シャワーを浴びて着替えると、すぐに机に向かってスクールの勉強。母に呼ばれたらダイニングで食事。朝食は絶対に抜かない。抜いてしまうとどうにも頭が働かない。
準備を済ませたらターフタウンにあるそらとぶタクシーの待合所へ向かい、ナックルシティの管理局本部へ向かう。移動中もテキストブックを開いて、文字や数字の羅列と睨み合った。
自宅のターフタウンから毎日タクシーを利用するのは結構な金額になるが、交通費は全額支給されている。アンの場合はのちのち自身のアーマーガアでの移動になるが、それは騎乗訓練課程を修了してからだ。
アンは同じ候補生の同期や、正規採用された新人レンジャーたちと共に、午前中は本部で座学を受ける。
エリアレンジャーとは何か、ワイルドエリアとはどんな場所かという成り立ちや歴史を学び、これまでどんな危険が起きてレンジャーがどう対応したのか、昔から現代への遷移の様子など、まったく知らなかったワイルドエリアの世界は、アンの頭に詰め込むには広大だった。
スクール生のアンには難しい言葉もでてきて、分からない内容はメモをして調べ、講師や同期に質問して理解に努めた。
一番年下のアンは同期にとって妹分に収まり、ランチタイムの時間もスクールへ提出するレポートに費やすアンの先生になったりしている。
午後は基本的に野外での実習が入る。実際に歩き回ってワイルドエリアの様々な特徴を知り、地理を覚え、生息するポケモンたちの種類や習性を学ぶ。
パートナーとの騎乗訓練の日には、各々の騎乗できるパートナーと共に、専用の鞍やベルトの取り付け方、指示の出し方を教わる。
アンはアーマーガアだけでなく、ウインディやラプラスもいるため、誰にどの鞍をつけ、どう指示を出すのか間違えないようにしなければならない。
その騎乗訓練の際には、候補生それぞれに指導担当のレンジャーがつく。アンの担当はインスという男性。三十代前半だがレンジャー歴はすでに十五年のベテランで、指導員の経験も豊富だ。
「いいか、アン。アーマーガアを自分に合わせるんじゃなくて、アンがアーマーガアに合わせるんだ。そうじゃないと、アーマーガアは本来の速度を出せない。呑気に飛んでちゃ、何かあったときに間に合わないだろ」
姿勢の取り方を何度も指摘されながらも、アンはインスの予想より早くアーマーガアと息を合わせて飛べるようになった。
今まで到達したことがなかった上空からの景色は気持ちがよく、肌を刺すほどに空気は冷えていて、分厚いジャケットやグローブがなければ震えてしまうほどだ。
ウインディやラプラスにもうまく乗れるようになり、騎乗は候補生の中でも一番巧いと褒められた。調子に乗ってアクロバットな飛行をした際にはとても怒られて、反省文を書いた。
その日の研修がすべて終われば、アンはまたタクシーに乗って自宅へ帰る。行きと違い、疲れた体が求めるままに眠りながらターフに着く。
バスルームで汗を流して夕飯を済ませると、今日学んだ授業の復習。時間に余裕があればスクールのテスト対策やレポートも進め、日付が変わる前には眠る。そして明け方の5時に起きて、また忙しい一日が始まる。
二か月の研修が終わると、候補生は適性によって振り分けられた部署へ配属となる。
アンは騎乗能力を評価されたようで、ノースエリアのエリアパトロール隊に籍を置くこととなった。
ワイルドエリアは大きく二つに分かれており、管理局では北側のナックルシティ前をノースエリア、南側のエンジンシティ前をサウスエリアと呼称している。
インスがノースエリアのパトロール隊だったこともあり、そのまま彼がアンの指導員を引き継ぐことになった。
エリアパトロール隊は名の通り、ワイルドエリア内を巡回するのが主な役割で、異状やトラブルの有無に目を光らせ、窮した人や怪我人がいれば応急措置に当たり、時には緊急シグナルを発信することもある。
「ワイルドエリアにはいろんな人間がやってくる。ただのトレーナーなら問題ないが、悪いことを考える奴はどこにでもいるんだ。ワイルドエリア原生の植物を乱獲したり、ポケモンを密猟したりな。一般のトレーナーが襲われる事件もたびたび起きる。強奪、暴行、誘拐……もうすぐ始まるジムチャレンジ中だと、初参加のチャレンジャーが特に狙われる」
インスの話に、アンは少しゾッとした。ワイルドエリアで何度もキャンプを行っていたが、そんなことが起きるなど気づきもしなかった。よく声をかけてくれたエリアレンジャーたちは、そうやってアンを危険から遠ざけてくれていたのだ。
広大な自然や、住まうポケモンたちの暮らしを守ることもそうだが、ここにやってくるトレーナーたちを犯罪から守るのもエリアレンジャーの役目。
自分の職務の重大さをしっかり胸に留め、アンはインスの指導を受けながら、レンジャーとして大事なことをいくつも覚えていった。
アンがパトロール隊として活動を始めて一週間が経った。インスのアーマーガアの後ろをアンが飛行し、下を見ながら注意を払う。
キャンプをしているトレーナーのテントや煙、縄張り争いをしているポケモンたち。空から見下ろす風景のすべてに目を配るのは大変だ。
鞍に取り付けているスマホが光る。耳に嵌めたイヤホンから、インスの声が響いた。
『アン、前の大岩へ下りるぞ』
了解の返事をし、アーマーガアへ指示を出す。インスは何を見つけたのか。目を凝らして大岩に注目すると、赤いものがあった。近づくにつれ徐々にはっきりと見えてきたそれに、アンは驚いた。
頭上に現れた二匹のアーマーガアを、深い赤を纏った少年が見上げる。褐色の肌を引き立てる鮮やかなバイオレットの髪はキャップに押さえつけられ、長い睫毛に縁取られた丸い目は金色。
「ダンデくん!?」
思わずその名を呼んだが、ダンデ本人には届いていない。自身のアーマーガアが地に足を付けると、急いでその背から降りた。
踵まで丈のある赤いマントを羽織ったダンデの姿は、チャレンジャ―のときに見かけた装いとはまったく異なるが、メディアで知るチャンピオンで間違いない。
ダンデはアンとインスに不思議そうな顔を向ける。アンは目元を覆うゴーグルを上げて、顔を晒した。
「アン? キミ、アンか!?」
アンの顔を見るや否や、ダンデの表情はパッと明るくなり、そばへと駆け寄ってくる。
自分の顔を覚えてくれていたことに嬉しくなって、アンも口元に笑みを作り「久しぶりだね」と一言返した。
「チャンピオン……ですよね? なぜこんなところに?」
インスがダンデに訊ねる。アンより年下の少年だが、彼は今ガラルで一番強いトレーナー、誇り高きチャンピオン。礼を欠かぬよう敬意を払っている。
「ナックルスタジアム居たはずなんだが、気づいたらここに」
「迷っちゃったんだ」
「どうやらそうらしい」
迷っていると言うには、ダンデに切羽詰まった様子は見受けられない。彼自身、気づけばまったく違うところに居ることが多々あるせいか、ちょっとやそっとのことでは動じないらしい。
「アンは何してるんだ? エリアレンジャーみたいな格好だな」
「エリアレンジャーの候補生になったんだ。少し前にパトロール隊に配属されて、巡回しながらいろいろ指導してもらってるの」
アンが羽織っている、防風や防寒対策がなされたフライトジャケットの袖には、レンジャーの記章が施されており、一目でエリアレンジャーだと分かる仕様だ。
中に着ているのはレンジャーの制服だが、大人用の小さいサイズでも袖や丈が長すぎるため、短めに縫い留めて調整しているが、それでも服の中で体が泳いでいる。
「このアーマーガアは、あのアオガラスか?」
「そうだよ。今はパトロールの仕事を一緒にしてくれてるの」
「へえ! 立派なアーマーガアになったんだな。キミもアンも、カッコいいぜ!」
ダンデがアンのアーマーガアに笑顔を見せると、アーマーガアは得意げに一声上げた。ダンデがアンを覚えていたように、アーマーガアもダンデを覚えていた。チャレンジ時代の思い出を共有できていることに胸が温かくなる。
「アン。チャンピオンと知り合いなのか?」
二人を黙って見ていたインスが、アンにそっと耳打ちした。
「はい。去年のジムチャレンジで」
答えるとインズはすぐに納得した。アンが前回のチャレンジャーだったことは、指導員のインスももちろん把握している。
「ダンデくんはすぐに迷っちゃう癖があるので、ナックルからここまで来ちゃったみたいです」
「来ちゃったみたいって……ここからナックルシティまで、随分な距離があるぞ」
「まあ……ダンデくんなので」
信じ難いとばかりに戸惑うインスに、アンは『ダンデだから』としか返せない。ダンデの極端な方向音痴ぶりは、自分の目で見てみなければ理解できないだろう。
「町の中ならリザードンが案内してくれるんだが、ワイルドエリアは広すぎて……どっちに向かえばいいか分からなかったんだ」
ダンデが言うには、しばらくリザードンに乗ってあちこち行ってみたが思うようにいかず、疲れてしまったので今はボールに戻して休んでもらっているらしい。
「事情は分かりました。私たちでお送りしましょう。ナックルでよろしいですか?」
「はい。そうしてもらえると有難いです」
助かったとばかりにダンデは肩から力を抜く。インスは自分のアーマーガアの鞍にダンデを座らせ、ベルトを装着させると、シートの端のバンドに足先を通し、ダンデに被さる形で乗った。緊急時に一人だけ運んで飛べるよう、シートの座面は大きく作られている。
アンも自分のパートナーに乗り、インスの後を追い地を飛び立つ。ナックルを目指して飛ぶこと十数分。高い壁を過ぎ、ナックルスタジアムの前に降り立った。
「送ってもらい、ありがとうございました」
「いいえ。こちらこそチャンピオンを乗せて飛べるなんて光栄でした」
ダンデが握手求めて右手を差し出すと、インスはその手を取りながら、小さな若きチャンピオンへ背筋を伸ばして返す。
インスとの握手を終えると、今度はその手をアンの前へ。
「アン、お互い頑張ろう!」
「うん。また迷わないようにね」
ぎゅっと握り合うと、「それは難しいな」とダンデが笑い飛ばす。またすぐに迷子になりそうだと、アンは一抹の不安を覚えた。
アンが危惧したとおり、ワイルドエリア内で迷子のダンデを見つけるのは、それから何度か続いた。
別のパトロール隊の仲間が発見するときもあれば、一般のトレーナーがエリアレンジャーへ連絡をし、迎えに行くこともあった。
ダンデの迷子癖はすでにエリアレンジャーの間ではかなり認識され、遅れて世間にも『新チャンピオンが迷子になっていた』という情報がSNSなどを通じて広まり、最強のトレーナーの意外な一面として取り上げられたこともある。バトルでは尋常ではない強さを見せる彼の『チャーミングなギャップ』と。
実際には『チャーミング』などという可愛いものではないが、ダンデのイメージを損なうマイナスなものではないし、アンも長らく会っていなかったダンデと顔を合わせる機会があることは悪く思っていない。
今日もまた迷子のダンデをストーンズ原野で見つけた。リザードンが空を旋回しているところへ駆けつけると、その真下でダンデが手を振っている。
普段ならばインスのアーマーガアに乗せて送るのだが、今日は少し勝手が違っていた。
「まずいな。エンジンリバーサイドで火事の連絡だ」
インスが手に持ったスマホの画面を確認し、顔を顰める。
頻発するほどではないが、エリア内で火事が起きることは珍しくない。キャンプを行うトレーナーの失火であったり、ほのおタイプのポケモンが放った炎だったり、原因は多々挙げられる。
幸いにも生息しているポケモンたちが、自らの危機を察知して消火したため焼損範囲は広くない。ただ負傷したポケモンたちが多数いるようで、近くで巡回しているレンジャー全員に招集が駆けられた。
「チャンピオン。すみませんが、リザードンに騎乗して案内を受けてもらえますか?」
「はい。さっきまでボールの中で休んでいたので、飛べるはずです」
ダンデがリザードンの長い首をポンポンと叩くと、低く短い声と共に、口から火の粉が舞う。
「ではアンが先導しますので、後をついて飛んでいただきますね。アン、チャンピオンを頼む。しっかりご案内しろ」
「は、はい」
インスはアーマーガアに騎乗し、アンたちを置いてエンジンリバーサイドを目指し飛んで行った。
残されたアンは、唐突に課せられた重大な仕事に緊張を隠せない。
候補生であるため、レンジャー活動は常にインスと二人で行っている。すぐそばで彼が目を配り、危険がないよう、事故が起きないように付き添っている。
これまでもリザードンに乗ったダンデと共に空を飛んだことがあるが、案内役はいつもインスだった。今日はアン一人で、責任を持ってダンデを送らねばならない。
頭の中にワイルドエリアの地図は入っているので迷うことはないが、途中で何か起きたらと考えると動悸が止まらなくなる。
「アン?」
「あっ、うん……。どこへ案内したらいい?」
「エンジンシティへお願いしたい」
「分かった。じゃあリザードンに乗って、ついてきて」
突然圧し掛かった責任に狼狽えるアンと違い、ダンデは微塵も不安を覚えていない。事態を分かっていないのか、それともチャンピオンたる胆力の差か。
この場でこれ以上留まっていてはならないと、アンはダンデがリザードンに騎乗すると、自身もアーマーガアに乗り、エンジンシティへ飛ぶように指示を出した。
初めて任された重大なミッションはアンの杞憂に終わった。
道中には一切のトラブルもなく、アーマーガアとリザードンは、無事にエンジンシティの石畳に足を付ける。
「案内してくれてありがとう。いつもすまない」
「ううん。ちゃんと送れてよかった」
リザードンから降りたダンデが、まだ騎乗したままのアンのそばに寄って礼を述べた。アンは何事になく役目を終えられたことで、安堵感に満ちた笑みを返す。
「今日は早く見つけてもらえて助かった。この間はエキシビションマッチに一時間も遅れて、さすがに委員長から怒られてしまった」
「ワイルドエリアも広いからね」
ガラルの町や市の何倍も広いエリアで、たった一人の人間を見つけるにも、保護して目的地まで送るにも時間がかかる。
今日のように、一定の場所で旋回するリザードンが目印になってからは、若干その時間も短縮されてはきた。しかしリザードンの飛行が難しい雨や砂嵐だと、それすらもできなくなる。
ふと思いつき、わずかに逡巡したあと、アンはスマホを操作しダンデに画面を向けた。
「あの、連絡の交換が禁止されてなければなんだけど。これ、わたしのスマホの番号」
表示したのは自分のスマホの連絡先。番号とメッセージIDは初めてダンデに見せる。チャレンジ中にソニアとは連絡先の交換をしていたが、ダンデの番号などはお互いに知らない。
「またワイルドエリアで迷子になったときに連絡くれれば――」
「迎えに来てくれるのか?」
近くを巡回しているレンジャーに迎えに言ってもらうように頼むから。そう続けるはずだった言葉は、ダンデの勢いに遮られた。目は期待に満ちて輝いている。
「えっと……」
困った。断らなければいけないのに、ダンデの表情を曇らせることに抵抗が芽生え、アンの口は閉じる。
「……すまない。せっかくならアンが来てくれればと思って」
アンの困惑した様子に気づいたのか、ダンデの眉尻は下がった。
「わたしもダンデくんを迎えに来てあげたいけど……」
ダンデを迎えに行ってやりたいのはアンの本音だ。チャンピオンの彼はその立場ゆえに遠い存在になり、ただのトレーナーや、ただのレンジャー候補生の自分が接触する機会などそうそうない。迷子のダンデと不意に遭遇することは、アンの密かな楽しみだった。
「無理を言った。気にしないでくれ」
下がっていた眉尻を上げ、ダンデは快活な笑みを浮かべる。手を上げて挨拶をすると、今度はリザードンの先導に従い歩き出した。
チャンピオンの赤いマントは、まだ小柄な体躯には重たく見える。迎えに来るよと言ってあげられればよかったが、候補生のアンにはそんな自由な権限はない。
アーマーガアが小さく鳴く。アンは鞍のハンドルを掴み直し上空に飛ぶと、スマホでインスに連絡を取った。