深淵もまた



 残業をして、人通りの少ない住宅街を足早に通り抜けようとしていると、後ろから足音が聞こえてきた。深夜零時を回っているとはいえ、人がいてもおかしくはない。自分のように残業帰りの可能性だってある。しかし、何かがおかしい。俺の足音に隠されるように一定間隔で聞こえてくるのだ。他人との足の速さが全く同じだなんて、奇妙な話だ。それに、この音。靴を履いて歩いていれば、擦れるような、ザッ、ザッという音が聞こえてくるはずだ。だが、後ろから聞こえてくるのはーー。
 ひた、ひた。
 まるでフローリングの上を裸足で歩いているような、そんな音。
 少しでもその音から離れたくて足を速める。同じように速まる足音。俺の靴音に隠されるように、裸足で地面を蹴る音が聞こえた。
 あと少し、もう少しで我が家だ。家に帰れば、家族が待っている。疲れた体に鞭打って全力で走り、カバンから鍵を取り出した。俺が玄関の前で足を止めても、追ってくる”なにか”が止まる気配はない。変わらずひたひたと足音を鳴らして、迫ってきていた。
 手が震えていて何度か鍵を差すのを失敗するも、なんとか鍵を開けることに成功する。少しだけ開けたドアの隙間から我が家に身を滑り込ませ、急いでドアを閉める。その一瞬に、ドアの隙間から、見えてしまった。
 走ってくる女。伸ばされた手。乱れた長い髪。赤いワンピース。靴を履いていない足。全身が濡れていた。乱れた髪からぼたぼたと水が滴り落ち、服を濃く染める。顔はーー黒。目、口、鼻……顔にあるはずのパーツは何もなく、ただただそこには黒が広がっている。塗りつぶされた黒。いわば、深淵だった。深淵が、俺をーー。



「ーーなた、あなた」
 意識が浮上する。妻の声だ。瞼を上げれば、そこは玄関。靴を脱ぐこともせず、気絶してしまっていたらしい。腕時計で時間を確認すれば、零時二十分。あまり時間は経っていないようだ。
 こんな時間に起こしてしまったことの謝罪と、起こしてくれたことのお礼を言おうと妻のほうを向く。
 彼女の顔には何もなく、漆黒が広がっていた。
「うわぁ!!!!!!!」
 思わず声をあげてビジネスバッグを振り上げる。靴を脱いでいないせいで、逃げ場がない。外には、まだあいつがいるかもしれない。
「■■くん? どうしたの」
 立ち上がって、”それ”は妻の声で話しかけてくる。
 近寄るな、こっちに来ないでくれ。思いは通じず、そいつは寄ってくる。少しでも距離を取ろうと、玄関のドアに背をつける。息があがる。
 妻の服を着て、妻の声をした”そいつ”が、俺に手を伸ばす。胸元に触れる。ドアが俺の体温で生暖かくなっていく。下から覗き込むように、”それ”は顔を上げた。
 暗闇から、何かが俺を見つめている、気がした。
 視界が歪む。深淵から、手のようなものが伸びてくるのが見えた。

 意識が、途切れる。


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