最果てまでワルツ | ナノ
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 そろそろ産み月に入るため、クシナ先生はしばらく身を隠すことになった。
 人柱力の出産は里の最重要機密。封印が解けかかったときのことも考え、一般の病院で産むことはできない。
 信頼できる最少人数で事を進めることになり、一介の暗部のオレは、本日をもってクシナ先生の護衛任務を解かれることになった。

「カカシー。ちょっと来てー」

 日暮れが過ぎた頃、先生宅の近くに植えられている木の上に潜んでいると、クシナ先生から呼び出された。のんびりとした声から察するに火急の事態ではなさそうだが、わざわざ呼びつけるということは何かあったのだろう。
 開いている窓から家の中へと入ると、明るいダイニングテーブルの傍に立つクシナ先生が、「こっちにおいで」と言う。

「どうかされましたか?」
「一緒にご飯を食べましょう」

 クシナ先生は一つの椅子の背もたれを叩いて、にっこり笑う。椅子の前には、艶のある白米がよそわれている茶碗や、小葱が乗せられた味噌汁など、夕飯の支度が整っていた。

「オレは――」
「いいでしょ、最後くらい。今日はミナトが遅いし、明日からはどこだか知らないところでご飯を食べなくちゃいけないのよ。最後くらい、この家で誰かと一緒にのんびり食べたいってばね」

 食事を共にすることなどできないと返す前に、クシナ先生に遮られた。
 明日からしばらく、クシナ先生はこの家を出る。出産を終えて、九尾の封印に支障がないと判断されるまでは、馴染んだ家から離される。夫であるミナト先生は火影としての務めを果たすため、最近は日付が変わった頃に帰ってくるのも珍しくなかった。
 つまり、クシナ先生の希望を満たすには、オレが付き合うしかない。

「……サホに頼めばよかったんじゃ」

 今日もサホはこの家に来て、家事のほとんどをこなし、ついさっき帰っていった。理由を話せば、サホは何を置いてもクシナ先生と夕飯の席に着いただろう。

「カカシと食べたかったんだってばね」

 優しげな声でそう言われると悪い気はしなかった。これはきっと断ってはいけないのだろう。
 諦めよう。思って、この姿のままで食卓に着くことは失礼だと、外套を脱いで面を取った。クシナ先生が嬉しそうに「手を洗ってきて」と言い、素直に従い、洗面所でグローブを外して水と石鹸で手を洗った。
 戻ったオレと先生は向かい合って座り、同時に手を合わせ「いただきます」と声を揃え、夕飯に手を付ける。
 食卓に並ぶのは白米に味噌汁。ほうれん草と人参の白和え。里芋のそぼろ煮。小松菜としめじのお浸し。焼いた秋刀魚。

「ミナトから秋刀魚が好きだって聞いたから、秋刀魚にしたの」
「……ありがとうございます」

 オレの好物を用意したということは、本当に最初からオレと食べるつもりだった。何だか照れてしまってそっけないお礼にはなったが、クシナ先生は「この時期は美味しいものがたくさんよね」と気に留めていないようだ。
 味噌汁に口をつけると、出汁がふわりと鼻を通り、舌には柔らかい甘みが滑る。具は刻んだ小葱の他、皮つきの茄子が入っている。歯を立てれば柔らかく、じゅわっと味が染み出てくる。

「どう? 美味しい?」

 クシナ先生が箸を止めて、こちらをじっと見て訊ねる。

「はい、とても。味噌汁の茄子って、特別好きではありませんでしたが、これは好きです」

 自分で作る味噌汁にも茄子を入れたことは何度かあるけれど、感想としては『食べられる』だ。美味いとも不味いとも言えない出来だったが、美味い作り方をわざわざ調べるほど、オレにとっては好んで入れる具材ではなかった。
 けれどこの味噌汁の茄子は、皮には綺麗な紫が鮮やかに残っているし、ほろほろと崩れるほどではない柔らかさが美味しい。
 茄子自体のうまさもあるのかもしれない。出汁や味噌の相性もあるだろう。とにかく美味しかった。

「それ、サホが作ったお味噌汁だってばね」

 驚いて、口に入れたものが気管に入りそうになり、むせてしまう。クシナ先生からグラスに入った水を受け取って飲み、咳や苦しさが落ち着いたところで先生を見れば、眉を寄せつつも笑っていた。

「そんなに驚くとは思わなかったわ」
「……すみません」

 動揺して失態を見せてしまったことに、顔が熱くなる。

「お味噌汁だけじゃなくて、白和えも、そぼろ煮も、お浸しも。秋刀魚を焼いたのもサホよ。サホにはね、言ってないの。今日の夕飯はカカシと食べるって。私とミナトの分だと思って、作ってくれたの」

 今、目の前に並んでいるこの食事は全てサホが作った。本人はオレにではなく、ミナト先生へ作ったものではあるけれど。
 サホの料理は初めて食べた。実家暮らしで料理はあまりやったことがなかったらしく、この家で初歩から教わっていたのは知っている。
 オレは小さい頃から一人だったので、ある程度の料理は無難にこなせる。だからここに並んだ食事だって、どれも作ろうと思えば作ることは可能だ。
 だけどきっと、こんなに美味しいとは思わない。

「お味噌汁って不思議よね。どんな具材も、どーんと受け入れて、美味しいんだもの」

 味噌汁の椀を手に持って、クシナ先生は言う。
 先生が言うとおり、たいていの具材は、反発することなく味噌汁に馴染む。異なる食材を入れても、出汁と味噌とでうまく調和を取ってくれる。

「そうですね……」

 クシナ先生と同じだ。オレもサホも受け入れてくれる。オレとサホを繋いでくれようとしている。
 味噌汁の匂いは、サホの家の匂いだった。いつでも帰りを待ってくれる人が居る家の匂い。
 オレは今、味噌汁の匂いがする家の中に居る。サホが作った、茄子の入った味噌汁を食べている。
 気を抜くと、なんだか涙が零れそうだったので、瞬きをたくさん繰り返し、温かい食事で腹と何かを満たした。



 無事に護衛任務を完遂し、四代目へ報告が終わったあと、リンやオビトのところに顔を出そうと、花を買って向かう。それぞれの墓や慰霊碑の前で、もうじきミナト先生とクシナ先生の子どもが産まれることを報告した。
 夏の盛りを引きずるような日の照りから逃れるために、なるべく日陰を選んで歩み続け、もう一つの目的地へと足を運ぶ。着いた先は病院。受付に名を告げ、長椅子に腰かけてしばらく待っていると、「カカシさん」と声をかけられた。

「お待たせしました。こちらへ」

 優しげに垂れた目と合う。手にファイルを持ったアララギさんについて行けば、いつもと同じ部屋に通される。
 日当たりのいい部屋も、気温の高い時期は心地よい暖かさとは言えず、窓は遮光のないカーテンで端から端までしっかりと覆われている。

「こんにちは。お元気そうですね」
「おかげさまで」

 当たり障りない恒例のやりとりも、これで五回目。
 最初のカウンセリングから二ヶ月毎に、アララギさんと話す場が設けられている。クシナ先生の護衛任務中もそれは変わらず、四代目から必ず行くようにと、本当に任務の一つとして通った。

「調子はどうですか?」
「特に、変わりはないと思います」
「夢はどうでしょう?」
「見ることもありますが……回数は減ったかもしれません」

 リンの夢は今でも見る。起きる度に、彼女を貫いた右手が忌々しくてたまらない。
 けれど頻度としては低くなり、最後に見たのは一ヶ月半ほど前だ。

「私から見ても、前よりずっと落ち着いているように見えます」

 アララギさんは言って、手元のファイルに目を落とした。

「一度、医師に診て頂いてもいいかもしれません。今は二ヶ月毎ですが、もう少し間隔をあける方が、カカシさんもよろしいでしょう?」
「そうですね。任務もありますし……」

 二ヶ月に一度というのは、割とあっという間だ。つい先日受けたのに、と思うことが多い。
 クシナ先生の護衛任務が終わり、これからは暗部の通常任務に戻るだろう。可能ならもう少し頻度を減らして、任務に集中したい。

「では、次回のカウンセリングまでに診察の予定を立てておきましょう。医師不足なので、診察に至るまでに大分時間がかかりますから、先を見て予約を入れる形で」
「お任せしてすみません」
「いいえ。これが私たちの仕事ですので」

 ファイルに書き込むアララギさんは、いつも落ち着いた声色をしている。獣の逆立つ毛をやんわりと倒すように、決して押し付けがましくなく、かといってしっかりと踏み込んでくる。

「本当に顔色が良くなりましたね。もし思い当たることがあれば、聞かせていただけませんか?」

 だからこんな風に訊ねられると、ああ答えなくては、と思ってしまう。
 しかし思い当たることと訊かれても、ここ最近の出来事といえば、暗部の任務でクシナ先生の傍にずっとついていたことくらいだ。暗部の任務の内容など言えるわけもなく、だから毎回、特に何も変わっていないと返すだけだった。

「何でもいいんですよ」

 同じ忍として、任務内容の口外禁止を承知の上ということは、任務以外のことを話せということだろう。
 任務以外。そんなことを突然考えても、基本的にオレの日常は任務が全てを占めている。
 何かあるだろうか。アララギさんに話せるような、そんなこと。

「味噌汁が、美味しかったんです」

 頭に浮かぶのは、先生の家で食べた、サホが作った味噌汁。
 ずっと羨ましかった、味噌汁の香りのする家の中、食んだ茄子が柔かった。
 美味しかった。
 温かかった。
 嬉しかった。
 今でも、あの幸福に似た感情は忘れられない。

「美味しいと思えることは、いいことです」

 アララギさんは、オレの間抜けな返答を笑うことなく受け止めた。言ってしまったあとで気恥ずかしい思いが込み上げたけれど、彼の声が耳に沁みると、どうせこの場にはアララギさんしか居ないのだからと、自分に言い聞かせた。



 クシナ先生の出産の予定日が近づく中、通常任務に戻ったオレは四代目の護衛や里の警備などを主に当たっている。
 ミナト先生の仕事ぶりは日頃と変わらないので、子どもが産まれているのかどうかは分からない。出産の際に弱まる人柱力の封印を、ミナト先生が新たに組み直すために付き添うことになっている。いまだ緊急の呼び出しなどがないところを見ると、先生の子はまだクシナ先生のお腹の中でまどろんでいるのだろう。

 その日の任務を終え、どこかで食べて家に帰ろうと里を歩いていると、偶然会ったガイに絡まれた。いつものように勝負をしようと話を持ちかけられ、やんわりと断りながら、どこの店に入ろうか、入ったらこいつもついてくるんだろうな、面倒だなと歩いていると、妙な空気を感じた。
 何かおかしい、いつもと違う。肌に触れる空気が、刺すような冷たさを持っている。
 歩を止め探っていると、足下がぐらりと大きく揺れ、次いで雷のように轟く音が耳をつんざく。
 混乱し怯える周囲の目が向かう先で、緩慢に尾を揺らし、胸を張って喉を反らす巨大な獣が、夜空の天幕を引き裂かんばかりに哮けた。

「あれは……九尾!?」

 ゆらゆら蠢くような尾の数は正確には分からないが、多数の尾を持つ化け物は、この里に置いて九尾を指し示す。木ノ葉隠れの里が所有する、ただ一匹の尾獣。

――クシナ先生の封印が解けた。

 理解した瞬間、とてつもない恐ろしさが全身を駆けた。周りの者は、九尾の存在そのものに体を竦めているが、オレは違う。九尾が現れた、その理由に血の気が引いていく。
 果敢にも応戦しようとするガイを制していると、二十近くは年上だろう男の忍に、三代目の命で、若い忍は指定された場所へ向かえと指示が飛んだ。

「三代目の命? 四代目は一体――」
「いいから行け! 行かぬなら、反逆と捉える!」

 何故、現火影である四代目ではなく三代目の命なのか。ガイの疑問は尤もだが、男の忍は答えることなく一喝し、オレたちは急いで教えられた場所へ駆けた。
 鬼気迫る男の様子が引っかかるガイが、走りながら、

「カカシ、なぜ四代目の命ではないんだ?」

と、四代目付きの暗部であるオレに問うが、無視し続けた。
 四代目ではなく三代目が指示を出すということは、つまり四代目は指示を出せない状況にあるということ。
 指示を出せない状況とは、四代目が火影の務めとして里を離れているか、所在が分からないか、あるいは――

 やめろ。考えるな。考えるな!

 恐怖は体を縛る。今は一刻も早く指定された場所へと着かなければならないのに、足が回らなくなってしまう。考えるな。考えるんじゃない。駆けろ。走れ。今はそれだけを。


 着いた先は、森の中だ。里から離れており、すでにオレたち以外の若い忍たちが集まっていた。
 未来を担うオレたちを守るためにと、里の大人たちが張った結界に押し込められてしまい、届く地響きに耳を傾けるしかない。
 里中の若い忍が集められているので、当然その中にサホの姿もあった。その顔は真っ青で、隣に立つ紅が声をかけるが反応は薄い。血色の悪い唇を震わせ、今にも泣き出しそうだ。
 どうにかしてやりたい気持ちに駆られるが、オレが行ったところで余計に感情を煽ってしまいそうで躊躇われた。
 そのうちサホの傍にナギサやヨシヒトが付く。二人はクシナ先生と九尾のことを知っているはずだ。だからこそ、しゃがみこんで震えるサホが心配で、紅と共に懸命に支えようとしている。
 ざわついていた周囲は、サホの様子を見て顔の陰りを濃くした。不安や恐怖は伝染する。ここまで怯える状況なのだと、周りも感化され、女子の弱々しい声も増えた。

「チッ……ビビってんじゃねぇよ。弱ェくせに、忍になりやがって」

 近くで、仲間数人と顔を突き合わせていた男の一人が、サホを見て苛立ち舌打ちをする。
 男の言い分は、正直理解できた。忍というのはどんな環境、どんな事態に陥ろうとも、気を保って事に当たる必要がある。精神的に弱い者が足を引っ張るのが煩わしいのは、オレ自身も何度も経験した。
 分かる。理解できる。苛立つことも、仕方ないのかもしれない。
 だけど、お前は何を知っている。サホは里の窮地や九尾の出現だけを恐れているんじゃない。九尾の封印が解けたことで、自分の師が今どういう状況にあるのか、いやでも分かってしまうから、立っていられないほどの恐怖に襲われている。
 何も知らないくせに。何も知らないくせに!

「カカシ落ち着け」

 気づけばオレは、男の胸倉を掴んでいた。無理矢理引き寄せられ、苦しそうに顔を歪める顔から呻く声が聞こえる。後ろからオレに腕を回すのはガイで、オレに呼びかけたのもガイの声だった。片手を伸ばして、相手を掴むオレの手を剥がし、後ろへ引いて男との距離を作らせた。

「なんだよ、このくらいでガタガタ震える腰抜けが悪いんだろう!」

 文句があるのかと、男は声を上げる。

 お前に何が分かる。
 お前がサホの、何を知っている。
 サホがどれだけ、どれだけ――!

 今のオレの目は大きく見開かれているだろう。額当てで左目を隠していなければ、写輪眼で男を幻術に嵌めて、思いつく限りの地獄を見せていたかもしれない。マスクで隠した口からは、獣のように激しくも深い呼吸が漏れ、奥歯をぎりっと鳴らした。
 顔から苛立ちが消え青褪めていく男を、友人らしい仲間たちが連れ、人混みの奥へと消えて行く。
 男が見えなくなったことで、ようやくオレの気も落ち着いてきた。ガイがオレの身を放し、男の胸倉を掴んでいた手は、何を取るでもなく両脇に落ちる。

「カカシ。気持ちは分かるが、こんなときに内輪揉めはよせ」

 諭すガイの言葉に猛烈な反発心が湧くが、ガイに非は全くなく、それどころか正論であると分かっているので、必死に口を閉じた。そうでもしないと、胸の内にあるもの全てをぶちまけてしまいそうだ。


「カカシと食べたかったんだってばね」


 クシナ先生。どうか、生きて。ミナト先生と、産まれた子どもと一緒に、戻ってきて。
 そうじゃないと、オレもサホも、また大事なものを失ってしまう。
 頼む。誰か、お願いだ。
 もうこれ以上、オレたちから何も奪わないで。



 生き残ったのは、赤子ただ一人。三代目は沈痛な面持ちで、起きたことをオレたちに説明した。
 有りっ丈を里中から掻き集めたかのように、この場には厳かな黒が寄り添い合い、里を守って命を落とした者たちの前で、頭を静かに垂れる。
 四代目の死、九尾の暴走、新たな人柱力。一度に詰め込まれる情報は、里の悲惨な状況も相まって、受け止めきれない者も多く見えた。老若男女問わず、涙を流し肩を震わせ、押し殺した絶望が嗚咽になる。
 サホも泣いているだろうと思ったけれど、彼女は涙など流さず、皆にこれからのことを話す三代目に顔を向けている。
 横顔からでも分かる、虚ろな表情。呼吸をしているのかどうか定かではないほど、サホはただ、置物のように立っている。
 泣き喚き、後悔の念で眉を寄せる方が、そうやって感情を表に出す方がよっぽどいい。ああやって、まるで魂が抜けたように呆けているのが、一番だめなんだ。
 三代目の話が終わり、場は解散の流れになった。三代目より呼びつけられた者はそちらに向かい、そうでない者は四代目たちの写真の前に集まり、あるいは体を寄せ合い、励まし合いながら広場を去っていく。
 サホはナギサやヨシヒトに付き添われ、人波に乗っていく。二人が付いているのならば、オレなど必要ないだろう。決めつけて、オレも人の波に攫われるように、場を後にした。


 里長でもあり、師匠でもある四代目を喪ったオレをガイは案じているらしく、傍を離れぬようにと先ほどからずっと隣を歩いている。

「ガイ。一人にして」
「カカシ」
「大丈夫だよ。オレは慣れてる」

 ガイは言葉を詰まらせる。ミナト班のみんなは自分以外の全員が死んでしまい、オレはとうとう一人になった。大事な人をどれほど喪ったか知っているガイからすれば、何とも返しにくいだろうと分かって言った。

「オレより、アスマや紅の傍に居てやりなよ」

 母や父を亡くした二人にこそ、ガイのような男が付いているべきだ。ガイも先の戦争中、父親を亡くしている。それを乗り越えたガイだからこそ、親を亡くした二人にかけるべき言葉をかけてやれるだろう。
 オレにもやることがある。オビトやリンに伝えなければならない。



 今の里は、どこもひっそりと沈んでいる。木ノ葉隠れの里は名の通り森に囲まれているのに、まるで深い水底にあるようだ。ただこの慰霊碑の周りは、水底ではなく、普段と変わりない穏やかな木々の葉擦れが聞こえる。
 ここは奇跡的にも被害がなかったためか、里の惨状などなかったのではと錯覚してしまう。火影の執務室に向かえばミナト先生が居て、先生の家にはクシナ先生と赤子が居て、誰も死んでいない、誰も泣いていない、いつもの里だと。
 そんな報われない希望は、無言でサホが隣に立つことですぐに切り捨てられる。
 リンが死んでから今まで一度たりとも、彼女がオレの傍に立つことはなかった。そのサホが、手の届くところにいるのは、オレと悲しみを分かち合うためではないだろう。ただ、大きな悲しみと喪失感の前では、オレの存在などどうでもいいのだ。
 二人黙って、慰霊碑の前に並ぶ。サホもまた、オビトに伝えに来たのかもしれない。
 ミナト先生が亡くなり、クシナ先生も亡くなり、残された赤子は産まれて間もないというのに、人柱力として生きることを余儀なく押し付けられた。
 もしオビトが生きていたなら、共に肩を落として慰め合っただろう。最期まで人を思うあいつならきっと、大きな枷を背負わされた赤子のことを憂いつつも、先生たちの代わりに守ってやろうと、前を向いて檄を飛ばし、俯いているオレたちを引っ張ってくれたに違いない。
 だけどオビトは、オレのせいで死んだ。
 リンも、オレが死なせた。
 今度は何があっても守るのだと覚悟し、事実オレはクシナ先生の護衛の任は務め上げた。
 やっと今度は守ることができたと思っていたのに、結局オレは、オレは肝心なときに何もできなかった。

「死んじゃいそう……」

 ぽつりとサホが零す。向けたのは慰霊碑ではなくオレだ。
 死にそうに見えたんだ。
 オレには、黒衣の群れの中で立つサホの方が、今にも死にそうに見えた。

「人を死なせてばかりのオレなら、死んだ方がいいのかもね」

 オレこそ死ぬべき人間ではないだろうか。
 父さん、オビト、リン、先生。大事な人ばかりが死んでいく。
 その度に、オレは何もできなかった。父さんを支えることも、オビトの上から岩をどけることも、リンを生きて里に連れ帰ることも、先生たちの幸せな未来を守ることも。
 何一つできないオレは、死んだ方がいい。
 オレはきっと呪われている。大事な人ほど守れない呪いに。
 なら、オレの呪いで死ぬとしたら、次はサホだ。オレにとってもう大事な人は、サホしか残っていない。
 サホのためにも、オレは死んだ方がいい。その方がいい。

「死ぬなんて絶対にだめ」

 唐突に胸元を掴まれ、体がそちらへと持って行かれる。いつの間にか見上げられるようになったサホの両目が、オレを睨みつけた。

「わたしはあんたを、絶対許さないって言ったでしょ」

 間近で放たれる怒りは、その熱を持って咎人の烙印を押し付けるように、強く、強く、オレに言い聞かせる。

「オビトを失って、リンも失って、ミナト先生まで失って。今のあんたにとって、この世は生き地獄かもね。それでもね、あんたは生きていくのよ。その目で」

 サホはオレの胸倉から片手を外し、そのまま左目へと伸ばす。額当てで隠していた肌を露わにされ、少しずれていた遠近感が戻ってくる。サホの顔も、より正しく輪郭が浮かぶ。眉間を寄せて注ぐ視線の先は、もうオレではなく、左目だけだ。

「オビトからその目を貰ったんだから、あんたはオビトの分まで、木ノ葉の忍として生きて、里を守るのよ」

 サホの言うとおりだ。オレはオビトの意志を継ぐと決めた。あいつが守りたいと願ったもの全部をオレが守るのだと誓った。
 だけどサホ、知ってるだろう。オレは守れなかったんだ。大事なものほど守れない奴なんだ。オレはどう足掻いても、仲間を失ってしまうクズだ。
 オレはお前まで死なせてしまうかもしれない。そんなの嫌なんだ。お前を失いたくない。
 そんなオレに何ができる。お前に何をしてやれる?
 オレはお前に、何もしてやれないんだ。

「あんたの左目として、オビトは生きてる」

――そうか。
 お前は、お前はオレに、最初から何も、望んでいなかった。
 お前にとってオレは、オビトへ繋ぐために存在する糸みたいなものだ。
 分かっていたのに。お前の一途さも、お前にとって一番大事なものが何なのかも、誰よりも知っているのに。どうしてオレは、性懲りもなく望んでしまうんだ。

「オビトの目を貰って、リンを守れなかったあんたを、わたしは死ぬまで恨む。だからあんたはわたしが死ぬまで、死ぬことは許さない。オビトの目を持ったまま、わたしより先に死んでみなさいよ。奈落の底から引きずり上げて、わたしが殺してやる」

 バカげた話だと一蹴するのは容易い。死んだ者を二度も殺すなど、誰ができようか。
 けれどサホなら、本当にやってしまうだろう。禁術だの秘術だのを行使して罰せられようと、サホには取るに足らない問題だ。オビトの前では、どんなことでも些事になってしまう。

「オビトのために、わたしに恨まれるために、生きなさいよ」

 サホがオレを見た。
 オビトの目ではなく、オレの目を見て言った。生きろと。

 オレがお前にできることは、生きることなのか。

 言葉もなく、問い返すようにサホを見つめ返した。澄んだ光を取り戻したと思っていた瞳は、また昏い炎を宿している。
 胸倉を掴んでいた手が緩んで、サホはオレから距離を取る。少しだけ伸びた髪が揺れて遠くなっていく。[さや]けき川のように揺蕩うそれが、目に濃く焼き付いた。



15 はるけき新月

20190923


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