ヨシヒトとナギサが特上になった頃から、わたしは単独任務を命じられることが多くなった。封印術に詳しく、単独で動かせるほどには中堅で、かつ任務中に命を落としても木ノ葉にとって損失が出にくい者、という微妙な立ち位置から抜擢されている。
喜ぶべきなのか肩を落とすべきなのか分からないけれど、二人が特上になってそろそろ半年になる。わたしも二人に後れを取らずに、真剣に特上や上忍を目指したい。
そのためにも今回の任務も気を抜かず、今できる自分の最善を尽くした。その報告を手早く済ませると、三代目様から柔和な笑みと共に、労いの言葉を頂けた。
「ご苦労だった。明日は一日休め。久しぶりの我が家だ。ゆっくり家族と過ごすがよい」
くわえていた煙管を外し、微笑む姿は好々爺といった風で、無礼は承知だけれど親しみが湧く。里の住人は皆家族と仰る三代目だ。言葉に他意はないのだろうけれど、任務に出る前に母と交わした会話を思い出し、ため息が出そうだった。
一礼して火影室から出て扉を閉めると、ちょうど廊下の向こうから、暗部の姿ではないカカシが歩いてきた。額当てを斜めにつけて、晒している右目とわたしの両目が合う。
「火影様に用?」
「……ああ」
わたしが訊ねると、カカシは二歩分距離を置いて止まり、肯定の意を示した。まあ、この廊下をカカシが歩いているとしたら、目的は三代目に用があるくらいだろう。
扉から離れ、カカシの横を通ると、カカシも止めていた足を動かし、火影室に入った。
廊下を少し歩き、周囲に誰も居ないと知ると、気配と足音を殺して引き返す。
さきほど出入りしたばかりの火影室の扉を通り過ぎて、何という名前か定かではない、よく見かける背の高い観葉植物の影に隠れた。
しばらく時間を置いて、カカシが火影室から出てくる。扉を閉め、来た道を引き返そうとしたところを速足で追いついて、袖なしの忍服から伸びている、剥き出しの腕を掴んだ。
「――なっ」
「ちょっと顔貸して」
カカシはわたしの手を振り払おうとしたけれど、その前にわたしがカカシの前に出て歩き、引っ張った。戸惑うカカシを無視して進み、廊下に面したとある戸の取っ手を引く。火影室に向かう前に少し用があって入った第三資料室は、今も無人だった。好都合だ。その中へカカシを引き連れ入る。
埃っぽい資料室は、日除けのためのカーテンが引かれているけれど、さんさんと注ぐ陽光は端から漏れて、薄暗いながらも文字ははっきり視認できるほどに明るい。
「いきなり、なに?」
突然引っ張られ、こんな埃っぽいところに連れて来られ、カカシの声はわずかな苛立ちを含んでいた。
最近は慰霊碑や墓の前で顔を合わせてもお互い無言で、声を聞いていなかったから気づかなかったけれど、随分と声が低くなっている。最後に声を聞いたのは、暗部に後をつけられたとき。声だけ聞いたらカカシじゃないみたいでびっくりしたけど、三白眼でわたしを見下ろす顔は、やっぱりカカシだ。
「顔貸してって、言ったじゃない」
さきほどと同じことを口にすると、カカシは少し目を閉じ、溜めていた息を吐いた。
「貸してほしいのは顔じゃなくて、目でしょ」
お前の目当ては分かっている、とばかりに、カカシはわたしが言う前に、自ら額当てを上にずらして、隠していた左目を見せた。図星だったとはいえ、言い方に少し棘を感じて文句を返したかったけれど、赤い写輪眼を見たら、口は呼吸をするためだけに動き続けた。
赤い目の、真ん中には瞳孔。その周囲には三つの巴。
オビトの目がある。ここにある。ここにしかない。
久しぶりに見た。一体いつぶりだろう。あの暗部のテンゾウに『貴女に目を見せたあとのカカシ先輩はつらそうです』と言われて以来、頼めなかった。そんなこと気にせず頼んで、カカシを苦しめるべきだと思っていたのに、慰霊碑やお墓の前で会っても口は開けなかった。
だけど今日はどうしても我慢できなかった。どうしてもオビトの目に会いたかった。
噛み締めるように、左目を見続けていると、
「今度は何があった?」
とカカシから問われた。
「何があったって?」
質問に質問で返すのはよくないと分かってはいたけれど、何でもすぐに喋ってしまうのは面白くなくて、回答を先延ばしにした。
「サホがオビトの目を見せてくれと頼むときは、大体何かあったときだ」
びっくりした。ズバリと当てられたことにも、カカシがわたしのことをそう考えていたことにも。
わたしはそんなに、何かあったらオビトの目を見せてくれと頼むだろうか。思い返してみたけれど、あまり自覚はない。でもオビトの目を持つカカシがそう言うのだから、恐らくその通りなのだろう。
何かあったのと言われれば、実際に何かあった。基本的に忍者は自分の情報をペラペラ喋ったりしない。任務に関することは口外しないことになっているから、自然と日常会話の話題にしても当たり障りないものを選ぶ。
ただ、今回わたしにあった『何か』はとてもプライベートなことなので、わたしが言っても構わないと判断すれば、別に口にしてもいい。たとえ相手がカカシであろうと。
「兄さんが忍を辞めるのよ」
口から出た声は、思いのほか資料室の中で冷たく響いた。
「どうして?」
「前の任務で、ひどい怪我をしたの。治ったけど、もう以前ほど動けないから」
任務中に、兄は足に大怪我した。かなり深くやられたらしく、すぐに医療忍者の下へ運ばれ、傷は塞がり骨や神経なども繋いでもらえたけれど、怪我をする前ほど思い通りには動かないらしい。
これでは任務に支障が出る。今度はもっと大きな怪我をして命を落とし、仲間も危険な目に遭わせるかもしれない。そう判断して、兄はいっそ忍を辞めると決心したのだと、一ヶ月以上前に聞かされた。
「そうしたら、母が、わたしにも忍を辞めてほしいって」
同席していた母が、わたしも母もこれを機に忍を辞めて、三人で木ノ葉隠れの里から出ようと言い出した。母の遠縁を頼って別の村に住み、ゆっくりと生きていこうと。
母は、疲れたのだろう。父が他界してから、よく父の写真をぼんやり見ている時間が増えた。夫を亡くし、一歩間違えていたら息子まで失うところだった。そしてこのまま忍を続けていけば、今度は娘のわたしが――と考え、恐ろしくてたまらないのだろう。
「親心ってやつでしょ」
カカシの言うとおり、親心だろう。わたしが大事だからこそ、危険な忍という職から離れてほしいと思うのは、忍の子を持つ親が、一度と言わず何度も抱く感情かもしれない。
「でも、辞めるわけにはいかない」
赤い写輪眼が嵌めこまれた、左目へと指を近づける。肌に触れれば、柔らかい肉とわずかな熱を感じた。
そっと、そっと。輪郭を確認するように、睫毛の端を撫でるように、わたしは左目を慈しんだ。
「オビトが守ったものを、わたしが代わりに守らなくちゃ」
戦争が終わったのは、火影様が平和条約を結んでくれたから。そこに至るまでに尽力した、木ノ葉の忍たちが居たから。それは誰でも知っている。
だけど、木ノ葉隠れの里に暮らす人たちを、幼い頃から支えて守っていた者がいる。困っている人を放っておけないオビトが、キクおばあちゃんを始めとした、不自由な思いをしている木ノ葉の人たちに手を貸していた。わたしもオビトに助けられた。
木ノ葉の人たちは、オビトが守っていたものだ。それを改めて知ってしまったら、忍を辞めてこの里から離れることなど決してできない。
カカシは、わたしの言葉にわずかに目を細めた。また言っている、と呆れているのかもしれない。
あんたが勝手に死なないように。
オビトの守りたかったものを守るためだけじゃない。この男の中で生きているオビトを、この男が殺してしまわないように。そのためにも、わたしとカカシは、一生木ノ葉の忍であり続ける義務がある。
カカシの命はカカシだけのものではない。カカシを助けた、オビトのものでもある。
カカシも、オビトが守ったものだ。
当たり前のことだったのに、まるで今ようやく知ったような気がした。オビトがカカシを庇って死んだのだと認識していたのに。カカシもまた、オビトが守りたかった木ノ葉の一人であることを、今やっと気づいたような錯覚に陥る。
だとしたら、やっぱりわたしは――
オビトの目を見せろと頼んでカカシを苦しめるのは、オビトが守りたかったカカシを、わたしが傷つけていることになる。
それなら、もうオビトの目に会うことをやめた方がいい。こんなことを繰り返して、これ以上カカシを苦しめては、オビトの死を無駄にしているのと同じじゃないか。
「サホ?」
名前を呼ばれた。吐息だけで囁くような声は聞き慣れなくて、首の裏がぞくりと震えた。
手を下ろし、カカシから身を引く。そして彼を置いて資料室を出て、廊下を小走りで駆けた。
家に帰ったその日は、さすがにわたしも疲れているだろうからと、母も兄もそっとしておいてくれた。
次の日の休みは、装備の点検や手入れを行い、穴や綻びのある忍服を繕って日中が終わった。
全員が夕食を済ませたあと、静かなテーブルに顔を揃え、わたしが不在の間に、兄も母も正式に忍を辞める手続きを進めているとわたしに告げた。遠縁の家人のおかげで移り住む村の家や仕事の都合もついたと言う。
忍を辞めた者が里を出る際は、必ず移り住む先に申請を通しておく必要があって、それは忍を辞めた者が火の国に対し裏切りを働かぬようにと、その地域管轄の忍が監視するためだ。
腕のある者は里に及ぼす損得を考え引き留められることが多いと聞くけれど、中忍の、十把一絡げの内の一把でしかない母と兄は、幸いにもその人並みの実力と功績のおかげで、正式な手続きを行えば辞めることができたらしい。
だとしても、その手続きには多少の時間はかかるだろうに、それらもすべて済ませたらしい。
「ちょっと高かったけど、忍鳥の特急便を使ったのよ。あっちでは元忍は使い勝手がいいからって重宝されてるみたい。まあ報酬の類は今より下がるでしょうけど、貯金もあるし、最初の数年はじっくり下地を作るものだと思って、のんびりするわ」
手際の良さに、母のキビキビと動く性格が表れていた。父が死んでから皺や白髪が増えた母だけど、まだ完全には弱り切っていないのだと、少しだけ安心した。何も手がつかないほど弱っていたのであれば、さすがに兄だけに全てを任せるのは申し訳なさもあったけれど、きっと穏やかな環境で暮らせば元の明るい母に戻ってくれるだろう。
「サホ。お前はどうする?」
兄が問う。歳を重ね、兄はだんだんと父に似てきた。幼さが完全に拭い落とされると、分けた遺伝子に倣って、子は親に似るのだろう。
「わたしは行かない。木ノ葉に残るよ」
用意していた答えに、兄は黙って頷いた。母は何とかわたしも連れて行こうと食い下がったけれど、
「サホももう十八だ。じきに十九にもなる。忍になって十年は、もう一人前だ」
と諭すような兄のその一言で、母はやっと諦めてくれた。
その後、話し合いはこの家をどうするかに移った。この家自体は、実は縁あって借りているものだったらしい。今後もわたし一人の報酬で家賃を払い続けるのは、楽ではないが無理でもない。
けれど、一ヶ月以上も家を空ける任務が今後も増えるようであれば、家の管理が行き届かなくなる。四人で暮らすにはちょうどよかったこの家の広さは、わたし一人には余る。
話し合いの末、この家は手放し、わたしは新しい場所で一人暮らしをすることに決めた。
家探しを始めてすぐ、まず人生の先輩方に相談に乗ってもらった。経験に基づいたアドバイスを貰い、譲れない条件を挙げ、それをいくつかに絞り不動産屋に向かって、決めた物件に引っ越すことになったのは、兄と母が先に家を出た二日後。あの話し合いの日から二週間後だ。
「手際がいいのは母親譲りなんですか?」
「どうだろうね」
手に紙袋を一つ提げて、新居へと足を進めるわたしの隣を歩くのは、面を掛けていないテンゾウだ。
テンゾウとは、出会ってからちょくちょくと顔を合わせ、世間話程度ならするようになった。恐らく、テンゾウがわざわざわたしの前に姿を現している。そうでなければ、テンゾウとわたしの間に接触の機会などない。
仕事中でなければ面を掛ける必要もないからと外して見せた顔は、面の奥からでも存在感を放っていたとおり、大きな猫目をしていた。女の子のように髪が長いけど、顔はちゃんと男の子だった。額当ては何故か変な頭装備にくっついていて、『ヘッドギアです』と説明されたけれど『変なの』と返してしまい、拗ねたように少しムッとされた。
カカシから叱られたのか、テンゾウ独自の判断なのか不明だけど、わたしとカカシとの関係を問うようなことはもうなく、むしろ『お礼がしたい』と言われた。あのとき、カカシから問い詰められていたテンゾウに、わたしが出した助け舟に感謝しているらしい。
お礼と言われても、あれは半ば自分も、あのカカシの放つ冷たい空気に堪えきれなかっただけの行為なので、感謝される方が困った。
結局使っていなかったその『お礼』は、引っ越しの話を伝えると『手伝います』ということで、ようやく成されることとなった。
「どんなところなんですか?」
「忍専用のマンションだよ」
『お客様、運がいいですね』と不動産屋が言っていたように、空いたばかりらしいそのマンションの部屋はかなり条件がよかった。
忍専用のマンションを選んだのは、一般人との集合住宅に暮らしていると、『近所のよしみで』と受付所を通さず忍の力を借りようとする人が出てきて面倒なので、できるだけ忍専用がいいと勧められたからだ。
紹介された部屋は、アカデミーや火影邸から近く、近所にはスーパー、弁当屋、薬局などもあり、立地も申し分ない。
1LDKで風呂、トイレ別。日当たりもよく、二階以上で、築年数は三年。内見したときは新築とほぼ変わらない印象を受けた。
かなりわたしの条件を満たしていたのだけど、その分家賃は一般向けの賃貸より少し高かった。でも、最近はAランクの任務に加わることもあるし、Bランクなら単独任務も増えた。敷金礼金を払っても、咄嗟の出費に難なく対応できる貯金もある。
色々なことを差し引いても、この部屋より好条件はない。すぐに契約を決め、鍵も貰い受けた。
「テンゾウはどこに住んでるの?」
「一応、言えません」
「あ、そっか」
今は任務中ではないけれど、暗部という職を考えると、家の所在などプライベートなことを訊ねるのはよくない。カカシの家は暗部に入る前に行ったことがあって知っているけれど、それは例外なだけだ。
カカシは今も、あの家に住んでいるのだろう。静かな家の中に、一人で。
「前の家から遠いところに住むんですね」
「うん。せっかくだから、離れてみようと思って」
住んでいた家は、カカシの家からそう遠くない。今までもバッタリ会うことがあったし、会わなかっただけで通う店なども同じだったろう。
どうせ引っ越すなら、カカシから距離を取ってみようと考えた。
オビトの写輪眼を見せてくれと頼むのがカカシを苦しめ、それがオビトを傷つけることになるのなら、いつかはやめなければならない。
だけど現状、今すぐにどうこうと動ける気はしない。
なら、物理的に離れ、環境などを変えてみれば、少しは変化が出るのでは、と思ったのだ。
もちろん気休めに過ぎないけれど、こうして少しずつ、少しずつ距離を置いて関わりを見直せば、カカシもオビトも傷つけることのない位置に立てるのでは、と望みをかけている。
「あ。あそこだよ。あれ。四階建ての、木ノ葉のマークがあるでしょ」
新居となるマンションが見えてきた。指で示しつつ、口頭で特徴を告げると、テンゾウはマンションを認め、「え」と上擦った声を上げた。
「どうしたの?」
「いえ……別に」
難しい顔でテンゾウはマンションを見つめる。あのマンションに何かあるのだろうか。
マンションに入り、階段を上る。その間も、テンゾウの顔は難しいまま。大きな目に力が入っているので、何だか怖い。
部屋は端から二番目。本当は角部屋がいいけれど、永住するつもりはないし、特に大きな不満はない。
わたしの新しい部屋となるドアの前に立つと、いよいよテンゾウは不審な行動を取るようになった。キョロキョロと辺りを見回し、わたしの部屋のドアと、奥の角部屋のドアを見比べている。
「ねえ、さっきから何なの?」
「い、いえ……あの、本当にここなんですか?」
「そうだよ」
不動産屋から貰った鍵でドアを開錠し、玄関でサンダルを脱いで中へと入る。カーテンがない窓を締め切った部屋は、わずかな湿気と暑さに満ちていた。何もない、反射だけする床に荷物を置いて、すぐに掃き出し窓を開けた。涼しい風が入り、部屋の中の空気を掻き乱していく。窓の外のベランダにはさんさんと日光が落ちていて、洗濯物の乾きもよさそうだ。
「テンゾウ、上がりなよ」
「は、はい」
玄関に突っ立ったままのテンゾウに指示を出すと、テンゾウもサンダルを脱いで部屋へと上がった。わたしは持っていた紙袋から、包装紙に巻かれた配り物をいくつか取り出す。
「わたし、引っ越しの挨拶に行ってくるね。テンゾウは部屋で待ってて」
「えっ!? い、今ですか?」
「うん。家具を置いたりしてうるさくしちゃうし、早い方がいいでしょ」
配り物を持ってサンダルをつっかけると、慌ててテンゾウがついてきた。変なテンゾウ、と思いつつ、角部屋ではない方の隣の部屋のドアの前に行き、呼び鈴を鳴らした。一回、二回、三回。応答はない。
「留守かな……」
平日の昼間だし、仕事でいないこともあるだろう。ならここは後回しで、今度は角部屋だ。
わたしが角部屋へ向かうと、テンゾウは「あの」だの「本当に行くんですか?」などと言い出す。
「当たり前でしょ。挨拶は大事だもの」
「そうですけど……」
もごもごと、煮え切らないような態度を取るテンゾウに目を向けながら、角部屋の呼び鈴を鳴らした。一回、二回、三回。こちらも反応がない。
「ここも仕事で居ないのかな?」
「いえ、今日は休みのはずです……」
「え?」
わたしの疑問に、なぜかテンゾウが答える。
「え? もしかして、この部屋ってテンゾウの部屋?」
「ち、違いますよ! ボクの部屋じゃありません!」
「じゃあ何? テンゾウ、さっきから変だよ。この部屋の人と知り合いなの?」
「知り合いと言うか、まあ、それはそうなんですけど……でも、あの……」
ドアの向こうで、物音がした。どうやら住人は在宅だったようだ。
ガチャンと鍵が開く音がして、ドアがゆっくりと開かれる。
「こん――」
『こんにちは、初めまして。隣に越してきました』と言うつもりだった。
けれど、『こんにちは』すらまともに言うこともできなかった。
ドアから顔を出したのは、銀髪の背の高い男だ。鼻から下はいつものマスクで隠されている。閉じられた左目には眉から頬まで、縦に一線の傷。
驚いたように右目を見開く男と、負けず劣らず、わたしの目も大きく開いていただろう。
「か……カカシ……?」
「……サホ? なんで、ここに?」
互いに名を呼び、何故ここに居るのだと、わたしは言葉の端に滲ませ、カカシは直接口にした。
「ここ、カカシ先輩の部屋です」
「えっ!?」
わたしの後ろに立っていたテンゾウが言う。驚いて振り返ると、彼は目を逸らして遠くを見つめていた。
「と、となり……? カカシ、ここに住んでるの?」
「え……? そうだけど……」
カカシに向き直って問うと肯定された。額当ても装備も外していて、かなり身軽な格好をしているから、まず間違いなくそうなのだろうと予想はしていたけれど、事実だと認められると衝撃が走った。
「家は? あの、平屋の」
「ああ……。任務が忙しくて掃除とか手が行き届かなくなってきたし、この辺で暮らす方が都合がいいから、この間からここに」
前の家はどうしたのかと訊ねると、何の偶然か、わたしと似たような理由で新たに住居を移したらしい。
なんてことだ。ああ。本当に。
カカシから離れる第一歩として、カカシの家に近いあの家から遠い場所を選んだはずなのに。
よりによって隣なんて。今まで以上に近い。近すぎる。壁一つしか隔てていない!
「どうしてサホがここに? テンゾウ、お前が――」
「違います。ボクはサホさんの引っ越しの手伝いをしていただけで」
わたしがここにどうして居るのか一人分からないカカシは、テンゾウがわたしをここへ連れてきたのだと考えたらしく、目元をきつく細めて問い詰めようと身を乗り出す。テンゾウは即座に否定して、自分がこの場に存在する理由を説明すると、カカシはまた目を大きく開いた。今度は左目も開いて、赤い写輪眼が見える。
「引っ越しって……まさか……」
恐る恐ると言った具合で、カカシがわたしに顔を向ける。色違いの両目に見つめられるのに堪えきれず、わたしは手に持っていた、配り物を差し出した。
「これ、一応、挨拶のタオル」
ずい、っと前に突き出すと、カカシはゆっくり手を上げ受け取った。『引っ越しの挨拶にはタオルだろ』とアスマから言われたので買った、シンプルでちょっとお高いタオル。可愛らしい模様の包装紙とカカシが、あまりにも不釣り合いだった。
「……よろしくお願いします……」
「……どうも……」
挨拶を。そう思って頭を下げると、カカシも頭を下げた。
引っ越しの挨拶をし、タオルも渡した。これで用は済んだ。この部屋の住人との挨拶は終わった。うん。終わった。
「それじゃ」
「ああ」
部屋の前から立ち去るわたしに、カカシは相槌を打った。新たな自宅のドアを開けて部屋に入ると、テンゾウも続いて入ってきた。
サンダルを脱いで、リビングダイニングに当たる部屋で足を止め、くるりとテンゾウの方を向く。
「知ってたの!?」
「知ってましたけど、でもサホさんの引っ越し先がここだって、ボクはさっき知ったんですよ!?」
詰め寄ると、テンゾウは両手を挙げて制して、自分は無実だと精一杯に声を上げる。嘘を言っていないのは分かる。わたしの家から荷物を運び出したときは、普段通りのテンゾウだった。
様子が変わったのは、このマンションだと教えたときだ。明らかに態度がおかしかったし、この部屋に入る前から、やたらとあの角部屋をチラチラ見ていた。
テンゾウとしても、まさか同じマンションで、しかも隣の部屋などという、何百、何千分の一の確率が起きるなんて思っていなかっただろう。
「隣がカカシなんて……!」
カカシからゆっくり距離を取ろうとした矢先の、真逆の展開に、わたしは悲痛な声を上げてしまった。なんてことだ。なんてことだろう。思わず頭を抱えてしまう。
「あのさ。聞こえてるからね」
部屋の窓の外から声がかかる。さっき角部屋の玄関で聞いた声と同じ。急いで開けっ放しだった窓へ駆け寄り、裸足のままベランダへと足をつけて、手すりに手を付け顔を出す。自室のベランダと角部屋のそれとは壁一枚だけで区切られていて、向こうの掃き出し窓の枠に身をもたれている、気まずい表情のカカシと目が合った。
「……失礼しました」
「……いーえ」
一言謝罪すると、三白眼を細めたカカシからも一言返ってきて、わたしはベランダから部屋へと戻り、なるべく音を立てないように窓をしっかり閉めた。
角部屋側の壁に目を向ける。見えないあっち側にカカシが住んでいる、この部屋でわたしは今日から暮らす。
「……テンゾウ。部屋、交換しない?」
「いやです」
きっぱりと拒絶されて、わたしはガクンと頭を垂れた。
少し離れようと思っただけなのに。それがわたしのためにも、恐らくカカシのためにもいいと思ったのに。
なのにこんなに近くになるなんて。裏目に出るとは、このことだろうか。