いつかきみが枯れてしまうまで | ナノ
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36

 稀に見る大雪が続いて、ガラルのほとんどを白く覆っていた雪は、春の日差しで徐々に溶けいく。久方ぶりに姿を見せた地面には、たくさんの初々しい芽が凛として天を見上げ、精いっぱいに空を目指している。
 新芽は草原や木々だけでなく、至る所で吹いていた。
 スクールやカレッジ。オフィスやショップ。
 アンの後ろでも、一枚の青々しい若葉が、強い風に煽られながらも必死に身を立てていた。

「マサル! 前を見て!」
「はい!」

 アーマーガアに乗るアンの後方に続くのは、ウォーグルに騎乗したマサル。アンの指示に従い姿勢を正して、ウォーグルのスピードを上げようと努力するが、まだ人を乗せ慣れていないポケモン特有の、ぎこちない飛び方のままだ。
 飛行しながら指導を続けること数十分。アンとマサルはようやく空から地に足を付ける。ナックルシティ前のノースエリアには、アンたち以外にも騎乗訓練中の研修生や指導員が多数おり、皆それぞれのパートナーと訓練に勤しんでいる。
 アンは候補生の騎乗訓練の指導員を任され、マサルの担当になった。多数の応募者の中から、スクールを卒業していないトレーナーが選考を通ったのはアン以来になる。
 体が出来上がっていないマサルは、昔のアンと同じく小さい制服でも少し丈が余る。支給されるサイズではまだ不格好になるため、袖を通すフライトジャケットはアンが着ていたお下がりだ。

「休憩したらまた飛ぶから、ウォーグルにしっかりお水を飲ませてあげて」
「はい」

 指示を受けたマサルはウォーグルの前にボウルを置き、たっぷりと水を張った。よほど喉が渇いていたのか、ウォーグルはガブガブと水を飲んでいく。
 アンもアーマーガアに水をやり、時計を確認する。今日は日中の騎乗訓練だけだが、陽が完全に落ち切ったあとの夜間騎乗の訓練も並行して行っている。レンジャーには昼夜問わずに活動できるだけの能力が求められ、ここをクリアできなければ研修を終えることができない。

「昨日よりずっと上手に飛べてるね」
「そうですか? 乗ってるだけで必死だから、自分じゃよく分かりませんけど……」
「本当だよ。ウォーグルを乗りこなすのはベテランでも難しいのに、あれだけスピードが出せたんだもの」

 言って、アンがマサルのそばで水を飲んでいるウォーグルを見やると、視線を感じたのかボウルから顔を上げ、鋭い目を向けられた。

「ウォーグル、アンさんを睨むなよ。おれたちを褒めてくれたんだ」

 マサルがその首元を軽く叩きながら声をかけると、ウォーグルは彼へ向き低く鳴いた。
 ガラルでは血の気の多いウォーグルに騎乗する者はいない。レンジャーの多くはウォーグルよりも落ち着いた気質の、体格も大きなアーマーガアを空のパートナーにしている。
 そのため、マサルがウォーグルで飛行訓練を受けるつもりだと知った際には、アンに限らず多くのレンジャーが驚いた。やめた方がいいと止める者もいた。しかし周囲の心配を理解したうえで、マサルはウォーグルに乗ることを選んだ。
 懸念はあるものの、彼のウォーグルは他のウォーグルよりも一回り大きく、人を乗せて飛行するのに十分な体躯を持ち、またとても従順でよく懐いていた。きちんとした指導を受け、マサルが主としての役割を果たせていれば問題ないと管理局が判断し、候補生として騎乗訓練が始まって一か月が経っている。

「ウォーグルとの飛行に慣れてきたから、次はギャラドスだね」

 騎乗訓練は大きく分けて三つの課程を修めなければならない。ころころと天候が変化するワイルドエリア内では、いくつもの移動手段を持たねば満足な活動ができないため、レンジャーは水陸空を自由に移動できる技能を求められている。
 日中も夜間も、ひとまずはウォーグルと共に安全に飛べている。水上訓練のため、ウォーグルに騎乗してげきりんの湖へ向かう中で、自然と技術も鍛えられるだろう。

「その次は、陸上移動できるポケモン、ですね」

 はあ、とマサルがため息を吐く。残念ながら彼は候補生になるより以前から、彼を乗せて陸地を移動できるポケモンを連れていなかった。
 マサルだけでなく、他の候補生や研修生にも、該当のポケモンを仲間にしていない者もいる。そういった場合は、指導員や他レンジャーのポケモンに騎乗して指導を受けることになっており、マサルも訓練自体はアンのウインディに乗って進められる予定だ。

「保護センターで定期的に譲渡会を開いているから、今度一緒に行ってみよう」

 トレーナーがおらず、野生にも戻れないポケモンたちを保護する施設はいくつかあり、それぞれがポケモンたちの幸せを願い、新たなパートナーと引き合わせる場を作っている。
 できれば訓練期間内で騎乗できるポケモンを譲ってもらえるのがベストだが、そこは縁が絡むため必ずしも思うとおりにはいかない。

「やっぱり体格が大きかったり、足の速いポケモンがいいんでしょうか」
「そうだね。どの隊でも怪我人や荷物を運んで移動することもあるから、それなりに体格のいいポケモンが望まれたり、現場に急行するためにもスピードは大事だけど……」

 訊ねられ、アンは口元に指を添え、自分や同僚たちの経験を元に言葉を選んだ。パトロール、ガイド、ワーク、リサーチ、メディカルと、エリアレンジャーはいくつか隊に分かれて様々な活動をし、サポートに向いているポケモンというのはある。

「でも一番大切なのは、ポケモンとトレーナーの相性だから。体格や速さは無理に求めなくていいの。マサルと気が合うかどうかをまず考えるといいよ」

 レンジャーはワイルドエリアの自然や、住まうポケモンたちの暮らしなど、環境を守ることを第一としている。
 活動の効率だけを考えれば、アンが連れているウインディやアーマーガアはとても頼りになるが、ポケモンの『性能』ばかりを重視するのは、保護管理局の趣旨から外れてしまう。
 ポケモンの力を借りているレンジャーは、常にパートナーが自身と共に活動することが苦にならないかを考える必要がある。そのためにはやはり、ポケモンが自分を好いてくれるか否かが重要だ。
 仮に自分やパートナーたちでこなせない仕事があっても、仲間がフォローすればいい。移動スピードを重視する場合もあれば、速度は遅くとも重たい荷車を引ける剛力なポケモンが求められるケースもあり、適材適所で対応していけば問題はない。

「明後日は休みだよね? わたしも休みなんだけど、ちょうどナックルで譲渡会があるみたい」
「明後日……ですか」

 スマホで確認すると、二日後にナックルシティにある保護センターで譲渡会が開かれる。二人の休みが重なる日でもあるのでタイミングがいいと思ったものの、マサルの表情は少し曇った。

「もしかして、もう予定が入ってる?」
「予定というか……ユウリが家に帰ってくるみたいで」

 そう言うとマサルは、気まずそうに目を逸らした。
 マサルの双子の姉であるユウリは、昨年ダンデを敗ってガラルの新たなチャンピオンとなった。
 新米のチャンピオンは忙しく、彼女の現在の拠点はシュートシティのホテルの一室だ。帰宅できるだけの休みが得られたのも久しぶりだろう。

「そっか。ならマサルもハロンのお家に帰らないとね」

 マサルもユウリと同じく、今はハロンの自宅から離れて暮らしている。
 候補生は、入ってすぐにナックルの管理局本部で研修をみっちり受けるが、ハロンからナックルへ毎日通うのは、子どもでなくとも一苦労だ。
 部屋を借りようにもナックルシティの家賃は高く、金銭的な負担は大きい。研修が終わって配属される先がエンジンシティの支部になる可能性もある。配属先がエンジンなら、ハロンの自宅からもなんとか通えるので、その場合はすぐに引き払わねばならない。
 どうしようかとマサルが悩んでいたところ、キバナが声をかけ、ひとまず研修期間だけではあるが、マサルは彼の部屋に居候している。

「まあ……別におれは会わなくてもいいんですけど、母さんが……」

 あくまでも自分は気が乗らないのだという斜に構えた態度が、まさに思春期の少年らしい反応で、アンは一人微笑ましさを覚えた。

「それに、おれが居ない方がキバナさんも嬉しいだろうし」

 ぼそぼそと続いた言葉に、アンは眉をひそめる。

「キバナくんと何かあった?」
「いえ! キバナさんにはよくしてもらってます! ただ、おれが居ると……いろいろと困ることもあるから……」
「困ること?」

 彼とキバナの関係を案じて訊ねると、マサルは首を左右に振って否定し、別の問題を口にした。
 キバナが困ることなど、アンには思い当たらない。キバナとマサルと三人で食事をすることもあり、二人でいる様子から察するに、キバナはマサルを気に入っているように見える。歳の離れた弟のような扱いで、マサルを疎む姿は想像がつかず、キバナの困りごととやらも見当がつかない。
 意味が分かりかねるといったアンに、彼はモゴモゴと口を開いた。

「おれが居ると、彼女とか、部屋に入れられないじゃないですか」

 まったく予想していなかった発言に、アンは驚いて息を止める。
 二人で黙って見つめ合う、奇妙な時間が数秒ほど続き、ノースエリアに吹き荒れる風の音が騒がしく耳にぶつかっていく。

「そ……そっか……」

 たっぷり間を置いて、アンは静かに理解した。
 キバナとは数年来の友人で、アンがナックルで部屋を借りて以降は、同じ地域に住んでいることもありよく顔を合わせるが、現在の彼に恋人がいる旨は知らなかった。マサルはキバナの部屋に居候しているので、共に生活している中で気づいたのだろう。
 まさかの話に、返す言葉もままならない。本人の与り知らぬところで、友人のプライベートを探ってしまった結果に、アンはひどく動揺していた。
 二人のすぐ近くで、指導中の研修生と指導員が、休憩を終えて訓練を再開する。

「わたしたちも訓練に戻らないとね。譲渡会に行く日は、また今度決めよう」
「あっ、はい。すみません、アンさんも忙しいのに」
「いいの。まだ急ぐ話でもないし」

 明るく振る舞い、マサルへ騎乗の準備を促す。アンは自身の心を落ち着けるよう、アーマーガアの翼をトントンと軽く叩き、その背を撫でた。



 二日後のオフの日は、アンもマサルと同じく実家のあるターフに帰ることを考えたが、前日夜にキバナからランチに誘われたため、昼の半ばを過ぎる頃にナックルスタジアムを訪ねた。
 スタジアムでのランチはもっぱらデリバリーになる。アンの好みを知っているキバナが注文した食事に外れはなく、人目を気にしないでいいジムリーダー室は居心地もよかった。

「マサルの配属先が決まるのはいつ頃になりそう?」

 部屋に備えてあるティーセットで、食後のお茶を用意しながらキバナがアンに問う。

「研修が終わるまであと一か月だから、そろそろ会議が始まると思うよ」

 手慣れた様子で準備をするキバナの背に、椅子に腰を掛けたまま返した。
 レンジャーの研修は約二か月間。選考の時点で部署を考慮して採用されるものの、研修中の様子次第では当初とは別の隊への配属になることもある。

「ナックルかエンジンかも、そのときに?」
「うん。ハロンから通うならエンジンがいいだろうけど……今年はエンジン希望者が多いみたいだから、もしかしたらナックルの所属になるかも」

 毎年、研修生にはどこで働きたいか希望を挙げてもらっているが、今年度はサウスエリアでの活動を望む者が多数いると、隊長のインスから小耳に挟んでいる。
 理由はそれぞれあるようで、マサルのように自宅からナックルが遠すぎる者もいれば、エンジンシティに住んでいる者もいた。希望者の理由の大半は『エンジンシティに比べて、ナックルシティの家賃相場は高いから』という、現実的かつ切実な問題だ。

「ナックルに残るって分かってるなら、部屋を見つけてやろうと思ってさ」

 テーブルに紅茶のカップを二つ置き、向かいの椅子にキバナが腰を落ち着ける。彼の質問の意図が分かると、アンの口元は緩んだ。

「いいお兄さんだね」
「だろ? 子どもの一人暮らしは心配だし、あの部屋でよければ研修が終わっても居てくれていいけど、所詮は物置部屋だからさ。ベッドやデスク以外にも揃えたいものはあるだろうし、せっかくならオレさまに気を遣わないで、ナックルで楽しく暮らしてほしいしな」

 まだスクールも卒業していないほど若いマサルを案じつつも、彼を尊重しつつ気遣う様子は、頼れる兄貴分といったところだろうか。
 マサルが間借りしている部屋をアンも覗いたことはあるが、キバナが集めた本や道具などを雑然と詰め込んだ倉庫のような扱いだったため、眠るためのベッドや勉強するためのデスクは置けたものの、快適に過ごせる私室とはいえない。本人は居候させてもらっているだけで有難いとは言うが、キバナも思うところがあるのだろう。

「そういえば……キバナくんって、今付き合ってる人はいる?」

 先日のマサルとの会話がふと想起され、アンはそっと声を潜めてキバナに訊ねた。ジムリーダー室には二人以外誰の姿もないが、話題が話題だけになんとなく小声になってしまう。
 脈絡のない問いにキバナは、カップをテーブルに置き背もたれに体を大きく預け、両腕を広げてみせた。

「いると思うか?」
「ううん」

 アンは即答した。キバナはトップジムリーダーで、SNSではポジティブにもネガティブにも注目され、ファンの数もトップクラスだ。上背は飛び抜けてあり容姿もよく、実際に接すれば人当たりの良さも知れ、有り体にいえばモテる。
 ただ多忙のせいか、親しい女性の影はあれど、交際にまで至った話は聞いたことはない。ナックルを任せられている間は彼の優先順位は常に決まっており、恋人はどうしても後回しになってしまう。だから交際は控えていると言ったのは、去年か一昨年あたりだったとアンは記憶していた。

「紹介ならいらないから、断っておいて」

 手をひらひらと振り、キバナは先手を打った。彼と引き合わせる場を作ってくれ、と頼まれた者から声をかけられることは多々あるようで、肩を落としうんざりとしている。

「オレさまのことより、そっちはどう?」

 下げていた口角を上げキバナが訊ねるのは、アンとダンデのことだ。

「バトルタワーもあるから相変わらず忙しいみたい。でも今度ナックルに来るから、会うつもり」
「ああ、オレは別件で外に出るけど、スタッフと午前中に打ち合わせが入ってたな」

 置いたカップを持ち上げ、口元に当てる。サイズが違って見える錯覚を起こさせるほど、カップを持つキバナの手は大きい。
 チャンピオンからリーグ委員長に座を移したダンデは、前委員長の名を冠した『ローズタワー』を、『バトルタワー』という新たな施設に改修した。
 興行化したガラルのポケモンリーグで行われるバトルと違い、純粋に強さを追求した勝負に重きを置いており、ジムチャレンジと違って参加資格に制限はなく、どんなトレーナーでもバトルできる施設は、ダンデが望んでいた『ガラルの皆で強くなる』という夢を形にした場所だ。

「どこかで飯でも食べるの?」
「そうだね。どのお店にするか考えておかないと」
「まだお互いの家にも行ったことないんだっけ? 記事を書かれるんなら、せめて指輪を貰ったことくらいは親に話しておいた方がいいだろうな」

 キバナの言うことは尤もだった。アンがダンデからプロポーズを受けたことは、キバナやソニア、ルリナにしか伝えておらず、ダンデを実家に招いたり、ハロンを訪ねたこともない。
 近いうちに親には話さねばと思ってはいるものの、何を話せばいいのかと悩むところもあった。ダンデから指輪を受け取ってからも彼と会う時間はあまり取れず、結婚に向けてなどの具体的な話も一切できていない。ただ指輪を受け取り結婚を約束しただけ。それだけだ。

「特にアンの親父さんは子煩悩みたいだし」
「もう子どもって歳でもないんだけどなぁ」
「親にとっちゃ成人しても子は子、ってね。つい口を挟みたくなるんだろう。こっちとしちゃ、煩わしいもんさ」

 両腕を頭の後ろで組んで、室内の天井を仰ぐようにキバナは背もたれに体を張り付けた。
 キバナは自身の家族についてあまり多くを話さない。ジムリーダー業と並行しながら、一般の生徒より少し遅れたペースでカレッジを卒業したのは、親がジムリーダーを許す条件だったからと言っていた。実家に帰った話もろくに聞かないので、あまり家族とは反りが合わないのかもしれない。

「まあ今はナックルと、アンたちとマサルの面倒で、キバナさまの両手は塞がってるんでね」
「分かってるって」

 念入りに釘を刺されたアンは、心得ていると微笑んで返した。元より、誰かに紹介を頼まれているわけではなく、マサルの発言が引っかかって確かめただけだ。
 本人がこうして否定するのなら、マサルの勘違いだったことになる。彼がどうしてそんな思い違いをしたのか見当はつかないが、彼なりの気遣いが先走っただけなのだろうと、アンは一人納得して紅茶を口にした。



 あの日アンの左手の薬指に通されたリングは、リビングルームの壁に添う、チェストの天板に置いたケースに収められている。
 パカンと開けると、きらめく石がアンの目に光と共に飛び込んでくる。朝起きてはすぐ視界に入れ、帰宅すれば一番に確認するのが日課になった。
 チェストの上の壁には、アンのお気に入りの写真を飾っている。
 ヤローも入った家族写真に、ソニアやルリナと三人で写っているもの。
 同僚たちとの日常のワンシーンや、じめんジムを去る前の記念にと撮ったグランと並ぶ写真。
 キバナから貰った、14歳のダンデと、ジムリーダーになったばかりの16歳のキバナ、同じく正規登用されたばかりのアンが揃っている写真に、指が伸びる。
 指先で撫でた写真のダンデは、ちょうど身長がアンを追い越した頃だ。あどけない笑顔の少年が無敵のチャンピオンと呼ばれ始めた時期でもある。
 立場に差はあれど二人は親しい友人で、互いに抱くものは友情でしかなかった。ダンデにプロポーズされるなど当然考えたこともなかったのに、彼は今アンの友人ではなく婚約者だ。

 そのダンデから贈られた指輪を手に取り、そっと左の薬指に嵌めていく。指に通すのはいつぶりだろうか。失くしたり傷がつくことが恐ろしく、滅多なことでは着けないようにしている。
 今日はダンデと会える日だ。ダンデがナックルでの仕事を終えたあと、夕食を共にと決めている。店は彼より土地勘のあるアンが選んだ。
 時計の短針が右下の数字を指す。そろそろ時間だと、アンが身だしなみを整えた頃に、スマホから音が鳴る。
 画面を見るとダンデからのメッセージで、仕事が長引いていて約束の時間には間に合わない旨が綴られていた。
 今まさに支度をしていたところで、少々出鼻をくじかれたような気分ではあったが、出かける前でよかったと、ダイニングの椅子に腰を下ろす。
 終わったらまた連絡をと返信し、ぽっかり空いた時間をどうしようか考える。動画アプリで映画でも観ようか。けれど気になる場面で中断することになるかもしれない。

「片付けでもしようかな」

 一人暮らしの部屋は広くないが、物は少ないのでさほど窮屈ではなく、狭いがゆえに掃除も楽だ。出しっぱなしの本や筆記具をしまい、棚や引き出しの中を整理を始めると、すっかり夢中になっていた。
 再びスマホが鳴る。メッセージではなく、通話を知らせる着信音だ。ハッと時計を確かめれば、二時間近くも過ぎている。
 床やテーブルに広げた小物をそのままに、スマホの画面をタップし、耳元に当てる。

「ダンデくん、もう終わったの?」

 片付け途中で出しっぱなしの雑然とした光景を見ながら、アンは訊ねた。もし今すぐ出なければならないなら、せめて簡単に片づけてから部屋を出たい。

『アン、すまない。これから食事に行かなければならなくなった。断ったんだが、帰してくれそうになくて』

 スマホから発されるダンデの声は、目に見えなくとも肩を落として重たい表情をしているのが分かるくらいに、申し訳ないという感情が伝わってくる。

「……そっか。分かった」
『本当にすまない。キミとの約束が先だったのに』
「いいの。そういう付き合いも仕事の一つでしょ。また予定を立てよう」

 アンは謝り続けるダンデに努めて明るく返し、通話を切った。通話先だったダンデの名前が消え、すぐにホーム画面へと切り替わる。
 気にしないでと返していたものの、残念ながらアンの感情はスマホの画面のようにはいかない。
 はあ、と長い息を一つ吐く。ダンデが悪いわけではないが、楽しみにしていただけに割り切れないものだ。
 天井の照明を受けて、左の薬指が光る。指輪を抜き取り、チェストの上のケースに収め、蓋を閉じた。


 『ぽっかり空いた時間』が『たっぷり空いた時間』になったことで、不服にも部屋の片付けは最後まで終えられた。
 無心に動いて減った腹を満たすのは、ダンデと行くつもりだった店の食事ではなく、冷蔵庫に残っていた食材を消費するための簡単な夕食。
 ダンデに会うからと、それなりに気を遣った服も脱いでシャワーを浴び、アレンジに凝った髪も泡立てて流しきった。
 やることをすべて終えてしまうと、手持無沙汰になった。時刻としては22時。眠ってもいい頃合いだが、まだベッドに入る気にはならない。
 今度こそ映画でも観るべきかと、ロトムに指示を出そうとした瞬間、画面にダンデの名が表示され、着信音が響いた。
 軽快に鳴り響く音に驚き、思わず通話ボタンを押す。

『アン。まだ起きてるか?』
「お、起きてるよ。どうしたの?」

 小さなスピーカーからダンデの声がし、アンは慌ててスマホを耳に当てた。

『やっと食事が終わって、さっき解放された』
「そうなんだ。お疲れ様」
『ああ。それで……勝手ですまないが、今から会えないか?』
「え? 今から?」

 そうだと短い返事がして、アンは時計を見た。先ほども確認したときと変わらず、短針が指すのは10の数字だ。

「――分かった。今どこ?」

 寝室のクローゼットを開けながらアンが問う。ダンデが見える範囲の特徴を挙げていき、目星がついた頃には、身支度を整えてバルコニーにアーマーガアを出していた。


 アンはナックルシティの45番通りに向かい、ダンデの姿を探す。この辺りは企業の営業所や事務所が多く、日中は人が多く行き交うものの、夜には頭をこうこうと光らせる街灯の数の方が多くなる。
 建物を背にしたダンデをようやく見つけ、そのそばへと降下する。アーマーガアから下りてダンデの前に立つと、複雑な顔でアンを迎えた。嬉しいのか悲しいのか、判断がつきにくい。

「こんな夜更けに呼び出してすまない。来てくれてありがとう」
「ううん。ダンデくんこそ、遅くまで大変だね」

 形式としては食事だったとはいえ、それも突き詰めれば仕事でしかなく、彼は朝から今まで委員長業に拘束されていたようなものだ。労う言葉はあれど、責める気持ちはなかった。

「このままキミの顔を見ないで今日を終えるのが、どうしても我慢できなくて」

 そう言うとダンデは、アンの手を掴んだ。眉間を寄せた顔に、心臓までも握られたように苦しくなる。
 ダンデも自分に会いたかった。約束を反故されたことなど、もう塵一つ気にならなかった。

「――ダンデくん、乗って」

 掴まれた手を掴み返し、アンがダンデを自身のアーマーガアへと引き寄せる。ダンデは驚きつつも、言われるがままにアーマーガアに騎乗し、鋼の大きな翼がナックルの空で羽ばたいた。


 ダンデを連れて飛んだ先は、アンの部屋のバルコニー。夜も遅いので静かに足を付け、アーマーガアをボールへ戻すと急いでテラスドアの錠に鍵を差し込んだ。

「ここは?」
「わたしの部屋だよ。あそこにずっと居たら、誰かに見られちゃうかもしれないし」

 ドアを開いて中へ入り、部屋の明かりをつけると、バルコニーに佇んだままのダンデを振り返る。

「大したおもてなしはできないけど、お茶だけでも」

 アンが誘うと、ダンデはパッと顔を明るくして、部屋へ入った。
 ドアを閉め、部屋中のカーテンが引かれていることを目視で確認する。高層階ではあるが人の目はどこから差し込まれるか分からないので、用心に越したことはない。

「すぐ用意するから、座って待ってて」

 ダイニングの椅子を指差して、アンはキッチンに立った。ケトルで湯を沸かす間に、カップとソーサーを二組出して、茶葉を選ぶ。
 ケトルの口から湯気が出ると、空のポットとカップに熱湯を注ぐ。水を足して再びケトルをコンロにかけ、ダンデの様子を見やると、彼はリビングのチェストの前に立っていた。
 何を見ているのか気になり隣へ並べば、落とされた金色の視線は小さなケースに注がれている。

「大事なものだから、鍵のかかる引き出しにしまっておいた方がいいんだけど……」

 金額の問題ではないが、高価な婚約指輪を不用心に置いている不精を詫びたものの、

「すぐそばに置いてくれて嬉しいぜ」

と微笑んで返され安堵した。
 ダンデの顔が上がり、目の前の壁に注目する。何枚も貼られているものの、すべて思い入れのあるお気に入りの写真ばかりだ。
 湯が沸いたとケトルがアンを呼ぶ。キッチンへ戻り、空にしたポットに二人分の茶葉を入れ、熱い湯を注ぐ。ティーコジーを被せ、置いている砂時計をひっくり返した。
 ソーサーにカップ、ポット、砂時計をトレーに乗せ、ダイニングテーブルへ運ぶ。その間も、ダンデはまだチェストの前に立っている。

「ダンデくん」

 背に呼びかけると、驚いたのか肩が跳ねた。振り返った顔はやけにびっくりしていて、その表情にアンも目を見張る。

「どうかした?」
「……いや。どれもいい写真だな」

 何かあったのかと問えば、ダンデは一言返す。そうだろうと、アンはたまらず笑顔を向け、ダンデの口元も弧を描いた。

「お茶を淹れるから座って。わたしが勝手に選んだけど、苦手なお茶はあったりする?」
「いや。特にはないな」
「よかった」
「アンはあるのか?」
「わたしも特別苦手なものはないかな。好きなのは秋摘みだね。これも秋摘みだよ」

 ポットを指して言えば、ダンデはキルト地に包まれたポットを素直に見て「そうなのか」と一言呟いた。
 カップに茶を注ぎ、香りや味について言葉を交わしたあと、二人は短いながらもしばし語らった。

 お互いの近況から始まり、ユウリとマサルという双子の姉弟の面倒を共に見ていることもあって話題は尽きなかったが、時間は無慈悲にも進み、そろそろダンデをホテルへ送らねばならない。
 アーマーガアに乗って飛び、ホテル近くの広場へ降りる。人目を避けたので少し歩かねばならないが、リザードンが居るから大丈夫だと本人が言うので、彼のパートナーを信じて任せることにした。

「今日はすまなかった」
「ふふっ。ダンデくん、謝ってばっかりだね」

 詫びの言葉にアンは笑って返す。反故にされたことへの不満は、先ほどお茶と共に飲み下してしまったが、約束を破ったダンデとしては、まだ心苦しいのだろう。
 やけに沈痛な面持ちで足下に目を落としていたダンデが、スッと顔を上げる。

「近いうちに、一緒にハロンへ行かないか?」

 唐突な提案に、アンは目をしばたたかせた。

「ハロンに?」
「ああ。それとも、先にキミの家へ行くのがいいか?」
「えっと……連絡してみないと分からないけど」

 急な話についていけないなりにも、アンはなんとかそう答えた。
 ターフの家の都合は、確認を取らなければ把握できない。プロポーズを受けた話もせずに、いきなりダンデを連れて行けば両親の混乱は必至だろう。
 今日はもう遅いから早くても連絡は明日になる。どちらの家へ先に向かうべきかは、予定の空き次第ではないだろうか。
 目まぐるしく思考するアンを、ダンデはじっと見つめている。いつものように穏やかで静かな形には変わりないが、どこか雰囲気が違う。

「ダンデくん……?」

 名を呼ぶと、ダンデの口角が上がる。

「今夜はありがとう。送れなくてすまない。気をつけて帰ってくれ」
「うん……。おやすみなさい」
「おやすみ」

 ダンデはボールからリザードンを出し、木々に遮られることなくここからでも見える、高層ホテルを指差した。承知したとリザードンが低く唸る声を上げ、ダンデは後に続く形で広場から去って行った。

20220506

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