驚きのあまり丸く開かれた右目を認めた瞬間、ぎくりと身が弾んだ。
他人のふりでもしようか。いやきっとそれは無理だろう。頭を働かせても、よい策はすぐには出てこない。
迷っているうちに慣れていない名前を呼ばれ、これ幸いにと刺さる視線には知らぬふりをし、そちらへ駆けた。
帰る途中でさんざん考えて、あとで問われるより先に話してしまおうと、自宅ではなく隣室の呼び鈴を鳴らした。
窓の明かりはついていたから在宅のはずだ。やや間を置き、重たげな音を立てて扉が開いた。
額当てや緑のベストを身から外し、楽な格好をしたカカシが、ドアノブに手をかけたまま少し高い位置よりわたしを見下ろす。
「……おかえり」
「……ただいま」
言葉を交わし、カカシの部屋に入る。サンダルを脱いで揃え、カカシの後を追って奥へ進む。妙に緊張してしまい自然と無言になった。
カカシもまた、ベッドに腰を下すと黙してこちらを見る。何も言わないが、昼に見たことを話せと促しているのは、カカシと親しくない者にでも伝わるだろう。
「昼間のこと、なんだけど……」
威圧感ではないが、似たような居心地の悪さを覚え、両手を重ねて遊ばせてしまう。
「任務中だったの」
「だろうね。そうでもなきゃ、あんな姿になる理由もないし」
『あんな姿』と言われ、気恥ずかしさでつい頭が下がった。
「それで? なんだって子どもに変化してたわけ?」
自身の膝に肘を置き、頬杖をつくカカシが、どことなく呆れた様子で問う。
帰路を行く間、光り始めた外灯の数が、マンションに着くまで残り二本を切ったところでようやくまとめ終えた『理由』を、頭の中で一から順に辿りながら、カカシに説明した。
受付所から差し出された依頼書はCランクだった。
思わず目を疑って確認してみたけれど、わたし指定の任務で間違いない。
一体何なのかと、依頼書を読みこんで少し納得した。
依頼人は火の国の貴族。木ノ葉隠れの里に数日滞在するので、十歳の娘の遊び相手を兼ねた護衛を所望しているとのこと。
聞けば、主に求められているのは遊び相手の方だと言う。だったら上忍でなくとも――と思ったのだが、これが少しややこしかった。
娘は同年代の相手を望んでいるが、同じ年頃というと、下忍になったばかりの十二歳前後が一番近い。
けれど新米の、十二歳ほどの幼い下忍では少々手に余る方らしい。機嫌を損ねず、無礼も働かずとなると、安心して任せられるような下忍はいなかった。
そこで白羽の矢が当たったのがわたし。
わたしは少し前に、今は亡き渦の国から流れ着いたと思われる、封印術が施された小箱が発見されたので、その解術を任されていた。
ちょうどいい機会だからと、許可を貰ったうえで、わたしが監督する形で後輩のヒサギに挑戦させることにした。何事も実践あるのみ、というのがクシナ先生の教えで、わたしも倣った形だ。
それがどうにも、上から見るとわたしは暇そうに見えたらしい。
断じて暇ではないし、その小箱以外にも、協力する形で別の任務に関わっているけれど、とにかく『動きやすいだろう』ということで、わたしが選ばれてしまった。
「なるほどね。上忍を子どもに変化させてつけておく方が、下手な対応を取る心配もない」
わたしの説明を一通り聞いたカカシは、わたしが言うまでもなく上の思惑を察した。
「わざわざ上忍じゃなくても、中忍でよかったんじゃない?」
「子どもの相手が得意な中忍は、みんな別の任務で手が空いてなかったから。木ノ葉の信用にも関わるし、不慣れな中忍より上忍にと考えたみたい。特に貴族相手だと、いろいろ面倒でしょ?」
貴族は横の繋がりが広く、常に情報を共有している。依頼に対する評価もすぐに流れ、しかも善し悪しでいうなら後者が特に広がりやすい。
「カカシに見られたときは、『外に出たい』ってさんざん言われて、仕方なくお菓子を買いにちょうど外へ出てて……」
昼間のことを思い出すと、両肩がズンと重くなる。
明日も付き合わなければならないうえ、別れ際に押し付けられた無茶な要求のことも考えると、自然とため息が口からついて出る。
「随分疲れてるね」
「依頼は明日までなんだけど、『もっと遊び相手が欲しいから連れて来い』って言われちゃって」
一人で居るより幅はグンと広がるけれど、二人でやれることも所詮限られている。依頼主の娘は、人数が多ければもっと楽しくなると考えたらしい。
「お付きの人からも『人員追加分の報酬は支払うから』って頼まれたけど、そんなこと急に言われても……」
報酬さえ払えば何とでもなると思われては困る。今回はたまたま、都合がつきやすい上忍であるわたしがいて、タイミングがよかっただけだ。
一応受付所を通して、上忍でなくとも構わないから手の空いている者を寄越してほしい、と頼んではみたものの不安は残る。
仮に中忍や下忍の誰かを寄越されても、わたしの精神的疲労が増えるだけになりそうだ。中忍下忍が力不足なのではなくて、あの方の機嫌を損ねないように一日過ごすだけでもとても苦労したのに、下忍の子の振る舞いにまで注視するのは避けたい。
できれば中忍以上の、割り切って子守りに徹してくれて、安心して一緒に任務に就けるほど信頼できる相手。
そんな人が、都合よく明日丸一日空いて、すぐに見つかるなんて――
「……ねえ、カカシ。カカシ、一週間くらい任務で外に出てたよね?」
「一週間と二日ね」
「じゃあ、明日はさすがに非番か待機?」
「待機だけど……」
わたしが言わんとすることが分かったのか、カカシは不満げな声を上げ、あからさまに目を逸らした。
貴族ご一行が滞在する宿は、木ノ葉の里に古くから開いている、貴族はもちろん大名もお迎えする老舗の旅館。
とはいえ、数年前に九尾が里で暴れた際に本館が半壊したため、新しく建て直されている。
木ノ葉の里の歴史から見ても重要な建造物の取り壊しには色んな声が上がったが、昔の名残りを残した新館の評判は悪くはなく、古い設備が一新されたことで、滞在は以前よりも快適なものにもなっている。
その宿の、三番目に高い部屋。一般客室の数倍の広さで、南側には檜の露天風呂が設置されている。
高級な羽毛を使用したベッドが二台。曲線が特徴の重厚なテーブルと椅子。一面に敷かれたカーペットは柔らかすぎて、足を取られそうになる。
清潔の白と、新緑のグリーン。落ち着いた茶色でまとめられた広い一室は、椅子に腰かけ上体を反らして足を組む、目の前の女の子ただ一人のために用意された部屋だ。
「その子がサワラの友達?」
「はい。カジカです」
わたしが答えると、値踏みするように、彼女は隣に立つカカシをじろじろと観察する。
高い背丈は普段の三分の二ほどに縮まり、左目の写輪眼はなく額当ては平行に巻かれている。およそわたしの記憶と違わない、十歳頃の姿に変化したカカシは、黙って軽く一礼する。
『サワラ』というのは、子どもに変化したわたしが彼女に伝えた偽名だ。
依頼人である彼女の父の要望に応え『木ノ葉の同年代の忍』として接っしているため、本名を告げるのは控えた方がいいと判断し、木ノ葉に登録されている下忍にはいない名前をと思ったらサワラになった。
カカシにも同様に偽名で通してもらうことにし、わたしが『カジカ』と名付けた。『なんだか腹が減る名前だね』と言われて、任務が終わったら魚を食べに行く約束をしている。
「カジカ。この方が
カカシことカジカに、フキ様を紹介する。
フキ様は北東にある大きな町に広い邸宅を構え、何代も前から続く名門貴族、鮗家のご令嬢。父親は仕事のため里を訪問し、彼女は旅行がてらついてきた形だ。
あどけない顔立ちの十歳だけど、袖を通す品のいい服は七千両。任務で忙しく外食になりがちなわたしの、一か月の食費より高い。
丁寧に梳かされた栗色の髪に、澄んだ青い瞳。前髪はまとめ上げ、可愛らしいバレッタで天辺を留めて、つるりとしたおでこの真下には、整えられた少し太めの眉。
「どうして顔を半分隠しているの?」
肘かけに両腕を乗せたまま、フキ様がかわいらしい声でカカシに訊ねる。
「忍ですので」
「あら。サワラは隠していないわよ」
「サワラは顔を半分隠さない忍ですので」
淡々と返すカカシが気に入らなかったのか、フキ様の口はへの字になった。
「サワラ。もっといい者はいないの?」
「カジカはわたしより優秀な忍ですよ」
「そんなことどうだっていいのよ。この子と居たって面白くないわ! 他の忍を連れてきてちょうだい!」
顔はわたしに向けながら、カカシを無遠慮に指差すフキ様は、カジカという子どもがお気に召さなかったらしい。
愛想がいいとは言えないけれど、たった二言のやりとりだけで帰れと申されても困る。受付所にもカカシに頼んだと伝えているので、すぐに別の者を手配するのは難しい。
「フキ様。僭越ながら、サワラと二人では満足できなかったために、忍の増員をご希望なされたのでしょう? せっかくですし、まずは一度お相手ください。それから私を上へ突き返しても遅くないのでは?」
慇懃無礼の一歩手前、といった様子でカカシがフキ様に言葉をかける。
フキ様は頬杖をつき、足を組み替えた。若干十歳にして、すでに女王のごとき貫禄を見せる彼女の、青く鋭い強い視線を受けても、カカシは微動だにしない。
「いいわ。遊んであげるから、私を満足させてみなさい」
結果、フキ様は大層喜んだ。
カカシのどこにそんな才能があったのか、巧妙にフキ様のツボを押さえ、一時間もすればわたしの偽名よりカカシの偽名を呼ぶことが多くなった。
旅館の許可を得て敷地内の広い庭の一角で、カカシはまず得意の雷遁でフキ様が指定する動物を作り出したり、土遁で簡単な土の家を作ってやった。
曲芸師のようにクナイや手裏剣を打てばフキ様は拍手をし、わたしと忍組手を取ればカカシを応援し、カカシが鮮やかに勝てばまた拍手をして笑った。
昼食の時間となり、わたしたちはフキ様が食事を済ませるまで廊下で待機している。
朝から任務に就いていたわたしも空腹は覚えたけれど、任務中は極力フキ様から離れるわけにはいかないし、廊下で立ちながら携帯食料を食べるというのも品がない。任務が終わってすぐにご飯を食べればいいだけだ。
「フキ様、楽しそうだったね。わたしのときは、あそこまで喜んでもらえなかったよ」
「情報をもらってたから、対策を練ってきただけだよ。あの手の方々は派手で刺激的なことがお好きだから」
情報といっても、大したものではない。フキ様のざっくりとした身辺情報と、性格や言動、食の好みと昨日の出来事を伝えただけだ。
わたしも昨日は忍術や忍器を使ってみせたけれど、万が一のことを考え不安が勝り、安全第一を念頭に置いていた。だから派手さには欠けていたという自覚もあるし、フキ様としてもつまらなかっただろう。
今日のように忍が二人いるなら、一人をフキ様のそばにつけておけば、多少派手で危険なこともできる。
それにカカシなら術も忍器もわたしよりずっと扱いに長けていて、チャクラを練って動物をつくることも、立派な家を作ることもできる。何より『万が一』の可能性もほぼない。
ある程度の自信を持ってフキ様のご機嫌取りに挑んだだろうけれど、実際にフキ様もあそこまで喜ぶなんて。
「意外。子守りはあんまり得意じゃないと思ってた。前に見かけたときは大変そうだったし」
「……ああ。四つ子の。あれは子守りっていうか、危険物取扱いね」
できれば四つ子はもう引き受けたくないと、眉を寄せうんざりする。昔よく見ていたカカシの顔。本人が小さい頃の姿に変化しているのだから当然で、懐かしさに意図せず口元が緩んだ。
「頼んでよかった」
「お礼が楽しみだよ」
「分かってるって」
待機でゆっくりできたところを、無理を言って連れてきたのだ。今日は奮発して存分に奢ってもいい。
予定ではフキ様のお相手兼護衛は夕方六時に終了だ。紅に教えてもらった、魚料理の美味しいお店でご飯じゃ足りないかな。他は何がいいだろう。この前教えてもらった、お酒の美味しいところはどこだったっけ。
考えていると、戸が音を立てて開いて、装いを新たにしたフキ様が出てきた。
先ほど着ていた光沢のある臙脂色のワンピースから、ボタンラインにフリルが流れるブラウスに、ふわふわと透ける生地を重ねた菜花色のスカートは、愛らしいお嬢様そのものだ。
「カジカ! 出かけるわよ!」
「本日は外出のお許しは頂いておりませんが」
「さっきお父様にお願いして、よいと言われたの。確認したいならするといいわ」
フキ様の後ろに控えているお付きの女性にカカシが目をやると、軽くコクンと頷いた。彼女が父親と連絡を取りつけ許可を得たらしい。
「承知しました」
カカシが返すや否や、フキ様はその手を掴んで宿の廊下をずんずんと進んでいく。
腕を取られたカカシは少しもたつきながらも歩き、わたしを振り返る。少し焦った表情が可笑しくて、小走りで後を追った。
もはやわたしの名前も呼ばれない。顔を合せたときに生じた懸念はすでに霧散している。フキ様はすっかり『カジカ』が気に入ったようだ。
里内は体内を巡る血管のようにいろんな道がある。
多くの人が行き交う大通り。
そこから脇へ入り、各々の家へ続く路地。
建物の間を繋ぐ歩道橋。
あまり治安がよいとはいえない裏道。
九尾が暴れたあと道の整備も行われ、複雑な繋がりや曲線は減った方だけど、まだ入り組んでいる里の様子は、フキ様には面白くてたまらないらしい。
「カジカ、あの店はなに?」
「あそこは調理道具の店です。鍋や包丁を取り扱っています」
「あれは?」
「質屋です。自分の持ち物を預けて金を借りる店です」
「じゃああそこは?」
「あの店は仕立物屋ですね。注文を受けて服を仕立てたるだけでなく、かけつぎをしたり、衣服の丈を長くしたり短くしたりする店です」
「かけつぎ?」
「生地に空いた穴を塞ぐんです」
「わざわざ? 新しいものを買えばいいのに」
「思い入れがある服を持つ人もいますから」
通りを歩きながら、フキ様があちこちを指で差してカカシに質問し、カカシは不足なく淡々とした物言いでフキ様に答えていく。
店を指差さない手は、カカシの腕に巻かれ、一見すると親しげなかわいらしい恋人たちのようだった。
実際、フキ様のカカシを見る目は喜色に満ちていて、きっと恋をしている目に近い。
昔もああやって、いろんな女の子から目を向けられていたのかな。
後ろから見ながら、そんなことを考えた。
子どもの頃のわたしは、カカシ曰く『オビトしか見ていなかった』ので、周りの女の子がカカシをどう見ているかなんて、ほとんど考えたことがない。親友のリンの想いにすら気づかなかったほどだから、本当に興味がなかったのだろう。
あの歳の女の子には、カカシは一際カッコよく見えて、あっという間に恋に落ちてしまうほどの引力があるのかも。
子どもに変化していても、思考は大人のままなので、今のわたしから見ても前を歩くカカシは『子ども頃のカカシ』でしかなく、『カッコいい』よりも年下へ向ける『かわいい』という感情の方が強く湧く。
――もしかしたら、オビトではなくカカシを好きになっていた自分もいたのだろうか。
アカデミーで男子二人から責められていたわたしを庇ってくれたのがオビトで、だからオビトが気になって、人柄を知って好きになった。
もしあのとき庇ったのがカカシだったら。
もしあのときオビトが庇ってくれず、誰も好きになっていなかったら。
もしかしたら、わたしは最初からカカシを好きになったりして。
自分と同じ目でカカシを見るリンに気づいて、ぎくしゃくしたりケンカしたりしたのだろうか。
周りの女の子がみんなライバルに見えちゃったりしたのかな。
オビトの恋を全力で応援しちゃう、ずるい子になったのかもしれない。
でもすべて、遠い遠い、叶わない過去だ。
「サワラ!」
ハッと、知らぬうちに俯いていた顔を上げると、すぐ近くにカカシの顔があった。
全身変化のため、左目を走る傷はなく、右も左も夜色の目。その瞳が助けを求めるように、わたしの手を掴んだ。
「フキ様がお茶をしたいらしい。この辺でいい店、知ってる?」
「この辺の? そうだなぁ……」
歩いて行ける範囲の店を、頭の中でいくつかピックアップして、フキ様をお通ししても大丈夫か考える。待つことは嫌いみたいだから、この時間帯でもすぐに入れる店がいい。
「ちょっと! 私はカジカに訊いてるのよ!」
「申し訳ありませんが、私はフキ様が好むような店には疎いので」
「別にいいわ。カジカが行く店に行きたいの」
店探しをわたしに任せたカカシに、フキ様が太めの眉の尻を上げて怒る。膨らます頬がぷっくりしていて愛らしい。
フキ様はカジカが案内する店に行きたいのであって、わたしが案内する店では意味がない。
なんともいじらしく、かわいらしい要求の意図が分かり、場にそぐわない微笑ましい気持ちにつられ、口元が笑むのが鏡を見ずとも分かった。
「私の行く店は、間違ってもフキ様のような高貴な方をお連れできる店ではありません」
フキ様に言われても尚、カカシはきっぱり断った。
カカシもフキ様の求めるものが何たるかは分かっている。フキ様からの好意に気づかないわけがない。
しかし実際、成人した上忍であるカカシの行く店は、十歳の貴族の少女を連れて行ってもいい店ばかりじゃない。
忍具屋は危険な物も多く揃っているし、この通りの飲食店は飲酒をメインとした店がほとんどだ。さすがにおやつの時間に焼き鳥やねぎまを出す店には連れて行きにくい。
「いいところある?」
「少し歩くけど、西の方に案内できそうなところが一軒あるよ。くるみのケーキが美味しいお店」
「くるみの……あの店ね。オレを差し置いてあいつを連れてってやったところ」
挙げた店が、以前わたしがテンゾウと二人で行った店だと思い出し、カカシから冷めた視線を寄越される。
「語弊のある言い方。カジカは甘い物好きじゃないでしょ」
「お気遣いどうも。痛み入るね」
言葉こそ腰は低いものの、腕を組んだ態度は真逆だ。
しようと思って仲間外れにしたわけではない。あの店は店内でいつもケーキやお菓子を焼いていて甘ったるい匂いがたちこめているから、絶対にカカシはゆっくりなんて居られない。誘わなかったんじゃなくて、誘えなかったが正しいのに。
「もういいわ! 帰る!」
フキ様は声を上げると、踵を返して来た道をずんずんと歩いていく。
慌ててその背を追い、後ろについてカカシと目を合わせると、首を左右に振って返された。
突然機嫌を損ねた理由など、わたしたちには分からない。今は刺激しないよう、黙って付き従って歩くしかなかった。
宿に戻ったはいいが、フキ様の機嫌はしばらく戻なかった。
旅館に頼んで取り寄せた高価なお茶菓子を摘まんで食べても、眉間の皺も尖った口も緩まらない。
もうそろそろで任務が終わるのに、最後の最後でやらかしてしまった。
しかし何をやらかしたのか、わたしもカカシもさっぱり分からないため、挽回したくとも動きようがない。
フキ様の出方を窺っているうちに、事前に指定されていた六時となり、わたしたちの任務は終わった。
彼女の父の仕事もつつがなく済んだようで、今夜一泊したあと、明日の朝には里を発つそうだ。
「短い間でしたが、お会いできてよかったです。道中お気をつけて」
形式ばった挨拶を述べ、退室しようと部屋のドアへ向かうと、「待って」とフキ様から呼び止められた。
「明日の朝まで、カジカは私と一緒にいて。お父様にお願いして、偉い人に頼むから」
予想外のお願いに、パッとカカシの方を見ると、カカシもまた目を見張って驚いていた。声をかけるより先に、上げられた両目の瞼が元の位置まで下がる。
「申し訳ありませんが、私は夜からも任務が入っております」
事務的な返答が、嘘かどうかはわたしにも分からない。カカシはすぐに任務を詰め込まれるから、わたしが気づかない間に里から連絡を受けていたのかもしれないし、やっぱり嘘なのかもしれないし。
どちらにしても、そばにはもう付けないというのが、カカシがフキ様に差し出す答えに変わりない。
「夜は寝る時間よ?」
「忍には夜も昼も関係ありません。歳も性別も」
子どもらしい発想に、カカシは忍として返す。
実際にわたしたちがこれくらいの歳の頃は戦争中だったこともあり、夜中の任務を受けることも珍しくなかった。
睡眠の質は身体の成長に影響を及ぼすと言われ、終戦後の現在は頻度は下がっているけれど、なくはない。
「じゃあカジカ、うちの忍になって。お父様に、お給金をたくさんあげるようにお願いするから」
ぎょっとして、出そうになった声をなんとか喉の途中で抑え込んだ。
眉を寄せ、瞳を不安げに揺らすフキ様は、なんとかカカシを留めたくて必死だ。横でお付きの者が「無茶を言ってはなりません」とフキ様を制するけれど、フキ様は「うるさい!」と跳ねつけた。
「できかねます。オレは木ノ葉の忍ですから、貴女のためには死ねない」
きっぱり断言したカカシに、フキ様は唇をきつく横に引き結んで、大きな目からぽろりと涙がこぼれた。
「いやよ! 一緒に行くの!」
言うや否や、フキ様がカカシの腕にがっしりとしがみつく。カカシは寸前で避ける姿勢を取ったけれど、自分がかわすとフキ様が床に転んでしまうと案じたのか、あえて受け止めた。
突き放すこともできず、声をかけても聞き入れてもらえず、カカシはほとほと困り果てている。
「フキ様」
「いや! あっちいって! カジカがいいの!」
わたしがその名を呼んだだけで、ぎゅうっと腕を抱え込んで放さず泣き続ける。
彼女にとって豪華な宿に泊まり、高い服を着て、お付きの者を連れ歩くのはごく当たり前のことだった。父親に頼めば、たいていの物は手に入るのが日常だというのは想像に容易い。
カカシは――カジカは、命じても父の権威を振るっても、フキ様のものにはならない。フキ様にとって初めて、どうやっても手に入らないものだったのかもしれない。
彼女は、もうどうしていいか分からないから、カカシの腕にしがみついて、泣いて訴えるしかできない。
諦めることに慣れていない彼女がひどく羨ましくなる。わたしは諦めることが多かった。カカシはもっとだろう。
「フキ様、ごめんなさい。カジカは里にとって必要な忍なんです」
カカシの腕を取るフキ様の手に、そっと自分のそれを重ね、視線を合わせて訴えた。
事実、カカシが里を抜けるのは木ノ葉の危機だ。カカシでなければ完遂できない任務は少なくないし、『写輪眼のカカシ』は他国や他里を牽制する道具でもある。
わたしたち忍は里の矛で盾だ。その中でもカカシはとびきり強く頑丈で、名前だけで事を治めることだってできる。そんな忍を手放すなんて、上層部は誰ひとり、塵一つ考えない。
「ごめんなさい。誰にもあげられないんです」
何よりわたしが、カカシを失うことが怖い。諦めることを強いられてきたわたしが、やっと諦めずに済んだ。なのにまた失うなんて、もういやだ。
シンプルな理由を体よく包んだわたしに、フキ様は無言を返した。
お付きの女性も、カカシも、わたしも。皆が固唾を呑んでフキ様に目を向け続ける。
潤む瞳は空の青から海の青になり、深い色をたたえた。
「なまえ……」
ぽつりとフキ様が呟く。
「本当の名前は、なんというの」
カカシを見上げて問い、無垢な目を向けられたカカシの双眸が動揺からかわずかに揺れる。
彼女は、わたしたちが偽名だったことに気づいていたのか。もしかしたらこの姿が変化だということも察しているのかもしれない。
どう答えればいいかと、カカシがわたしに目配せをする。偽名で顔を合せたなら最後まで偽名を通すべきだと分かってはいるけれど、わたしはゆっくり頷いて返した。
「……カカシです」
カカシが改めて名乗る。知り得た名前を、フキ様の小さな口がつむぎ、今度はわたしの方を向いた。
「サホです」
促された気がしてわたしも名乗った。フキ様がじっと見つめてくる。
陽に当たると金にも見える栗色の髪。つるりと剥けたゆで卵のようなおでこ。凛々しい眉。
青い瞳に瞼がぱたんと下りて、すぐに上がった。
「いいわ。今は我慢してあげる」
カカシの腕から離れ、フキ様は腕を組んだ。ツンとした表情はつれなく見えるが、この二日で見慣れてしまい、きゅっと結んだ唇もかわいらしく思えた。
「私はいずれ大名の妻になるの。そして旦那様にお願いして、カカシとサホを連れて来てもらうわ」
組んだ腕を外して、そのまま両手を腰に当てて顎先を上げる。発言と併せて見れば『不遜』という言葉が似合うかもしれないが、なぜかそうは感じない。
この場合、どう返せばいいのか。わたしもカカシも口を閉じた。
勝気な態度だったフキ様は、次第に眉尻を下ろし、顎を引く。腰から手を放し、そのままカカシの胸元を掴んで身を寄せる。
ぎゅうと体が二つに重なる。フキ様のまるい額はカカシの胸にぴたりとくっつくと、一瞬、息がつまった。
「それまで、私を忘れちゃいやよ」
フキ様が顔を少し離し、カカシを見上げた。
カカシの夜色の目と、フキ様の海色の目が、誰よりも近く結ばれる。
「はい。今はしばらく、お別れです」
マスクの奥から静かな返事。フキ様は唇をぎゅっと噛んだあと、また額をカカシの胸に当てた。
下を向く横顔が見えたのは、そばに居たわたしだけ。
震えた唇が『さよなら』と形を作る。フキ様がカカシの身をそっと突き放した。
フキ様と別れ、宿を出たわたしたちは大通りを歩いてる。任務の終了の連絡を飛ばしているので、報告書は帰って家で仕上げる。明朝に提出できれば構わないと了承は得ている。
その前に空腹を満たそうと、宿からまっすぐ、魚の美味しいお店に向かっているところだ。
外灯や店先の明かりが通りを照らし、あちらこちらで声が上がる。集まって談笑する主婦。おつかいの子ども。歩く人を呼びこむ店主。
「今日はありがとう」
歩き出してからは、互いに喋ることはなかった。任務のことを話したり世間話をしたり、そういう気分にはなんとなくなれない。カカシもそうだったか、もしくはわたしのそういう気持ちを悟ったか、口を閉じたままだった。
けれど多くの人の日常に触れていると、徐々に気分も晴れてきた。隣のカカシへの礼がまだだったことを思い出して告げると、カカシは夜色の双眸をこちらに向ける。
お互いにまだ変化は解いていない。解術の印を結べばいいだけなのに、これもまたなんとなくタイミングを逃していた。
「最後、バラしちゃってよかったの?」
偽名を貫かなかったことを挙げられ、そのことも報告書に書かねばならないだろうかと考え、わずかな後悔が芽生えたがもう遅い。
「フキ様は、偽名だってことは最初から知ってた気がする。分かってたけど、気づいていないふりをして、知らないままでいてくれようと思ってたんじゃないかな。……なんとなくだけど」
なんとなく。なんとなく。
先ほどから何もかもが曖昧だ。どうも目の前のことに頭が集中できない。
もっと根拠のある理由を伝えないと、カカシが案じるのではと言葉を探すけれど、縋りつくフキ様と、身を寄せられたカカシの姿がちらついてしまう。
幼い少女と少年の別れは、物語の挿絵のようだった。もしわたしがただの読み手の一人であったならば、なんて切ない話だろうと胸を打たれたかもしれない。
「カカシ、やっぱり昔からモテるんだね」
「……いきなり何?」
両目をじっとりと細め、カカシは呆れた声を上げた。その表情は、実際に何年も前に見ていたものと変わりなくて、中身もあの頃のカカシのように錯覚してしまう。
「子どもの頃は、カカシが女の子にモテるってこと知らなかったから。なるほどこれが噂の、って」
強くて、頭がよくて、才能があって、他の男子と違ってクールでカッコいい。
かつての級友たちから聞いた、子どもの頃のカカシの評価はピンとこなかった。
けれど、カカシに夢中のフキ様を見ていたら、そういえばそんな光景を見たかもしれないと、覚えていないはずの記憶に思いを馳せた。
「あのね。噂なんて尾ひれはひれでロクなもんじゃないって分かってんでしょ」
「そりゃあもう、身に染みるくらいに」
噂は恐ろしい生き物だ。伝える側、聞く側によっていかようにも形を変え、生まれたときとはかけ離れた姿で里の中を闊歩している。
訂正されても、語り手次第ではまた知らぬ成長を遂げていて、いっそどこまで膨らむのかと、他人事のように見てしまうときがある。しかし噂をまるっと信じるなど、人として以前に、忍としての格を自ら下げるものだ。
「オレだけじゃなくて、サホも連れて来てもらうって言ってたんだし、フキ様にそういう感情はないよ。一過性。気まぐれ。思春期によくある、はしかみたいなもの」
「そうかなぁ……」
カカシは否定するけれど、フキ様がカカシに恋をしていたか否かは、他ならぬフキ様自身にしか答えが出せない。
「大名の妻になるって、かなり難しいよね」
「家柄の点はクリアしてるから、庶民の出よりは期待できるんじゃない」
もしフキ様が大名の妻になったとしたら。カカシが言うように、わたしみたいなただの忍より、由緒正しい貴族の生まれであるフキ様なら可能性はまだある。
でも、彼女が大名の妻になったとしても、わたしたちを呼び寄せることはないだろう。
火影が『火影』として、大名が『大名』として生きるように、大名の妻は『大名の妻』という生き方をしなければならない。
大名の妻である以上、フキ様のご意思は後回しとなり、お付きの忍も側近が吟味して選んだ者しか配されない。袖を通す服も口にする品も、『大名の妻』に相応しいものでなければ許されない。貴族として産まれ育った彼女は、庶民であるわたしよりその辺の不自由への理解が深いはず。
だからフキ様はカカシにさよならを告げた。大名の妻になることを諦めているのではなく、カカシをねだってそばに置くことは望めないと、彼女自身が一番分かっていたから、ひっそりとお別れをしたのだ。
『いずれ大名の妻になる』――彼女の言葉に既視感を覚える。
そういえばわたしも、『火影のお嫁さんになりたい』って言ってたっけ。
正しくは『いつか火影になるオビトのお嫁さんになりたい』だ。前を向き目標へとまっすぐ進むオビトの、その隣に立つ人でいたいと。
もちろん、その夢を堂々と掲げることはなかった。わたしの恋に気づいていたのはカカシだけだったし、打ち明けたのもクシナ先生や紅くらいの、わたしとしてはこっそり育んでいた初恋だ。
幼いわたしが抱いていた夢は、結局もう叶わない。
オビトの夢も、リンとの約束も、クシナ先生たちが幸せに暮らす日々も、何一つ叶わない。
隣を見やれば、いつかのカカシ。変化の間はチャクラを消費するから戻るべきなのに戻れなかったのは、もう少し思い出に浸りたかったからかもしれない。
戻ってしまったら、再び子どもの姿になる理由を持ち合わせていない以上、いつもより低い場所から里を眺めることも、普段と違い同じ視線の高さでカカシの隣を歩くこともできない。
鼻まで覆ったマスクに、きっちり巻いた額当ての下から少し出ている前髪。夜色の双眸は瞼が重たげで、子どもの頃から顔つきは変わっていない。
「はたけくん」
そう呼んでいたことも思い出し、久しぶりに口にしてみると、カカシが弾かれたようにこちらを向く。
驚いて開かれた目はややあって元の大きさに戻り、見えない口からは小さな息が押し出された。
「なつかしいね」
「ね」
今はもう使わなくなった呼び名は、郷愁にかられるものがある。
わたしにとって『はたけくん』という少年は、何でもそつなくこなして、頭の回転がよくて、ちょっとつれないところもあったけれど、いつも正しい答えをくれる人だった。
はたけくんへ向ける恋愛感情は持ち合わせたことがない。はたけくんはわたしにとって友人でしかなかった。
――もし、最初からはたけくんを好きになっていたら。
昼間に過ぎった考えが、また繰り返される。
オビトを『うちはくん』と呼んだり、周りの女の子がみんなはたけくんを好きな女の子に見えてやきもきしたり、リンと親友ではなくライバルになったり。
見たこともない、想像だけの毎日。次々に浮かぶ見知らぬ日々が怖くなって、カカシのそれへ手を伸ばした。
触れた手に、カカシは一度こちらへ目をやって、応えるように握り返す。
張りつめていた糸が緩んだような感覚に、ほうっと息を吐いた。
普段ならわたしの手をすっぽり包む指も、子どもの体の今は同じ分の肌を重ねるだけだ。
「はたけくんの手は、わたしと変わらないね」
「体の大きさが変わらないなら、手も大して変わらないよ」
「あ。わたしの方が背はちょっと高いかも」
「は? オレの方が高いでしょ」
「ちょっと待って、そのまま……」
足を止めると、自然と手を繋いでいるカカシも止まらざるを得ない。
空いている手を自分の頭にかざして、ゆっくりカカシの方へと伸ばす。銀色のつんつんとした毛先に当たるより先に、カカシが強く手を引っ張って歩き出した。
進む道の脇には、別の通りへ続く道が連なる。荷車が楽に入る広さから、人ひとりがやっと通れる細さまであり、カカシは外灯もなく人気もない道を選び入り、半ばまで進むとやっと止まった。
繋がっている手を引っ張り上げ、器用にわたしの指を立たせると、印を結ぶ。
「解」
言葉と共に、わたしたちの変化が解ける。高さが揃っていた視線はいつもの高低差に戻り、見上げた先のカカシの顔に、少年の頃のあどけなさはもう残っていない。
「はたけくんはもう終わり?」
「はたけくんもカジカも終わり」
変わらない大きさで重なっていた手は、今はすっぽりカカシの中に収まっている。グローブを嵌めていても、カカシの手のひらの熱が伝わってくる気がした。
子どもの頃のカカシ、かわいくて懐かしかったのに。あともう少し『はたけくん』を堪能したかった。
せっかく子どもの姿になったのだから、久しぶりに駄菓子屋にでも誘えばよかった。子どもの頃はお小遣いと相談しながら選んでいたけれど、大人の今だったら手持ちを気にしないで好きな物を買える。
責めるわけではないけれど、もう少し待ってもらいたかった。無言の意を込め、左目を隠したカカシを見上げる。
さっきまで同じ目線だったから忘れていたけれど、身長差のあるカカシと目を合わせ続けていると、覚えのあるしくしくとした痛みが首の裏に戻ってきた。
カカシはしばらくわたしを見下ろしたあと、
「サホも、終わってよ」
そう小さく呟いた。
「何を?」
言葉が足りないので、カカシがわたしに何を終わってほしいのか分からない。分かっているのは、呻くような響きだったということだけだ。
問うても返事がない。顔のほとんどを隠しているから、左目だけの動きでは思考はなかなか読めない。
「子どものままじゃ、酒は出してもらえないでしょ」
任務が終わったら食事とお酒を。そのためにまっすぐ家に戻らず、夕飯時で匂いや湯気や引き戸の開く音がする里を歩いていた。忘れてはいなかったけれど、頭からすっかり抜け落ちていた。
そんなことを正直に言えば、カカシから『つまり忘れてたってことじゃないの』と返されそうなので思うだけに留めると、カカシはわたしの手を引いて、細い路地から元の通りへ引き返す。
背中がいつもより大きく見え、知らない人のように錯覚してしまう。カカシなのに。
すぐそばの塀の向こうから、美味しそうな香りが広がってくる。溶かれた味噌の、濃くてほっとする匂い。
夕餉の香りに気づいたとき。楽しげに語らう忍たちの姿を見たとき。任務中に夜空を見上げたとき。
そういうときに、いつもふと考える。あのとき描いていた夢や未来が叶っていたら、と。
どこかで間違わなければ、間に合えば、いろんな未来があったかもしれない。
二人じゃなくて四人でお店へ向かって、今も先生からたくさんのことを学んで、カカシの猫背はもう少ししゃんと伸びたかも。
けれど違う道を歩けば、違う場所に辿り着くかもしれない。たとえカカシをはじめから好きだとしても、カカシとこうして並んで歩く未来に続く道と、誰が言い切れるだろう。
だとしたら――戻りたいだろうか。戻ってやり直したいか。
オビトを生かして、リンを生かして、先生たちが死なずに済む、望んだ未来を手に入れたいか。
そうだ、とも、そうではない、とも言えない。
みんながいる未来を辿り直したい。けれどカカシの手を放したくはない。どちらもわたしには捨てられない希望と温もりだ。
この問題は、はたけくんにもカカシにも助けを乞うてはならない。この答えだけは、いつかわたし自身が出さなければいけないのだと思う。