかった。
 白馬ほど大きな男子はこの学校には居ないし、日本中を探してもそんなに多くない。じゃあ、世の中は白馬より背が低い男子ばかりだから、怖がる必要はないんじゃないか。
 ひよりの中で新たに構築されたそんな理論がこれからも崩れなければ、恐らく引きこもりにはならないと思う。

「んじゃ昼休みのこれも、もうおしまいでいいか?」

 机に頬杖をついた光来がひよりに問う。『昼休みのこれ』が週に二回の集まりを指しているのは、この場に居る者は皆分かる。全員がひよりの事情を知り、同情ないしは親切心でいろいろとフォローしてくれていた。
 三人の視線がひよりに集まる。答えを待っている。

「う……うん」

 ひよりの答えは答えではなく、促された相槌だった。
 光来からそう訊ねるということは、光来はもう『おしまい』にしたいのだ。貴重な昼休みを、週に二回もひよりのために割いていたのだから、終わらせられるならとっとと終わらせて自由になりたいだろう。
 だからひよりは頷いた。光来と幸郎のためにもそれがいいと。
 光来はやっと解放されたとばかりに、両手を天井へ突き出してグンと伸びをする。大きな口を開けて欠伸までして、そこまで自分と付き合うのは疲れることだったかと、なんだか嫌味に見えてしまった。

「何か困ったらまた頼って」
「……うん」

 幸郎がそう言ってひよりが返事をすれば、この話はもうおしまい。本当に『おしまい』になり、ひよりがここに留まる理由もない。だって集まりの目的は達成されたのだ。

「じゃあ、ね」

 ひよりは友人を連れ、光来の教室を出た。幸郎がそのまま残ったのは、ひよりが友人と昼休みを過ごすように、光来の友達として昼休みを過ごすからだろう。
 光来とは従兄妹で、血縁関係があるだけにこの学校の中では誰よりも光来の近い位置にいる。でもそれは親類という近さであり、別に光来は友達ではない。従兄妹であるがゆえに、『友達』にはなれない。
 幸郎も光来と同じく、ひよりにとっての友達の枠には収まっていない。彼にとってもひよりはそうだと思う。親しい友達の従妹。ひよりと幸郎には、光来という一人分の距離がある。

「ほんとによかったねぇ」

 のんびりとした口調で、友人が再度よかったと繰り返す。
 確かによかった。完全には解決していないけれど、男子が後ろから走り抜いて行っても驚きはしたが怖くないし、教室に入る際に男子とぶつかりそうになっても血の気が引く感覚はなく、「ごめん」と互いに軽く謝って何事もなく自分の席に着いた。
 自宅以外に安全圏なんてなかったのに、びっくりするくらい快適だ。懸念点はまだ残るも、随分と楽になった。
 これでよかった。こうなりたかった。そのはずだったが、ひよりの胸の片隅に残った小さな感情は、砂粒も通らないような穴を空けた。

20240304

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