前回迎えに行った日から三か月以上も間が空いている。ダンデにしては珍しく、長いことワイルドエリアに迷いこまずに済んでいたようだ。
そろそろ陽が沈み始め、直に暗くなる。視認が難しくなる前にと、アンはげきりんの湖へ急いだ。
ダンデは湖を越えた先の、人の立ち入りが滅多にない場所で待っている。湖の近辺では強い風が吹き荒れており、アーマーガアから降りてラプラスに乗り、水上を進むことにした。
風の影響もあり水面はひどく波打っているが、ラプラスは悠々と水を掻き、ダンデが待つ陸地へとアンを運んだ。
ラプラスをボールに戻し、徒歩でダンデの下へ向かう。頭に収めている地理に間違いがなければ、ウインディを出すほどもない距離のはずだ。
朱色の空がだんだんと暗くなる中、無事にダンデを見つけて合流できた。
「助かった。リザードンで飛ぼうにも、空が荒れていてどうしようもなくて」
ダンデが言うように、げきりんの湖を越えた先にあるこの陸地から移動するには、空を飛ぶか湖の上を進むしかない。アンもラプラスがいなければ、他のレンジャーに代わってもらわねばならなかった。
ラプラスに騎乗すべく、二人並んで湖の方へ歩いていく。完全に日が暮れる前に迎えに来られたので、先日思いついたという戦略を語る、ダンデの生き生きとした表情もしっかり分かる。
「そんな大事な話をわたしにしてもいいの?」
チャンピオンの座を守り続けて六年目になるダンデは、ガラルの誰もが勝ちたい最強のトレーナー。彼の戦略など喉から手が出るほど欲しい情報だろう。手の内は明かさないに限ると、バトルから離れたアンでも思うことだ。
「どうしてだ? アンは誰にも言ったりしないだろう」
きょとんとした顔で言われると、アンはどういう反応をしていいか困った。当然のように信頼を寄せられていることへの嬉しさもあるが、こんな純粋な一面を見てしまうと、悪人に騙されないかと心配にもなる。
「もしかして、オレとバトルする気になったのか?」
「ううん。そういうわけじゃないけど」
パッと輝いた顔は、即答したアンによってかき消された。
ダンデは今でもたまに、アンとのバトルを望む発言をしてくる。アンがバトルに興味がないことは理解しているが、バトルが好きなダンデにとっては、友人でありながら一度も戦ったことがないアンとのバトルは悲願の一つなのかもしれない。
がっかりしているダンデに苦笑していると、彼が自分の帽子に注目していることに気づいた。
「なに?」
「そのゴーグル、いつも使っているものと違うな。買い替えたのか」
「ああ、これ? 買ったんじゃなくて、成人のお祝いでプレゼントしてもらったんだ」
目元からフライトキャップへ上げていたゴーグルに触れ説明すると、ダンデは目を丸くした。
「アン、18歳になったのか。いつだ?」
「ダンデくんと会わなかった間に」
少し前にアンは誕生日を迎え、子どもから成人になった。ガラルでは18歳を区切りとし、飲酒や酒の購入が許され、親の承諾なしでの結婚も認められている。
ゴーグルを贈ってくれたのは従兄のヤローだ。一足先に成人を迎えたヤローには、アンからもプレゼントを贈った。
「そうか。これまで祝えなかった分も含めて贈りたいんだが、今は用意できそうにないな」
「わたしもダンデくんにプレゼントを渡せていなかったし、気にしないで」
お互い様だから気に病む必要はないとアンはダンデに言った。ダンデの誕生日はソニアから聞いて知っているが、彼といつ会えるか分からないため、プレゼントを買おうにも渡すタイミングが掴めなかった。
「18歳になって、今日から大人だって言われてもピンと来ないの。大人になったらやりたかったことがあったはずなのに、全部忘れちゃった」
ジムチャレンジを始めてから、アンの生活はがらりと変わった。
チャレンジ中はポケモンたちと旅を続け、後半はバトルに勝つことばかり考えていた。
レンジャーを目指してからも勉強続きで、スクールを卒業し正式にレンジャーになり、ようやくプライベートな時間も十分に確保できるようになったが、ぽっかりと時間が空いたような感覚もある。
幼い子どもならば、大人になった際に満たしたい欲求を持ち合わせることは珍しくないだろう。幼少期のアンもその一人だったはずだが、今のアンには幼かった自分が望んていたことがまったく思い出せない。
「ダンデくんは覚えてる?」
隣で歩を進めるダンデに問うと、彼は少しだけ考える素振りを見せたものの、
「大人になったらなんて、考えたことがないな。ポケモンのことについて知るのが楽しくて、バトルすることが楽しくて、チャンピオンになることばかり考えていた。今も変わらないぜ。ガラル中のいろんなトレーナーと戦いたい。ガラルのみんなで強くなって、最高のバトルをしたい」
とあっさり答えた。
振り返れば、昔からダンデの姿勢は変わらない。目の前のことに全力で向き合っているうちに、それが道の先へ続いて彼を導いていった。チャンピオンの夢はチャレンジャー時代に叶えたが、『最高のバトルをしたい』というのは、きっとダンデにとって終生の目標なのだろう。
「わたしも、この素晴らしいワイルドエリアを守っていきたい。ガラルのワイルドエリアは世界で一番美しい場所だって、何十年も何百年先も言われるような場所にしたい。それが今のわたしのやりたいことかな」
幼い頃の記憶はどうにも覚えていないが、18歳のアンの新たな夢はワイルドエリアにある。
レンジャーになる前から魅了されていた広大な自然は、接する時間が多くなるにつれ深い愛を覚えた。
「いいな! こんなにワクワクする場所を、オレたちだけが知っているのはもったいないぜ」
アンの掲げる目標に、ダンデは顔をほころばせる。
同じ場所に多種多様なポケモンが住む地域は貴重だ。興味を持った余所の地方のトレーナーや研究者が訪れると、彼らはワイルドエリアの不思議な環境と自然に感動し、一度と言わず二度、三度と足を踏み入れ、そのままガラルに住んでしまった者もいる。
ワイルドエリアはアンだけでなく、多くの人たちに豊かな心を与え人生を変えてきた場所だ。
雄大なこの場所を知って、見て、訪れて、そしてアンと同じように愛してくれる誰かが一人でも多く増えるよう、アンはレンジャー活動に従事している。
「ガラルの外のトレーナーにガラルの良さを知ってもらうには、チャンピオンであるオレが魅力あるバトルを重ねていくことが大事だとローズさんも言っていた。チャンピオンとは、その地方の象徴だからな」
ダンデが拳を握って、自分に向けられたローズの言葉を口にする。
10歳だったチャンピオンは、気づけば大人と変わらない体躯まで育ち、ティーンの半ばも過ぎる。その間も彼は、ガラルの住人が尊敬してやまない立派なチャンピオンを務め続けている。
その責務の重さはアンには計り知れない。常にガラルの顔や代表として在り続けなければならないプレッシャーを、果たして彼が抱えているのかも分からない。それほどに、ダンデは『無敵のダンデ』として完璧に振る舞っている。
「じゃあ、チャンピオンのダンデくんじゃなくて、ハロンのダンデくんがやりたいことはないかって問われたら?」
「チャンピオンじゃなくて?」
特に意味を込めた質問ではなかった。
アンの友人は『チャンピオンのダンデ』と『ハロンのダンデ』の二つの顔を持つ。だからなんとなく興味が湧いて問うただけだったが、ダンデにはなかなか難しい問題だったらしい。
「チャンピオンじゃないオレ……チャンピオンじゃない、オレ……」
なかなか頭を切り替えて考えられないのか、ついには足を止めて考え込んでしまった。
訊ねた手前、アンも歩くのをやめ、珍しく長考しているダンデをじっと待つ。
腕を組んで考え込んでいたダンデが、ふとアンを見た。
太陽に当たるときれいに光るダンデの金色の目は、暗がりではその美しい色がよく映えない。
けれど形は捉えられた。目尻が上がっているソニアやルリナと違う。垂れているキバナとも違う。『静謐』を人の目で表すなら、きっとダンデの双眸になる。
「オレは……」
ダンデが口を開く――その瞬間に、二人の上空で光るものがあった。それは尾を引いて流れ、アンたちから離れた場所で潰えた。
「な、なに?」
「あれは……」
見たこともないものに驚くアンに対し、ダンデは思い当たることがあるのか、恐れることなく光が落ちた場所へと歩み寄る。
ダンデの後を追って近づくと、地面には窪みができていて、その中心には石があった。手に余るほどの大きさで、一部が赤く発光していた。
「《ねがいぼし》だ」
「これが? 初めて見た」
本で見たことはあるが、実物を前にしたことはない。赤く光っているのは、ガラル粒子が含まれているからだと、本には書いてあった。
「すごいなぁ。たしか拾うと願いが叶うって言われてるよね」
「そうだ。アン、一緒に拾おう」
促され、ねがいぼしを挟んで立った二人は、それぞれ右手を伸ばした。触れてみるが熱はなく、表面がザラザラとしているだけで、アンが知る石となんら変わりはない。
タイミングを合わせてゆっくり持ち上げると、赤い光が二人の手元を中心にぼんやりと周りを照らす。
「わあ……これで願いごとは叶うかな?」
「ああ、きっと。アンの願いは、やっぱりワイルドエリアのことか?」
「うん。ダンデくんも、最高のバトルをすること?」
「もちろん。それがオレの使命で、夢だ」
うっすら照らされた表情に気負った様子はなく、心から望んでいるのだと気づく。
けれどチャンピオンだからと無理はせず、個としての自分も大事にしてほしい。外野のアンが願えるのはその程度だ。
二人揃ってねがいぼしを見ていると、ふとダンデが顔を上げた。
「なあ。このねがいぼし、オレが預かってもいいか?」
ダンデの頼みに、アンは快く譲った。自分一人で手に入れた物ではないし、持ち帰っても部屋に飾るだけにしかならない。チャンピオンであるダンデなら、アンと違って有用な使い道を知っているかもしれない。断る理由もなかった。
道草を食ってしまったと、アンは湖の岸辺へ急ぎ、ダンデと共にラプラスに騎乗してげきりんの湖から離れる。ラプラスの背に乗るのは久しぶりだとダンデがはしゃぎ、ラプラスも機嫌を良くしたのか高らかな歌声を辺りに響かせた。
レンジャーの仕事を終えて帰宅すると、母がリビングの隅に置かれたダンボールの箱を差し、荷物が届いていると伝えた。
「ソニアから……あ、本か」
彼女から借りたい本があったのだが、手渡しのために持って移動するのは互いに億劫なので、自宅に送ってもらうことになっていた。
ソニアから借りる予定の本は五冊だったが、想定していたサイズよりもダンボールは大きい。ひとまず部屋まで運んで開封すると、ソニアの本のほかに、リボンのかかった箱が収められていた。
「何だろう?」
同封されていたソニアの手紙には、約束した本を送ることにしか触れていない。
アン宛ての荷物に入っていたのだから、この箱もアンへ送られたものと考えても構わないだろうと、ダンボールから取り出してリボンを解いた。
紙製の蓋を取ると、アンはびっくりして息を止める。
「《ダイマックスバンド》……?」
目にしたことは何度もあるが、手にしたことは一度もない、チャレンジャー時代に欲しくてたまらなかったもの。それがなぜか、箱に入っていた。
バンドの上にはメッセージカードが一枚。少し遅れたが成人祝いだと、ダンデからのメッセージが綴られている。
「ダンデくん……わたしが持ってないこと、覚えててくれたんだ」
驚きと興奮と喜びで、アンの口元は緩んだままで、なかなかぴったりと閉じることができない。バンドを手に取ると、思わずぎゅっと抱きしめた。
かつて喉から手が出るほど求めたダイマックスバンド。バトルから退いた今は欲しいなどという感情は失せていたはずだったが、いざ自分の物だと与えられると、涙がこぼれそうなくらいに嬉しかった。
メッセージカードの末尾には、祝いの言葉とは異なる短い一文が記されている。
「『共にガラルの未来を』……」
一介のレンジャーの自分の力などちっぽけで、今やガラルを背負って立つダンデのような偉大な功績はきっと残せない。
しかしこうして彼からダイマックスバンドを贈られ、『共に』と言葉をかけられると、ガラルの未来を作っていく同士と認めてもらえたようで、アンの胸を熱く震わせた。
翌日から、アンはダイマックスバンドを腕に着けレンジャー活動を続けている。カードは以前、入院していた際に貰ったメモと一緒に、引き出しへ大事に保管した。
チャレンジャーやバトルを好むトレーナーと違い、アンはダイマックスを使う機会はほぼない。そのため、あえて左の手首に着けることにした。
着け始めた当初は、友人たちに倣いボールを投げる右に嵌めていたのだが、利き手に大きさのあるバンドはどうにも違和感がある。同僚から『滅多に使わないなら左に嵌めたらいい』とアドバイスを受け、それからはずっと左手首に装着している。
ダイマックスバンドを着け始めて一週間後。アンは用がありナックルジムを訪ねていた。
ジムリーダーのキバナのトレーニングが終わるまで待って、着替えを済ませた彼に会う。管理局のパトロール隊からの書類一式を渡し、反対にキバナからもナックルジムの印字がされた大きな封筒を受け取る。
「あれ? アン、それどうしたんだ?」
キバナがアンのダイマックスバンドに気づき、左手首を指差した。
「ダンデくんから、成人のお祝いにって貰ったの」
「へえ。ダイマックスバンドを贈るなんて、プレゼントもチャンピオン級だな」
「やっぱり高価なものだよね……」
アンは自身のバンドに目を落とす。
同僚たちからも、どこで手に入れたのか、いくらだったのかと問われた。ダンデからとは言えずに、友人からと曖昧に誤魔化したが、『ただの友人からダイマックスバンドなんて』とさらにびっくりされた。いわゆる相場というものが気になったが、調べるのはダンデに失礼で知らないままにしている。
「高価というか、ダイマックスバンドにはねがいぼしが必要なんだ。だから作れる数にも限りがあるし、手に入れるにも伝手が必要だ。そういう伝手がない奴は、金で買うしかないってこと」
「ねがいぼし? そっか、だからダンデくん、あのとき預かるって言ったんだ」
アンはキバナに、げきりんの湖での出来事を語った。ダンデはあえて言わなかったが、バンドを作るためにねがいぼしを持ち帰ったのだろう。そしてソニアに頼んで、一緒にアンの自宅へ送ってもらった。
「なるほど。アイツもやるな。なくてもいいけど、あったらアンとしても心強いし」
「そうだね」
少し前に、ダイマックスバンドがなくともできることをやるのだとキバナに宣言していたが、突然ダイマックスをして暴れ出したエンニュートたちの件もあり、正直なところ有難かった。
あのエンニュートがなぜダイマックスしたのかの原因はまだ分かっておらず、これからも似たような事が起きる可能性も否めない。不安を感じていたアンにはぴったりの贈り物だ。
「でもなんで左なんだ? ボールを投げるのは右手だったろ?」
「わたしはダンデくんやキバナくんみたいに、しょっちゅうバトルでダイマックスをするわけじゃないから。利き腕にバンドがあるとやっぱり不便で、左にしてるの。ダイマックスするときは左手でボールを持てばいいわけだし、問題はないから」
問われたので包み隠さず答えると、キバナは相槌のような返事はしたものの喜怒哀楽のどれも感じられない表情で、人並外れた長身のため、高い位置からアンを見下ろしている。
「だめかな? ダイマックスバンドって、必ず利き腕じゃないといけない決まりがあったりするの?」
「いや、特にないよ。ペンやフォークは右でもボールは左って奴もいるし、ダイマックスのときに注意すればどちらでも構わないさ」
何か間違っているのかと焦るアンに、キバナは否と返す。問題はないのだと安心したものの、キバナの顔は難しいことでも考えているのか、しかめっ面に近いものとなっていた。
「でもまあ、左に、ねぇ……」
ちらりと、アンの左手に視線が注がれる。今のアンは、騎乗時用のグローブを外しフライトジャケットを脱いでいるため、昔と比べサイズがしっかり合ったレンジャーの制服姿だ。バンドの邪魔になるため袖を軽く折っているくらいで、着崩しているつもりはない。
しかしキバナは何か引っかかっているのか、眉間の皺は一向に伸びないままだ。
「やっぱり含みがあるんだよなぁ、オマエら」
後ろ手で頭を掻いて、キバナは大きなため息を吐いた。アンがいくら訊ねてもその発言の意味は決して教えられず、キバナに押される形でナックルジムを後にした。