最果てまでワルツ | ナノ
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 受付を済ませ、右手の通路をまっすぐ。奥の突き当りから、二つ手前の左側のドア。
 見慣れた扉を叩いて合図すれば、中から応える声。取っ手を回し開けて入ると、窓から差し込む光で、室内は廊下よりほんの少し温かかった。
 中央の白いテーブルに面するように、男性が椅子に腰かけ、垂れた目を合わせると微笑んだ。

「こんにちは」
「こんにちは」

 挨拶を交わし、彼の前に座る。いつもの座席。いつもの位置。

「お久しぶりですね。五か月ぶりですか」
「はい。任務が重なって」
「伺っております。ひっぱりだこですね。でも体には十分お気をつけを」

 アララギさんは常と変わらぬ穏やかな物言いで、手元のファイルを開いた。綴じている紙束の嵩は、今日も一枚分増した。
 三か月に一度の、定期的なカウンセリング。オレは今でもアララギさんと顔を合わせ、体調などに支障が出ていないかなどの問診を受ける。
 任務が続いて今回は二か月延びた。前回も一か月延ばした。以前であればすぐに急かす連絡が来たが、最近はない。

「調子はいかがですか?」
「特には。多少寝つきが悪く、目覚めもよくない日はありますが、眠れていますし、食欲もあります。二日ほど入院しましたが、それくらいで」

 自覚する限りで、心身に異常はない。入院は写輪眼によるチャクラの使いすぎだ。アララギさんが心配するような心理面では、問題視するような傾向はないと思う。

「前々回にも入院してましたね。あまり無理をなさらぬよう……と言っても、カカシさんが任務を選べるわけではありませんが」

 喋りながらも、手はスムーズに動き、サラサラと紙に書きこんでいく。彼が何を書き留めているのか、いまだに知ることはない。

「彼女とはどうですか?」

 ペンを走らせる手を止め、アララギさんが顔を上げる。
 彼女――つまりはサホのことだ。長い間、サホのことを彼に話し続けていたせいか、いつのまにか彼が欠かさず訊ねる項目の一つになってしまった。

「特に何もありません」

 少し前にサホとの関係が変わったことはそれとなく伝えたが、それからは特に改まって報告することは何もない。
 世間とは少しずれはあるかもしれないが、オレたちは恋人という位置にきちんと収まっている。
 万事うまくいっているとは、たしかに言い難い。サホの中のオビトの存在を意識してしまうことは多々ある。サホと顔を合わせているときにも、いないときにも。
 それでも袂分かった数年間と比べれば、心持ちはずっと穏やかでいられる。サホが自分に向ける好意に嘘はない。それだけは事実だ。

「何も問題はない、ということですね」

 微笑む彼に、何も返しはしなかった。しなくても彼は簡単に読み取る。便利で怖い人だとしみじみ思う。その機微の聡さを、サホに少しでも分けてやってほしい。
 再び響き出した書きこむ音が止まると、アララギさんはペン先をしまいテーブルに置いた。
 質問はなく、作られた沈黙が部屋を満たす。室内は彼の支配がよく働いており、この部屋に限っては、オレは主導権を握ることはできない。
 窓の外から子どもの声がした。その子どもを呼ぶ親の声。平和な昼下がりを、よいと思えるだけの心の余裕が、オレにはあった。

「カカシさんとこうしてお会いするようになって、そろそろ十年ですね」

 話を始める気になったのか、アララギさんが切り出した。

「もうそんなに経ちますか」

 十年とは、結構な年月だ。カウンセリングとして彼に会ったのは、まだ四代目が存命のときだ。必ず通わせるために、わざわざ任務の一つとしてオレに命じ、当初は渋々彼へ会いに来たものだ。

「私もこの十年、たくさんの方々とお話をしてきました。一年で心が落ち着かれお会いしなくなった方もいれば、二度とお顔を見なくなった方、カカシさんのように今もお話を伺う方。ざっと百は越えるかもしれません」

 これまで担当した人たちの顔や名を振り返るように、彼は室内をぐるりと見回した。無論、ここにはオレとアララギさんしかいない。
 オレが知らない百を越える人たちが、この席に座り、アララギさんへ胸の中に溜まるものを打ち明けた。
 冬に吐いた息のごとくすぐに消えるもやだったり、どれほどすくっても底に溜まる混濁した澱だったり、それらに近しいものを、この部屋に座する彼にだけは話せた者は何人いただろう。オレもその中の一人だ。

「十年間の、百を越える方々の中で、貴方が一番気がかりでした」

 部屋を巡っていた視線がオレと交わる。
 吊った眉、垂れた目。硬質さとやわらかさを兼ね備えた印象を与え、表情は思うように読み取れないが、今はすぐに分かった。真摯な瞳は、ただオレの身を案じてくれていた。

「貴方はお会いしたときから、とても繊細で、危うかった。薄い翅を懸命に動かして、必死で宙をさ迷っている。止まる葉や枝はいくつも差し出されているのに、そのどれをもを拒んで飛び続けていた。まるで呪われたように生きていた」

 十年見てきた彼のオレへの所感は、なんとも思い当たる点が多くて笑ってしまいそうだ。
 図体だけがでかくなって、心はまだ、十代半ばに取り残されているようなときがある。何も思いどおりに運ばず、自身の不甲斐なさと憤りを身に詰めて生きた。自分のためではなく、木ノ葉やサホのために。

「今でも変わりありませんよ。オレはちっぽけな羽虫です。ちょっと風が吹けばすぐにどこかへ行っちゃうし、雨に打たれれば伏すほどに近く地へ落ちる。人肌に触れると途端に弱くなって、ふらふら飛べなくなってしまうほど、ちっぽけな奴です」

 サホを好きだというのに、激情に駆られれば背を向け詰り、サホに拒まれるとすべて投げ出して、元からクズだというのに、いよいよこの世で一番のクズに成り下がる。
 オビトではなくオレを好きだと言って、オレを見てくれたら、もう一人きりでは生きてはいけないと縋った。
 肌を重ねてしまえば、徒寝でいくつもの夜明けを越えることはできなくなってしまった。
 エリートだの里で一番だの、いろんな担がれ方をされているが、オレという人間はその実、ただの羽虫と変わりない。周りが思うよりずっとしがない、狭量な男だ。

「飛べなくなりましたか」

 アララギさんが問う。

「ええ。当てもなく飛ぶことは」

 ふらふらと行き場のない日々は終わった。
 ただいまと言える場所がある。
 時にはおかえりと待つ日もある。
 飛ぶことはあっても、翅を休むために帰る葉や枝がある。

「それはよかった」

 オレの答えにアララギさんは満足した。
 透けたカーテンが引かれる窓の向こうの、何者にも平等に注ぐ陽の光に目を向け、一度深く息を吐く。

「けれど忘れないでください。あなたを止めてくれる葉は一枚ではありません。なにせここは木ノ葉の里です。たくさんの葉や枝が、これからも変わらず、あなたに差し出されているんですから」

 テーブルに置いた手を組んで、オレの目をまっすぐに見る。彼もまた、オレに枝葉を差し出してくれていた人だ。
 あの頃は気づけなかったことを、今になって知ることが多くて困る。気づくようになっただけマシになったと思いたい。

「本当によかった。本当に……」

 二度ほど、噛み締めるよう言葉を続けると、アララギさんは開いていたファイルをぱたんと閉じた。それはカウンセリングが終わる合図だ。

「カカシさん。今日はあなたに、お話があります」



* * *



 任務は夕方頃に終わり、受付所に提出した報告書は無事に受理された。
 次の任務は明日の午後からで、時間は追って知らせるらしく、ひとまず明日の朝はゆっくり起きられそうだ。
 そのまま上忍待機所を覗いてみると、ソファーに座って本を読むカカシの姿があった。

「カカシが夕方までのんびりしてるなんて珍しい」

 前に立って、思ったままに声をかけると、

「里が平和で何よりだよ」

とカカシは本を閉じた。
 受付所の混雑は普段と変わりなかったし、里の様子もこれといってトラブルが起きた様子もない。報酬のランクが上忍の中でも特に高いカカシを使わねばならないトラブルがないことは、各方面にとっていいことだ。

「このまま待機で終わったらご飯食べに行かない?」
「いいよ。呼び出されないように祈ってて」

 言われたのでカカシの前で合掌をして目を閉じると、「オレは地蔵じゃないけど」と本意ではないと返ってきた。
 待ち合わせ場所を決め、カカシを置いて待機所を出る。カカシの待機が終わるのはあと一時間弱。家に帰ってシャワーを浴びてもよかったけれど、今日はそれほど汗を掻かなかったし汚れてもいない。家に戻るとくつろいでしまいそうだし、このまま外に居た方がいい。
 最近足を向けていなかったし、面白い新刊が出ていないか本屋を覗いてみよう。思い立って進路を決めた。
 足を向けた本屋は待機所から近く、軒先に置かれた椅子でいつも昼寝をしている猫がいる店。愛想を振りまいたり媚を売ることはなくとも、ぷすぷすと鼻息を立てて眠る姿がかわいい。

「こんにちは。こんばんはかな?」

 まだ明るさはあるが、空には夜の気配が見えてきた。声をかけて、ふかふかの毛並みを撫でても、猫は目を開ける気配もない。しばらく愛でたあと、店へ入った。
 新刊コーナーを見て、ぐるりと店内を一周し、それからまた目立つ平台に戻る。
 タイトルに引かれた一冊を手に取り、あらすじを読んだ。面白そうだったので、そのまま会計をして外に出る。
 別れの挨拶を兼ねてまた猫を撫で、時間を確認すると、カカシの待機が終わるまでもう少し時間がある。
 待ち合わせまでそう長くはないけれど、どこかに座って買ったばかりの本を読んで時間を潰そう。この近くでベンチがある場所を記憶の中から探して、歩道橋が思い当たり向かった。
 石の階段を上ると、何百もの板が打ち付けられた木製の橋に足が着く。橋の下は広い通りで、人の往来を俯瞰することができる。
 ここからだと高さもあり、待ち合わせ場所へ歩くカカシの姿も見える。本を読んで待つのにぴったりだ。
 ただ問題が一つ。すでに先客が居た。
 ベンチは二つあって、うち一つは高齢の夫婦が腰を掛け、もう一脚には男性が一人。
 男性は下を向いて項垂れている。寝ているのかと思ったら、ふと顔を上げた。
 覇気のない様子で、ベンチの背に体を預けると、青から朱に染まる空を仰ぐ。ぼんやりとしていて、顔色はあまりよろしいようには見えない。

「あの。もしかして、体調が優れませんか?」

 具合が悪くて、立って歩くことができずに休んでいるのかもしれない。思って声をかけると、男性はハッとわたしの方を向いて、顔の前で手のひらを左右に振った。

「ああ、いえ、大丈夫です。少々考え事をしてまして」

 男性がにっこり笑い、問題ないと返す。表情の動きから察するに、嘘ではない。

「そうだったんですね。すみません、邪魔をしてしまって」
「いいえ。お気遣いありがとうございます」

 いらぬお節介をしてしまったと謝ると、男性はやんわり制し、礼を言った。気を遣わせたのはこっちだと、恐縮してしまう。
 男性は目が垂れているからか、どこか柔和な雰囲気がある。大丈夫と否定したが、落とした両肩からくたびれた様子が伝わる。口元は弧を描いているけれど、なんだか陰りを感じた。
 やはり何かあるのでは。考え事というのも、思いつめるほどのものなのかも。
 しかし、初対面で、ただ通りすがっただけのわたしが訊ねるのは躊躇う。わたしだったら初めての相手に、なんでも喋ってしまう気にはなれない。
 それでも、目の下にうっすら浮かぶクマを見つけると、かつての自分を見ているようで、黙って去ることはできなかった。今更になって、あのときみんながわたしをどう心配していたか分かった。声だってかけたくもなる。

「実は、私は明日、里を出て行くんですよ」

 落ち着いた口調で、彼がゆっくり切り出した。

「今日の朝方にようやく荷造りが終わって、ひと眠りして昼に起きて、思い出巡りに里を見て回ろうと歩いていたんですが……もうここにはしばらく戻れないと考えると、なんとも物悲しい気持ちになってしまいましてね」

 一向に立ち去らないわたしを不審に思うことなく、わたしが気にかかった目の下のクマや、優れない顔色の理由を、ごく自然な流れで説明してみせた。
 わたしが考えていることを読んだうえで話したのなら、すごいなと思う。会話の運びがとても上手な人だ。

「里を出られるのは、その……」
「あ。悪さをしただとか、そういうやましいことではありませんよ。こんな[なり]ですが、私も貴女と同じ木ノ葉の忍です。今は前線から引いて、心理師として忍の方々のお話を聞いていました」

 こちらが言いにくいことも瞬時に察し、過不足なく身元を明らかにする。察しの良さに驚くと同時に、自分の周りにはいない、忍でありながら心理師という立場に若干の興味が湧いた。

「今は違うんですか?」
「明朝に里を出て、外の詰所に籍を置きます。そこで今度は、最前線の方々とお話を」

 里外の『詰所』は、忍が里外で駐在する拠点の通称。
 忍という職は、どこに身を置いているのか話すことが憚られるため、そういうときは施設の大小、秘匿性の高さを問わず、すべて『詰所』と称するのが昔から当たり前になっていた。
 また、相手から『詰所』と言われたら、それが何であるかと探ってはならないというのも暗黙の了解だ。

「数年前から打診は受けていたんですが、ずっと保留にしておりまして。それでとうとう尻を叩かれ、重い腰を上げることになりました」
「どうして保留されていたんですか? あ。仰りたくないなら構いません」
「いえ。私自身も、前線に籍を置くことは希望していたんですが……少し気になる方がいて、その方を残していくのが心配だったんです。それでずっと、わがままを言って残らせてもらっていましたが……」

 そこでふと、男性が言葉を止める。重ねた自分の手に視線を落とすので、いやな予感がした。

「じゃあ、その人は……」
「幸いなことに、どうやらやっと、落ち着く場所を得たようで」

 恐る恐る訊ねると、男性は視線を上げて微笑んだ。吊った眉も八の字になって、こちらもほっと息をつく。

「よかったですね」
「はい。とても」

 男性は一度深く笑んだあと、ゆるゆると解いて顎を上げて空を見た。
 西はまだ赤みが残るけれど、東から南天まではもう藍色に染まり、気の早い星が瞬いている。

「心というものは、切って悪い部分を取ったり、裂け目を縫うなんてことはできません。心理師の私たちは薬を処方することもできず、話を聞くことしかできない。彼を見ていたら、治療できないという身が歯がゆくて仕方ありませんでした」

 心理師という職についてわたしは明るくない。
 以前、精神的に不安定だった際に病院へ通ったけれど、心理師とは顔を合わせたことはなかった。それとなく勧められたけど、拒めば無理強いもされなかった。

「耳を傾けるだけで、私にはどうやっても救えないことは最初から分かっていたんですが……本当に何もできなかった」

 ぽつりぽつりと、男性が吐露していく言葉は、彼の小さな悲鳴のように感じられた。

「そんなことないと思います。話を聞いてもらえる相手がいるっていうのは、すごくありがたいんです」

 男性がぽかんとした表情を見せるので、慌てて手で口元を押さえる。気持ちが急いたせいか、大きな声を出してしまった。周りをサッと見回すと、幸運にも誰もわたしに注目していない。

「……きっとその人も、あなたが聞いてくれるから話せることもあったんじゃないかなって、思います。わたしたちは、近くにいる相手だからこそ話せないことも多いし……。少し離れた場所で、いつもそこに居てくれる人の存在は、あなたが考える以上に、わたしたちの力になります」

 そばに居るから、なんでも知っている相手だからこそ話せないことがある。
 話を聞いた相手がどう思うのか考えると、胸から迫り上がる思いを発することはできず、再びぎゅうぎゅうと押し戻し、そのまま朽ちた落ち葉のように積み重なって、心はいつも重たい。
 だから自分の過去を、失敗や弱さや後悔を、ろくに知らない人になら話せてしまうことは、忍なら山ほどある。男性が気にかかっていた人も忍なら、きっとそうだったと思う。

「……ありがとうございます」

 垂れた目尻をさらに下げ、にこにこと笑う男性にお礼を言われるや否や、熱を入れて語り出した自分に気づいて恥ずかしくなった。

「あっ……いえ。すみません、出しゃばった真似を……」
「いいえ。人の話を聞く仕事をしていたので忘れていましたが、人に話を聞いてもらえるというのは、こんなに気持ちが楽になれるものだと、思い出しました」

 声のトーンは少し下がったけれど、男性の口元は微笑んでいる。わたしの発言を悪いようには取らなかったようで安堵した。

「だからその人もきっと、あなたに助けてもらったと思います」
「そうであれば嬉しいですね」

 念押しでそう言うと、撥ねつけることなくありのままに受け取る。
 わたしの『きっと』はほぼ絶対に近いと思う。初対面の相手の話でも、こんなに丸ごと受け止めてくれる人だったら、ついぽろぽろと話してしまう。
――でもそれは、忍にとって命取りにもなることだ。男性は悪い人ではなさそうだけど、あまりペラペラ喋るのはよくないと、こっそり気持ちを引き締めた。

「心残りが少し減りました」
「少しってことは、まだ何か?」
「そうですね……彼がよく話をしていた女性に、一度お会いしたかった」

 気がかりだった人は男性で、でも会いたいのはその人ではなく、その人が話していた女性。

「お会いしたことはないんですか?」
「はい。名前も教えていただけませんでした」
「それは残念ですね」
「ええ。彼女のことはよくお話されるのに、名前だけはちっとも。いつか教えていただけるのをと待っていたら、ついに知らないまま」
「その彼女と会ってどうするつもりなんですか?」

 単純に疑問だった。名前も知らない、男性が話を聞いていた彼からの情報でしか知り得ない女性に、なぜ会いたいと思うのか。
 男性は数秒、思案するように視線だけを上げて沈黙した。

「よろしく、と」
「よろしく……?」

 返ってきた言葉はたった一言。言葉を繰り返すことで確認してみても、男性はそのとおりだと頷いた。

「心理師という立場にはあるまじきことですが。この職に就いてから今までずっと、彼が少年だった頃から見ていたせいか、心理師以上の情が移ってしまいました。弟や、友人や、親戚の子のように。ですからどうか彼女が、これからも彼の止まり木であってほしい。彼を頼みますと、お伝えしたかった」

 思いをこぼした男性は、間を置かずに自身の頭を軽く掻く。

「おこがましいですよね。年下というだけで、彼の方が私よりずっと立場が上の方なんです。担当心理師という立場でしかないのに、よろしくだなんて、偉そうに」

 自分の立ち位置は把握していると、男性は自らの発言を下げた。
 男性が言う『彼』を知らないわたしには、彼の心の中は分からない。ここで『そんなことないですよ』と否定しようにも、何も知らないわたしは何も言えない。
 でももし言えたとしたら、わたしはやっぱり『そんなことないですよ』と言葉をかけると思う。
 男性が彼を本当に気にかけて、その彼が落ち着いたことが、心理師としてだけではなく喜ばしいのは、男性の優しい表情を見ていたら伝わってくる。

「いつか、会えるといいですね」
「はい。その前に、名前をお聞きするのが先ですが」
「そっか。そうですね」

 名前も知らないなら、会おうと思っても難しいだろう。これから里を出るとなれば、彼とも会えなくなる。
 でも生きていれば会える。わたしたちはそうやって一縷の望みで誤魔化し心を慰め、止まることなく歩いてきた。
 歩道橋の下を、子どもが元気よく駆けていく。カカシとの待ち合わせを思い出し、時間を確認すると、すでに待機の時間は過ぎていた。カカシから連絡がないから、何もなく終わったはずだ。

「すみません。待ち合わせているので、失礼します」
「ああ、そうでしたか。お引き留めしてしまい、申し訳ない」
「いいえ、こちらこそ」

 声をかけたのはわたしで、いろいろと訊ねたのもわたし。本を読んで時間を潰すより、男性の話を聞けたのはずっと有意義だった。
 同じ里の忍なのに縁がなかった人と、しかもちょうど明日には里を出る人と、こうして出会って話すなんて、なんだか物語のようだ。

「まだ、里を見て回られるんですか?」
「ええ。しばらくは戻れませんし、戻れるかも分かりませんから」

 どちらの意味だろう、と探ってしまう。
 里を出て一度も戻らず、前線で生涯を終える人は少なくない。必要とされて残り続けてしまったか、命を落としてしまったか。男性が里に戻れないとしても、前者であってほしい。

「もう日も暮れましたけど……思い出に残るものが見られるといいですね」
「ありがとうございます」

 里の風景を見られるのはあと半日もない。短い時間だけど、記憶にしっかり刻んで、心に留めることができればいい。初対面にも関わらずそう願うのは、彼の人の好さがそうさせるのか。不思議な人だ。

「新しい場所でもお元気で」
「はい。貴女も、どうぞお元気で」

 一礼すると、彼もベンチから腰を上げ深く礼を取った。
 頭を上げて、板張りの橋の端へと歩き、通りへ続く石の階段を下りる。
 そのまま通りをまっすぐ進んでいくと、向こうから歩いてくるカカシが見えた。

「カカシ!」

 名を呼ぶと、わたしに気づいて足を止める。両手をポケットに突っ込み、ちょっと猫背の立ち姿は、待機で本を読んでいただけなのに、一仕事終えたような疲労感が漂う。

「あっちで待ってるかと思った」
「ちょうどあそこで立ち話してて」

 待ち合わせていた場所を顎で示すカカシに、わたしは後ろを振り返りながら指を差した。
 歩道橋の真ん中、さきほどまで会話していた男性が、欄干に手を置いて立つ姿が見える。
 陽は沈んだけれど、代わりに外灯や店先からの明かりで、わたしの姿は視認できているのか、顔はこちらを向いていた。

「あの人ね、明日の朝に里を出るんだって。しばらく戻らないから、里を見て回ってたみたいで」

 軽く説明すると、カカシは遠くの男性を見つめたまま、

「そう。明日……」

と静かに繰り返した。

「だから思い出になるものが見られるといいですねって……あっ、あそこを教えればよかったかな。東の高台。今だとちょうど、すぐ下に花がたくさん咲いててきれいなんだよね」

 少し前に見つけた、東の高台からの景色。近隣住人の手で整備された花壇が真下にあり、先日見かけたときには蕾を付けていた。恐らく今日あたりが見頃だ。

「教えなくてもそのうち見つかるよ。里の夜は長い」

 カカシは男性から目を離すと、ポケットから左手を出してわたしの手を掴んだ。

「というわけで、今夜はちょっといい酒でも飲みに行こう」

 するりと指が絡んで、互いの手のひらがぺたりとくっつく。

「何もない日なのに?」

 いいお酒を飲みにいくのは悪くない。でもたまたま時間があって食事に行けるというだけで、カカシがわざわざ誘うのは珍しかった。

「じゃあ――あの人の門出を祝って」

 再びカカシが歩道橋へと目を向ける。続いてわたしも倣うと、男性はまだこちらを見ていた。
 外灯の光が注ぎ落ちていても、距離があるため表情ははっきりとは窺えないが、心なしか笑っているように見える。
 男性が頭をぺこりと下げる。反射的にわたしも頭を下げると、カカシもわずかに前方に傾けた。
 ほぼ同時に頭を上げたのを合図に、わたしとカカシは歩き出す。
 今日は何もない日だけど、何もない日の思い出はたくさん作るのがいい。そんな記憶を振り返ることができるなら、遠い空の下でも前を向いていられるから。



思い出すならこんな夜

20201205


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