いつかきみが枯れてしまうまで | ナノ
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35

 『無敵のダンデ』を敗ったユウリは、ダンデ以来となるルーキーからのチャンピオンとして、ガラルのトレーナーの頂点に立った。
 彼女の肩にチャンピオンマントが掛けられたあの日から、ガラル中は大騒ぎだ。
 元々ユウリは、チャンピオンになる前から話題性には事欠かなかった。
 チャンピオンと同郷で、彼に推薦され、ナックルジムも一番に突破した期待のルーキー。
 伝説のポケモンが力を貸し、ガラルの災厄であったムゲンダイナの捕獲に成功したトレーナー。
 そこにガラルのチャンピオンの称号が足されるのだから、誰もが彼女の活躍に興味を持たないはずはなかった。

 もはやユウリの名や顔を見ない暇などないほど、町のあちこちで彼女のことを耳にする。
 彼女のジムチャレンジからチャンピオンに至るまでの出来事が、一種の英雄譚に仕立て上げられ、ネットを中心に拡散されているが、一体どこからどこまでが事実なのか分からない。
 ダンデがチャンピオンになったときも、似たような騒動が起きていた。そのときもアンは、メディアやネットを通して新米チャンピオンの動向を知り、すっかり遠い存在になってしまったと感傷に浸っていたものだ。

 チャンピオンの座を降りたダンデとは、顔を合わせていなければ連絡すらも取っていない。
 試合が終わったあとにキバナから電話が入って、ダンデに会わせるから来いと呼ばれたがアンは断り、ジムリーダーなどの内々で行われるパーティーに出席する友人たちを置いて、一人ナックルへ帰った。

 ダンデに会いたくなかったわけではない。後日に顔を合わせた際に、どうして来なかったのかと問うキバナやルリナにもそう返した。
 アンは新しいチャンピオンが誕生した直後の忙しなさを、前任のそばで見ていたダンデから聞いたことがある。
 あらゆる手続きを進めながらスポンサーや関係者へと出向き、時には新旧チャンピオン揃って連日挨拶に回り、パーティーに顔を出しメディアの取材に分刻みで応じるなど、とかくやらなければならないことが多いと。
 しかも今回は、リーグ委員長だったローズが先日の事件で自首したため不在。彼の秘書だったオリーヴの手を借り、ダンデは元チャンピオンとしてでなく、委員長代理も務めている。
 そんな多忙なときに、業務に関係のない者と会う時間を割いてほしくはなく、そんな暇があるなら休んでもらいたい、というのがアンの偽りのない本音だ。

 アンもアンで、ダンデほどではないが忙しかった。
 チャンピオンが代替わりした今年は、レンジャーの新規採用に加え、三期生に当たる候補生の募集も行うことになり、アンも準備に駆り出されている。
 今年は募集案内の『先輩の声』から無事外れ、余計なプレッシャーもストレスもない。時期的にもそろそろ三期生を募る予定でもあったため、準備は滞りなく進んでおり、キバナからランチに呼び出されても、応じる時間もあった。

「なんでダンデに会いに来ないのに、オレのところには来るんだよ」

 先にいつもの店のいつものテーブル席に座っていたキバナは、アンが席に着くと垂れた目を向け、責めるような口調で迎えた。

「来てほしくなかった?」
「はぐらかすな」

 思ったまま返すと、キバナは不貞腐れたような表情を見せ、脇に立てられていたメニュー表を取ってアンに差し出す。

「ダンデくんは今とっても忙しいでしょ」

 受け取って薄い冊子を開く。随分と前に撮られて若干色褪せている写真のそばに、手書きで品名と値段が綴られている。この店には何度も通っており、これまで注文した品はどれも美味しかった。

「それとも、ダンデくんがわたしに会いたいって言ってるの?」

 自身の食欲や舌の気分と相談しながら、キバナを見ずに訊ねる。美味しさを知っているからこそ、つい同じものを頼んでしまうが、今日こそは注文したことがないものにしようと、アンはペラペラとページを捲る。
 すぐに答えが返ってくるかと思えば、テーブル周りがしんと静まったので、アンはメニューから顔を上げた。向かいのキバナを見ると、その顔はまだぶすっとしたままだ。

「アイツは自分からは何にも言わないよ。オレやルリナがアンの話を振れば関心は持つけど、それだけ」

 何か気まずいのか、キバナはふいと顔を逸らして言った。騙すような真似をしてまで二人を会わせようとしない正直さに、思わず微笑ましくなった。
 アンはメニュー決めに戻り、キバナはテーブルに乗っているグラスの水を一口飲んだ。

「大丈夫、なんだよな?」
「なにが?」
「ダンデと」

 口にし難いのか、キバナは大きな口をもごもごとさせ、アンにちらりと目線を送る。あまりにも会う気がない二人の関係が、キバナには随分と離れてしまったよう見えており、心配なのだろうとようやく察した。

「わたしが、待つことが嫌いじゃないのんびり屋だって、ダンデくんは知ってるから。だから会えなくてもわたしは平気」

 嘘でもなんでもないので、アンは笑って答えた。
 チャンピオンカップから一か月経つが、アンは今の状況に何らマイナス感情は抱いていない。彼が自分をどういう人間か理解してくれているという自信があるから、ダンデとコンタクトを取らねばと焦燥に駆られることもない。今は少しでも早く、ダンデの多忙が落ち着けばいいと思っている。

「ならダンデは?」
「ダンデくんもね、楽しいことなら待てるって言ってたの」
「あーハイハイ。なるほどね。ソウデスカー」

 キバナは仰け反るとそのまま背もたれに身を預け、ぽっこりと出た喉仏を晒し、天井に向かって表現しがたい声で唸った。
 自分を含めた周りが気を揉んでいるものの、当人同士はいたって呑気だと分かり、とんだ肩透かしを食らったようだ。

「心配してくれてありがとう」
「ドウイタシマシテ」

 天井を見上げたままの気の抜けた返事に、アンは吹き出してしばらく笑ってしまった。



 レンジャーの新規採用と候補生の募集が始まり、駅構内やスタジアム内にポスターが貼られ出した頃、久方ぶりにソニアから連絡をもらった。
 買い物をしたいので付き合ってくれないかという誘いに、アンは一も二もなく了承し、エンジンシティに向かう。
 ソニアは先日、ガラル地方の伝説を新たな解釈でまとめた本を出版した。伝説のポケモンの存在が明らかになったこともあり、研究内容の評価は上々で多くの専門家からも認められ、念願だった祖母の助手から抜け出し『ソニア博士』と称されるまでになった。
 今回の買い物は、その『博士』の肩書に見劣りしない服を揃えるのが目的らしい。

「これから学会とか、堅苦しい場に呼ばれることもあるから、それなりの格好も必要なのよ」

 普段はあまり足を向けない、主にスーツを専門としたブティックで試着を重ね、ソニアは気に入った二着を購入した。彼女の髪や目、肌の色に合ったスーツは、ファッションにさほど頓着していないアンから見てもとても似合っている。
 次はイヤリングだと、ソニアはアンを連れてアクセサリーショップへ入った。
 目当てのイヤリングの他、ピアス、ネックレス、リング、ブレスレット、ヘアアクセなど、様々な商品が陳列されている。

「これいい。これも。あー、これもいいなぁ」

 惹かれるものを見つけると次々に手を伸ばし、エメラルドグリーンの目はアクセサリーに負けないくらいにきらきらと輝いた。

「でもスーツで結構使っちゃったし、たくさんは買えないのよね」

 品物を元の位置に戻し、ソニアはゆっくりと品物を見て回る。

「あ、このリングかわいい」

 言ってソニアが手に取ったのは、イエローゴールドで軸が細く、華奢なシルエットの指輪だ。自身の薬指や中指に通して眺めたあと、外すとアンへ差し出した。

「ね、アンちょっと着けてみて」

 アンが返事をする前に、ソニアはアンの手を取って、リングを中指へ嵌めていく。

「ソニアが買うものなのに、わたしが着けたら意味ないよ」
「客観的に見たいの。全身で見るとそうでもないけど、会食なんかだと目に付くじゃない? だからリングとかブレスレットも欲しいんだよね」

 中指、薬指、小指と、アンのあらゆる指に通しては一歩引いてじっくり観察し、それが終わるとまた次の指輪を取って嵌めていく。

「アンって指細いよね」
「そう? ソニアと変わらないと思うけど」
「アタシの手はアンより小さいから、そう見えるだけ。ほら、手を合わせて」

 言われて手の平を重ねると、確かにアンの手の長さが少しだけ勝った。とはいえ、ほとんど誤差に近い。
 右手のみならず左手まで、もはやすべての指にソニアが選んだリングが通る。アンは彼女が満足するまでマネキンに徹し、言われるがままに指輪を嵌めた。

「うん。これにしよう!」

 やっと気に入ったリングが決まり、アンはようやくマネキンから解放された――と思いきや、次はネックレスやブレスレットの試着まで頼まれ、乗り掛かった舟だと最後まで体を貸した。

「ありがとうアン! 久しぶりに思いっきり買い物できて楽しかった!」
「わたしも楽しかったよ。どこかで休憩する?」
「賛成! 頭使ってお腹空いちゃったよ」

 ソニアが手に持つショップ袋を半分持って、二人並んで近場のカフェに向かう。靴も見るつもりだったけれど、さすがに疲れたから今度にすると言うので、時間が合えばまた付き合うと返すとありがとうとにっこり笑って返された。

「あ、ルリナ」

 足を止めたソニアの視線の先には、エンジンシティの一番目立つ場所に掲示された屋外広告の看板があった。
 シンプルなドレスを纏い、豪奢なネックレスと指輪で彩られたルリナは、友人の欲目を差し引いたとしても美しい。

「きれいだね」
「ホント。ルリナもアクセもね。あの指輪一つで、アタシが今日買ったものが、あと8セットは買えちゃうよ」
「そんなに?」
「いや、9セットかな?」

 細かく数字を刻むが、そんなに高額であれば、もはや8も9もアンにとっては変わらない。
 ルリナが広告モデルを務めるブランドは高級宝飾品を取り扱っており、アクセサリーに興味がない者でも名前くらいは耳にしたことがあるほど、ガラルでは古くから愛されている有名店だ。結婚指輪を贈られるならこのブランドだと希望する女性も多い。

「ジムリーダーもやって、こんな一流ブランドのモデルも務めて……ホント尊敬しちゃう」
「わたしはソニアも尊敬しちゃうけどな。ソニアくらいに若くて博士になった人なんて、そうそういないんでしょ?」
「うーん、まあね」

 謙遜なのか照れているのか、ソニアはウェーブがかった髪の一房を指に巻き付けながら、アンに曖昧な返事をした。

「アタシが博士を目指す前って、いろいろ迷走してたじゃない? 料理にコスメに絵画、フラワーアレンジメント、ギター、詩作、カービング。他にも思いつくことに片っ端から手を付けて、何をやりたいのかまったく見つからなくて焦ったりして」

 ショップ袋を提げていない空いた手で、指を折りながらソニアが挙げていくが、絵画以降は初めて聞いた。ソニアはアンが知らないだけで、なかなか手広くやりたいことを探していたようだ。

「アンが『頑張ったことは無駄にはならない』って言ってたけど、その通りだったよ。仮定をあれこれ思いつくより、まずは真っ当なやり方で一つずつ事にあたること。膨大の資料の中から必要な情報を収集するコツ。ポケモンや風景のスケッチ技術。他にもたくさん。あの本は、迷走していたアタシがあったから書くことができたんだ」

 手をギュッと握りこむと、ソニアはそのままアンの肩にコツンと当てた。

「ありがとう、アン。アタシはいつだって、アンの幸せを願ってるよ」

 にっこりと笑うソニアに、アンはなんだか目頭が熱くなった。ソニアが心の底から思って言っているのが伝わって、やっと返せた笑顔はきっと不細工に見えただろう。



 秋が足早に過ぎ、ガラルには長い冬が来た。ワイルドエリアの巡回が一番厳しい季節で、肌を外気に晒さないようしっかり防寒しても、底冷えしてしまうときもある。
 昼前からのシフトに合わせてランチを早めに済ませ、同じシフトに入っている同僚と隊長のインスとで短いミーティングを行う。
 本日の天気や風の様子、前日までのワイルドエリアの状況などを確認し終えると、ちょうど上着のポケットに入れていたアンのスマホが震えた。ロトムによる音声通知は切っているので、何の通知かは分からない。
 その場でスマホを出して見てみると、メッセージの通知欄にはダンデの名が表示されていた。慌ててタップして内容を確認する。

『来てくれないか』

 写真も添付されていない、一行で収まってしまう短い文面に、アンは硬直した。

「アン、何かあるのか?」

 ミーティングが済んで自席に戻ろうとしたインスが、まだその場で留まっているアンに気づいて問う。

「あ、あの……」

 アンはスマホを持ったまま、魚のように口をパクパクと開いた。
 ダンデに呼ばれていることを伝えられればよいが、ローズからの申し出によりアンはすでにその役から降ろされている。パトロールを放って呼び出しを優先してはならない。
 体のいい嘘を吐こうにも、突然ことでアンの頭は回らず、焦るばかりだ。

「迎えに来てほしいって?」

 誰からとは口には出さず、インスが訊ねる。アンが何度も頭を縦に振って頷くと、インスはフッと口元を緩めた。

「俺が許可する。行ってこい!」
「は、はい!」

 手を上げ、『進め』のハンドサインを作って見せたインスに、アンは大きく返事をし管理局の廊下を走った。アーマーガアに騎乗するため、エレベーターで屋上へ上がる。
 その間に場所はどこかとダンデへ返し、フライトキャップやゴーグルを着け、首に防寒のマフラーを巻く。ダンデからはすぐに返信があった。
 すぐさま画面を開き添付されていた写真を見ると、アンの目は丸くなる。
 画面いっぱいに広がる四角の風景は、ワイルドエリアのどこでもない。暮らし始めたものの、まだすべてを知り尽くしていないアンでも分かる場所――ナックルの宝物庫だった。


 アーマーガアに乗って、アンはナックルの上空を西へ飛んだ。本当に宝物庫で合っているのかと、ダンデへ再度問い直してみたものの返事はない。
 とりあえず向かってみようと、宝物棟の前で降りた。そばに設置されているバトルコートでは、トレーナーが自慢のポケモンたちとバトルに熱中している。
 アーマーガアをボールへ戻し、ゴーグルやグローブなど身に着けた防寒具を外して、重い戸を押し中へと入った。

「アンさん。こんにちは」

 入ってすぐ脇のカウンターに立っているジムトレーナーは、パトロール隊とナックルジムスタッフとの集まりで見知った顔だ。

「こんにちは。あの……」
「宝物庫ですよね? キバナさまから話は伺ってます。どうぞ階段を上がってください」

 どう切り出そうか悩む前に、ジムトレーナーは腕を上げ階段を指し示し、アンへ宝物庫へ行くよう伝える。
 なぜキバナが。彼から何を伺っているのか。
 訊きたいことはあるものの、今は宝物庫に行くのが先だと、石の壁から放たれる圧迫感を覚えながら階段に足を掛けた。
 上がりきって目の前にある扉を開けると、氷のように冷たい風が顔にぶつかる。
 石畳を歩いて外階段を上ると、目的地である宝物庫の扉を背に、キバナが立っていた。

「おっ。来たなレンジャー」

 アンに気づいたキバナが、スマホを操作する手を止める。

「キバナくん、どうして――」
「どうしてオレさまがここに? 考えるまでもない。オレさまはナックルのジムリーダー、宝物庫の番人。宝を守るのがキバナの務めだ」

 キバナは歩を進めアンの前で止まる。見上げると首が痛くなるほど高い位置にある顔は、妙に機嫌がいい。

「さあ、アン。ガラルの宝がお待ちだ」

 長い腕で恭しく宝物庫の扉を示したあと、キバナはアンが上ってきた階段を下りていく。タン、タンと乾いた足音が遠ざかり、アンがついさっき出入りした戸の重たい開閉音を最後に、何も聞こえなくなった。
 一人残ったアンの周りを、冬の北風が通っていく。深い呼吸を数度繰り返したあと、アンは両手で扉を押し開いた。
 八面の石造りの壁には、四枚の大きなタペストリーが飾られている。数千年前のガラルに訪れた大厄災と、打ち破った英雄たちを伝えており、アンもレンジャー候補生時代に見学で訪れたことがある。
 差し込む日光をいくつか残して明かりとする室内の中央に、人影が一つ。長いバイオレットの髪を揺らし振り返ったのは、間違いなくダンデだ。

「……来てくれてよかった」

 言って、ダンデの肩から力が抜ける。その仕草がアンにはなんだか愛しく見えた。

「約束したからね」

 そう返し、アンはゆっくり扉を閉めてダンデに歩み寄る。
 対面するのはどれくらいぶりだろうか。一年は過ぎている。成人から幾年も経ち、思春期のような急な成長は見受けられないが、ダンデはアンにとって馴染み深い姿から一変していた。

「忙しいのは落ち着いた?」
「ひとまずはな。アンと会う時間がやっと取れるくらいには」

 ダンデが体ごと向き直ると、テールコートの長い裾の先がひらりと小さく返る。

「ただ、まとまった時間とはいかないから、キバナに頼んで場所を借りた。ここだったらさすがにオレも迷わない」
「ふふっ。ダンデくんはガラルの宝だから、ぴったりだね」

 キバナが先ほど称した通り、ダンデは間違いなくガラルが誇るトレーナーだ。彼を『宝』と例えることに異を唱える者などガラルにはいないだろう。
 ガラルの宝は、その菫色の頭の天辺に、長年王冠代わりのキャップを被っていたが今はなく、その肩にも王者を表すマントはない。

「チャンピオン、お疲れ様」
「ああ」

 十年と少しの功労へ捧げるには短いが、かしこまった言葉を山ほど並べ立てたところで、ダンデに伝わらなければ何の意味もない。むしろ自分たちには飾り気などない方がいいとアンは思う。

「委員長就任、おめでとう」
「ありがとう」
「新しい服も似合うね」
「そう言ってもらえると嬉しいぜ」

 マントを外し、チャンピオンだけに許されたユニフォームも脱いだ姿は、これまでと雰囲気ががらりと異なる。鳥の尾羽を模したコートに白いジャボ。スラックスに膝丈のブーツ。
 ダンデが正式にガラルのリーグ委員長に着任して、そろそろ二か月に入る。ニュースで姿が映ることも多く、この格好にも見慣れたと思っていたが、いざ実物を前にすると、別人のようで緊張した。前よりもずっと大人びていて、まるでアンより年上に見える。

「アンの方はどうだ?」
「変わりないよ。今年は候補生の募集も始まって、マサルくんが応募したみたい」
「へえ、彼が! セミファイナルまで進んで、バトルもなかなか冴えているのに、もうジムチャレンジには挑戦しないつもりなのか」

 リーグ委員長としてか、純粋に一人のトレーナーとしてか、ダンデはマサルがレンジャーを目指している――つまり、マサルがジムチャレンジへの参加権を失うことを惜しんでいるようで、眉尻がほんのわずかに下がった。

「うん。ワイルドエリアでキャンプしてるマサルくんと話したことがあるんだけど、バトルよりキャンプしたりするのが好きだって言ってたんだ」
「そうか。アンみたいに、ジムチャレンジよりやりたいことを見つけたんだな」
「そうだといいな」

 昔の自分と同じように、チャレンジすることから逃げているのではなく、もっと別の楽しさを見つけてレンジャーへと進路を決めてくれたのなら。
 ワイルドエリアを見つめて『いい場所』だと微笑んだのだから、きっとそうに違いない。新たな同士を見つけた喜びが密かに込み上げる。
 話はそこでぷつりと途切れる。長い間会っていなかったからか、短い沈黙に小さな焦燥を覚えた。

「キミへ成人祝いを贈ったときのこと、覚えているか?」

 静けさを先に破ったのはダンデだった。彼の目線は、アンの左腕の《ダイマックスバンド》に向けられている。
 脈絡のない話題に目をしばたたかせたものの、

「もちろん」

とすぐに返した。

「ダンデくんがね、『共にガラルの未来を』って、カードに書いてくれてたでしょう。チャンピオンのダンデくんほどじゃないけど、わたしもガラルの未来のために、少しでも力になれるように頑張ろうって思ったの」

 プレゼントに添えられていたメッセージカードは、新しい部屋のチェストの引き出しに収めている。
 レンジャー活動中に落ち込んだり躓いたときは手に取り、ダンデも頑張っている、ダンデだけでなく多くの友人たちも頑張っているのだと、自分を奮い起こした。

「あれには、本当は続きがあったんだ」
「続き?」
「ああ。けれどアンの気持ちも分からないのにと、書くのを止めてしまった」

 目が伏せられると、人形のような長い睫毛の豊かさが際立って、女として羨ましくなる。

「今日はあのときの続きを、キミへ伝えに来た」

 ダンデは片手を後ろに回すと、唐突に石畳に片膝をついた。何事かと驚くアンの前へ、ダンデが手を差し出す。
 大きな手のひらの上にはベルベッド地の小箱。空いた手で箱の蓋が開けられる。
 箱の中に鎮座する銀色のリングの中央の、爪が立てられた輝く石が、宝物庫の少ない明かりを取り込んできらめいた。

「アン。共にガラルの未来を、生きよう」

 言葉と共に、ダンデは眼差しをアンに向ける。熱量を持った瞳は、いつも四角の画面でしか見たことがなかった。
 バトルコートに立つダンデが、強敵相手に注がれていたあの双眸が、今まさにアンを捉えている。
 息を詰まらせ、両手で口元を押さえた。

「ほんとに……?」

 恐る恐る訊ねると、ダンデは黙して頷く。
 跪き、指輪を見せる意味は知っている。いくらのんびり屋であっても、ダンデがくれた続きの言葉とて理解できぬほど鈍くはない。

「わたし……わたしは、ダンデくんとバトルする気もないし、強くないよ」
「構わない。バトルをしようがしまいが、オレはキミと居たい」

 ダンデが大好きなバトルから遠ざかっているのにと口にすれば、すぐに関係ないと返ってきた。

「他に、得意なことだってないし」
「キミほどアーマーガアにうまく乗れるトレーナーは他にはいない。リザードンならオレが一番うまい」
「博士とかジムリーダーとかモデルとか、そんな立派なもの持ってないのに」
「前にも言ったろう。アンはガラルで一番素晴らしいレンジャーだ。オレを何度も助け、ホップには知るべきことを教えてくれて、ワイルドエリアで暮らすポケモンや自然を、いつも全力で守ってくれている」

 アンが不安を口にすれば、その度にダンデはやんわりと否定し、逆にアンの良さを挙げる。そう思っていてくれたのかと、胸にじんわりしたものが広がる。

「無敵のチャンピオンでなくなったオレでは、不満か?」
「そんなことない!」

 少し眉尻を下げて問うたダンデに、今度はアンがすぐに否定した。チャンピオンでもそうでなくとも、ダンデはダンデだ。

「なら受け取ってくれ」

 促され、そっと手を伸ばし箱を取った。重さはないのに、持つ手が震えてしまいそうだ。
 落とさないように両手で大事に収めて近くで見てみると、台座に嵌る石の輝きに驚く。ナックルシティにあるジュエリーショップのショーウインドウでも、こんなに美しいリングは見たことがない。
 きらめきに見惚れていると、立ち上がったダンデが箱から指輪を抜き取り、アンの左手を持った。リングが薬指へ通される。

「ぴったり……」

 手を開いて軽く掲げてみる。指輪はきつくもなくゆるくもなく、アンの肌に驚くほどピタリと添うている。

「ダンデくん、わたしの指のサイズがよく分かったね」
「ああ。協力してもらったんだ」
「協力?」

 リングからダンデへ目を移すと、

「サイズはソニアに、指輪はルリナの伝手で」

と悪戯が成功した少年のようなあどけない笑顔を見せた。
 ソニアとルリナ――ソニアの件には思い当たることがある。アクセサリーショップで、アンはソニアのマネキンになった。あのときソニアが選んで買ったのは、アンの左の薬指に嵌めたリングだった。
 小箱の蓋の裏に印字されているブランド名は、ルリナがモデルを務めているジュエリーブランド。広告看板を見て、ルリナが着けている指輪がどれだけ高額だったか覚えている。
 そうなると、ダンデに贈られたこの指輪の値段にも想像がつく。途端に恐ろしくなって手の置き場に困った。傷が入らぬうちに今すぐ抜いて、箱に収めて大事に保管してしまいたい。

「全然気づかなかった……」
「二人の助けがなかったら、こうしてカッコつけてキミに贈ることはできなかったな。あとで改めて礼をしなければ」

 ソニアたちへの感謝は、ダンデだけでなくアンも同じだ。
 漠然とした憧れはあったが、まさかこんなに素敵なプロポーズをされるとは夢にも思わなかった。ソニアとルリナ、そしてキバナのおかげで、きっと自分は世界一の幸せ者になった。

「ありがとう、ダンデくん。すごく嬉しい」
「こちらこそ。アンがオレに愛想を尽かしてなくてホッとした」
「待つのは嫌いじゃないから」
「知ってるぜ。だからオレもキミを信じてやるべきことを済ませてきた」

 やはり理解し合えていた。指輪を贈られたと同等か、それ以上の喜びが込み上げてくる。

「そういえばキミは、次に会えたら教えてくれると言っていたな」

 思い出したとばかりにダンデはそう言うと、背を曲げアンの顔を覗き込んだ。

「オレはアンの、何だ?」

 穏やかな瞳がアンに問う。
 琥珀の中の一番明るく透き通る色。白い皿に広がる甘い蜜。太陽を切り取ったようなきらめき。
 いつからかアンは、この目に見つめられると鎖骨の下辺りにくすぐったさを覚えるようになった。
 ダンデには肩書がいくつもある。無敵のチャンピオン。ガラルの至宝。ハロンタウンの青年。チャンピオンの座から降りた今は、ガラルのリーグ委員長という立場も加わり、初めて見るような顔も増えた。

「ダンデくんはわたしの、『案山子』だよ」

 チャンピオンでも宝でも、ハロンの青年でも委員長でもない。
 ダンデはアンの、たった一人の『案山子』だ。
 答えを聞いたダンデは満足そうに微笑んで、指輪の通った左手を取って引くと、指先に小さな口付けを落とした。

「これから先、あらゆるものからキミを守ると誓おう」

 おとぎ話の王子様や、物語の騎士のような振る舞いが妙に様になっている。すぐに迷子になってしまう10歳の少年の姿を、今でも昨日のことのように思い出せるので、目の前の立派な姿の彼にはまだ慣れない。
 照れくささが勝り、贈られたばかりのリングに視線を移し誤魔化した。

「麦の穂みたいに?」
「そうだ」
「冬が来たらさすがに枯れちゃうよ」
「こう見えてオレは麦刈りも得意だ」

 なんとも頼もしい返事に、アンは思わず吹き出した。ダンデも破顔し、二人の囁くようなくすくすと笑う声がひっそりと宝物庫に響く。
 ひとしきり笑ったあと、揃って目を合わせた。金の瞳がアンを射抜く。首の後ろへ手が添い、頬へ軽く口付けを落とされた。小さな音を立てた唇は、少しだけ離れて白い肌の上を滑る。
 アンの唇に辿り着くと、実る麦を突く鳥のように幾度も啄んだ。案山子なのに本当に麦刈りが上手だと、また込み上げてきた笑いを堪えたくて、両腕を首に回し、離れていた時間をも埋めるように深く重ねた。

20220401