腫れ続けていた目は、あれからゆっくり赤みも引いて、再び腫れることはなかった。
人が流せる涙の量が決まっているとしたら、わたしはきっと、この先数年分以上の涙を流しただろう。
だからか、オビトのことを思い出しても、目は潤んだりするけれど、粒となって零れることはなかった。
受け入れられなかったオビトの死は、紅茶に落とした角砂糖のように、時間と共にじわりとじわりと崩れて溶けて、わたしの中に混じっていく。そんな感覚だ。
アカデミーの受付所で、ヨシヒトとナギサと一緒に居たら、ミナト先生に会った。頭の後ろでキュッと結んだ額当ての尻尾を振って、先生がこちらを向くと同時に目が合う。
わたしの存在に気づくと、先生の表情が固くなったけれど、
「おはようございます」
と、わたしが努めて微笑み挨拶をすると、顔の強張りはホッとしたように緩んだ。
手に書類を持ったままこちらへ近づくと、後ろの二人にも目をやる。
「おはよう。君たちは今から任務かい?」
「はい。クシナ先生を待ってます」
「あれ? 家を出るのはクシナの方が早かったはずなんだけど……」
おかしいな、と不思議そうな顔をするミナト先生は、自分の妻が部下を待たせていることに疑問を抱いたようだ。
ミナト先生とクシナ先生の結婚は、わたしが先に知った一週間後には、正式に関係者全員に伝えられた。先生たちの新居へ招かれ、クシナ班でお祝いの品を持ってお邪魔したときのことをしっかり覚えている。三人で相談して選んだのは漆塗りの夫婦箸。『ちょうどお揃いの箸を買おうと思っていた』とクシナ先生がとても喜んでくれた。
「火影様に呼ばれているようです。すぐに戻ってくるから待っていてと」
「ん。そうか」
ここで待っている理由を話すと、ミナト先生はにこっと笑みを返す。その笑顔がクシナ先生に似ているのは、夫婦だからだろうか。
「オビトのこと、本当にすまなかった」
急に笑顔を引っ込めたあと、ミナト先生は唇を一度グッと引いてから、謝罪の言葉を口にした。突然オビトの名を出されて、胸がずくんと痛んだけれど、平気なフリをして堪えられる程度のものだ。
「謝らないでください。先生が悪いわけじゃありません。戦争だから……仕方ありません」
先生のせいじゃない。先生が殺したわけじゃない。オビトは、岩隠れの忍のせいで死んだのだ。岩隠れと交戦したのは、戦争だから。ちゃんと分かっている。
ミナト先生はわたしの返事に、ぎゅっと寄せていた眉を離した。
「クシナから、サホは大分落ち着いたと聞いていたけど。本当に安心したよ」
微笑む先生に、わたしも微笑みで答える。ばったり出くわしたあの日をよく振り返ったら、わたしは気が動転していたとはいえ、ミナト先生に失礼な態度を取ったと思う。その件については、わたしは謝った方がいいだろう。
「あれから、カカシやリンには会ったかい?」
「あ……いえ。会っていません。あの、避けているわけじゃないんですけれど……」
「ん。分かってるよ」
謝ろうとすると遮られ、はたけくんやリンとのことを訊ねられた。
本当に、二人を避けているつもりはなかった。受付所や、里のどこかで会ってしまったらどうしようとは思っていたけれど、実際には会うことがなかった。任務の内容次第では、一週間も顔を合わせないなんてよくあることだし、あれから五日しか経っていないから、会わなかったとしてもおかしくはないはず。
「二人には今、個別で任務が命じられているんだ。リンはあれからずっと病院に、カカシは別の隊に組まれて、ほとんど里に居ないからね。俺も今は単独任務のみだ」
個別でと言うならば、ミナト班としての任務はないのだろうか。上忍一人に、部下が三人のフォーマンセルが、大体の班のスタイルだ。
ただ、ミナト班のように、戦争のせいで仲間を失う班も多い。そのときは新たに一人組み込まれるか、欠けたままのスリーマンセルで班を維持するか、全員が別れて再編成されるか。
しかしミナト班はそのどれでもなく、事実上、解散状態のようだ。
よかった。
わたしは安心してしまった。
オビトが居なくなったミナト班がそのまま続いていくのも、誰か別の人が入って新しいミナト班になることも、はたけくんやリンが別々になり、ミナト先生が他の誰かの先生になることも、わたしはいやだった。
上忍のミナト先生、はたけくんとリンと、オビトが居るのがミナト班。それ以外は、わたしにとってはミナト班ではないし、それ以外の形を見せてほしくなかった。
真意は分からないけれど、残された三人がオビトがいないミナト班で任務をこなさないのは、ぽっかり空いたオビトの居場所をそのままに取っておいてくれて、オビトの居場所が守られた気がしたのだ。
「サホがよかったら、カカシたちにも顔を見せてあげてほしい。サホのこと、気にしているみたいだから」
ミナト先生の頼みに、わたしは少し間を置いてしまったけれど、「はい」と答えた。
先生を前にしてオビトのことを考えても泣かなかった今なら、二人にも会えるだろう。同じ里に居て、いつまでも顔を合わせないなんてことはない。長く会わなかったら、それだけもっと会いづらくなる。
木ノ葉で一番大きな病院の門柱に身を預け、三十分は経った。病院には色んな人が出入りしていて、治療を終えて戻る人、花束を持ってお見舞いへ向かう人、病院関係者らしい上下白の服を着た人が、わたしの前を過ぎていく。
ミナト先生から、今日のリンの任務――病院での仕事を終えるのが何時か調べてもらった。わたしの任務より少し遅く終わるようなので、クシナ班での任務が終了してすぐ、この門の前でリンを待っている。
目の前を通る人たちの、西日が作る濃く長い影をぼんやり眺めていると、一つの影がぴたりと動きを止めた。影の主を見れば、戸惑いの表情を浮かべたリンだった。頬の菫色の化粧も、肩の上で切り揃えられた髪も、額を覆う木ノ葉の紋も、数日前のリンと変わりなかった。
わたしたちはしばらく、言葉もなく見つめ合う。顔を合わせたら何と声をかけようかと考えていたのに、いざリンを前にするとうまく喉が動かなかった。
「リン。少しだけ、いいかな?」
勇気を出して言うと、リンは一拍置いて、黙って頷く。門柱から背を離しわたしが歩き出すと、リンが後を追うような、足音がざりざりと響いた。
口を閉じたまま進み続け、病院のすぐそばにある広場に入る。この広場は遊具の類は一切なくて、あるのはベンチと、ゴミ箱と、点灯している外灯だけ。周囲はぐるりと植えられた木々が囲んでいる。
わたしたち以外にも、犬の散歩をしたり、仲間で集まって談笑をしたりと、様々な形で広場を利用している人が居るけれど、夕飯時も近いとあって人数はそう多くない。
わたしとリンは空いている木製のベンチに並んで座った。雨風に晒されているせいか、腰を下ろすとギシと音を立てる。
二人で前を見つめ続けた。犬の散歩をしている人同士が近づいて、立ち止まり、話に花を咲かせている。犬は大型と小型で体格に差があるせいか、小型犬の方は大型犬から距離を取っている。
その光景を眺めながら、わたしは話のとっかかりを探った。
リンに会ったら何を言おうか、あれからずっと考えたのだ。何を言うべきなのか。
「あのときは、ごめんね。リンのせいじゃないよって、すぐに言えなくて」
これだと決めて、用意していたわたしの言葉に、リンは首を振る。ぷるぷると小刻みに揺れる頭は、視線の先で大型犬に怯えている、小型犬のようだ。
「いいの……だって……私のせいだもの……」
視界の端で、自身の両腿に置いたリンの拳に、ぎゅっと力が入るのが分かった。その上にぽたぽたと雫が落ちて、肌を撫でるようにつるりと滑っていく。
「私が捕まったから……私を助けようとして……私のせいで……」
震える声に興味を引かれるように見た、リンの横顔は真っ青だ。神無毘橋でのことを思い出して、そのときに感じた恐怖や、悲愴や、無念さに、頭を、身を、痛めている。見続けることがつらくて、視線を再び前に戻した。
こうしてリンが自分を責め続けるのは、ただひたすらの後悔と、きっと、わたしのような、オビトと縁のある人に対する懺悔もあると思う。リンは今、神無毘橋で起こったことの全ては、自分のせいだと思い込み、自分を痛め続けているのだ。
たしかに、リンが岩隠れの忍に捕まえられなかったら、事は起きなかったかもしれない。
だけど『もしも』の話が意味を成さないことを、わたしは知っている。オビトが死んでしまった今、『もしも』は永遠に起こらない。
だったら、残されたものに目を向けるべきだ。
「だけど、リンが居てくれたから、オビトの願いを叶えてあげられたんだよ」
リンは涙を拭いながら、足下に注いでいた視線を、わたしへと移した。
「願い……?」
「わたし、オビトが任務に行く前に会ったの。お守り渡そうと思ったんだけど、ちょっと……渡せなくて」
思い出すと、悔やんでも悔やみきれない。あのとき、オビトはいつもリンのことばかりだと、気落ちしたり不貞腐れずに勇気を出して、今でもポーチに入ったままのお守りだけでも渡せていたら――あとからあとから、ああしていればこうしていればと尽きない。
「そのときに、はたけくんの上忍祝いのプレゼントの話をしたら、オビトは『あいつにやるものなんかない』って言ってたんだ」
あ、そうだ。わたしが見たオビトの最後の顔は、あの不機嫌な顔だった。考えると少し切ない。笑顔とかそういうのがよかった。太陽のオビトがよかった。これも、今更何を言っても無理な話だけれど。
「でも、いざ死んでしまうってなったときに、『贈りたい』って思ったんだよね。あのとき、そこにリンが居てくれなかったら、オビトの写輪眼をはたけくんにあげることはできなかったよね」
眼球を移植できるほどの腕を持った医療忍者のリンが居たことは、不幸中の幸いというやつだ。まるで、このときのためにと振り分けたみたいに、完璧な人選だった。やっぱりミナト班にはわたしは居るべきじゃなかった。オビト、リン、はたけくんでよかったのだ。
「オビトの願いを叶えてくれて、ありがとう」
わたしがお礼を言うと、リンは顔をくしゃくしゃにしてしまった。菫色の化粧は剥げたりはしないけれど、真っ青だった顔は赤くなって、喉の奥から、言葉になっていない声が漏れている。
両腕を伸ばして、横からリンを抱きしめた。リンの肩に顔を埋めると、病院に居たからか、消毒薬の独特の匂いが鼻をかすめる。
「リンが居てくれてよかった」
抱きしめた体は震えて、嗚咽を漏らすたびに大きく揺れる。リンの腕がわたしの背中に回され、互いの身をぴったりと寄せ合った。リンは声を上げて泣き続け、ぎゅうぎゅうと手に力を入れ、わたしの服をしっかり掴む。
わたしは一つも涙を零さなかった。わたしがリンを支えなければ。それだけだった。
翌日の任務が昼前から入っていたため、わたしは家の庭で母が育てていた花をいくつか貰い、花束を作って家を出た。早朝に摘んだ花は、開いたばかりで瑞々しさを持ち、青臭い香りを放っている。
ようやく空を昇り始めた朝日を受けながら、目指す先は慰霊碑。
「オビトの体を持って帰ることができなかったから、他の人たちと一緒に、石碑に刻銘されるみたい。私ね、まだ行けそうにないけど、そのうち慰霊碑に花を持って会いに行こうと思ってる。もしサホがいいなら、先に行ってあげてくれないかしら。せっかく帰ってきたオビトの魂が、オビトが寂しくないように」
リンの頼みもあって、わたしはすぐに向かおうと、昨夜寝る前に母に花を摘む許しを得た。できるだけ早く行こうと思ったら今朝になる。こんな時間から花屋は開いていないので、目についたのが庭の花だった。
早朝とあって、すれ違う人はほとんどいなかった。通りに面した家から、それぞれの家の朝食の香りが漂ってくる。額当てをつけていないので、髪を掻き分けた地肌に、朝特有の涼しい風が当たる。
慰霊碑がある方へ近づけば、人の気配はぐっと少なくなる。新しい一日を迎える小鳥のさえずりが、頭上で飛び交っていた。
摘んだ花がくたびれないようにと、注意を払いながらひたすら歩いていけば、慰霊碑の目印である、常にはためく旗が見えてきた。もう少し進めば、慰霊碑と共に、その前に立つ人影も目に入る。
わたしが声をかける前に、その人はこちらを振り返った。すぐにポケットに手を突っ込む癖は相変わらずで、わたしを認めると人形のようにぴたりと動きを止めてしまった。
構わず慰霊碑と彼の下に向かい、その顔から包帯が取れていることを確認できる距離まで詰める。
「……おはよう」
挨拶をすると、彼は――はたけくんは少し気まずそうに顔を俯ける。わたしは迷うことなく彼の隣に立ち、慰霊碑の前に持っていた花を置いた。
手を合わせ、目を閉じ、オビトを思う。
ここにオビトはいない。まだどこにも名前は刻まれていない。
けれどオビトはきっと帰ってきてくれている。木ノ葉の里に、わたしたちの傍に。
瞼を開け、手を解く。隣に立っていたはたけくんは、まだそこに居て、わたしが手向けた花に目を落としていた。彼の右側に立っているので、当然ながら右の横顔しか見えない。
「傷、治ったの?」
問うと、はたけくんは花を見つめたまま、静かに頷いた。はたけくんの目の傷がいつのものなのか、正確には分からない。しかし時が経てば瘡蓋ができるだろうし、医療忍術を施せばその治りも早い。
「ねえ、はたけくん」
名を呼ぶと、はたけくんの黒目だけがこちらを向いた。彼本来の、夜色の目だ。
「左目、見せてほしい」
わたしが頼むと、はたけくんは少しだけ顔を顰めたあと、静かにわたしへと向き直る。はたけくんは左目を隠すように、額当てをわざと斜めにずらしていた。それに手をかけ、ゆっくりと正しい位置に戻すと、縦に一直線の傷が入った目元が露わになった。眉から頬にかけての傷痕は確かに閉じている。
音もなく瞼が開けられ、赤い目が現れた。
思わず息を呑んだ。見慣れないことと、その赤の、強烈な引力に。
これが、オビトの。
オビトが、いつか必ずと、開眼できるその日を待ち望んていた、写輪眼。
なのにそれは、オビトではなくはたけくんの左に嵌っている。
オビトが生きているときに見たかった。おめでとうと一言告げたかった。あとは火影になるだけだねと、応援したかった。
もう、できない。
わたしは右手を伸ばし、はたけくんの頬に、目元に触れた。傷の部分には、痛まないようにと指の腹のわずかな面だけで接したけれど、感じたぷくぷくとした膨らみが、妙に生々しかった。
「結局、オビトには何も伝えられなかった」
わたしの呟きに、はたけくんは目を細めた。触れ続けるわたしの指先がくすぐったかったのかもしれない。どちらでもあるだろう。
「また今度、チャンスはあるからって、先延ばしにして」
また今度。次がある。簡単に思ってしまった。
こんなことが起こるなんて知っていれば、気持ちを伝えるどころか、行くなと引き留めたかもしれない。
もっと勇気があれば、オビトがリンを好きであろうと構わないと我を通していれば。
「言えばよかった。好きって……」
たった二文字。それだけなのに、わたしは逃げた。
次があるよね。次は頑張るよ。
次なんてなかった。『また今度』は、約束されたものじゃない。思い知らされた。
左目の、瞼や、目尻や、目頭、下瞼。色んなところに指を這わせた。はたけくんは嫌がる様子もなく、わたしのしたいようにと、じっと受け入れている。
赤い目が、わたしを見る。赤の中には勾玉に近い巴が二つ。禍々しさと同時に、美しさを感じた。
「オビトは、『仲間を見捨てる奴はクズだ』って言った」
わたしと目を合わせたまま、はたけくんが口を開く。久しぶりに聞いた声は、とてもくたびれていた。
はたけくんはいつも、隙を見せたりしないとばかりに、その声にも覇気があった。だから同じ歳なのにわたしより大人っぽく見えていたけれど、今はわたしと同じ歳の男の子――もしかしたら、それより下の、何かに凍えている小さな子だ。
「クズのオレを助けて、オビトは死んだ」
かすれた声は、全身から絞り出したようにか細くて、こんなに傍でなければ聞き逃していたかもしれない。
「オレは、オビトが託してくれた写輪眼と、オビトの意志を受け継ぐ。この戦争を終わらせ、あいつが守りたかった、仲間を、里を守る」
『オビトの意志』という言葉にハッとした。
「オビトの代わりに、オレがリンを守る」
右には夜を、左には血を灯す瞳が、力強さを取り戻していく。
そうか。
そうだね。
オビトの意志は、ここにあった。
彼の意志を継ぐのは、彼の代わりに火影になることではない。
「うん。わたしも。オビトの意志を、継ぐよ。リンを守る」
オビトの意志は、仲間を守ること。木ノ葉の里を、人たちを守ること。
そして、大好きなリンを守ること。
それがオビトの意志だ。
「わたしたちで、リンを守ろう」
頬に手のひらを当て、そっと撫でた。はたけくんの左目から、一筋の涙が流れる。オビトの目が泣いている。わたしの手に、ぬるい熱が染みていく。
もう片方の手で、空いている片頬にも手を添えた。ゆっくり顔を近づけ、まだそこまで身長が変わらない彼の額と自分の額をくっつける。はたけくんの額当てが、額当てを付けていない前髪越しの肌に当たると冷たかった。だけど寒くはなかった。
はたけくんがわたしの両手に、自分の両手を重ねる。わたしよりもずっと熱い温度がわたしの手を覆うと、「うん」と一言頷いた。気づけばわたしも泣いていた。オビトのことを思って泣くのは、これで本当に最後にしよう。オビトの意志を継ぐのに、涙は似合わない。わたしとはたけくんで、リンを守るんだ。