シスイの言葉を裏切ることなく勉学に励んだおかげで、入学当初よりトウリの成績は常に上位であり、実技の評価もよかった。
優秀と判を押してもいいほどであったが、同じうちはのシスイが卒業した年齢よりは遅い。
とはいえ、名高いうちは一族の中でも、シスイは元々飛び抜けて秀でた子どもであって、トウリが出来の悪い子だったわけではなかった。一族の子どもの中でも凡庸な方だ。
それでも級友たちと比べれば、トウリも秀でた子どもの部類に入り、そして秀でた生徒は、いち早く戦力として学び舎から引き抜かれていく時代だった。
試験に受かった当日、トウリは真新しい額当てを持ち帰り、まず母に見せた。
母は娘が、級友の中でも特に早く卒業できたことを祝った。
「さすがうちはの子ね。今日は赤飯を炊きましょう」
にこにこ笑う母は、財布と買い物籠を持って家を出る。
トウリは赤飯をあまり好きではなかったが、わざわざ伝えて水を差す気にはなれない。
赤はうちはの色。赤飯を拒むと、せっかくうちはの子と褒められたのに、一転して叱られそうな気がしたからだ。
せめて他にご馳走があればよいと思いながら、祖父母の部屋も訪ね、二人に木ノ葉が刻まれた鉢金を見せた。
皺の多い顔がどちらも口元をゆるめ、おめでとうと、立派だと言葉をかける。
けれど祝う二人の笑みはどこか陰があった。
「あんまり、うれしくない?」
意味を察せなかったトウリは、不安に任せるまま訊ねた。
「嬉しいとも。忍として認められたことは、誉れあることだ。しかし、死ぬこともあるからね」
「トウリも覚えているでしょう。うちはの子が一人、任務で死んでしまった」
言われれば思い当たった。少し前にうちは一族の少年が一人亡くなった。
うちは一族の中で命を落とす者がいないわけではなかったが、十代半ばにも満たない幼い死は、とりわけ深く悼まれた。
親もすでに他界していたので、一族で供養や遺品整理をしてやった際に、トウリも花を手向けた。トウリとは歳が離れていたので遊んだ記憶はなく、そのとき初めて少年の名を知ったくらいだ。
「大丈夫よ。大丈夫だから」
顔色の芳しくない祖父母に、トウリは『大丈夫』と繰り返した。それ以外の適した言葉が見つからないので、『大丈夫』としか言えず、祖父母の顔もあまり晴れなかった。
母が帰宅し、夕飯作りを手伝い、食事が出来あがっても、父は帰宅しなかった。任務で夜遅くに帰るからと母が言うので、母と祖父母とトウリとで食卓を囲んだ。
卓の上には赤飯と、トウリが好きな甘辛く味付けた肉団子。豆腐の味噌汁に、さっぱりした和え物。
すべて平らげたあとには、トウリが好きな栗の入った羊羹を出してもらった。食むと黄金の栗がほろりと崩れ、小豆の甘さにうっとりした。
父が帰ったのは、時計の短い針が十を過ぎたときだった。
明日は上忍師や班員との顔合わせがあるため、よく睡眠を取っておこうと早くに床に入ったものの、トウリはまだ寝つけずにいた。
寝返りを打ち続けた布団の中で体は熱を発し、喉も渇いている。
水を一杯飲むついでに、卒業したことを父に伝えに行こう。
思って、トウリは布団から出て、父が腰を下ろしたであろう居間へ向かった。
「卒業試験には合格したのか」
居間の襖が見える前に、低いゆえによく通る父の声が耳に入る。
「ええ。そのようです」
返事をするのは母だ。居間の座卓に温めた夕飯を運んでいるらしく、食器が立てる硬質的な音が響く。
「写輪眼は?」
引手に手をかける前に、父が母に訊ねた。話の流れから、トウリの写輪眼が開眼しているかどうかの確認と察し、伸ばした手を引っ込めて、速い鼓動を打つ胸にぎゅっと当てる。
「まだ、です」
母の声は静かで暗かった。トウリの卒業を喜び、好物を作ってやったときの明るさはなく、失敗を打ち明ける後ろめたさがあった。
「そうか」
それだけ返すと、どうやら父は食事を始めた。
トウリは両親に気づかれぬよう、できる限り足音や気配を殺して、ゆっくり部屋に戻る。
やっと明かりの消えている自室に入ると、強張っていた肩の力を抜いて、頭を垂れた。
うちは一族の証でもある写輪眼。うちはの忍であれば、誰でも持っている。
それはつまり、うちはであるにもかかわらず開眼できない者は、うちはの名折れとみなされる。トウリはそう言い聞かされて育った。
余所の子どもに比べたら秀でた子であっても、トウリはうちはの中では十人並み。
ただ、幼いうちはの子が写輪眼を有しているのは珍しく、たとえ開眼していない今のトウリが忍になったとしても、すぐに名折れと呼ばれることはないだろう。
「写輪眼って、どうやったら手に入るんだろう……」
言葉はよく聞くが、トウリは写輪眼を見たことがない。
忍である父も、現役を退いた祖父も持つというが、実物を知らぬトウリには、写輪眼を持つ方法も、写輪眼そのもののことも分からない。
「シスイに聞いたら、教えてくれるかな」
すでに忍であるシスイなら、写輪眼を持っているだろう。トウリが訊ねれば、どうすれば手に入るのか教えてもらえるかもしれない。
今度会えるのはいつだろうか。もう数か月は顔を見ていないから、アカデミーを卒業したこともシスイは知らないはずだ。
明日の顔合わせまでに写輪眼を有することはできそうにないが、なるべく早く方法を知りたい。
もどかしさで布団に入ることができず、飾り棚に置いていた箱を取った。じゃらじゃらと音を立てるのは、薄い硝子のおはじき。
シスイから貰ったおはじきは、今も大事に保管している。
算術の足し算や引き算など、もうおはじきを使わずとも頭の中で計算できるようになったが、これは今でもトウリにとって、とびきり大事な宝物だ。
「明日から忍、かぁ……」
もうすぐ下忍になるというのに、トウリは忍であることに意味を見出せずにいた。
この歳でアカデミーを卒業できたのは、シスイの言葉がけと、『うちはであるならば誰よりも上を目指せ』と言いつける親に、唯々諾々と従っていた結果でしかない。
技能の習得も早く卒業するためであり、修業という名目でシスイと共に過ごせる時間を得るための、一つの手段でしかなかった。
もしかしたら自分は忍に相応しくないのかもしれない。だから写輪眼を手にできないのではないか。
焦燥と諦念のままに、おはじきを色ごとに分け始めた。
透明の中に色がついているもの。
硝子自体に色がついているもの。
何も色がついていないもの。
――呼びかける声もなく、榑縁に面する、部屋の障子戸が開いた。
ハッと顔を上げると、父が立っている。
いつも不機嫌そうに結ばれている口。鋭く見下ろす双眸。
蛇に睨まれた蛙のごとく、トウリは身動きが取れなかった。
「それは何だ?」
父の目が、トウリの手元の箱を見る。咄嗟に、トウリは父から隠すように、脇に置いて体で隠した。無音の室内に、硝子のこすれる音が響く。
「お……おはじきです」
叱られるような悪い物ではない。算術で使っていた物。
けれどこれを父に知られるのは、きっとよくないとトウリの勘が訴えている。
「シスイさんから頂いたようです。カガミ様の、お孫様の」
父の後ろから姿を見せた母が、『ただのおはじき』を、『シスイからもらったおはじき』に変えた。父が感情の少ない瞳を眇める。
「貸しなさい」
大きな手がトウリへ伸びる。
男の手は、トウリにはとても巨大に見えて恐ろしい。
体を捻って、おはじきの箱に被さった。
「トウリ、貸しなさい」
箱を差し出さないトウリに、父は再度言う。
「いや。いや、父様」
渡してはいけない。渡してはいけない。頭の中で警鐘がガンガンと鳴り響く。
拒否したトウリの肩を掴み、無理に上体を起こして、腹の下で庇っていた箱を取り上げた。
「返して!」
必死で両手を上げて訴えるが、父はトウリを無視し、そのまま榑縁から庭へと出た。
取り返すべく続き飛び出そうとしたが、母に板張りの床に体を押さえつけられ、父の下へまでは行けない。
苔に縁取られた飛び石の上で、父が箱をひっくり返す。
じゃらじゃら。がちんがちん。
硝子は音を立て散らばった。満ちる前の月の光を受け、白く輝いている。
「いいか、トウリ。写輪眼を持たざるうちはの忍など、嗤われる」
父の足が上がり、勢いをつけ下ろされる。
履物の底で、おはじきが砕けた。
「いや! やめて!」
叫んだ。制す言葉をかけても、父の足はおはじきを砕くことをやめない。
「やめて! やめてください! お願い! 父様やめて!」
頼んでも願っても、父はやめない。トウリなど見向きもせずに、ひたすらにおはじきを踏み続けている。
おはじきを守るため動きたくとも、母に捕らわれてその場から動くこともできず、声を張り上げることしかできない。
「トウリ、静かになさい!」
「やめて! お願いします! お願いします! やめてください! お願いします! やめて! やめて……!」
母の咎めも無視し、トウリは何度も請う。それでもおはじきは砕かれ、破片が宙で粉となる。
踏みつけていた父がようやく動きを止めた。
庭の地面が、やけにきらきらと輝いている。
砕けた硝子の欠片は、こんなときでも美しく月光を反射していた。
自分を掴む母の力が弱まった隙を突いて、トウリは裸足のまま父の足下へ走る。
丸い形で残ったおはじきは一つもなく、その辺の石や砂と変わらないものに成り果てていた。
「悲しいか? 父が憎いか?」
声を降らす父を、ゆっくり見上げた。
そうか。自分は悲しいのか。憎いのか。
指先から集まった熱が、喉の辺りで燻ぶる。
頭のどこかが刃物で刺されたようにキンと痛む。
「怒れ。厭え。腹の底から滾るもので、父を射殺してみろ」
父の言葉通りに、トウリはあらんかぎりの力で父を睨んだ。
シスイのおはじきを踏みつけ砕いた父への怒りに、トウリは嘘ではなく本当に、父をどうにかしてやりたいと――殺してしまいたいとすら思った。
ピン、と糸が張るような感覚。じゅ、と目の奥の、もっと奥が熱くなる。
一度瞬きをすると、次のときには世界は紅がかっていた。
「それでいい」
何かを認めた父は、トウリを置いて庭から上がり、そのまま誰に声をかけることもなく家の中へ消えた。足音から察するに、居間へ戻ったのだろう。
睨むべき相手がいなくなった代わりに、母がトウリの前に足を折って、鏡を差し出す。
「ご覧なさい」
映ったのは自分の顔。ただし目の色は違った。烏のような黒色は、赤く輝いている。
驚き、鏡の中の自分が目を見張ると、赤い光彩に小さな巴が一つ浮かんでいることに気づいた。
「これが写輪眼です」
鏡を持つようにと促され、トウリはほとんど無意識に従い、持ち直した鏡で改めて赤い双眸を見た。
写輪眼。うちはの証。
光彩は発光しているようで、赤い色は夜の暗さの中で浮き上がっている。
それどころか、視界すべてが赤みがかっていることに改めて気づいた。
「トウリ、父様を恨んではだめよ。うちはであるなら、喜びなさい」
肩に手を置き、母はトウリに言い聞かせた。これは仕方のないことで、父はお前のためにやったのだと。
母は喜べと言うが、到底そんな気にはなれない。この目を手に入れるために、トウリは大事なものを踏みつけられた。どうして喜べというのか。
今はただ、父を憎む以外の感情を向けられない。
父の手は、いつもトウリに優しくない。
褒められた記憶も、頭を撫でられた記憶もない。
シスイの手はいつも頭を撫でてくれる。トウリを助け、謝って、励ましてくれる。
そんなシスイの手から貰ったおはじきを、父の手は奪い、踏み砕いた。
そうまでして、写輪眼は手に入れなければならないのか。うちはであるならば、こんなに心を傷つけられなければならないのか。
トウリはいつも、うちはでありたかった。口うるさい母の説教から逃れられるなら、うちはから外れても構わないと思うときはあっても、いざうちはの子ではないと放り出されることを考えると、体の芯が冷えるほどに恐ろしかった。
ただこのときばかりは、うちはであることすべてを忌み嫌った。