いつかきみが枯れてしまうまで | ナノ
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06

 レンジャー採用試験に応募するにあたって、小論文の提出が求められた。
 小論文のテーマは、『ワイルドエリアにおける近年の課題と、それに対するエリアレンジャーの果たすべき役割、想定される困難な状況とその対応策』を論じたもの。決められた様式に沿って作成し、期限までに保護管理局へ送らねばならない。
 まだスクールの課程も終えていないアンにとって、初めての小論文は右も左も分からなかった。作文ならそこまで苦手ではないが、作文と論文は勝手が違う。
 ターフのジムトレーナーで、学生時代に山ほどの論文を書かされたという女性がおり、彼女に丁寧に教えてもらい、なんとか締切日前に郵便ポストへ投函できた。
 ひとまずやることを終えたアンは、管理局からの返事を待った。
 下限がないとはいえ、常識的に考えてアンの年齢での採用はないに等しい。それを分かっているからこそ、両親もアンの応募を強く止めなかった。



 書類を送って一か月近く経つが、合否の通知は一向に来ない。
 きっと小論文に目を通されることもなく、書類審査で落とされた。12歳の短い人生だが、一番頭を使って書き上げた物が無に帰すのは悔しい。
 けれどジムチャレンジで疲弊した心に、また挑戦することの楽しさを思い出させたのは無駄ではない。
 チャレンジが終わってからは、テストのみでの単位取得はなくなり通常の自宅学習に戻る。
 スクールへ提出するためにターフの自然観察のレポートを作成したり、美術の単位を得るため風景画を描いたり、週に数回ほど通っていた学校で授業やテストを受ける。


 怪我から家業へ復帰したヤローの両親の快気祝いを済ませた頃。
 アンの家のポストに、一通の封書が届いた。差出人の欄には『ワイルドエリア保護管理局』の印字。

「やっと届いたの?」

 封筒を持ち、リビングのソファーに腰かけるアンへ、母が声をかける。アンはペーパーナイフを隙間に差し込んで、じりじりと紙を裂いた。
 中には書類が数枚。畳まれて入っており、ドキドキしながら一枚目を開く。

「……合格?」

 書類の中央には、目立つように太字で『合格』と記されている。

「合格? 受かったの?」
「一次選考だけど、そうみたい……」

 アンと母は見つめ合ったあと、大声を上げて抱き合った。上着をひっつかんで、この頃一段と冷えた寒空の下を駆け、ヤロー宅のドアを叩き、通知書類を見せるとヤローも喜んだ。
 ターフのジムリーダーにも報告し、小論文で世話になったトレーナーにも深くお礼の気持ちを述べる。
 ジムトレーナーたちはアンの合格に対し呆気に取られていたが、ジムリーダーだけは「だから言ったじゃない」と腰に手を当て笑い声を上げた。



 一次選考の次は二次選考。面接の結果で採用の合否が決まる。
 小論文に続き、初めての面接もターフジムの皆の世話になった。
 基本的なマナーと想定される質問、理想的な返答。アンがエリアレンジャーになることが、ワイルドエリアや保護管理局にどれだけの利となるのかを、積極的に発言してアピールしなさいと、ジムリーダーは強く言い聞かせた。
 面接はナックルシティにある管理局の本部にて行われる。
 順番を呼ばれるまで控え室の椅子に掛けていると、同じく待機している男女に話しかけられた。

「君も一次選考を通ったのかい?」
「子どもなのに、優秀なのね」

 控え室に居るのは若くても二十歳前後。一人だけどう見ても子どものアンに感心を口にする者も居たが、大半が好奇な視線を送り、場違いなものとして扱っている。
 予想はしていたけれど、遠慮のなくじろじろ見られるのは気持ちよくない。『どうせ見られるのなら一番カッコいい姿を見せつけてやれ』というジムリーダーの言葉を思い出し、アンは背筋を伸ばしてじっと待った。
 アンの順番が来て、面接室へ案内される。
 通された室内は広く、奥のテーブルで三人の男性がアンを迎えた。

「こんにちは、ターフタウンのアンさん。これから新規レンジャー採用の面接を行います。まずは君のパートナーを見せてほしい」

 促され、四つのボールからエルフーンたちを出した。エルフーン、アーマーガア、ウインディ、ラプラス。部屋の端に控えていたエリアレンジャーたちがみんなの様子を確かめ、手元のボードへ書き込んでいく。
 ポケモンたちのチェックが終わるとボールへ戻し、一脚だけ用意されている椅子に腰を下ろした。

「さて。いくつか質問させていただこう」

 面接官の男性らはアンに様々なことを訊ねた。
 志望理由、トレーナーとしての経験、ワイルドエリアへの所感。
 事前に練習した甲斐あって、アンはすらすらと答えていく。

「君は今年のジムチャレンジにルーキーとして参加していたようだが、エンジンジムでバッジを貰うまで、随分と時間がかかったそうだね。えーと、十二回か。挑戦回数に決まりがないとはいえ、ここまで粘る子はなかなかいないよ」

 腿に重ねていた手に力が入る。回数の多さをマイナスと取られただろうか。

「まあ、それはいいさ。第三のジムは昔から最初の篩だ。ルーキーのほとんどはここで脱落していくことが多い。一度や二度の負けで挫けず、そこを突破できたということは、君はなかなか骨のあるトレーナーのようだ」

 続いた言葉にホッと胸を撫で下ろす。レンジャーに求められる程度かは分からないが、評価の足しにはなったかもしれない。

「ところで君も知ってのとおり、エリアレンジャーになるとジムチャレンジへの参加資格は得られなくなる。シニアと違ってルーキーの君には来年もあったはずだ。なぜチャンピオンカップへの挑戦を諦めたんだい?」

 テーブルに両肘をつき、組んだ手に顎を乗せて、面接官が問う。両目はアンの表情、体の動きなど漏れなく観察するべく、じっと向けられる。
 想定していた質問のうちの一つだったが、いざ訊ねられると頭の中が真っ白になった。
 緊張で喉が張りつく。咳払いをしたあと、ゆっくり口を開く。

「エンジンジムでバッジを貰ったあと、わたしはワイルドエリアに行って、泣きました。今からスパイクジムを突破するなんて無理だからと諦め、たくさん泣いて、それから一緒に頑張ってくれたみんなとカレーを作って食べて、遊んで、キャンプをしました」

 当時の悔しさや悲しみは、まだ生々しくアンの記憶に残っている。

「そのとき、空を見たんです。とても美しかった。勝つことばかり考えて、構ってほしいエルフーンたちに我慢させていたから、見上げればそこにあったことを、ずっと忘れていたんです」

 勝つために必死だった。リュックからポケじゃらしを持ち出したエルフーンに戻すように言い聞かせ、特訓中にボールで遊び始めたウインディを叱ったこともある。
 みんなが自分の指示通りに動くことばかりに気が向いて、だからいつだって視線は低かった。

「空だけじゃない。ワイルドエリアに息づくすべてに、尊さと愛しさを覚えました。ワイルドエリアの素晴らしさを改めて知ったら、気づいたんです。バトルを楽しむより、ポケモンたちと共に過ごす時間や、雄大な自然へ愛を向ける方が、ずっとわたしらしいのだと」

 正直なところ、アンは自身がバトルをすることに、それほど強い熱意は持っていなかった。
 ポケモンバトルは身近なもので、将来の夢を訊ねられた子どもたちが、『ポケモントレーナー』や『チャンピオン』と口にするのは珍しくない。アンも問われると似たようなことを返していたが、まずそう答えておけば無難な回答だったからだ。
 アンとってポケモンは家族であり、友人であり、仕事仲間。バトルのパートナーにあまり重きを置いていない。相手のポケモンと向い合わせるより、自分の方を向いて自由に振る舞う彼らを見るのが好きだと、改めて知った。

「もちろん、わたしは諦めた人間です。周りから『来年があるよ』と言われるととてもつらかった。みんなが望むわたしの『次』は、ジムチャレンジに参加することだと知るたびに、そんな風に決めつけないでと叫びたかった。だからこの採用試験を受けることが『逃げ』と言われたら、何の反論もできません」

 少しだけ声が震えてきた。律しようと焦れば焦るほど、手足も落ち着かずソワソワする。
 ぎゅっと両の拳を握りこんで、手の腹に爪を食いこませ、痛みで感覚を取り戻す。

「けれどわたしは、逃げているつもりはありません。バトルよりジムチャレンジより、もっとやりたいことが見つかったからここを目指してきました。わたしの『来年』はここです。ジムチャレンジじゃない。わたしの『次』はここにすると、決めてきたんです」

 言い終えると、室内には沈黙が広がった。
 面接官も、ポケモンたちをチェックしたレンジャーたちも、誰も声を発しない。

「分かりました。面接はこれで終了です。結果はまた後日、郵送します」

 中央の男性が一言告げた。
 アンは椅子から立ち上がり、レンジャーが開けてくれたドアから通路へ出た。控え室に預けていた荷物を受け取り、管理局を後にする。
 ナックルシティの何本もある通りを歩き出すと、一気に体から力が抜け、近くのベンチに座って放心した。
 夢中になって語ってしまった。もっとうまく説明できたのではないか。練習したようには喋られなかった。
 後悔が次々に湧いて出てくるが、終わってしまったものは覆しようがない。アンはスマホに入っているロトムに呼びかけ、姉に連絡するよう頼んだ。
 今日は面接のついでに、ナックルシティで暮らす姉へ、姉宛てに届いた郵便物を渡す約束をしている。ナックルの美味しいお店に連れていってくれるらしい。考えると急にお腹が空いて、ぐうと小さく鳴り響いた。



 二次選考の合否は、面接を受けた日から半月後に届いた。
 前回の一次選考は管理局の気まぐれで通ったかもしれないが、二次選考はさすがに落ちていそうで、アンは封書を開くのが怖かった。

「ヤロー、お願い」
「本当にぼくが開けるんかい?」
「お願い。中を見なきゃと思うと、もう気持ち悪くて吐きそう」
「分かった分かった。開けてやるから吐かんでくれな」

 渡した封筒を持つヤローに頼み込み、ペーパーナイフを差し出す。ヤローはナイフで丁寧に切って封を開けた。
 カサカサと紙の擦れる音。アンは両目を閉じて、ヤローの言葉を待つ。

「……不合格じゃ」

 ぴしゃりと雷が落ちてきた気分だった。ああ、と深い息を吐くと同時に、目元がじんわりと痛くなる。
 受かる確率なんてないに等しいと分かっていたのに、実際は一縷の可能性に期待していた。奇跡を信じたが、残念ながらうまくはいかないようだ。
 やはり自分で確認しなくてよかった。自分の目で『不合格』を知ったら、もっと強いショックで立っていられなかったかもしれない。

「不合格じゃが――アン、もう一枚入っとるんだわ」
「えっ?」

 ヤローが、下に重なっていた書類をアンに見せる。
 厳正なる選考の結果、新規レンジャーとしての採用は見送ることになったが、『レンジャー候補生』として採用したい旨が綴られていた。

「レンジャー候補生……ってなに?」
「さあなあ。候補生というくらいだから、頑張ればそのうちレンジャーになれるんじゃと思うが。説明会があるらしいから、行けば分かるんだな」

 書類には、レンジャー候補生採用についての説明会を設けるので出席するようにと、日付と場所の指定がされていた。
 奇跡が起きたのだろうか。悲しみから一転して浮上はできたが、感情の置き場は見つからず困った。



 説明会の当日。アンは再びナックルシティの管理局に入り、会議室へ案内された。
 会議室にはアンより年齢は上だが、成人を過ぎたばかりや、満たないであろう者が十数人ほど居た。
 しばし待機したのち、二次選考の面接の際に、中央に座していた男性が入室し、説明会を始める。

「まずは皆さんが疑問に思われているであろう、レンジャー候補生について説明します。この候補生制度は、このたび管理局が初めて取り入れるシステムです。これまでエリアレンジャーの採用は、率先力を求める部分もあり、トレーナーや社会人としての経験が豊富な、二十代から三十代を対象としてきました」

 会議室のスクリーンに、『エリアレンジャーの採用について』という大きな見出しと共に、これまでの採用方法について説明された映像が現れる。簡単な図を用いた流れは、男性が口にしたものを目に見える形で辿らせた。

「しかし皆さんがご存知のように、今年チャンピオンに輝いたのは、チャレンジ初挑戦のルーキーにして、たった10歳の少年です」

 舞台の上に立つ演者のように、男性が両手を広げる。
 10歳の新チャンピオン。アンの友人であるはずだが、相変わらずソニアと連絡の一つも取れていないので、彼の今を知るにはメディアを通じてになる。

「私たちはたいへん大きな刺激を受けました。ポケモントレーナーの強さに年齢や経験は関係ないと、彼が証明した。我々エリアレンジャーもそうではないだろうか? 優秀なトレーナーを採用するだけでなく、素質のある若いトレーナーに、私たちが求めるレンジャーになってもらうのはどうだろうか。そう考え、今回あなた方を『レンジャー候補生』として採用したいとお呼び立てしています」

 スクリーンの画面が変わる。『レンジャー候補生』の大きな題から、候補生の条件が下げられている。

「勘違いしないでいただきたいのは、候補生だからといって、必ずレンジャーになれるという約束はできないということです。まだスクールに通っている方や、カレッジに進む予定の方もいますね。私たちはその方々が、滞りなく全課程を修了する前提で選考しました。若い君たちの学業に影響が出ることを我々は望みません。単位を落としたり、そのほかレンジャーとなるに相応しくないと判断しましたら、そこで候補生から外れていただきます」

 合図を送るように男性が手を挙げると、壁際に立っていたスタッフたちが大きな封筒をアンたちへ配り始めた。受け取って中をちらりと確認してみると、細かい字がつらつらと並んでいる。

「職務内容や条件を記した書類をお渡しいたします。持ち帰ってじっくり検討してください。辞退する、しないに限らず、期日までにご連絡をお願いします。ご質問があれば近くのスタッフへお声かけください」

 男性が言い終えると、会議室の扉が開けられた。スタッフが誘導し、アンたちに退室を促す。

「アンさん。少し残っていただけますか」

 呼び止められて、アンは一人その場に立ち止まった。候補生に選出された者は皆退出し、片付けを始めるスタッフのほか、アンたちに説明していた男性が残る。

「呼び止めてすまないね。時間は大丈夫かな?」
「はい。姉と会う予定ですが、問題ありません」
「そうか。ここへはお姉さんと一緒に?」
「いいえ。姉はナックルのカレッジに通っていて、寮で暮らしています。ナックルに来たら姉と会うことにしていますので」
「なるほど。西通りにある、オレンジのテントが張られたカフェは行ったことあるかい? あそこのクランペットはかなり美味しい。食べたことがないならぜひ」
「ありがとうございます。姉に話してみます」

 フランクに接する男性に、アンもほんのちょっと親し気に返した。なんとなくアンの父に歳が近いように見えるので親近感も湧く。

「さて、私のお喋りにこれ以上付き合わせるのはよくないね。本題に入ろうか。今回の候補生の中で君が一番若い。というか、応募してきた中で一番若い。申込書で君の年齢を見たときは驚いたよ。未成年の応募があるとしても、せいぜいスクールを終えた子だろうと思っていたからね。本当は一次選考で君を落とすつもりだった。若い人材を欲しているが、さすがに12歳の子に任せるには難しい活動だ」

 知らない事実はショックだが、自分も周囲も同じことを考えていたのでそれほど強い衝撃はない。
 世間一般から見て、12歳は労働でなく学業に専念すべき年頃だ。義務教育も終わっていない子どもを働かせるなど、管理局の在り方から考えても有り得ない。

「ただね、君を絶対に通すべきだと強く推す人がいたんだ」

 自分を推す人物。一体誰だろうか。
 アンには見当もつかず、面接官の言葉を待った。

「エンジンジムのジムリーダーだよ」

 驚いて息を呑んだ。
 エンジンスタジアムのバトルコートで向かい合った、若い青年の姿がパッと頭に浮かぶ。
 ジムチャレンジを諦めるアンに、次のチャレンジで再会することを望んで別れたあと、シュートスタジアムのファイナルトーナメントで遠くから見かけたきりだ。

「ワイルドエリアで有事が起きた際は、エリアに近いエンジンとナックルの二つのジムが応援に来てくれるようになっている。だから選考には双方のジムリーダーからも意見を貰うんだ」

 ガラルの地図を脳内で広げると、たしかにワイルドエリアに近いジムはその二つ。エンジンシティに至っては、ワイルドエリアの半ばにある。

「エンジンのジムリーダーは、君を素晴らしいチャレンジャーだと何度も言っていたよ。タフで熱意があり、努力を怠らず諦めを知らないトレーナーだとね。採用しないなんて管理局は大馬鹿者だと、それはもうしつこく訴えるものだから、私たちも無視できず合格通知を出した」

 ドクンドクンと、全身が強く脈打つ。今年度の彼にとって、最後に戦ったチャレンジャーという縁しかないのに、そんな風に評してくれることは青天の霹靂だった。

「面接で君と会って、彼の言いたいことがよく分かったよ。君はチャレンジャーとして諦めたのではなく、次のステップへ進みに来た。一人のトレーナーとしてワイルドエリアを深く愛し、慈しんでいる。私たちは彼に感謝しなければいけない。君に不合格通知を送らずに済んで、レンジャーとして迎え入れられることに――まあ、はじめは候補生だがね」

 付け足す男性にアンの口元が緩む。アンの表情が綻んだことに彼もまた両目を山なりにし、目尻に皺を刻んだ。

「言っておくがジムリーダーの贔屓だけで君を選んだわけではないよ。君はエンジンジムを突破できる力があるし、小論文もよかった。アーマーガアとウインディ、ラプラスを連れているのもいい。飛行移動や陸上移動が可能だし、水上活動もできる。エルフーンも可愛い。うちの娘が好きなんだ。部屋が綿だらけで掃除には苦労するけどね」

 今度は笑い声も漏らした。アンの部屋や家の中も、エルフーンの綿があちこちに散らかっている。今はもう春や夏は過ぎたが、暖かな陽光が降り注ぐと今でも綿の嵩が増す。その綿を集め、ターフの職人に持っていくと糸にしてくれた。その毛糸で母がアンのマフラーを編んでいる。

「候補生とはいえ、スクールの勉強と並行してのレンジャー活動は、ジムチャレンジと同等か、それ以上に大変になるだろう。親御さんとしっかり相談しなさい。できればよい返事を待っているよ」

 アンは男性へ深く頷いて答え、挨拶をして退室し、そのまままっすぐ管理局の外へ向かう。
 姉と連絡を取り、すぐそばの書店にいるとのことだったので、アンは速足で歩いた。
 合流すると、そろそろランチの時間でもあったので、ひとまず店に入ることにし、アンが男性の勧めたカフェを挙げ、ならばと二人は西通りへ進む。
 オレンジのテントが張られたカフェは、人気なのかほぼ満席だったが、アンと姉はなんとか最後のテーブルに着けた。ランチメニューにクランペットもあったので、アンは迷わずそれを頼んだ。

「エリアレンジャー候補生かぁ。アン、やったじゃない」

 アンが持っていた封筒を姉に渡すと、中の書類に目を通す。妹が候補生に選ばれたことを喜んだものの、姉は難しい顔を見せた。

「忙しそうね。これでスクールの成績も維持してってなると、かなり苦労するわよ」
「うん。でもやりたいの」

 ジムチャレンジ中でも、スクールのテストには四苦八苦した。勉強が得意な方でもないので、レンジャーの活動と並行して残り数年を乗り越えるのは無謀かもしれないが、アンはもうエリアレンジャー以外の道を考えていない。

「アンはのんびり屋だから心配だけど……自分から強くやりたいって言いだしたのは初めてだもんね。応援する」
「ありがとう」

 姉のエールに感謝し、もう一人礼を述べねばならない人がいることを思い出した。
 ランチを済ませた二人は、そらとぶタクシーの待合所で別れ、アンはターフタウンではなくエンジンシティへ向かってもらうよう、タクシードライバーに頼んだ。
 乗せられ移動しながら、自分もタクシードライバーのように騎乗する日がくると思うとワクワクした。一度だけアーマーガアの背に乗ったことはあるが、アンが落ちても大怪我をしないように、高さもスピードもそれほどなかった。
 高く速く飛ぶのはどんな気分なのか。少し怖い気もするけれど、楽しい気持ちが勝る。


 エンジンシティに下ろしてもらい、寄り道することなくスタジアムに入る。ジムチャレンジも終わったからか、人の出入りは少ない。
 見回して、タブレットを操作する、じめんジムのユニフォームを着た男性を見つけ声をかけると、

「アンじゃないか! 久しぶりだな」

とにこやかに返し、業務中にもかかわらず手を止めてくれた。

「お久しぶりです。いきなり来てすみません。ジムリーダーさんにお会いしたいんですが」

 まだ覚えていてくれたことに安堵し、用件を伝えると、アンより年上のジムトレーナーは眉を寄せる。

「ジムリーダーなら、今シュートシティに行ってるんだ。明日まで戻らないよ」
「そうですか……」

 生憎とタイミングに恵まれなかった。アンは思案し、今日はいつまでスタジアムの出入りが可能か訊ねてから、一番近い文房具屋に急いだ。
 封筒と便箋のセットを購入し、エンジンジムに挑戦していた際によく利用していたカフェに入る。紅茶を頼んで隅の席に腰を下ろし、エンジンのジムリーダーへ向けての感謝を便箋に綴った。
 封をし、すぐにまたエンジンジムを訪ね、ついさっき声をかけた男性トレーナーに封筒を差し出す。

「これを、ジムリーダーさんへ渡していただけますか?」
「構わないよ。アンはあれから元気でやってる?」
「はい。ジムリーダーさんのおかげで、やりたいことに挑戦できそうです」
「へえ、そうなんだ。最後の日にスタジアムを出るとき、すっかり落ち込んでいたから心配だったけど、いい顔してるしよかったよ」

 男性に指摘され、そんなに顔に出ているだろうかと恥ずかしくなった。
 礼を言ってエンジンジムを後にし、管理局から貰った大きな封筒を失くさないように大事に抱え、ターフタウンへ帰った。



 両親は心配を何度も口にして、せめてスクールを卒業してからどうだと説得を重ねたが、アンの意志の強さに折れて最後にはレンジャー候補生になることを認めた。
 アンは両親の気が変わらぬうちにと、すぐに管理局のアドレスへメールを送信し、スクールの事務にも連絡を取る。
 来年からはレンジャー候補生としてこのままホームスクールを続け、ジムチャレンジのときのようにテストやレポートでの単位取得を継続したいと申し出ると、スクール側が管理局に確認を取ってからという話になり、しばし回答待ちだ。
 承諾の返事を送った管理局からは、スクールとの相談が済んだ旨の報告と、雇用契約書などの書類が郵送され、父と一緒に確認しながら記入し送り返した。
 手続きに忙しい期間が落ち着き、庭でポケモンたちを遊ばせていると、アンのスマホロトムが懐かしい名前を口にした。

『ソニアからのメッセージが届いたロト!』
「ソニアから?」

 スマホ画面を確認すると、ソニアからのメッセージの通知。
 メッセージは、返事を放っておいて申し訳なかったという謝罪と、アンは元気だろうかという、挨拶を兼ねた伺いの言葉が綴られている。
 アンはすぐに返信した。気にしないで、自分は元気だ、ソニアはどうだ、と。
 送って五分も経たないうちに、今度はソニアからの通話の着信をロトムが知らせる。繋げてと指示を出すと、スマホからソニアの声が聞こえた。

『ごめんね、今電話してもよかったかな?』
「もちろん。ソニアの声、聞きたいなって思ってたところだから」

 そう返すと、ソニアは「ありがと」と短く礼を言ったきり黙り込んだ。
 電話をかけてくるということは、ソニアにはアンに話したいことがある。アンは急かしたりせず、頭上を気持ちよさそうに飛行するアーマーガアを眺めて待った。

『負けちゃったよ。ダンデくんに』

 ようやく聞こえたソニアの声は、いつもの明るさは欠片も見当たらず、ひどく静かだ。

「……うん。でも、ソニアすごいよ。セミファイナリストだもん」
『ダンデくんはチャンピオンだけどね』

 ソニアを称えたアンの口は、言葉を続けられず止まる。ダンデのことに触れてもいいのかと迷うところもあり、どうフォローすればいいのか分からなかった。

『ごめん、こういうこと言いたいわけじゃないの。嫌みたらしくてごめんなさい』
「いいの。気にしないで」

 謝るソニアをアンは制した。止められればソニアもそれ以上は謝罪を口にはしなかったが、場を繋ぐ相応しい言葉も出てこず沈黙する。

「ねえソニア。今週末は空いてる?」
『週末? 予定はないけど』
「じゃあターフへ遊びに来ない?」



 ターフタウンのポケモンセンターは、4番道路から入ってすぐの場所に建てられている。そこを目指してタクシーでやってきたソニアを迎え、自分の家へ案内した。
 家に招き入れ、一泊分の荷物をアンの部屋に置くと今度は庭へ。新調したガーデンテーブルにハーブティーのポットと、カップにソーサーを準備し、ソニアへ椅子に掛けるよう勧める。
 ソニアはアンが淹れたお茶を一口飲んで、移動の疲れも混じった長い息を吐く。

「素敵なお庭ね」
「ありがとう。ずっと手入れしてなかったんだけど、みんなが遊べるようにって、お父さんが手伝ってくれたの」

 アンはモンスターボールからエルフーンたちを出してやる。
 ソニアとはバウタウンの屋台で顔を合わせてはいたが、そのときの三匹は皆進化しているので、ソニアは「大きくなったね」と声をかけ、初めて見るラプラスには「ブルーの目が素敵」と褒めた。
 ソニアのポケモンも遊ばせてはどうかと誘うと、少しだけ迷った素振りのあと、ボールを一つだけ空に放った。
 中から飛び出したワンパチは、見慣れない周りの風景をキョロキョロと窺ったが、アンのポケモンたちとすぐに打ち解け、庭を元気に駆け回る。
 ワンパチ以外にもソニアには仲間がいるはずだ。以前会ったホーホーはヨルノズクに進化しているのをセミファイナルで見かけたし、アンの知らないポケモンも活躍していた。
 たまたま連れ歩いていないだけかと思いつつも、ワンパチを目で追うソニアの横顔は元気がない。

「ダンデくんに負けて、アタシ結構ショックなんだ」

 ソニアはぽつりと呟いた。

「でもね。ダンデくん相手なら負けても仕方ないよ、って言われる方が、もっとショック」

 庭から、向かいに座るアンへと顔を戻したソニアが、自分のカップに目を落とす。

「ダンデくんさ、昔からポケモンのこと大好きだけど、そんなに詳しかったわけじゃないんだよ。アタシの方が知ってること多くて、旅をしながらいろいろ教えてあげてたんだ」

 その頃を思い出しているのか、少しだけ微笑んだように見えた。
 チャレンジ中に見かけた二人は、同い年の友人よりも、手のかかる弟と苦労する姉にも思えなくはなかった。少なくともジムチャレンジの最初の頃は、ソニアが旅のリードを取っていた。

「だけど一緒にジムチャレンジを始めて、ジムバッジを集めていると、どんどん差が開いていくの。道なんて全然覚えないくせに、タイプの相性や覚える技は一回で把握してくし、相手の動きや出方を予測するのは、野生かってくらいに鋭くて。バトルセンスっていうのかな。そういうのが、アタシなんかと比べ物にならないくらいずば抜けてるんだよ」

 呆れた口ぶりのように聞こえて、同時に悲嘆の色も感じる。

「ダンデくんはどんどん先に進んで、そのままチャンピオンになっちゃって……。アタシのライバルだったダンデくんは、あれっきりもう帰ってこなかった」

 今でも時々、ダンデを取り上げるニュースの中で、ファイナルトーナメントの映像が流れる。
 本気のジムリーダーたちを次々に倒して、チャンピオンになった一連の流れ。気持ちいいくらいに壁をどんどんと乗り越えていって、見ている者に爽快さと興奮を呼び起こす、一種のエンターテインメイトになった。

「寂しいとか、遠くに行っちゃったなって考えるけど……でもアタシ、悔しいんだ。悔しいの。ダンデくんと同じ場所に立ってて、アタシの方がダンデくんを引っ張っていたのに、置いて行かれたことが悔しい」

 ソニアの声はどんどん大きくなる。ポケモンたちには届かない距離だが、テーブルを挟んで座るアンには、涙に濡れたような声だけでなく、悲痛な表情に現れる強い感情もはっきり伝わった。

「バトルじゃもうダンデくんに勝てるわけないって分かってる。だけど悔しいの。周りがダンデくんの強さを理由に、アタシを慰めてくるのが悔しい……!」

 震える唇を噛み締めるソニアの目は、いつもよりずっと輝いている。涙をこぼしてはならぬと堪えていたが、ついにぽろっと頬から流れていった。慌てて自身の手で拭う。

「ごめん。いきなりこんな話しちゃって」
「ううん。ソニアが話してくれるの、嬉しいよ」

 首を横に振って、服のポケットからハンカチを取り出してソニアに渡す。受け取って目元を押さえると、ソニアがぐすっと鼻を一度鳴らした。
 高ぶりが落ち着いたのか、ソニアはハンカチを下ろし、カップを持ってお茶を飲む。湯気はもう立たぬほどに冷めていたのもあってか、ソニアはごくごくと半分ほど飲んだ。

「ふう……。まあ、アタシは今のところそんな感じ。アンは? あれからどうしてる?」

 ソニアに問われ、アンはチャレンジを諦めてからのことを、掻い摘んで話した。
 エリアレンジャーに応募し、採用には至らなかったが、レンジャー候補生としてもうすぐ活動に携わることになったと告げると、ソニアはグリーンの瞳を眼窩から外してしまいそうなほどに大きく見開いた。

「アン、エリアレンジャーになるの?」
「候補生だよ。でも頑張って続ければ、正式なレンジャーになれるって」

 喋り終えて喉が渇いたアンは、カップをぐいと上げて飲み干した。《ロゼルの実》の萼と苞をブレンドしたハーブティーは近所のおばさんからの貰い物で、ルビーのように紅く鮮やかな色がアンはお気に入りだ。酸味が強いため、ミツハニーの《あまいみつ》を入れなければ飲めなかったが、今ではそのままの味を楽しめるまでになった。
 ポットからおかわりを注ぎ、同じく空だったソニアのカップも満たすアンへ、

「アンはやりたいことが見つかったんだ」

とソニアが控えめにこぼした。
 見やったソニアの顔は、親とはぐれて迷子になってしまった幼い子のように心許ない。
 今までソニアの場所だった、ダンデのライバルという位置からはじき出されてしまって、どこに身を置いたらいいのか分からないのかもしれない。
 先ほどの話を聞くに、バトルを続けてダンデを追いかけるつもりはなさそうで、かといってアンのように『次』を見つけているわけでもない。

「ソニアもわたしと一緒に、レンジャーを目指してみない?」
「アタシが? うーん。ワイルドエリアはたしかに面白い場所だけど……」

 アンの誘いに、ソニアは顔の横に垂れた髪の一房を指に巻き付け、言葉を濁す。そこまで惹かれる道ではないようだ。

「じゃあとりあえず、ソニアがやりたいことはエリアレンジャーじゃないってことだね」
「まあ……そう、なのかな?」
「こうやって一つ一つ考えてみたら、きっとソニアのやりたいことは見つかるよ」

 首を傾げるソニアに、アンは自分なりのアドバイスを送る。
 いろいろな道を考え、挑戦してみて、興味があるかないかを探っていけば、やりたいか否かがはっきりしてくるはず。そうやってソニアが一番しっくりくるものを見つければいい。
 そう伝えるとソニアは、

「それ、すっごくいい考えね!」

と、ターフを訪れてから一番明るい声を上げた。

20220209