何とかサホにコンタクトを取ろうとしても、相手が完全に拒絶していては成らぬばかりで、呼び鈴を押しても、窓をノックしようとも――する前に結界で弾かれる――受付所などであいつを待っていても全て無視されるか、オレの姿を認めると即立ち去ってしまい、声をかけられずにいる。
暗部の詰め所の机で頬杖をつき、一向に進まない暗殺任務の報告書に目を落としてはいる。右目で捉えても文字など何一つ頭に入ってこない。誰を殺したんだっけ。どのメンバーで担当したんだっけ。もちろんちゃんと覚えているが、手はペンを掴むことすらできない。
「あの……何かありましたか?」
サホのことや報告書のことなど、考えているようで何も考えていない、そんなオレに対し、心配そうな表情でイサナが恐る恐る訊ねてきた。その隣にはテンゾウやイタチも立っていて、前者はイサナと同じく、後者は常と変らぬ顔をオレに向けている。
「いや? 別に」
「『別に』って。さっきから一文字も進んでいないじゃないですか」
何でもないと誤魔化すオレに、テンゾウが訝しげに反論した。さっきからって、もしかして随分前からオレの様子を窺っていたのか。その視線にも気配にも気づかなかった。
今回の任務はテンゾウたちと共に遂行した。そのため、イサナは任務中に不備があったため任務報告書が進まないのではないか、それは自分が原因ではないのかと不安なのだろう。イタチは平素と変わらぬ顔なので思考が読めないが、似たようなことを考えているのかもしれない。
「んー……ちょっと疲れたのかもね。イサナもイタチも疲れたでしょ。早く帰ってしっかり休んで。明日もよろしく」
それぞれに声をかけ、帰宅を促す。何も心配する事態は起きていないと少し微笑んでやれば、表情は晴れないもののイサナとイタチはそれぞれ退室していった。
残るのはテンゾウただ一人。暗部の装備を外した楽な格好はオレと変わらず、その手が近くの椅子を引き、腰を下ろした。
「で。ボクに何を話したいんですか?」
「察しがよくて助かるよ」
「何言ってるんですか。むしろ、あからさまですよ」
呆れたようにオレを見るテンゾウに、言わずともオレの考えを読んで行動し、尚且つ付き合おうとしてくれるのだから、オレはいい後輩を持ったと思う。
椅子の背もたれに体を預け、首を反らして天井を見上げた。備え付けられた照明には、薄く埃が纏わりついている。いつから掃除をしていないのか不明だが、目にすると途端に気になるものだ。
「ちょっとね。やらかしちゃって」
言葉が足りないオレを、テンゾウは黙って待つ。沈黙が促す補足を、たっぷり間を置いてから続けた。
「サホに、言っちゃいけないこと言った」
天井から白紙の報告書へと顔を戻すと、横からため息が聞こえる。オレの話したいことが何か、大方の検討はついていたのだろう。
「何を言ったんですか?」
問われるが、今度はいくら間を置いても答えることができなかった。
あの夜を振り返ると、自己嫌悪が強すぎて顔を顰めてしまう。巻き戻せるなら戻ってやり直したい。
いや、やり直せるならもっと前から。神無毘橋の前から、父が自害する前から。オレの人生はほとんど後悔で作られている。
「言えないようなことを言ったんですか?」
「ま……そうね」
いつまでも口を割らないオレの考えを読んだテンゾウに、濁しつつも肯定した。濁す必要などないくらい、くっきりその通りだが。
「ならカカシ先輩が悪いですね」
「うん。それはもう、ホント、いやってほど分かってる」
オレが悪い。十割、100%、完全に、オレに非がある。慰められたり庇われたりする方が間違っていると断言できるほど、オレは決して言ってはいけないことをぶつけてしまった。
「謝りたくて会おうとしても、見事に拒絶されちゃって」
「相当ひどいことを言ったんですね」
責めるテンゾウの視線が痛い。『眠そうだ』とよく言われるオレと違い、ただでさえ大きく開かれた目だからか、余計に深く突き刺さる気がする。
「たしかにサホさんは頑なな人ですけど……怒り続けるのも気力を使いますから、そのうち鎮まりますよ」
「お前は分かってないね。サホが何年オレを恨んでると思ってるの?」
「何年なんですか?」
「考えたくもない」
「面倒な人だなぁ……」
先輩兼上司相手に躊躇いなく大きなため息をついたテンゾウは、席を立って自身のロッカーを開け着替え始める。
オレの至らなさに愛想を尽かすテンゾウは正しい。こんなバカの相手、オレだって匙を投げる。しかし残念ながら、オレはオレから逃げることはできない。
サホがオレを恨み始めたのはリンが死んでしまった頃。六年以上も前だ。六年以上も、オレはサホに恨まれ、サホはオレを恨んで生きてきた。
それでようやく、隣人としてそれなりの関係まで距離を縮めたのに。やっとサホを好きだと自覚したのに。
「クズはクズのまんまだな……」
オビト。やっぱりオレは、仲間を傷つけてしまうクズにしかなれない。
ついにサホは部屋を連日空けるようになった。カーテンから漏れていた明かりはここしばらく見ていない。
長期任務というわけではないらしく、稀に隣から物音が響いてくることもあるが、それはすぐに止み部屋を出て行く音を残して消えてしまう。
隣室であるオレの傍に留まる時間を少しでも減らすためだろう。本当にオレと接触したくないのだと身に染みて気持ちはどんどん滅入ってくる。
そんなオレを気遣ってなのか、まったく気づいていなくていつも通りなのか――多分気づいていないのだろうけれど。目ぼしい本を物色して、特に惹かれる物もなかったため手ぶらで本屋を出ると、ちょうど通りを歩いていたガイと出くわした。
「よお、カカシ。次の集まりはいつがいいんだ?」
相変わらず濃い顔に意味もなく握り拳を添えつついきなり問われても、何のことだかさっぱり伝わらない。
「『集まり』って、何の?」
「サホと三人で、また食事をするための集まりだ」
ああ、あの、お前が謀った集まりね。
「次はないよ」
「ない? なぜだ?」
切り捨て、歩き出すオレに、ガイは隣をキープしながらついてくる。答えないオレに焦れたのか、最近は控えていたのにオレの周囲で反復横跳びを続けるので、周りの反応も考え足を止めた。
「サホが嫌がるからに決まってるでしょ。この前だってガイにはめられたから仕方なく一緒に食べたけど、オレが居ると分かってるのに来るわけないじゃない」
あのときは最初から三人で集まろうとして集まったわけではない。目の前のこの濃い顔をした男が企んで仕組んだものだ。
さらに今現在、オレとサホの関係は再び悪化した。そんな中で、オレが居ると分かっていてサホが顔を出すことなど有り得ないだろう。
ガイはオレの言い分に対し、騙し討ちしたことには反論できないようで喉を鳴らして唸ったが、すぐに気を取り直して、
「しかし、『また食べに行こう』と言ったら、サホは拒否しなかったぞ」
と思いもよらないことを言い放った。
「次はカカシかサホの支払いだと言っても断られなかった。あの夜だって、お前が先に帰ったあとにオレに礼を言ったんだぞ。『ありがとう』と」
何よ、それ。そんなこと、今更教えられても。
どうして嫌がらないの。なんで断らなかったの。その『ありがとう』の意味は何なの。おごってくれたことへのお礼なのか、それとも別のことへの感謝なのか。
気の置けない間柄のガイ相手なら、行きたくないと思えばばっさり断ることもできただろう。本当にオレは来ないのかと念を入れて確認だってするに違いない。
けれどサホはオレを拒否しようとしなかった。次があれば、もしかしたら自らの意思で来るつもりだったかもしれない。
ホントに。ホントにオレは、なんて馬鹿なことをしてしまったのか。
「――失礼します。はたけ上忍、ですよね?」
筆舌し難い後悔に苛まれているオレに声がかかる。こんなときに誰だ、と顔を向ければ、オレよりいくらか年若い男が居た。額当てをつけ、木ノ葉の緑のベストを羽織っている。
少年と青年の狭間に身を置くその顔に見覚えがあるような、ないような。少ない上忍の顔なら確実に頭に入っている。なら彼は中忍だろう。
「はたけ上忍でお間違いないですか?」
「そうだけど……誰?」
「ヒサギといいます。少しお時間をいただけませんか?」
ヒサギと名乗った男の双眸が真っ直ぐにオレを捉えている。ガイとはまた毛色の違う、熱を持った雰囲気に圧されるまま、「いいよ」とオレの口が答えた。
「ガイ、またね」
「あっ、おい! オレの話はまだ終わっていないぞ!」
「じゃあ今度ね」
ひらひらと手を振り、ヒサギを連れてガイから離れると、後方から「お前の『今度』は当てにならないじゃないか!」と咎める声が飛んできた。
『今度』という単語に、少女の頃のサホを思い出す。なけなしの勇気を奮い、今度こそオビトに気持ちを伝えるのだと誓った彼女の『今度』を潰したのはオレだ。ますます気分が落ちる。
オレの後ろをついて歩く男は、わざわざ話がしたいと言ってきた。ならばと、人が少ない場所を見繕うが、活気ある里には人の気配がそこら中にあるため、ちょうどよい場所を見つけるのは難しい。
時間をかけて場所を探すよりさっさと話を済ませた方がよさそうだと、一番近かった誰の姿もない通りを選んだ。
「この辺でいい?」
「はい」
振り向くと、ヒサギは少し緊張した面持ちで返答した。通りに沿って連なる塀に背をつけ、話し出すのを待つ。
ヒサギは下ろした両手を握り込み、何度か力を入れ直す。真剣な瞳がようやく口を開いた。
「オレ、かすみ上忍が好きです」
ヒサギは手筈のいい男だった。スムーズに事が運べるようにと、移動先であるこの演習場を押さえておくなどの用意の良さは同僚としてはプラスだろうが、オレとしては逃げ場を潰されてマイナスだ。
予想しなかった切り出しには若干動揺した。その手の話はあれ以来とんと舞い込んでこなかったから、どうしてサホ本人ではなくオレに打ち明けるのか謎だったが、『かすみ上忍に告白するには、はたけ上忍の許可がいると聞いていましたから』と説明され、なるほどそういうことかと納得した。
サホに告白する前にはオレに許可を取れ、などと言った覚えはないが、その件はそういう認識で広まっているようだ。噂は尾ひれがつくもの。尾ひれの内容は、流す者にとって面白く、都合がよかったのだろう。
噂の委細は知らないが、オレとサホの認識では、サホが断っているのに食い下がる往生際の悪い奴がいれば、オレの名を出してこっちに寄越せばいい、というだけだ。
だからオレの許可など必要ない。どうせオビト以外は断られるのだから、しつこくしないのなら勝手にすればいい。
どうぞご自由にと、そう言ってヒサギの前から去ろうとしたが、ヒサギはオレを引き留めた。『オレと勝負してください』と。どうしてそうなる。
ヒサギはとてもしつこかった。
違う、オレが出る幕はサホに対してしつこい男が現れたときだけであって、オレにしつこい男に用はないと訴えたが、ヒサギは全く引く気はなかった。下手したらガイよりもしつこかったかもしれない。
七回ほど断ったが、いっそ受け入れてサクッと終わらせる方が早いと思い、そうして演習場へ向かい、たった今ヒサギと一戦を終えた。年下の中忍に負けるはずもなく、写輪眼を使うこともなかった。
ヒサギは地に手をつき、大きく呼吸を繰り返す。全身に汗と熱気を纏い、座っている状態を維持するのもつらそうに顔を顰めている。
息が整ってきたところでゆっくりと腰を上げ、オレの前に立った。すうっと深い息を吸って吐いたあと、
「オレの負けです。さすがはたけ上忍」
と言って、深々と頭を下げた。
潔く負けを認めるのはその姿に悪い印象は抱かない。引き際を見誤らないのは、忍はもちろん、人として大事なことだ。
勝負はついた。ヒサギとしてはオレに勝った上でサホに告白したかったのだろうが、オレは最初からするならすればいいと言っている。
もう用はないと、ヒサギを残してその場から離れようとすると、
「はたけ上忍はかすみ上忍を好きなんですか?」
と訊ねられ、そのまま無視して行ってしまえばよかったのに、足を止めてしまった。
この場合、沈黙は肯定と受け取られる。事実はたしかにそうなのだが、初めて顔を合わせた男に個人的感情を教える必要もないし、こいつがサホに余計なことを伝える可能性を考えると、放置していくのはよろしくない。
ヒサギに向き直り、この場をやり過ごす言葉を探した。
「ただの同期だよ」
自分の口から自分の意思で、『ただの同期』と返さなくてはならない。うんざりだ。
「本当ですか?」
怒りとも悲しみとも判別つかない内心が表に漏れてしまったのか、ヒサギが確認を取ってくる。
どうしてこいつは、真っ直ぐに相手の目を見ることができるのだろう。
曇りがない真摯な双眸に射貫かれると、嘘で誤魔化してはならないのだと追い詰められる気がする。
「サホはね、忘れられない奴がいるんだ」
ボトムスのポケットに突っ込んでいた手を出して、自分の胸の辺りを指差した。
「ずっと昔から、サホの心の真ん中にはそいつが腰を下ろしててさ。サホの目にはそいつしか映らないんだ。死んでいても、サホにとっては今も生きているに等しい奴でね」
この刀はあいつの形見、この額当てはあいつの魂。戦場で友を喪った者たちは、そうやって『器』に友を留めるのだ。忘れぬためでもあり、心折れぬように縋るためでもある。
サホはオビトの死を受け入れている。受け入れて尚、オビトはオレの左目として生きているのだと言い放つ。
「いくら好きだと告げても、オレに勝とうとも、そいつの真似をして生きようとも」
オビトの目を貰ったオレは『器』。器を手に取ることはあっても、目当ては所詮、盛られた中身。
「あいつに敵わないんだよ――オレたちは」
オレを真っ直ぐ見つめるヒサギを見つめ返すと、彼は一瞬息を呑んだ。
自分の気持ちなど誰にも打ち明ける気はなかったのに。十代半ばの瑞々しい実直さを見せるヒサギに感化されてしまったのか。
「残念ながらオレは敵に塩を送るほど心は広くない。というか、送るような
サホを振り向かせる手段などオレが一番知りたい。加えて言えば、サホに謝る機会を得るために接触できる手段が一番欲しい。ガイには騙し討ちで引き合わせたことを責める形を取ってしまったが、できることならまさしく今、お節介を焼いてほしいところだ。
ヒサギは何か考えているのか、唇を引き締め静かな瞬きを繰り返す。
演習場を根城にしている鳥たちがさえずり、風に煽られた木々の葉が擦れる音が響く中、微動だにしなかったヒサギがようやく動いた。口元は弧を描き、やはりオレを真っ直ぐに見る。
「結構です。オレ、正々堂々がモットーなんです。また出直します」
「……オレに構わないで、サホに言えばいいのに」
出直すということは、またオレに挑む気でいるのだろう。それがヒサギのモットーである『正々堂々』なのはともかくとして、サホに気持ちを伝えるのにオレの許可はいらない。ここに来る前にも何度も言い聞かせたはずだから分かっているだろう。
「いいえ。かすみ上忍の隣に立つには、やっぱりはたけ上忍を超えないと」
ヒサギはきっぱり言い切った。迷いも躊躇いもないそれに、晒している右目が自然と細くなる。
「あいつには誰も敵わないのに?」
サホにとってのオビト以上など誰もなれやしないと、先ほど説明したはずなのに、何故こいつはオビトではなくオレにこだわるのか。
暗に諦めろと促していると受け取ったのだろうか。オレとしては恋敵を減らしたいからというより、ただ現実を突き付けてやっただけだ。
オレの問いに、ヒサギは再び沈黙し考えこんだあと、
「オレは、その人を知りません。オレが知っているのは、敵わないって分かってるのに、それでもサホさんの傍にいて、想い続けている貴方だけです」
そう言って、苦みが混じった笑みを返した。
年下であろうヒサギがいつ頃下忍になったか分からないが、若くして死んでしまったオビトと顔を合わせたことがなくてもおかしくはない。『神無毘橋の英雄』としてなら把握していても、『うちはオビト』という人間がどんな奴だったか知らない。
知らないから、ヒサギにとってオビトは、“過去の者”でしかない。今を積み重ねていく生者として、ヒサギは過去に目を向けるのではなく、今と、未来を重視している。そして今、自分にとっての障害はオレだと。
眩しいと思った。
オレは未来に対して、希望なんてほとんど持っていない。
いつかサホと以前のようになれればと抱いた期待も泡となって消えた。
――眩しいことを真っ直ぐに語れるこいつは、きっとそれなりに恵まれて生きてきたんだ。心が折れることも、絶望したことも、死にたいと思ったことも、きっとなかった。だからそんなことが言えるんだ。
そんな風に見下げる自分の小ささと、斯くあれればいいのにと羨んだ心の軋む音が、演習場の葉擦れに混じり溶けていった。