「あんまり無茶するなよ」
「はーい」
受付所の近くの医務室内。任務帰りの忍が、わざわざ病院に行くほどではない軽傷の治療をするため、医療忍者が常時待機しており、今日の当番はナギサだった。
慣れた手つきでわたしの治療を済ませると、机に向かい、カルテのような紙にペンを走らせる。
「ナギサがここの当番なんて珍しいね」
この医務室の当番は医療忍者の間でシフトを組んでいるらしく、以前はよくナギサの顔を見かけていたけれど、特上になった辺りから、ナギサが派遣される先は病院が多くなった。病院には重傷や緊急性の高い患者が運ばれてくるため、腕のある者が求められるからだ。
「やっと後輩が何人か育ったからな。今は病院でみっちりしごいてもらってて、そっちに人をやった分、オレがこっちに来たってわけだ」
書き終わったのか、ペンを置くと、ナギサは椅子を回転させ、体ごとこちらを向いた。昔から放っていた威圧感は今も変わらない。
口癖だった『ぶっとばす』の頻度は減ったものの、この間ヨシヒトと三人で会ったときは五分に一回は『ぶっとばす』と言っていたことを思い出し、昔馴染みというものはかけがえのないものだと感慨に浸った。
「サホは今から休みか?」
「ううん。あと三時間経ったら、また次の任務」
「上忍は忙しいな」
鋭い目がさらに細められる。機嫌が悪そうに見えるけど、これは心配しているときの表情だ。
上忍になってそろそろ五年になる。ベテランとまではいかないけれど、上忍である自分にはもう戸惑いも迷いもない。
迷いがないというより、迷うことに頭を使う暇もないくらいに任務がある。会議にも出席して後輩への指導も行い、もちろん自己鍛錬だって欠かせない。
やることがたくさんあって、余計なことを考える時間も惜しい生活が、後ろ向きになりがちなわたしにはよかったのかもしれない。
治療の礼を言って医務室を出ようとすると、ナギサも一緒についてきた。喉が渇いたので飲み物を買いたいらしく、戸に鍵をかけると『ただ今不在』の札を下げ、並んで通路を進んだ。
「ナギサも忙しいでしょ。学会とかにもたまに出るって言ってたじゃない」
「まあな。ああいう場に出るのは好きじゃないが、出られる奴がいないんじゃな」
横顔が疲れて見えたのは、身体の疲労ではなく気苦労からくるものだろうか。わたし自身は学会で発表する場などまだ経験していないから分からないけれど、多分わたしも現場の方が好きだ。
「育った奴らが手を離れたら、また新しい奴が増えて、他の奴らとの勉強会もあるし……あそこの医務室の当番が唯一の息抜きだな」
「それはなんというか……お疲れさま」
医務室から一番近い売店は、受付所を出て右に行ったところにある。
わたしもお茶でも買って、時間までどこかで休憩しようと外へ出ようとしたそのとき、
「ちょっと!」
と女性の声が響いて、振り向くと女性がツカツカとこちらに歩いてくるのが見えた。その怒りに満ちた目はわたしを捉えていて、すぐそばまで着くと、一際きつく睨んでくる。
「人の男をたぶらかしてるんじゃないわよ!!」
開いた口から発せられたのは怒鳴り声。吹き飛ばされるんじゃないかと思うほどの声量だったので、室内にいる人たちの視線が一気に集まるのを肌で感じた。
「へ……?」
「とぼけないで! いい? 貴女は所詮、仕事! 仲間! なんだからね!! 恋人はわ、た、し! なんだから!」
話の内容がまったく把握できず、間の抜けた声を上げるわたしにさらに苛立ったのか、女性は一段と大きな声を上げる。言葉を区切り強調したあと、カツカツと靴音を立てて外へと出て行った。
「おいサホ。大丈夫か?」
「大丈夫だけど……え? なに? わたし別に何もしてない……」
突然の事態に思考が追いつかないが、どうもわたしはあの女性の恋人をたぶらかしていたらしい――が、そんな心当たりはまったくない。
生まれてこの方、カカシ以外の人と付き合ったこともないし、友人を含む男性とも節度ある距離を保っているつもりだ。
あくまでもわたしが思う『節度ある距離』なので、他人からすれば問題のある距離間かもしれないけれど、それにしたって公衆の面前で怒鳴られるほどのことをした覚えはない。
訳が分からないまま、一体どういうことなのかと、そう問いたくても答えてくれる人はどこにもいなかった。
女性から怒鳴られた一件以来、わたしに関して、また変な噂が流れている。『また』だ。
――はたけ上忍がいるのに浮気してるらしいよ。
――里一番のエリートよりいい男なんているの?
――ちゃんとカカシさんと別れてから付き合えばいいのにね。
今現在広まっているのは『わたしが二股をかけていて、相手の彼女にそれがバレて怒鳴り込まれた』というものだ。『怒鳴り込まれた』以外、何一つ正しくないのだが、世間ではそれが“真実”らしい。
噂の中心になるのは、もううんざりだ。前にもあった。『エリート狙いの身の程知らずだ』とからかわれ、カカシと付き合いだした頃にも回りくどく絡まれた。
「その割には元気じゃない」
「さすがにもう慣れたから」
ちょうど夕飯時にアンコに会って、一緒に食事に行かないかと誘われ、特に予定もなかったのでアンコのオススメらしい近くの店に入った。
メニューを見てみれば、なるほどアンコが好きそうなお店だとすぐに納得する。ガッツリとした食事やおつまみ感覚で頼める軽食より、あんみつやパフェなどのデザートのスペースが大きい。
「図太くなったわねぇ」
「あっちだって、度が過ぎたら注意だけで済むって思ってないよ。素行面で処分されるのは自分だもの」
里を始め、火の国という大国を守り背負うのが忍。規律を乱す者には相応の処分が下る。
わたしが恋人のいる男性をたぶらかしたかどうかなんて、調べればすぐに否と分かるはず。虚言を流布しただけでなく、相手の人格を揶揄し、貶しめる言動を取る者に、大事な命も里も預けられない。
結果、評価が下がるのは向こうだ。それを分かっているからこそ、これ以上ひどい噂が流れる可能性は低いと見積もっているので、アンコ曰く図太くいられる。
「元気そうなら何よりだわ」
「……もしかして、心配してくれてたの?」
「だってあんた、一時期病んでたじゃない」
訊ねると、アンコは腕を組んでサラッと言った。
その時期があったことはもちろん覚えている。ただ、あの頃は精神的にきつかったせいで、実のところ周りがよく見えていなかった。態度には気をつけていたつもりだったけれど、アンコや友人たちにどう振る舞っていたかはっきりとは覚えていない。
「その節はお世話になりました」
「ほんとよぉ。あ、このスペシャルデラックスパフェでいいわよ」
改めて礼を述べると、アンコはわたしが持っているメニューの一角を指差した。大きなパフェの器の天辺に、串団子や羊羹、クッキーにチョコレート、フルーツにアイスクリームと、とにかくてんこ盛りで、値段もそうだけど大きさだって規格外だ。見ただけで胃が重くなる品だけど、アンコならあっさり食べてしまうだろう。
こちらが気負わないよう、パフェを礼にしてくれればいいというアンコに感謝しつつ、そのパフェと、わたしの分の夕飯を注文し、食事を終えると、店を出てすぐに別れた。
陽が落ちても木ノ葉の里の賑わいは続く。急ぎの買い出しもないし、そのまま自宅に戻ろうと歩いていると、向かいから歩いてくる女性と目が合った。額当てをつけた女性は連れである別の女性に耳打ちし、二人でわたしに意味深な視線を送る。
『ああ、あれが噂の』とでも思ってるんだろうなぁ。
口元を手で隠しているので彼女たちの会話の詳細までは分からないけれど、恐らくそういう話をしているに違いない。
慣れたとはいえ、ああして自分のことをひそひそと噂されているのはいい気分ではない。
カカシが帰ってくるまでに、噂が消えればいいけど。
少し前に任務に出たカカシはまだ帰って来ない。女性に怒鳴られたのも、噂が流れだしたのも、カカシが里を出たあとだ。
カカシがわたしを信じてくれないなんて疑うわけじゃないけれど、やはり耳に入れてほしくない。誤解を招いて、カカシとの仲がぎくしゃくするのもいやだし、事実無根で見限られるのもいやだ。
いつもなら早く帰ってくればいいのにと思うけど、今回ばかりはもう少し帰らないでいてほしいと、都合よく考えていたら後ろから肩を叩かれた。
「えっ――カカシ!?」
「ただいま」
振り向いたら背後にカカシが立っていた。こんなに近づかれるまでまったく気配を感じなかったうえに、さっきまでカカシの帰還が延びることを願っていたせいか、びっくりして心臓がバクバクと駆ける。
「お、おかえり。任務、終わったの?」
「さっき報告してきた。サホは?」
「わたしはさっきアンコとご飯を食べて、帰るところだけど……」
「そう。なら夕飯は弁当にしよう」
カカシはわたしの手を取って、目当ての弁当屋に向かうつもりなのか、そちらの方へと進んでいく。
任務帰りでくたびれた様子以外は、普段と変わらない。戻って来たばかりで、わたしに関する噂はまだ知らないみたいだ。
よかったと胸を撫で下ろした。噂については、家に帰って落ち着いてから説明しよう。実はこんなことがあってねと、受付所で起きたことからきちんと。
「――で。また変な噂を流されてるみたいだけど」
遅かった。カカシの耳は、すでに噂を聞いてしまったらしい。
「あ、ああ、うん……。わたしも、どうしてこうなったのかよく分からないんだけど……」
わたしはできる限り詳しく説明した。受付所でいきなり見知らぬ女性に怒鳴られたこと。『たぶらかした』と咎められてけれど、そんな覚えは一つもなく、女性の恋人が誰なのかすらも分からないので、誤解を打ち消せないまま噂が流れていること。
ただ起きた事実を、主観はなるべく排除して告げると、カカシは、
「へえ。サホも散々だね」
と、淡々と受け止めた。受け止めたというより、流したに近い。
「本当に、本当に何にもないんだよ」
「分かってるよ」
ちゃんと伝わっているだろうかと不安になって、重ねて無実を訴えるが、カカシはさきほどと同じ平坦なトーンで相槌を打った。
「本当だよ。仲の良い男の人はいないわけじゃないけど、友達とか仕事で付き合いがあるってだけだし、たぶらかしてなんてしてないから」
「分かってるって。だから堂々としてなよ。サホは悪いことなんて何もしてないんだし」
しつこいわたしに、前を向いていたカカシはこちらを振り返り、表情を崩した。呆れつつも笑っていて、そこにわたしを見下げるようなものは感じない。
「疑ったり、しないの?」
「しないよ」
恐る恐る問えば、きっぱりとした答えがすぐに返ってきて驚いた。
動揺してぽかんと口を開けるわたしをよそに、カカシは再び正面に顔を戻し、よほどお腹が空いているのか、弁当屋へ歩を進めるべくわたしを引く。広い緑の背中の真ん中、赤いうずまき模様がパッと目に入った。
「サホがオレ以外に靡くなんて、考えてないよ」
声は前方から流れてきた。カカシは前を向いたままなので、どんな目をしてその言葉を口にしたのか見えないけれど、わたしに全幅の信頼を寄せてくれているのはしっかり伝わった。
自分以外を好きになるわけないという、その自信はいったいどこからくるのか。呆れる気持ちも多少はあったけれど、嬉しさの方がずっと勝った。
噂が流れだして一ヶ月経つ。
あの女性が誰だったのか、わたしがたぶらかしたらしい、その恋人とやらが誰なのかは分からないままだった。
カカシ以外の親しい男性は、ナギサやヨシヒト、ガイやアスマの元チームメイトや同期の友人たち。先輩のシイナさんや、後輩のヒサギたちもいるけれど、皆一様に『そんな女性は知らない』と返した。
わたしではこれ以上調べようがなく、カカシや周囲の人たちから誤解されていないし、その後も女性から接触がなかったため、わたし自身も日々の中で気にかけることはなくなっていた。
言伝でナギサから話があると呼び出され、ちょうど時間が空いていたのですぐに木ノ葉病院へ向かうと、二人の男女を紹介された。
男性は木ノ葉の額当てをつけていて、女性はどことなく見覚えがある。
「話があるって聞いて来たんだけど……」
「ああ。お前に謝罪をしたいってな」
「謝罪?」
眉間に皺を刻むナギサの傍に控えていた二人が、一歩前に出ていきなり頭を下げた。
「先日は申し訳ありませんでした! 俺が至らないばかりに、かすみ上忍に大変なご迷惑をおかけして……!」
「え?」
「あのときは、勘違いとはいえあんなひどいことを……本当に、本当に申し訳ありません!」
「えっと……」
いきなり直角以上に体を折り謝罪する二人に、訳が分からず混乱していると、「実はな」とナギサが切り出した。
「先月、受付所で怒鳴られただろ」
先月、受付所で。
深く頭を下げる女性をもう一度見た。伏せているので顔は分からないけれど、その髪の色は、あのときの女性と似た色だ。
「あっ! あなた、あのときの……?」
あのとき、わたしに怒鳴ってきた女性だと気づくと、二人の頭がさらに下がった。
何度か声をかけやっと二人が顔を上げ、あの件についての謝罪と、なぜわたしが怒鳴られるにまで至った経緯が説明された。
女性と男性は恋人。女性は非戦闘員で里の商店に勤めていて、男性は中忍の医療忍者であり、ナギサの新しい後輩。
その後輩である男性が、勉強熱心且つ、ナギサをかなり慕っていて、それが今回の件の引き金となったらしい。
男性は事ある毎に女性に対し、
『ナギサさんに指導してもらえるなんて』
『医療忍者を目指してからずっと憧れの人だよ』
『この本、ナギサさんに貸してもらったから今日中に読まないと』
『ナギサさんとあの店に行ったんだけど、天ぷらが美味しかったよ』
『ごめん。その日はナギサさんの勉強会があるから会えない』
などと、ナギサに対する尊敬の念を語り、彼女との予定よりナギサとの予定を優先していた。
当然ながら、いくら仕事の付き合いとはいえ、彼女としては面白くない。
しかも『ナギサ』という女性に多い名前から、『ナギサさん』は女だと思い込んだ。
不満を募らせた彼女は、想像の『ナギサ』への恨みがこんこんと募り、一言文句をぶつけてやろうと、受付所へ足を運んだ。
「それで、通りかかった方に訊いたんです。『海辺ナギサさんってどこにいますか?』って。その人が指差した先に、お二人が居て……」
「『ナギサ』を女だと思っていたから、わたしだと思った?」
「その通りです。本当にすみませんでした」
女性がまた頭を下げ、男性も倣って頭を下げ、さっきから二人の頭頂部ばかりを見せられている。
つまりわたしは、完全に巻き込まれた形だったらしい。
「俺の後輩が迷惑かけて悪かった。監督不足ってことで、責任を持って噂はこっちで訂正しとく」
ナギサの鋭い目がぎゅっと細くなる。
自分と間違われて、自分の後輩が原因で、とくれば、非はないとしても、責任を感じてしまうのだろう。
まさかこんなことが起きるとは、ナギサも男性も思っていなかっただろうし、それに暴走してしまった女性の気持ちも分からなくはなかった。
自分の恋人が他の女性に憧れて、自分との予定よりもそちらを優先していたら――怒鳴り込もうとまでは考えないけれど、いい気分はしない。
ちらりとナギサの顔を見やれば、普段から厳しい顔がさらに顰められ、仁王か何かのようになっている。わたしはナギサの恐ろしい形相に耐性があるけど、二人にとっては地獄の閻魔様や鬼に見えているかもしれない。
「わたしは、謝ってもらったし、事情も分かってスッキリしたから、もういいよ。この件はナギサに預けるね」
わたしが責めるよりも、ナギサのお説教の方が二人にはよい薬になるだろうと判断し、後のことはナギサに任せることにした。
二人は何度目になるか分からない謝罪を繰り返し、ナギサが「分かった」と力強く頷く。頭を下げる肩が大きくびくついて、密かに同情の念が芽生えたけれど、頑張れと心の中でエールだけ送っておいた。
変な噂が流れたことはもちろん迷惑だ。でも良いこともあった。
カカシは噂に惑わされず、真っ先にわたしを信じてくれる。それを知ることができた今となってはもう、笑い話の一つにでもしよう。
サホが恋人のいる男をたぶらかしてオレと二股をかけているという噂は、完全なる誤解だったと上書きされ、再び飛び交うようになった。
本人から直接聞いた事実と何ら変わりなく、『人違いで巻き込まれてしまい、その件に関してもすでに和解している』ということで、それはそれで面白いネタらしく、あっという間に広がった。
サホが任務で里を出ているので、久しぶりにテンゾウの部屋に上がり込み、だらだらと寛ぐ中で、当然その話題も上がった。
低いテーブルを挟んだ向こうに座るテンゾウが、湯呑みを煽って緑茶を飲み干し、
「噂がちゃんと訂正されてるみたいで、よかったですね」
とオレに言うので、イチャパラの中巻から目を上げずに「そうね」とだけ返した。
人の家で黙々と本を読むのは行儀としてはよろしくないが、テンゾウもテンゾウで建築資材の本を開いているので構わないだろう。
だというのに、何か不満があるのか、テンゾウは猫のように丸い目をジッと向ける。何事にも気配に聡い肌が、無視しようと思うオレの意に反してひりつき、鬱陶しい。
「あの……カカシ先輩は全然気にならなかったんですか?」
「何が?」
「サホさんの噂」
目はページを捲った先の文章を追いつつ、噂ねぇと、意識は一応テンゾウが出した『噂』に傾けてみた。
「いや? 気にしてはいたけどね。あいつがまたバカなこと言って、余計にこじれるんじゃないかって。ま、その点はサホも図太くなったみたいでよかったよ」
数年前にも噂を流されたときのことを思い出す。
今となっては笑い話の一つにでもできそうだが、当時のサホとしては胃が痛い日々だったろう。
幼い頃からよく噂の的になったオレと違い、サホはどちらかというとこれまでひっそりと、目立たず生きてきた。
奇異の目を向けられる経験をしたからか、歳を重ねたからか、上忍になったからか。今回は状況を冷静に読んで沈黙を選ぶことを覚え、人目を避けることも、逆に意識しすぎることもなかった。周囲の目を気にしすぎるあのサホも、成長したということだ。
「もしかしたら、とか思わなかったんですか?」
テンゾウは急須を傾け、中に残っていた茶をすべて湯呑みに注ぐ。かなり渋い味がしそうだ。
「『もしかしたら』って?」
「もしかしたら……本当に、サホさんが他の男に……とか」
あまりよろしくない『もしも』という自覚があるのか、テンゾウは言い淀み、湯飲みに口をつけ「にがっ」としかめっ面をした。
「んー。別に? サホがオレから離れることは、まずないから」
頭に入っていなかったので、またページの始まりから読み直す。文章はほぼすべて記憶しているため、この行動はほぼ確認作業に近い。
「余裕ですね。それだけ愛されてるってことですか」
「ま、オレもサホも、お互い以外じゃ埋められないものがあるからね」
「バカップルじゃないですか」
「そんな可愛いもんじゃないよ」
テンゾウが呆れた声を上げ、湯飲みと急須を持ってキッチンへ向かう。
ヤカンに水を入れ火にかける音がして、ようやくオレも次のページへと進んだ。
「たしかに。嫉妬する気も起きないなんて、可愛いどころか、老夫婦並みの落ち着き方ですよ」
手ぶらで戻ってきたテンゾウが、再び元の位置に腰を下ろし、からかうような軽い口調で、オレたちを『老夫婦』と称した。
「嫉妬ねぇ……」
「サホさんに言い寄ってくる人も、いないわけじゃないんですよね? そういうのも気にならないんですか?」
何がそんなに気になるのか、テンゾウはテーブルから身を乗り出すような勢いで問うてくる。実際には両手はテーブルの下にあるのだが、丸く大きな目を向けてくるから、そういう風に見えてしまう。
「だってサホにちょっかい出すとしたら、生きてる奴でしょ?」
「そりゃ、そうでしょうね」
確かめるオレに、テンゾウは当たり前だとばかりに、あっさりと肯定した。
「だったら怖くないでしょ。その気になれば、どうにでもできる」
指でぱらりとページを送る。文の川がいくつも広がる薄い紙の質感が、捲り慣れすぎた指にすっかり染みきっている。
「生きてる奴は怖くないんだよ。生きてる奴はね」
特にそうしようと決めたわけではないが、帰宅した際に隣室に明かりがついていれば、お互い自室より先にそちらに顔を出すようになった。
『何かあったときのために』と鍵も預けるようにもなって、不在でも相手の部屋へ上がることもある。
ある日。任務に向かうサホと偶然顔を合わせた際に、慌ただしい様子のサホから急に頼まれた。『冷蔵庫の魚を食べておいて』と。
任務がなかったためその日に焼いて食べるつもりが、急に任務が入ってしまったらしい。
そういうことならと、ちょうど自宅に戻る予定でもあったため、自分の部屋ではなく合鍵を使ってサホの部屋に入った。
開けた冷蔵庫の中には、サホが言ったように魚が二尾。自分で二尾とも食べるつもりだったのか、それともオレと一緒に食べるつもりでいたのだろうか。
そんな都合のいいことを考えながら、ふと部屋に違和感を覚えた。いつもと何かが違う。
端から端までじっくり目を向け、ようやく気づいたのは、リビングのチェストの引き出し。その前板はいつもぴたりと閉じているのに、一段だけわずかに開いていた。
当たり前だが、サホの部屋を物色したことはない。する必要も、したいという欲も湧かなかった。
なんとなく。ホントになんとなく、その隙間が気になって、引き出しの取っ手を引っ張った。
木の擦れる音が響いて現れる、そう広くないスペースに入っていたものに、一瞬にして目が奪われる。
オレの部屋にも飾っている、ミナト班が結成された際に四人で撮った、あの写真。
なんで、サホが。
どうしてこの写真をサホが持っているんだ。これは、オレたちミナト班のものだ。
それにオレの顔にだけテープが貼られていて見えない。オレに恨みがあるような、邪魔者のような扱い――そこまで考えて、ハッと思い出した。
これは、これはオビトが持っていた写真だ。この写真や写真立ては、あいつのものだ。
写真の横には、オレが以前渡した、コイヤブレの種の巾着もあった。オレ自身が渡したものだから忘れようがない。
写真、巾着と見知った物が並ぶ中、一つだけ見覚えのないものがあった。
橙色に、赤い七宝柄の、お守りのようなもの。神社の名前など刺繍されていないが、独特の形と結び目は、誰が見ても『お守りのようなもの』だ。
刺繍がないそれと似たものをどこかで見た。
どこだったかと、必死に記憶を探る。
これ――――そうだ。リンの。
以前、リンから医療キットを貰った。そのポーチの中から、これと似たようなお守りが出てきた。
お守りは持ち歩かねば意味がないと分かっていたが、リンを死なせてしまったあとは形見だと思うと失くすことが怖くなり、オレもこうやって引き出しの奥にしまっている。
オレにくれたリンのお守りとそっくりだが、オレが貰ったものは藍色だ。
そしてサホが保管しているのは、橙色に赤。
これも、オビトのものだ。
すぐに分かった。
リンがオレに渡してくれたように、これはきっと、サホがオビトに渡すつもりだったお守りだろう。橙色に赤は、サホにとってオビトの色だから。
オレがリンから貰ったのは上忍祝い。上忍になって、初めての任務のとき。
そのときオビトは死んだ。体を里に持ち帰ることもできなかった。
――胸が裂かれるような気がした。
引き出しの中には三つしかない。写真と種とお守り。
収納家具なんて物を詰めて意味があるというのに、たったそれだけが、この一角を占有している。
まるで、サホの心をオビトが占有しているみたいに思えて、たまらず引き出しを閉めた。
オビトが持っていた写真。
オビトに渡すはずだったお守り。
そしていまだ眠っているコイヤブレの種。
この引き出しが開いていたということは、サホ自身の手で開けたということだ。
開けたサホは、これらを見て何を思ったのだろう。
叶わなかった初恋を懐かしんでいただけなのか。あるいは、何か別の。
サホは確かにオレを愛してくれている。
オレから離れることも、オレ以外に靡くことがないとも、胸を張って言える。
ただそれは、サホがオレを愛してくれているからじゃない。
サホがオビトを忘れられないからだ。
オレはオビトにはきっと一生敵わない。オレが入り込む隙間はあっても、心を丸ごとすべて埋めることはできない。
どれだけサホを愛しても、その体を知っても、サホが左目ではなく右目を見てくれていても、オレはサホのすべてにはなれやしない。
「心変わりされる不安とかないんですか?」
文を読む目も、テンゾウの声へ耳を傾けることも放棄していたが、その一言にやっと思考の海から引き上げられ、伏せがちだった顔をゆっくり上げた。
「そんなものないよ」
「すごい自信ですね」
断言すると、テンゾウはあまりにもオレがはっきりと否定したからか、呆れるよりも驚いた。
テンゾウからすると、オレはよほど自信がある男に見えたらしい。なんとも滑稽で、頬が緩んでしまう。
「だって世界中探したって、オビトの目を持ってるのはオレだけだからね」
岩の下の、奥深くに取り残されたオビト。
あれから十年以上も経つ。その肉体はすでに朽ち、骨だけとなっているだろう。
この世で唯一残されたオビトの欠片は、他でもないオレの左の眼窩に収まっている。
オビトの欠片はオレだけが持っている。だから他の男に嫉妬なんてする必要はない。
サホが一番心を傾けているのはオビト。そのオビトの唯一残った左目をオレが持っているのに、他の男なんて見るはずがない。
心変わりされる心配なんてバカバカしい。最初からサホの心をすべて奪えていないのだから、そんなことできるわけない。
オレの卑屈な理論にようやく気づいたのか、テンゾウは複雑な表情を見せた。
「それ、自分で言ってて、ちょっとむなしくなりません?」
「バカにしないでくれる? ちょっとどころか、かなりむなしいよ」
「お察しします……」
「憐れむのはやめて」
一転してオレに同情してみせるテンゾウを突っぱねた。可哀想だと温かい目や言葉を向けられるのはより惨めな気分になる。
――少し前に、サホと二人で任務に就いた。サホが受けていた、貴族の令嬢の護衛という名の子守りで、仕方なく手伝ってやった形だ。
任務中は依頼人からの要望により、令嬢の年齢に合わせ、オレたちは共に十歳頃の姿に変化していた。
任務が済んでも、そのまましばらく子どもの姿で里を歩いていたが、半ば無理矢理にオレが互いの変化を解いた。
久方ぶりに呼ばれた『はたけくん』は懐かしく、淡い何かが芽生えた。しかしそれ以上に、胸が掻き回された。
『はたけくん』と呼ぶサホは、オレにとってはオビトだけを見ていたサホだ。横顔だけを見せつけられていた日々。思い出は多々あるが、もう『はたけくん』にはなりたくないと思ってしまった。
変化を解いたオレは、『終わってほしい』とサホに願った。主語のない頼みに、サホからは当然『何を』と問われたが、まともに返せなかった。
言えるはずがない。オビトを想うことをやめてほしいだなんて、そんな女々しくてみじめなこと。
「でも、サホさんを諦められないんですよね?」
貴方ははたけカカシですよね、と訊ねるかのように、テンゾウが確認のため問う。
「……まあね。惚れた弱みってやつだ。こればっかりは、オレじゃ埋められないものだから仕方ないよ」
サホにとってオレは、他の男に比べたらほとんど埋めてくれる相手だろう。
ただ、ほとんどであって、全部ではない。オレでもどうにもできない穴があって、それはオビトでしか埋められない。
「つらいですね」
「ホントね。鬼畜だよあいつは」
オレにはサホしかないのに、オレはサホのすべてになれない。
苦しい。悔しい。腹立たしい。様々な感情は湧くが、それでもサホから離れることはオレにはできない。
傍に居る限り、オレは焦燥と渇望を繰り返すだろう。二度と現れぬはずの相手の影に怯え続ける。
もし、もし仮に、例えばではあるが、オビトが生きていたとしたら。
有り得ないことだ。オビトは岩に潰され、そしてそのまま生き埋めとなった。
だから生きているなど有り得ない。
けれど、もしもだ。
もしもオビトが生きていたら、オレは喜ぶと同時に、とてつもない恐怖を抱くだろう。
誇るべき友。真の英雄。
そしてサホの心に穴を空け、失われたすべてを手にしているたった一人の男。
オビトがこの世にいないことを嘆き悔やむ自分と、それだけではない自分が存在するみっともなさを覚えるたびに、左目が疼く気がした。