「よし。大きい物はこれで全部」
寝室にベッドと布団とチェスト、クローゼットの中に服を詰めたタンス。リビングにはローテーブルとソファー。どれもわたしの家から持ってきた、使い慣れた家具だ。
封印術の一つに、巻物に物を封じ込める術がある。本来の使い道は、武器や兵器等の大物の道具、医療機器や用具、食糧などの補給品、予備の服や装備品などを多く持ち歩くためだけれど、今回は私用に使った。人生の先輩方もよく使う手だと言うから、頭が固い人にバレなければ問題ない。
洗濯機など、ここでも使えそうな家電もそのまま家から持ってきた。テンゾウの手を借りながら全ての作業が終わり、ホッと一息つく。
「あとは食器棚と、本棚ね。ダイニングテーブルと椅子も欲しいし……」
前の家のリビングで使っていた内の、一番きれいで気に入っていたソファーに座って休憩しつつ、これからやるべきこと、揃えたいものを確認する。
えーと。巻物からフライパンや包丁なんかの調理器具も出さなければいけないし、それを仕舞わないといけない。冷蔵庫も、一人暮らし用のコンパクトな物を買いに行かなければ。お風呂に入る前にタオルや歯ブラシも出して、シャンプーも出して。
「食器棚ですか。あの、どういうのがいいとか、ありますか?」
「んー……一人暮らしだから、そんなに大きい物じゃなくていいかな。本棚はできるだけ大きいのがいいけど。本や巻物が結構あるし」
実家で使っていた食器棚は、家族四人分の食器を保管していただけあって大きい。一人用に十分なサイズを買おうと思って置いてきた。本棚は逆で、これを機にもっと大きくて、たくさん入る棚に買い替えるつもりだ。ああ、そうだ。本も巻物も、すぐに使うものだけでも出しておかないと。
次から次に、やらなければいけないリストが増えていくけれど、一度ソファーに座ってしまうとなかなか腰が上がらない。テンゾウが帰ったあとででもゆっくり進めればいいか。
「それなら、ボクが用意してあげますよ。希望の大きさはありますか?」
「用意? テンゾウが? もしかしてテンゾウのお家って、家具屋なの?」
自分のことをほとんど話さないテンゾウが、と驚いて問うと、「違いますよ」とあっさり否定された。じゃあなんなのだろう。家具屋に伝手があるとか?
テンゾウに促されるまま、わたしは自分が望む、食器棚や本棚のサイズや形を具体的に口にし、ついでにダイニングテーブルと椅子も、これくらいのサイズがいいかなぁ、なんて部屋を歩きながら考え伝えた。
「そんな感じかな。こういうの、すぐに持って来られるの? 棚なんかはできるだけ早く欲しいんだけど」
「はい、大丈夫ですよ。ちょっと下がっていてください」
どうして下がらなければいけないのか、と疑問に思いはしたものの、テンゾウに言われるがまま、わたしはリビングから寝室の方まで下がった。テンゾウはキッチンの方へと向かい、パン、と両手を組む。
「木遁!」
言うと同時に、テンゾウが組んだ両手を外して床に着けると、そこから木目の何かが生成され、一瞬で食器棚が現れた。
「へ……?」
目の前の光景が信じられなくて、変な声が漏れた。
何が起こった? テンゾウは今、何をした? 何と言った? 何を出した?
『木遁』? 『木遁』って言ったよね?
食器棚から場所を移動し、テンゾウはまたも「木遁!」と声を上げ、床に手を着き、今度は木製のダイニングテーブルと椅子を出した。
また出た!
再び衝撃を受け、指一つ動かせないわたしを尻目に、テンゾウが寝室へと入ってくる。空いているスペースに手を突き「木遁!」やはり棚が出た。壁一面をぴたりと埋める、大きな本棚だ。
「ふう。どうですか? サホさんの希望に合わせた物を作ったつもりですけど」
本棚を出し終えたテンゾウは、わたしの方を向いて、どこか誇らしそうな顔を見せた。彼の言うとおり、食器棚もダイニングテーブルも椅子も本棚も、わたしの希望通りだ。食器棚はシンプルだけど、取っ手の部分はちょっとかわいい作りだし、ダイニングテーブルの角は丸くて、これなら体をぶつけても痛くない。
現れたそれら家具に問題は一切ない。ないのだけど。
「て、テンゾウ……って……木遁が使えるの?」
「え? はい、そうですけど……あれ? あっ、そうか、まだサホさんには……」
わたしの問いにテンゾウは頷き、何かに気づいたように、「しまった」という表情を作る。
しばしの沈黙のあと、わたしは急いで玄関へと駆け、ドアを開け、角部屋の呼び鈴を鳴らした。
「カカシ! カカシ!」
名前を呼びながら、何度も何度も鳴らした。ドアも叩いた。近所迷惑なんて考えられなかった。とにかくカカシを呼び出さなければと必死だった。
その甲斐あって、まだ在宅していたカカシが、鍵を開錠しやっとドアを開ける。
「なに――」
「ちょっとカカシ! テンゾウ! テンゾウが! 木! 木! テンゾウが、木!」
昼寝でもしていたのか、どこか眠そうな顔のカカシに、わたしは何とか先ほどの出来事を告げようとした。しかしどう伝えればいいのか分からず、ひたすらに「テンゾウ」「木」を繰り返すばかりだ。
「テンゾウが、なに? 『き』? 『き』……?」
「しょ、食器棚を出したの。テーブルと、椅子と、本棚と、出したの!」
「棚……ああ、なるほどね」
マスクで隠している顎に手を当て、わたしの言いたいことを推理していたカカシは、『棚』でようやく何があったのか把握したらしい。
「テンゾウ。お前、木遁使ったのか」
「す、すみません。サホさんの助けになればと思って、つい……」
いつの間にかテンゾウがわたしの横に立っていて、カカシに向かって頭を下げた。カカシはため息を吐いて、玄関ドアを大きく開けると、サンダルをつっかけ外に出る。
「サホ。部屋に入ってもいい? 外でできるような話じゃない」
「……いいけど……」
伺いを立てるカカシを断ることはできない。外でできる話じゃないのは、十分に理解していたから。
三人で中に入ると、カカシはまだがらんとした印象が残る部屋を、物珍しそうに見回した。
「オレの部屋とはちょっと間取りが違うな」
どうやら間取りが違うらしい。そうなんだ。カカシの部屋は角部屋だからかな。でもそんなことは今はどうでもいい。
「で、これがテンゾウが出した棚? テーブルに、椅子、ね」
キッチンに置かれた食器棚や、ダイニングテーブルや椅子を観察し、指の関節でコンコンと叩いた。木独特の軽快な音が響く。
「いいな。オレもやっぱり食器棚を出してもらおうかな」
「いらないんじゃなかったんですか?」
「オレが一人暮らししてるって知ってから、ガイが食器をやたらと押し付けてくるんだよ。しかもカレー皿とか丼ばっかり。置く場所がないから、袋に入れて隅に積んでそのままだ」
「先輩には机も棚も、ベッドもタンスも出しましたよ。本棚なんて二つも」
後輩だというのに、テンゾウはカカシに呆れた視線を向ける。二人のやりとりは、わたしと交わすものよりもくだけていた。
「カカシは、テンゾウが木遁を使えるって、知ってたの?」
「同じ暗部だからね。そもそも、『根』に属していたテンゾウが火影様直属部隊に移ったのも、根に木遁使いが居るとオレが三代目に報告したからだ」
わたしの質問に、カカシは何の躊躇いもなく答える。
『根』については、三代目と共に古くから里を支えていると言われている、ダンゾウ様が創設された暗部の養成機関だということくらいしか知らない。『養成』というだけあって、根に属していたということは、恐らくテンゾウは幼い頃からそこで育ったのだろう。
「テンゾウ。いつから根に?」
「はっきりした年齢は分かりませんが……アカデミーを出たのは一応、六歳でした」
自身でも曖昧なのはおかしな話だけれど、テンゾウには謎が多いので、その辺は突っ込んでも答えるかどうか分からないから、あえて触れないでおこう。
テンゾウは今、十四だ。六歳ということは、今から八年前。暗部の根に所属しているとはいえ、八年前には忍として、木ノ葉隠れの里の忍者登録番号が振られていたはずだ。
「じゃあ……テンゾウは……木遁使いは、ずっと前から、木ノ葉に居たの?」
「……そういうことになる」
カカシに問うと、今度は少し目を伏せ、迷う素振りを見せつつも肯定した。
木遁を使える忍が、そんなに前から木ノ葉の里に居ただなんて。
「なら……ダンゾウ様が、テンゾウのことをもっと前から火影様に伝えていたら、クシナ先生は……!」
もしあのとき、木遁忍術を使える者が居れば――何度も考えたことが、口をついて出てきた。
テンゾウのことをダンゾウ様がちゃんと三代目に報告していたなら、クシナ先生に封じられていた九尾が暴れずに済んだかもしれない。出産は無事に終わり、クシナ先生とミナト先生が死ぬことはなく、産まれた赤子と三人で、今も幸せに暮らしていたかもしれない。
ダンゾウ様さえ伝えてくださっていれば。テンゾウのことを誰かが早く見つけていれば。もう手遅れな話だと分かってはいるけれど、考えてしまうし、ダンゾウ様に恨みを抱いてしまいそうになる。いや、もう、抱いているのかもしれない。
「すみません……お力になれなくて……」
か細い声は少し震えていた。テンゾウは床板に目を落とし、自分に非があるのだと、わたしに対して詫びている。長い髪が肩から落ちて、その顔を少し覆った。
――また、だ。
また、わたしはやってしまった。すぐにこうして、恨むべきではないとされる人を恨んでしまう。
ダンゾウ様に怒りを覚えているのは、里が長年求めていた、初代様以来の木遁忍者を秘匿にしていたことに対する不審さに対してだ。どんな理由があったにしろ、尾獣をコントロールできる木遁忍者を隠していたことは、九尾の人柱力を抱える木ノ葉に対する裏切りに思えた。だからダンゾウ様への恨みは、変な言い方だけれど、わたしにとっては正当なものだ。
そして、木遁を使えるのに、いざ必要とされているときに何もしなかったテンゾウにも、わたしはほんのわずかに恨みを覚えていて、きっとテンゾウはそれを敏感に察したのだろう。
テンゾウ本人がわざと名乗り出なかったわけではなく、ダンゾウ様に、自身が持つ木遁忍術を隠せと命令されていたかもしれない。木遁を使える者の重要さを考えれば、決して不自然ではない。
だとしたら、テンゾウに非はない。上の者の命に従ったまでだ。わたしはまた、自分勝手に人を恨もうとした。なんて情けない人間だろうか。
「ごめん。テンゾウが悪いわけじゃないのに」
恨むべき相手ではない。また恨んでしまってはいけない。なるべく気持ちを落ち着け、できるだけ優しく言葉にすると、テンゾウは少しだけ顔を持ち上げた。
わたしより少しだけ背が高いテンゾウに向き合い、その両手を取った。木遁が使える、とても貴重な手の存在を確かめるように、何度も握り直す。
「テンゾウ。あなたのその木遁は、今度こそ、新しい人柱力の子のためにも使って。木ノ葉の里がまた壊されないよう、誰も傷つかなくて済むように。お願い」
亡くなってしまったクシナ先生の代わりに、息子であるナルトの身に九尾は封じられた。幼い子にかけた封印が、どれだけ強力なものか分からない。人柱力の封印に関しては、わたしはまだ概要を完全には掴めていない。
もし万が一が起きて、また封印が解けてしまう前に。今度こそ木遁の力で抑え込み、誰も傷つかない未来を支えてほしい。
過去は決して変えられない。だからこれからを、その力で守ってほしい。
わたしの頼みを、テンゾウは真正面から受け止め、力強く頷いた。
テンゾウのおかげで購入を考えていた家具を買わずに済み、時間もお金も節約できた。前の家から持ってきた荷物を全て解き終えたのは、引っ越してきて三日後のことだ。
引っ越した日は近所のお弁当屋で済ませ、次の日は米や野菜や魚などの基本的な食材を買って、自炊する生活にも慣れてきた。
わたしの料理はクシナ先生の料理だ。母から習うより、妊娠中のクシナ先生に指導してもらう機会が多かったから、味付けも好んで使う食材も、クシナ先生が基準になっている。
新しい部屋で、自分の手で作ったクシナ先生の味付けを食べていると、感傷的な気分になって少しだけ泣いた。テンゾウが木遁を使えたと知った一件で、クシナ先生のことを思い出していたから、余計に心が振れてしまったのだろう。
隣人のカカシとの付き合いはというと、顔を合わせ話をしたのは引っ越しをした当日のみで、あとは壁越しの音に気づいて、その存在を感じ取るくらいだ。お互い忍なのでバタバタと歩いたりしないし、騒いだりもしない。家事などの最低限の生活音が、時折響くだけ。
「自分が隣に住んでいることが不満みたいだから、なるべく関わらないようにと思っているみたいですよ」
ばったり会ったテンゾウが、カカシの考えをわたしに伝えてきた。確かに、カカシが隣ということに頭を悩ませていたし、『隣がカカシなんて!』と言ったことも本人にばっちり聞こえていた。なのにあっちはわたしの態度に反感を持つどころか、気を遣ってくれているらしい。
そういう話を聞くと、カカシがわたしに優しいという見え方が正しいのだと、改めて感じる。罪悪感からの優しさだと分かっているし、それくらいの苦しみなんてオビトやリンに比べたらかわいいものだろう、と底意地の悪い考えをしてしまう。
自覚があるだけに、余計に自分のみっともなさが浮き彫りになって、別の部屋への引っ越しも検討した。けれど、やはりここ以上に良い物件はないし、払ったばかりの敷金礼金とて安いものじゃない。しばらくはこの息苦しい近さに身を置くしかない。
新居での生活が落ち着いた頃、同性の友人である紅やアンコに、新しい部屋はどうだと訊ねられた。任務によっては長く家を空けることもあるし、気軽に洗濯物を外に干せないのが悩みだとか、自分の分だけの食事を作るのは割と面倒だとか、一人暮らしをして気づいたことを答える。誰かの分も一緒に作るなら別だけれど、自分しか食べないのであれば、調理や洗い物の手間を考えると、近所の弁当屋につい足を運んでしまう。
話の流れで、部屋を見せてほしいとお願いされた。
「まだ片付いてないの。終わったら呼ぶから」
本当はすっかり片付いているのに嘘をついて断ると、二人は案外あっさりと引いてくれた。そのうちね、と念だけ押されて、わたしは愛想笑いを返した。
呼べるはずがない。何せ、隣人がカカシなのだ。わたしとカカシの複雑な関係を知っている二人は、絶対に何か言うだろう。そしてすぐに、わたしの引っ越し先のことを、他の同期の仲間にも伝える。忍は口が固いはずなのに、人の面白い話はすぐに喋る生き物だ。
バレるのは正直時間の問題だと分かっているので、せめてそれまでは平穏に暮らしたい。ただそれだけ。
「だから、部屋に呼ぶのは二人が初めてなんだよね」
ローテーブルに卓上コンロを置き、その上でグツグツと煮える土鍋の中の葱を取りながら、ナギサとヨシヒトに言うと、二人は「へえ」だとか「ふうん」だとか、どうでもよさ気な返事をする。
「もっと、『光栄だな』とかないの?」
「ないな」
「ないね」
素っ気なく答える二人の視線は鍋に注がれている。まあ、美味しそうな鍋を前にしたら、こんな話は二人にとってはどうでもいいのだろう。
「鍋なんて久しぶりに食うわ」
「みんなで家で集まって、ってなると、鍋が一番かなって思ってね」
鍋のいいところは、材料さえ切って用意しておけば、あとは煮込むだけなところだ。スープの味も色々あるし、入れる具も割と選ばない。しめに投入するのがご飯なのか麺類なのかなど食べ方も色々あるから、意外と飽きない食事だ。テーブルの真ん中に鍋を置いて、あとは取り皿だけで済むので、まだ食器の数が少ないこの部屋では最適な選択だったと思う。
「そうだね。鍋は人数が多いと楽しいよね。隣のカカシも呼ぼうか」
「それは無理」
「上忍だし、暗部だろ? 金持ってるだろうし、いい肉買って来てもらおうぜ」
「いやだってば!」
わたしが声を荒げて拒否すると、ナギサとヨシヒトはおかしそうに笑った。わたしの反応が面白くて、からかっているのだ。
ならば反応しない方がいい。わたしは黙々と鶏団子を自分の取り皿に移すことに専念した。
「おい。一人で取りすぎだろ。ぶっとばすぞ」
「ナギサのそれ、特上になっても変わらないね」
「人は簡単には変わらないよ。成長することはできるけれどね。まあ、それも人によるのかな」
「何が言いたいんだお前は。あ? ぶっとばすぞ」
ヨシヒトの言葉にナギサが反応し、音を立てる鍋を挟んで睨むけど、ヨシヒトはそちらを見もせずに、「ああ、そうだ」と自分の荷物を探って、小箱を取り出した。
「はい。引っ越し祝いだよ」
差し出されたのは、包装されてリボンをかけられた長方形の箱だ。高さはさほどなく、平たいそれを受け取ると、意外と重い。
「ありがとう」と礼を言って早速リボンを解き、包みを取って開けてみると、銀色の細長い筒が数本、恭しく収められていた。
「これ、なに?」
筒の一つ一つはわたしの指ほどの太さで、長さは手の平と同じくらい。金属でできているため、ずっしりとした重みを感じた。真ん中あたりには引き金のような突起がある。
「
「これが? こんなに小さいの、初めて見た」
袖箭というのは、いわゆる暗器だ。この筒の中には鏃が仕込まれており、中に仕掛けたバネの力を利用して、相手に向かって発射する。手首から前腕部に取り付けておけば、服の中に隠しておける上に、引き金を操作するだけなので力もいらない。単発式と連発式とがあるが、これは後者のようだ。
袖箭はその作りから、小型化に限界があるとされていたけれど、贈られたこれはかなり小振りだ。このサイズなら袖の中にも隠しやすく相手にバレにくいだろう。
「『美しい花には棘がある』と言うだろう?」
フッと得意気に微笑むヨシヒトは、成人を迎えても尚、中性的な美しさを保っている。
「サホ、きれいになったね。僕が指導した成果がちゃんと出ている。僕の目に狂いはなかった」
いきなり何を言い出すのかと、わたしは受け取ったばかりの袖箭を手に持ったまま、ぽかんとしてしまった。
わたしはこれまで、ヨシヒトから「きれい」と言葉をかけられたことはない。いつも彼の求める美しさに及ばないようで、会うたびにどこかしらにダメ出しをもらう日々だった。出会ってから十年近く、ずっと『美しさの指導』を受けていたので、最近はさすがにダメ出しの回数も減り、わたしが選んで買った服に文句をつけることも少なくなった。
だけど「きれい」だと認められたことはなかった。だから先ほどの発言が信じられなくて何度も瞬きをしてしまう。
「あの日、君を初めて見た時に、僕は思ったんだ。美の神は、こんなにも野暮ったい子を美しく変えてみせよと、僕に試練を与えたのだと」
野暮ったいって。試練って。
「垢抜けない、センスもない。最低限の美意識しかなく、美しさに無頓着だったサホを鍛えていくうち、君の中に眠っていた美の成長と共に、僕も改めて美に対して向き合えた。実に貴重な時間だったよ」
ゆるりと首を左右に振り、感慨深そうに語るこの男は、本当に何様なのだろうか。
しかし、幼少のわたしが垢抜けない容姿だったことも、センスがなかったということにも自覚はあったので反論できない。美意識だって、清潔で小奇麗を維持できればいいのではと思っていたくらいだ。
何だか腹が立つが、今までのことを懐かしむように振り返るその様子と、ようやくヨシヒトから「きれいになった」という言葉を引き出せたことで、わたしはやっと彼から解放されるのではと心が躍った。
「じゃあ、もう美の鍛錬とやらは――」
「それはまだまだ続くよ。きれいにはなったけど、紅と比べたらまだまだだからね。紅が豪奢な花瓶に生けられた大輪の花なら、サホは一輪挿しにちょこんと飾られているレベルだ。でも大丈夫。伸び代があることを前向きに考えるんだ! さあ、僕と一緒に、里一番の美女を目指そう! もちろん、木ノ葉の里で一番美しいのは僕だよ!」
わたしの期待はあっさり裏切られた。しかも紅と比較され、ガッツリと下げられた。比べる相手が卑怯だ。紅は同期や年の近い女性の中で、一、二をを争うほどの美女なのだから、そんな子と比べたら、わたしなんて『一輪挿しにちょこん』だろう。
とうとうヨシヒトの美の呪縛から逃れられる日が来たと喜んだのに、一気に落とされて、わたしは項垂れた。まだだめなんだ。いつになったら卒業できるのだろう。
「オレはこれだ」
ナギサがずいっと突き出したのは、こちらも簡単な包装がされている長方形の白い箱。ヨシヒトの袖箭よりも二回りほど大きい。手にもずっしりと重みがある。
包装を解いて紙蓋を開けて取り出すと、透明のガラス瓶だった。
「これって……」
「花瓶だな」
「え? もしかしてグルなの?」
「そんなわけあるか。ぶっとばすぞ!」
さきほどヨシヒトに『一輪挿しにちょこん』と例えられたせいか、これはもうナギサがヨシヒトと組んでわたしをいじめに来たのかと思ったけれど、ナギサは鋭い目で睨みつつ否定した。
「何がいいか分かんねぇから、店員に頼んでテキトーに選んでもらった」
「テキトーに……」
「なんだよ。花がいやなら、ペンでもハサミでも立てとけ」
わたしのために買ってくれたことには変わりないが、そんな選び方をしたなんて知りたくはなかった。わたしは二人の特上祝いの品を、ちゃんと自分で考えたのに。ナギサには値の張る最新の医療パックの詰め合わせと、ヨシヒトには小型ライトがふんだんに埋め込まれている手鏡を贈った。おめでとうという気持ちを込めて、二人が喜ぶと思って頑張って選んだのに。
「いや、ちゃんと使うよ。うん。使う。二人ともありがとう」
物に罪はない。袖箭も花瓶も、二人がわたしを思って贈ってくれたものに変わりはないし、どちらも使える品だ。袖箭も花瓶も、見た目はわたしの好みに合う。袖箭は任務先で、花瓶はこの部屋で、これから始まるわたしの新しい生活の仲間に加わることになった。
目下の悩みである気まずい隣人とのご近所付き合いは、とりあえず保留にしておこう。幸いあちらが気を遣って関わりを減らそうとしてくれているし、それなら今はこの距離を保つのがベストだ。移り住んでもうすぐ一ヶ月になるのに、隣から何か物音がしただけで心臓がドキッとしてしまう状態じゃ、ご近所付き合いどころではない。
まずは新しい土地、新しい部屋で送る新生活に馴染むことが肝心だ。『新生活』が『日常』に変われば、心の余裕も出てくるだろう。
だから決して逃げているわけじゃない。決して。断じて。今は壁一つ分の距離に慣れるのが先だから。