いつかきみが枯れてしまうまで | ナノ
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「#甘々」のBL小説を読む
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39

「だからオレさまに彼女がいると思ったわけだ」

 向かいに座り、歯を見せて笑うキバナに、マサル体を縮こませ「はい」と小声で返事をした。
 パトロールや訓練が終わって管理局本部を出た二人は、キバナへ会いにナックルスタジアムを訪ねた。
 残念ながらキバナは今日の業務が片付いておらず、外で夕食とはいかなかったが、ジムリーダー室でキバナセレクトのデリバリーディナーを口に運んでいる。

「気づかなかったうえに、勝手に思いこんで変な気を遣って、すみませんでした」
「ううん。わたしもダンデくんとのことは周りには言ってなかったから」

 謝るマサルにアンはゆるく首を振る。
 どうやらマサルは、キバナとアンの親しい様子を恋人だと勘違いしていたらしく、自分が居候しているせいで恋人のアンを部屋に招けないのだと思い込でしまったのだという。
 さらには、友人に良い人がいると聞いたアンの動揺が、二人の関係を知られてしまったゆえのものだと受け取っていたらしく、変なところで噛み合っていない――見方によっては噛み合ってしまったこともまた、勘違いを増長させてしまったようだ。

「態度がおかしいとは思ってたけど、まさかそんなこと考えてたとはな」
「すみません。だってほんとに仲が良いから」
「仲良しなのはそうなんだけどね」
「マサルの歳くらいからの付き合いだしな。アンのことはそりゃ好きだけど、あくまでも友人だよ」

 二人に言われ、マサルは両手で頭を押さえ、自身の思い違いへの深い謝罪を再度口にする。
 誤解していたものの、面白がって吹聴したわけでもなく、むしろ子どもに無駄な気遣いをさせていたことを二人も謝った。

「あの……結婚されるって……」

 顔を窺うように、おずおずとマサルが言い、アンは一つ頷いて返す。

「具体的にはまだ決まってないんだ。ダンデくんはリーグ委員会や、ユウリちゃんのサポートもあって忙しいし、わたしもマサルの指導員になったから。すぐって話にはならないと思うけど」

 日取りどころか、自分の両親への挨拶もまだ終わっていない。今夜連絡しようと思っていたが、食事が終わって帰宅してからだと遅い時間になってしまう。
 仕方ないので明日の夜にでも。そう考えつつ、昨日のダンデの言動が引っかかったままなのを思い出した。

「あの。おめでとうございます」
「ありがとう。まだ内緒にしておいてね」
「もちろんです」

 マサルは真面目な顔で首肯し、ジムリーダー室の壁に掛けられている時計を見て「あ」と声を上げる。

「おれ、そろそろ帰りますね。あまり遅いと心配されるので」

 手元にある空いた紙の容器らを片付け、マサルは席を立った。アンも時計を見やれば、子どもが歩き回るには適さない時刻だ。

「もうそんな時間か。ランドロード婦人によろしくな」

 キバナが片手を挙げ一言告げる。マサルは「はい」と返事をし、食事の礼と挨拶をすると、ジムリーダー室のドアを閉じて出て行った。
 マサルが退室すると、キバナはロトムに声をかけ、ランドロード婦人へのメッセージを送るよう頼んだ。今からマサルが帰宅する、遅い帰りになったのは自分が引き留めたからだと短くまとめ、ロトムの入ったスマホは楽し気にくるくると宙を旋回しつつ、すぐに婦人へのメッセージの作成を始める。

「ダンデの家族と会ったんだろ? どうだった?」

 送信完了を確認したあと、キバナはスマホからアンへと訊ねた。

「みんな優しくていい人たちだったよ。朗らかで、温かくて。ダンデくんやホップくんがあんなにまっすぐなのは、このお家で育ったからなんだなって思っちゃった」

 家に招かれ顔を合わせ、いつになく緊張していたアンを、ダンデの家族は明るく迎え入れ、親し気に接した。ダンデやホップの気質は、穏やかなこの家族だから育まれたのだと納得してしまうほどで、充実したひとときを過ごすことができた。

「いきなりプロポーズでどうなるかと思ってたけど、順調みたいだな」

 満足そうな笑顔を見せるキバナに対し、アンも笑みを返そうと思いはするものの、ダンデとのやりとりが頭を過ぎると、自然と唇を引き結んだ。

「どうした?」

 アンの表情から察したのかキバナが問う。アンは慌てて口元を緩め取り繕うが、

「隠すなよ。オレたち、『仲良し』だろ」

と言われ、言葉に詰まってしまった。
 友人とはいえ、ダンデとの話は二人だけのプライベートなもので、互い以外が知ることをダンデは厭うかもしれない。

「……本当に結婚していいのかって、ダンデくんに訊かれたの」

 思い悩んだものの、あの日のダンデの真意がいまだ分かりかねるアンは、答えを探すヒントになればとキバナに打ち明けた。キバナは青い瞳を丸く開き、意外だったのか「はあ?」と間の抜けた声を上げた。

「そんなことを訊ねるってことは、わたしがダンデくんとの結婚に躊躇いがあるみたいに感じたってことだよね?」
「アイツじゃないから何とも言えないけど……まあ、そうだな。そんな風に考えてなきゃ言わないと思うが……」

 普段は軽快に回るキバナの口は言い淀むものの、決して否定はしない。

「わたし、そんなに躊躇ってるように見える?」
「いいや。でもダンデからはそう見えたのかもな」

 問うアンに、今度は否ときっぱり返す。アンとよく顔を合わせるキバナが言うのならば、と安堵する間もなく、続く言葉に顔色は曇る。いくら周りからそうではないと見えても、肝心のダンデから見えた自分に問題があるのなら意味がなかった。

「いい機会だ。ちゃんと向き合ってじっくり話しなよ。もう何年も付き合いがあって、お互いのことは理解し合えてるだろうけど、アンたちは恋人としての時間なかったんだ。友人から一歩進んだ先は、お互いルーキーだろ?」

 キバナの意見は尤もで、アンは黙って頭を縦に振った。多忙ゆえにタイミングが合わないからと、本人に直接問うことを先延ばしにしていたが、今回の件はそれも遠因の一つかもしれない。
 忙しいダンデに我儘を言うようで気が重いが、気がかりを抱えたまま事を進めるのは、二人の関係に亀裂を走らせかねない――もうすでに小さなヒビは入っているのかもしれない。恐ろしさに震えそうな唇を、きつく噛んで堪えた。



 善は急げ。アンは両親へ連絡するより前に、ダンデへコンタクトを取った。
 返信はやや時間を置いたものの、直近でナックルを訪れる日程を教えてもらい、自分のスケジュールと照らし合わせ、会う日を決めた。
 両親への連絡は、ダンデとの話が済むまで控えた。話の行方次第では、会わせる必要もなくなるかもしれない。

 当日は業務を終えて管理局からまっすぐ帰宅し、約束の時間まで部屋で待機した。ダンデからの連絡で彼が宿泊するホテルを教えてもらうと、すぐにアーマーガアの背に乗り向かった。
 目指すホテルはナックルのオフィス街にほど近く、街並みに合わせた古めかしいどっしりとした外観が特徴的だ。
 アーマーガアから降りてエントランスへ入るアンは、ホテルのフォーマルな雰囲気から浮いている。キャップとグローブはさすがに外しているが、フライトジャケットを羽織った姿は、一見するとそらとぶタクシーの運転手と見間違われるだろう。
 居心地の悪さを覚えながら、アンはフロントのホテルスタッフに、ダンデに言われたとおりの偽名を出し、会いに来たと告げた。アンの身元を問われたので、そこも彼から指定された偽名を名乗ると、スタッフはにっこりと笑みを浮かる。

「ご案内いたします」

 恭しく先導するスタッフに続き、装飾されたエレベーターに乗る。指定した階で降り、踏み心地のよいカーペットが敷かれた通路をついて歩くと、一つのドアの前に着いた。

「こちらでございます」

 スタッフはにこやかにそれだけ伝えると、音も立てずに来た通路を戻っていく。
 その姿が完全に見えなくなってから、アンはドアを数回ノックした。フロントでも名乗った偽名を、ドアの向こうへ告げると、開錠される音ののちドアが開く。ダンデが顔を覗かせ目が合うと、彼は微笑んだ。

「早かったな」

 ドアが大きく開かれる。入室し、戸が重たい音を響かせ閉まると、ホテルに入ってから続いていた体の強張りが少し解けた。

「夜中に来てもらってすまなかった」
「ううん。こっちこそ、忙しいのに」
「アンに会えるなら構わない」

 恥ずかしげもなく言うダンデに、アンが照れた。それと同時に、こうまで言うほどに自分を好いてくれているのが分かるのに、最近の不審な態度は何なのだろうかと、余計に気になってしまう。
 通された部屋は、アンが知るホテルの部屋よりずっと広かった。目の前の大きな窓に一枚のガラスが嵌められ、照明はどれもやわく落とされている。悠々と眠れそうなソファーの上には、どれだけ綿が詰められているのか、大きく膨らんだクッションがいくつも並べられている。
 ダンデに促されジャケットを脱ぎ、キャップやグローブも一緒に預ける。クローゼットにでも仕舞ったのか、空手で戻ってきたダンデは、事前にルームサービスで運ばせたティーセットでお茶を用意すると言うが、アンはやんわりと断った。

「ありがとう。でも、長居するとダンデくんが休む時間が減っちゃうから」

 ダンデへの気遣いは嘘ではない。ただ、仕事終わりで疲れているところに、無理に時間を作ってもらったのだからこそ、必ず目的を果たさねばという気持ちが強かった。
 早く話をしたいというアンの意思が伝わったのか、ダンデはどこか緊張した面持ちで、二人並んでソファーに腰を掛ける。深く沈む座面に慣れないものの、なんとか落ち着ける姿勢へと正し、少し間を置き、アンはダンデに体ごと向ける。

「あのね。わたしの思い違いじゃなかったらなんだけど」

 切り出したアンへ、ダンデも顔を向けた。テールコートを脱いで、首元を緩めて楽な格好にはなっているが、襟の付いたシャツ姿でキャップのないダンデは、やはり大人に見えるなと、場にそぐわないことをふと考えた。

「ダンデくん、わたしに何か言いたいことがあるんじゃない?」

 帰宅してホテルに行くまでに、ダンデへどう話すか悩んだが、結局は回りくどいことはやめて、直球で問うことにした。まっすぐなダンデには、単刀直入に訊ねるのが一番合っていると思ったからだ。
 問われたダンデは、眉間をわずかに寄せた。表情は怒りとも悲しみとも違う、強いて言えば、苦痛で顰めるものに近い。

「どうして、そう思う?」
「ちょっと前から、様子がおかしいから」

 訊ね返したダンデに、アンはすぐに答えた。自覚はあったのか、そんなことはないと否定することもなく、ダンデは黙り込んだ。
 アンはダンデが口を開くまでじっと待ち、部屋はしんと静まる。急かすのは得策ではないし、待つということには慣れていた。
 待っている間は手持無沙汰だ。紅茶でも準備していようか。勝手に用意するのはよくないだろうかと迷った辺りで、

「写真が」

と、ダンデが小さく呟いた。

「写真?」
「アンの部屋に、飾ってあるだろう」

 繰り返したアンに、ダンデは続ける。

「キミとグランさんの写真があった」

 言われて、自身の部屋のチェスト上を思い起こす。飾っている写真の中には、元じめんジムのジムリーダー、グランと並んで写っている一枚がある。

「ああ……うん」

 事実だとアンが認めると、室内に沈黙が戻る。まだ話が続くのだろうと待ってみたが、ダンデはそれきり、再び黙ったままだ。

「えっ。それだけ?」

 驚いて、思いのほか大きな声を上げてしまった。

「わたしとグランさんの間に、何かあるって思ったの?」

 そうだとも、そうではないとも答えはない。分からないという返事すらもないのは彼らしくない。しかし、ダンデがグランとの写真のことを挙げたのは聞き間違いではないはずだ。

「話してなかったかな? グランさんはね、わたしの恩人なの」
「恩人……?」

 やっと明確な反応を見せたダンデに、アンは深く頷いた。

「ジムチャレンジのときに、わたしがなかなかエンジンジムで勝てなくて、何回も何回も挑んで、やっと勝てたのは知ってるよね?」
「ああ」
「チャレンジを諦めたあと、レンジャーの募集へエントリーしたときに、わたしは年齢もあって書類選考で弾かれるはずだったの。でもグランさんが管理局に掛け合ってくれたおかげで一次選考を通って、面接まで進めて、正規レンジャーとしては落とされたんだけど、候補生として受かったんだ」

 思えばこの話はあまり多くの人にしてこなかった。有り体に言えば、グランによる贔屓で選考を通ったのだから、管理局としても外聞を憚る話だ。数年前に掲載された、レンジャー候補生を募るパンフレットのアンの経歴でも、もちろん触れられていない。知っているのはヤローを含めた家族や管理局の一部、キバナやソニア、ルリナくらいなものだ。

「それからずっと会ってなかったんだけど、エンジンジムがじめんからほのおに替わるってニュースで知って、スタジアムを訪ねてお礼を伝えたり、グランさんがガラルを出る話をしたり……あの写真はそのとき、記念にって撮ったものだよ」

 あの日エンジンジムを出る前に、こんな機会はもうないからと、ジムトレーナーに頼んで撮ってもらった写真は、グランの手元にもまだ残っているだろうか。連絡先を交換してはいるが、数年経ってもやりとりは両手の指で収まる程度だ。グランは新しい地へ着いた際に、アンは指導員になった際など、節目に送り合うだけ。

「だからダンデくんが心配するようなことは、グランさんとは何にもないよ」

 グランには恩人以上の感情はなく、彼としてもアンはジムリーダー時代の記憶に強く残っているチャレンジャーの一人でしかない。やましい気持ちなどありはしない。

「そうか」

 真摯に訴えたアンに、ダンデは納得した返事と共に微笑んでみせた。だというのに、寄せられた眉間は緩まず、表情も固いままだ。

「ダンデくん?」

 名を呼ぶが、ダンデは答えない。

「まだ何かあるの?」

 グランとの関係を疑ったのではないのか。後ろめたい関係ではないと理解したというのに、まだ気に病むことがあるのか。だとしてもアンにはもう分からない。思い当たることなど何一つ浮かばなかった。

「あの写真を見て、オレはアンのことをそれほど知らないんだと、気づかされたんだ」

 焦るアンへ、ダンデは静かに口を切り、合わせた両手をグッと握りこんだ。

「アンとグランさんの間に、そんなことがあったなんて知らなかった。キミの部屋がナックルのどこにあるのかも、カーテンの色も、好む茶葉も、知らなかった。そうだ。オレはキミへ贈る指輪を選ぶときも、アンの好みなんて知らなくて、そんなことも知らないでよくプロポーズなんてと、ルリナにも呆れられたんだ」

 先ほどの黙した姿など嘘のように、ダンデは思いに任せてか止まらず続ける。

「オレはアンが好きだ。オレの未来にはキミが居てほしい。だからプロポーズしたし、家族にも会ってもらった。だが、こんなにもキミを知らないくせに、気持ちだけで結婚していいのか、分からなくなったんだ」

 はあ、と短いため息が漏れる。両肘を腿に立て、合わせて握りこんだ両手に額を当て、ダンデは背中を丸めた。
 予想しなかった展開に、アンはしばし呆けた。久しぶりの再会で唐突に求婚するアグレッシブな男が、まさかそんなことを今更気にしていたなどと誰が気づくだろうか。

「結婚、したくなくなった?」
「いや、したい。したいから、このまま進めていいのかと、考えてしまった」

 ダンデの即答に、そんな場ではないと分かりつつも、つい吹き出しそうになるのを我慢した。自分の心の内を躊躇いなく口にする姿は、アンのよく知るダンデだ。

「悩んでること、気づけなくてごめんね」

 丸まった背中に腕を回し、もう片方の腕は頭に回し、大きな体を抱え込むように寄り添う。アンはダンデの腕の中にすっぽりと収まるが、逆はそうはいかない。けれど抱き締めた体に頬を寄せると、体格に差はあっても、ダンデを包んでいる感覚があった。

「キバナくんが言ってたの。わたしたちは、恋人としての時間がなかったって。だからダンデくんがわたしのことをたくさん知らなくても、ちっともおかしくないよ」

 友人の言葉は正しかった。自分たちは理解し合えていると過信していた。相手の知らない思い出や知らない一面に動じることのない、確固とした関係をまだ築けていなかった。手遅れだが悔いるばかりだ。

「これからちょっとずつ、わたしを知っていって。わたしもダンデくんのこと、知っていくから」

 結婚の約束を交わしても、まだ自分たちの交際は始まったばかり。マサルやユウリたちのように、新たな『未知』へ足を踏み出して間もない若葉だ。
 これから積み重ねていけばいいのだとアンが言うと、ダンデは手に押し付けていた額を浮かせた。回していた片手を下ろして顔を見やれば、気持ちが落ち着いたのか、眉間はすっかり解けている。

「キバナとどんな話をしたんだ?」

 顔を突き合わせると訊ねられ、アンはありのまま話した。聞き終えるとダンデは「オレもキバナに相談すればよかった」と拗ねてみせる。姿は大人なのにホップよりも子どもみたいだと、アンは喉を鳴らすように笑った。
 キバナとの話から、マサルが勘違いしていた話に移ると、実は自分もユウリから勘違いを謝られたと聞き、あべこべな相関図をひと事のように面白がった。

「お互い明日も早いし、そろそろ帰るね」

 近況を少し話し合ったところで、アンは腰を上げた。アンの明日のシフトは朝からマサルの指導が入り、ダンデも午前中から詰まっているようなので、長居するのはよろしくない。
 ジャケットを返してもらうべくその場で待ってみるが、ダンデはまた黙してしまった。

「ダンデくん?」

 聞こえていないはずはないが、呼びかけてもダンデからの返事はない。
 話は済み、わだかまりはなくなった。アンが抱えていた問題は解決したが、もしかするとダンデにはまだ何か気がかりが残っているのだろうか。

「アンは『天女』って知ってるか?」
「テンニョ?」

 聞き慣れない言葉を、アンは正しいか否か分からぬ発音でなぞった。響きにもまったく覚えがない。

「カブさんから聞いた、ホウエンの昔話だ。天女は人間ではなく天に住まう女で、地上へ降りて水浴びをしているところを、人間の男が見つけるんだ。天女の美しさに心を奪われたその男は、天女を帰したくなくて、『羽衣』と呼ばれるショールを隠してしまう」

 ホウエンの出身のカブが語る昔話なら、ガラルから出たことがないアンが知らずともおかしくはなかった。

「どうして隠すの?」
「羽衣がなければ、天女は天へ帰れないからだ」
「へえ、そうなんだ」

 ガラルにも似たような昔話があり、主にカンムリ雪原で伝えられている。海辺に転がるタマザラシの中には、美しい人の姿に代わるポケモンがおり、その姿に恋をした人間がタマザラシへ戻るための毛皮を奪い、海へ帰れぬようにしたという話だ。
 天ではなく海、羽衣ではなく毛皮。違うところはあれど、大筋はどちらも同じ。遠い地だというのに、見染めた女を帰したくない男の身勝手な振る舞いが似通うのは、なんとも不思議な話だ。

「でもダンデくんは、そんな意地悪はしないよね」

 アンはダンデに、いつもよりずっと明るい笑顔を向けた。ダンデは昔話の男性たちとは違う。そんな自分勝手はしないと信じている。
 言外に含んだそれらを察してか、ダンデは言葉に詰まり、渋々と立ち上がり別室へ向かう。戻ってくると、腕にはジャケットにグローブ、キャップと漏れなく抱えていた。

「ありがとう」

 礼を言って受け取ると、ダンデは空いた両手をアンの体に回し、強く抱きしめた。衝撃に肺が一瞬痛む。窮屈さに酸素を求めると、押し付けられたシャツからまだ慣れない匂いが鼻を通り、アンの脳を刺激し掻き乱した。

「キミに嫌われたくないから今夜は帰す」

 顔のすぐそばで響くダンデの声は低い。喉の振動すらも感じ取れたような気がする。

「でも知ってるよな。オレは『待て』があまり得意じゃないんだ」

 耳朶を唇でかすめてそう囁いたあと、体に巻き付いていた腕から力は抜け、徐々に解放されていく。顔がやけに熱く、口を開くことはできなかった。
 ぎゅっと結んだ唇をそのままに、アンは急いでジャケットに袖を通し身を整える。バルコニーから飛ぶといいと、ダンデが別室に案内し、外へ通じるテラスドアを開けた。
 バルコニーの広さは、アーマーガアをなんとかボールから出せるほどで、飛び立つには体勢を考えねばならないが、人を乗せることに慣れているアンのパートナーならできないことはないだろう。
 背に跨り、別れの挨拶をすべくダンデの方を向くと、ダンデもアンへと身を近づけた。互いに頬へ短いキスを送り合うと、深い口づけを交わした。長く押し当てられた唇がゆっくり離される。

「キミを見送らなくていい夜が、早く来ることを願ってる」

 そう言って音を立てる軽いキスを送り、アーマーガアが飛びやすいようにダンデは後ろへと体を退いた。
 アンがアーマーガアへ指示を出すと、器用に翼を広げ、バルコニーから空へと飛び上がる。行く先を告げられるまで、アーマーガアが宙を旋回する間、アンはダンデの方を何度も見やった。ダンデの手が上がり、アンも応える。
 ダンデが望んだ夜はいつになるのか。分からないものの、アンの胸も期待に満ち、宵闇の冷たい風を受けても、頬の熱はなかなか引くことはなかった。

20220513

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