もっと何か言葉をかけてやれたなら、シスイの笑顔は、いつもの快活なものに戻れたかもしれない。
できない自分の無力さに打ちひしがれながら、トウリは悔いたが、もうどうにもならなかった。
火影が次代へ移りしばらく。四代目の話が耳に入ると、薬缶の注ぎ口から昇る湯気がごとく、熱く激しく苛立っていた父も、やたらめったら怒鳴ることはなかった。
トウリの班は、相変わらずコカゲとの距離は誰も縮められないでいたが、大きな失敗もなく命じられる任務をこなし、地道に実績を重ね、近々行われる中忍試験への受験を目指し、修行にも励んでいる。
キンセと約束した茶店にも先日足を運んだ。キンセだけでなく、アカデミーからの友人たちと集まる機会も増えた。皆で集まればアカデミー時代のように、ただの子どものようにはしゃいで遊んだ。
シスイとはまた会わない日が続いている。最後に会った日の様子を思えば心配は尽きなかったが、お互い任務がある以上、すれ違うことは仕方なかった。
その日は早くに床へ就いていた。
太陽が昇る前から集合し、任務が終わったのは陽が沈んで半刻経った頃。メイロやコカゲはもちろん、ケイセツも疲れ切っていて、解散の一言がひどく嬉しかった。
帰宅して風呂や夕飯を済ませて、ようやく恋しかった布団に横たわる。あっという間に眠りにつき、そのまま目覚めることなく明朝を迎えるはずだった。
――突然響いた轟音に、反射的に目が開く。
暗い室内では、音の出所がどこかは分からない。地の底からのような、天の上からのようなそれを確かめるため、障子戸を滑らせ榑縁へ足を踏み出すと、大きな足音を立てて母が走ってきた。
「トウリ! トウリ、すぐに着替えなさい!」
「なに? なにがあったの?」
「いいからすぐに着替えなさい!」
ひどい形相をした母の声に、慌てて箪笥の引き出しに手を掛けた。
何の服を着ればいいか迷い、有事であるならばと任務の際に纏う忍服を取って、寝間着を脱ぐ。
その間も地鳴りのような音がして、恐怖で指先が震えてしまい上手く着替えられず、焦るせいで吐き気が込み上げてくる。
ようやく着替えを終えて玄関へ急ぐと、ちょうど母が顔を蒼白に染めた祖父母を連れて引き戸を開けるところだった。
「母様、何があったの?」
「いいから、安全なところへ!」
質問には一切答えないまま、母は貴重品でも詰めたのだろうか、背嚢に両腕を通して外に出た。周囲の家からも慌てた様子で住人が出てくる。
夜空の一方が燃えるように赤い。燃えるようにではなく、燃えている。
強烈な怒号。空気が震え、地が震え、里の人間が震える。
トウリは里の建物よりも大きな影を認め、『恐怖』というものが形になるのなら、きっとこうなのだろうと漠然と思った。
影は九尾だった。
木ノ葉の里の尾獣。九本の尻尾を持つ、巨大な化け狐。
それが突然現れ里を蹂躙し、多くの忍や住人、そして若き火影の命を奪った。
多数の住居や建物が破壊され、家族や友人だけでなく、家や職場を失った者も少なくない。
空いた火影の席へは、退いた三代目が繋ぐ形で再び座して、里による保護や支援活動は早急に始まったものの、混乱は一ヶ月経った現在も収まっていない。
トウリを含め、家族全員が怪我もなく無事だった。シスイも、友人のキンセも、同じ班の三人も、皆欠けることはなかった。
家も九尾による破壊から免れてはいたが、トウリの家は新たな住まいへ引っ越すことになった。
家屋は無事だったのに何故引っ越さねばならないのか。答えは単純で、トウリがうちは一族だからだ。
里からの意向により、うちは一族は里の隅に集められることになった。
区画整理のためだなんだと表向きの事情はあったが、真の理由は、今回の九尾騒動にうちは一族が関わっている可能性を懸念してというのは、子どものトウリにも分かっていた。
九尾が木ノ葉で暴れたのは今回だけではない。数十年前にも起きた。
当時、うちは一族で最も名を馳せていた男が、己の写輪眼で九尾を操り、里を襲った。
此度の九尾の事件も、うちは一族が起こしたのではないかと疑われても仕方ないことだとトウリも納得している。
しかし、トウリは何もしていない。まだ十にならない自分は、九尾を操れるほど写輪眼の扱いに長けていないし、そもそも九尾がどこに封印されているのかも知らない。
トウリは何もしていない。けれどトウリがうちはの子である以上、トウリは“うちは一族”としか見られない。
「え……みんな、来ないの?」
待ち合わせ場所にいたのはキンセ一人だった。
時間を間違えたか、遅刻でもしているのかと思ったが、会う約束していた他の友人たちは、皆来ないのだとキンセが言った。
「任務が入ったとか、用事ができたとかで、来られないって」
告げられたのは、どれも約束を違えても致し方ない事情だった。
忍なら任務は優先すべきで、友人と会うより重要な用事ができたなら当然だろう。
「私がうちはだから……」
けれどトウリには、友人たちが隠している本音が透けて見えた。
九尾騒動が起きて以降、うちは一族への風当たりは強い。里内に住まう一部の者からではあったが、確実にうちはを嫌い避けている者がいることは事実だ。
うちはであるトウリと一緒に居て、自分まで敵意を向けられたら――本人でなくとも、例えば親がそう考え言いつけているなら、トウリと会うことを避けたと考えるのは簡単だ。
「キンセも、無理に私と会わなくていいよ」
キンセも本当は自分と会いたくはなかったが、友人たちの言伝を届けるために、いやいやここに現れたのだとしたら。
だとしたら、さっさと去ってくれていい。同情し、堪えてここに居るのだとしたら、他の友人たちのように自分との関係を絶ってくれていい。
「無理なんてしてない。私はトウリに会いたいからここに来たのよ」
きっぱりとキンセは言い放った。強い口調は、怒気すら孕んでいた。
「私、毎年お正月はヒルゼン様のお宅へ伺って、年賀のご挨拶をするの。ヒルゼン様はいつも仰ってる。里には色んな一族が住んでいるけれど、みんな木ノ葉という一つの家族なんだって」
猿飛の姓を持つキンセは、三代目火影のヒルゼンの遠縁に当たる。
ヒルゼンはシスイの祖父の友人でもあり、シスイも昔、似たようなことを言っていた。木ノ葉にはうちはだけではなくいろんな一族がいて、その者たちとも親しくあらねばならないと。
「九尾が現れたのが、うちは一族のせいだって決まったわけじゃない。それにトウリは絶対にそんなことしない。そうでしょ?」
「しない。してない。私は何も、してない!」
キンセの問いに、トウリは声を荒げた。
自分は九尾のことに何一つ関わっていない。
何もしていない。
何も分からない。
なのにうちは一族というだけで、トウリは友人たちから約束を反故された。
身に浴びせられる不条理に、悲しみや怒りがいくらでも湧いてきて、トウリの目には水の膜が張っていく。
「じゃあ、いいじゃない。トウリは何もしてない。何もしてないなら、今までと何も変わらないもの」
口の端を緩ませ、キンセはトウリに言い聞かせるように優しく言った。トウリはぽろぽろと零した涙を手の甲で拭い、何度も頷いた。
うちは一族だけを集めた区域は、しばらくすると『うちは地区』と呼ばれるようになった。
地区の周りは隙間なく塀で囲まれており、出入りするには門を通らなければならない。
塀は一族を外部から隔離し、門はうちはの動きを把握するため。里の監視下に置かれていることは一族のほとんどが自覚している。
対するように、うちは地区を余所の人間が歩いていれば、住人は言葉もなく無遠慮に注視する。
一族はいわば親族の集まりであり、顔と名は互いに知っている。地区に住まわぬ余所者の判別などすぐにつく。
珍客が不審な動きをしないか目を光らせ、たとえ立派で正当な用があったとしても、その者が門を出るまでは黒い瞳で――時には赤い双眸で捉え続ける。
うちは地区には南賀ノ神社がある。
トウリにとっては年始に手を合わせに向かう場所であり、祭事が行われる場所という認識だったが、最近は鬱々とした場所としか思えなくなった。
足を踏み入れた本殿は広いはずなのに息苦しい。板張りの床の上いっぱいに、うちはの下忍以上の忍が座しているからだ。
点された明かりは心許ない数で、視界は悪いが声はやたらに響いた。
「里は我らが九尾をけしかけたのだと疑い、うちはを恐れ、忌み嫌い、端へと押し込めた。謂れのない咎を享受し続けることに何の意味がある!」
腹から発した男の太い声に、トウリは五臓六腑をきつく絞り上げられた気になり、そっと衣の上から押さえた。
定期的に行われるこの会合が、トウリは嫌いで仕方なかった。気性の激しい振る舞いをする大人は苦手だ。
父は、例えるなら北風だった。深部にまで突き刺すような凍てつく厳しさを絶えることなく振るうため、その手の恐ろしさには慣れてはいる。
しかし、里のうちはへの所業を責め立て怒る男は、火の粉を撒き散らし全てを燃やさんとする炎の塊だ。火の扱いに長けるうちはらしいといえばらしいが、ひらひらと舞う火の舌で舐められれば、肌は焦がれひりひりと痛む。
「九尾の件でうちはを疑う者がいることは確かだ。しかし、皆が皆そうではない。今ここで里へ声を上げれば、それこそ里の皆が俺たちを疑うようになる」
「では黙っていろと? それは里にとって都合のいいことだろう。手前らの九尾の管理体制の責任を、俺たちになすりつけられるわけだからな」
「そのことについては、三代目からも説明はあったろう。責任も里にあったと」
「そもそも、なぜ三代目がまた火影に? 若い次代へと考え波風ミナトを四代目に指名し退いたのなら、黙って隠居していればよかったのだ」
社殿の中は、いつも奇妙な熱気が広がり、トウリの背を汗で濡らす。
里の住人の一部は、うちは一族に対し風当たりが強くなった。
トウリの友人やその家族然り、アカデミーや正規部隊然り。非戦闘員である住民の中にももちろんいる。
比例するように、一族内でも里への反発を覚える者が増えた。
直接言いがかりをつけられた者、仲間との付き合いがなくなった者、買い物に出て冷たくあしらわれた者。各々理由を持ち、大きな不満を抱えている。
「里は我らを――」
「我らが里を――」
会合での話は常に繰り返され、結局いつも平行線に終わる。
では、何のために行っているのかと、トウリは常々疑問だった。
この場に置いて、発言権は主に一族を取り纏める者――族長や直属の部下など――にあり、一介の下忍であるトウリは、ただこの場で口を閉じ座り続け、会議のやりとりを耳に入れ続けるだけだ。
トウリにとって、この会合は何も実を結ぶこともなく、不健康でしかない。
早く終わってくれることを、ひたすら願うだけの時間。
ほとんど伏せている顔をたまに上げ、シスイの後ろ姿を見ては、その頭がこちらを向いてくれないかと念を送るだけの時間。
その時間も終わるときは来る。社殿の狭い出入り口から川のように人が流れていく。
トウリは、父が族長に挨拶を終えて出てくるまで、流れから脇にずれた位置で待つ。その中で、ようやくシスイと目が合い、小さく手を振り合うだけが、二人のか細い交流の主になってきた。
「トウリ」
シスイを見送ったあと、父に呼ばれて姿勢を正す。合図もなく父は歩き、トウリはその後に続く。
同地区内に住んでいる以上、帰路が同じ一家も多い。
両親と子。父と子。兄弟。
内訳は違うが、談笑している家族も珍しくない中、トウリたちは一切口を利かない。
父娘の会話など二人にはない。父は必要がなければトウリに話しかけないし、トウリも父の機嫌を損ねることを避けて話しかけない。
何も起こさなければとりあえずは何も起きない、というのが、幼い頃にトウリが覚えた知恵の一つだ。
そのうち、共に進んでいた一家が一つ、二つ消え。トウリたちは家の門扉を通って玄関に着く。
開いた引き戸の音を聞きつけた母が出迎え、恭しく父へ頭を下げる。
父は草履を脱いで框へ上がり、腕を組んで荒々しい息を吐いた。
「うちはだというのに、なぜああも矜持のない奴ばかりなんだ」
語気の強さに、母の顔が曇る。
会合から帰った父は、里への反発心を見せない一族へ忌々しく言葉を吐く。やっと社殿を出ても、憂鬱な気持ちは晴れる隙もない。
振り向いて、三和土に足をつけているトウリを父が見下ろす。
「いいか、トウリ。うちはこそが、里を支え率いるべき一族だということを、決して忘れるな」
トウリは「はい」と返した。
反論はもちろん、疑問を呈すこともトウリには許されていない。
ただ是と発し、父を肯定するだけが、トウリの返事なのだ。