※年齢操作、大学生設定


「蛍くん、もしかしてまた背伸びた?」
「…前回、僕のアパートで会ってからまだ2カ月デショ。そんな短期間で目に見えて分かるほど伸びたりしないよ」
「うーん、そうかなぁ…この間よりすごく伸びた気がするけどなぁ…」

久しぶりに会う僕の恋人は、僕を見上げて、身長差を計るように手を上下させていた。大学生になってもどこか子どもみたいだなと呆れながら、2カ月ぶりに見る彼女の仕草が愛しかった。僕を駅に迎えに来てくれたなまえを見た時から、少しドキドキしてたなんて、絶対に言ってあげないけど。

僕たちが大学に進学して半年と少し。進学した大学は、別々のものだった。僕にもなまえにもやりたいことや将来の目標があったから、それぞれで進学する大学を選んだし、そもそも、同じ大学に行くという選択肢はなかった。会うには新幹線や飛行機を使う距離。会う機会はぐっと減ってしまった。大学の講義もあるし、部活やサークルもあるし、バイトだってある。金銭的な問題だってなくはないし、それぞれの生活リズムもある。高校の時みたいに毎日顔を合わせて、週に何回かは一緒に下校して、週末には一緒に出掛けて、とはいかない。だからこうして何カ月かに一度、一緒に過ごすことが出来る週末は貴重だった。なまえのアパートまでの道を歩きながら、他愛もない話をする。隣で最近の出来事を話すなまえに、うんうんと相槌を打つ。駅からなまえの住んでるアパートまではこんな道を通るのか、とか、意外と人通りの多い通りでよかっただとか、そんなことを考える。

「ねえ聞いてる?蛍くんってば」
「っ、聞いてるよ。だから服引っ張んないでくれない」

服の裾を引っ張って、拗ねたような表情で僕を見上げる。こんなことでさえも楽しいのだから、不思議だ。

「蛍くんが来るから、部屋の掃除も頑張ったんだよ」
「へえそうなの」
「だってほら、蛍くんが私の住んでるアパートに来るの、初めてでしょ。一番綺麗な状態で招待したいし」

蛍くん、いっつも私のアパートに来たがらないから、となまえは笑った。それは、そうでしょ。普通のアパートならまあ行ってもいいかと思えるけど、なまえの住んでいるアパートはシェアハウスなんだから、と声に出さずに心の中で答える。ああ、それを思いだしたら少し憂鬱になってきた。「シェアハウス、ね」となまえに聞こえないように小さく呟いた。

大学に進学するにあたって、なまえが住むことにしたアパートの情報を聞かされた時は驚いた。正直なところ、今でも少し、信じられない。まさかなまえがシェアハウスに住むなんて思わなかった。僕はなまえの住むアパートに行ったことがない。今回が、初めての訪問になる。本当はあんまり気乗りしなかったし、誘われた時も「いつもみたいに僕のアパートでいいデショ」と言ったけど、なまえに「蛍くんに私の住むアパートを見せたいの」と強く言われ、断ることが出来なかった。まあ1回くらいなら。うん、1回だけなら。そう、自分自身を説得した。そのくらい、気乗りしなかった。むしろ嫌だった。だってそうデショ、恋人の住むアパートに行って、恋人以外の人と会うなんて、なんか疲れそうじゃない。恋人に会いに行ったのに、恋人以外の人と会わないといけないかもしれないなんて僕は嫌だ。シェアハウスなんて人と人とのつながりがただのアパートよりずっと濃そうだし。だったら僕のアパートで過ごした方がずっといい。だから今まで、なまえの住んでるところに僕が出向くことはなかった。ああいうところは、社交的で、人と一緒にいるのが好きな人が住むところなんだろう。そりゃあ、何かしらの事情があって止むを得ず住む人もいるんだろうけど。1つの居住を、複数人で共有する。いくらプライベートスペースがあると言っても、僕には絶対に無理だと思った。例えば疲れて家に帰ってきたのに共有スペースに日向や影山なんかがいたりしたらそれだけで疲れが倍増しそうだ。考えただけで無理。けど、なまえは違った。電話で話をしてる時も、2カ月前に僕の住むアパートで会った時も、「シェアハウスってとっても楽しいんだよ蛍くん」と笑っていた。隣の部屋のなんとかさんがどうだとか、下の階のだれそれさんがなんだとか、大家さんがああだった、とか。そういうのを随分楽しそうに話してくれる。あんまりちゃんと聞いてなかったけど。なまえに悪気がないのは分かってる。けど、どうしても面白くなかった。これも、僕がなまえの住むアパートに行きたくなかった理由の一つなのかもしれない。大学は楽しいし、一人暮らしは気楽だ。けど、僕は一人暮らしを始めてから、毎日顔を合わせて、週に何回かは一緒に下校して、週末には一緒に出掛けていた高校時代が懐かしくなる。高校生に戻りたいなと思ったりもするし、なまえと一緒の大学に、そうじゃなくても近くの大学に進学した方がよかったんじゃないかと思ったことだってある。けど、なまえは僕と違って、今の生活を満喫してるようだから。シェアハウスでいろんな人と生活して、不満なんてないみたいだから。僕ばっかりなまえのことを考えてるみたいで、なまえのことを想ってるみたいで。…そういうのが少し、面白くない。

「あっ、蛍くん、蛍くん!ここ!ここが、私の住んでるアパート!素敵でしょう、ねっ?」

くん、っと少し強めに服を引っ張られる。いつの間にかアパートについていたらしい。なまえの言葉に顔を上げれば、そこにはクレープ屋があった。甘い香りがあたりに漂っている。大通りに面した小さな窓から注文をする形らしい。店の前には小さな看板も立っていて、チョークアートのイラストでいろんなクレープや、それに対しての説明が描かれていた。チョコバナナ、ダブルクリーム、メイプルシナモン、ダブルクリームイチゴショート…随分といろいろあるみたいだ。女子校生だろうか、制服姿の女の子たちがきゃあきゃあと騒ぎながらそれぞれがクレープを注文している。「…なまえはクレープ屋さんに住んでたの」となまえに問うと、なまえは笑った。

「1階がクレープ屋さんで、上がアパートなの。裏手にまわると、入居者用の扉があるんだよ。行こう、蛍くん」

なまえは楽しそうに僕の服を更に引っ張る。裏手に連れて行こうとしているらしい。

「だから引っ張らないでよ。…っていうか、クレープ屋が1階にあるなんて聞いてないんだけど」
「えっそうだっけ、教えてなかったっけ?ここのクレープ、すっごく美味しいよ!よく入居者の人とね、食べに来たりするんだけど…あっ入居者用の扉の隣にはクレープ屋さんの店内に続く扉もあるんだ」

入居者の人と、ね。本当に楽しそうで、それを可愛いと思うけど、面白くない。僕と会わない時間。入居者の誰かと仲良くクレープを食べたり、いろんな話をしているのだと思うと面白くない。クレープなんて、僕とも食べたことがないじゃないか。

「なるほど。だから最近ちょっとふくよかになった訳ね」
「え…、えっ!?う、嘘、そんなに!?目に見えて分かるくらいに!?」
「ちょっと、冗談だよ。何そんなに慌ててるの。太ったって自分から宣言してるみたいだよ」

面白くなくてちょっと意地悪を言いながらはっと鼻で笑えば、なまえはかっと顔を赤くして、「もう、蛍くん!」と僕の服をぐいぐいと引っ張りながら、怒る。「はいはい、ごめんごめん」と形だけの謝罪をしながら、建物の裏手に回れば、アパートの扉にしては可愛らしいふたつの扉。ひとつは店内に続く扉で、もうひとつがアパートに続く扉なんだろう。なまえが手慣れた様子でかちゃりと鍵を開ける。扉を開けば、長い階段が現れる。階段も僕の住むアパートのものよりも可愛らしい造りになっていた。なまえは「蛍くんはやく」と階段を上り始めたけど、僕はそのなまえの腕を掴んでそれ以上階段を上るのを止める。既に3段ほど上ったなまえと僕の目線が、ほとんど同じ高さになる。きょとんとした様子のなまえに向かって、口を開く。

「…念のため確認するけど、本当にシェアハウスなんだよね」
「?そうだよ、階段を上がるともうひとつ扉があってね、そこを開けたら大きいリビングダイニングなんだ。リビングダイニングからは各フロアのお部屋の扉も見えるし、居心地いいんだよ。あ、今日は土曜日だから誰かしらはいるはずだし、きっとにぎやかだと思うなぁ、誰がいるか、楽しみだね!」

なまえが無邪気に笑う。僕はなまえにひきつった笑みを返した。土曜日だから誰かしらがいるという言葉に、気が滅入る。なまえがにぎやかで楽しみと言う理由が分からない。なまえはそんなにも入居者と打ち解けてる訳。ていうか、なんで彼女のアパートに遊びに来て、他の入居者と会わないといけないの。僕だって大人だから愛想笑いのひとつくらいするし簡単な挨拶くらいはするけど、それでも。そうやって、僕といるっていうのに、入居者と過ごすことを楽しみにしてるみたいなことを言われると、本格的に、面白くないんだけど。この階段、本当に上るべきかな。今からでもデート場所変えて、夜はそのへんのビジネスホテルに泊まるとかにした方がいいんじゃないの。なまえの腕を掴んだまま、そんなことを考える。

「よ、みょうじ」
「みょうじさん、こんにちは」

考えていると、ふたつの声がすぐ近くで聞こえた。驚いてみょうじの腕を離してしまう。振り返れば、そこにはふたりの男女がいた。僕たちより少し年上、かもしれない。誰、この人たち、と僕が聞くより先に、なまえはぱっと表情を輝かせて、階段3段分を駆け降りる。

「こんにちは!おふたりでどこか行ってきたんですか?」
「まァそんなとこだ。みょうじは?」

男の方が笑みを浮かべて、なまえに話し掛ける。なまえは嬉しそうにいろいろと話をしている。親しげなその様子。よくそんなにぺらぺらと喋れるよね、そういうところ尊敬するよ、と心の中でなまえに向かって言うと、女の方と目が合った。彼女は僕を見てにこりと微笑んだ後、ぺこりと頭を下げた。僕もぺこりと首だけ下げて礼をする。アパートの、入居者だろうか。…だとすると、入居者はどっちだろう。ふたりともなまえの知り合いのようだけど。男の方だろうか。女の方だろうか。なんとなく、シェアハウスだから女性ばかりだと思っていたけど、違うかもしれない。男の入居者がいる可能性だってもちろんある訳だし。ああ、でも、もしかしたら同居しているのかもしれない。…なんて考えているとまた面白くなくなってくる。なまえはへらへらと笑いながら話しこんでるし。

「ちょっと、なまえ」

早く部屋に行くよ、と言おうとした僕に、なまえはとんでもないことを言う。

「あ、蛍くん、いいよ、先に私の部屋行ってて。あっ、はい、これ鍵!」

なまえが鞄をごそごそと漁って、それから大きなうさぎのキーホルダーが付いた鍵を取り出す。にこにことしながらそれを僕の手に握らせる。扉や階段と同じく、どことなく可愛らしいデザインをした鍵には301、という文字が刻まれている。

「は?ちょっと、なに。意味わかんないんだけど」
「私もすぐ行くから、先に私の部屋入ってて。あ、リビングで誰かとお話しててもいいよ」

へらっとなまえが笑う。「ちょっと、」となまえを呼びとめようとしたけど、なまえはすぐにふたりとのおしゃべりを再開させてしまった。鍵を手渡されて、愕然とする僕になまえは気付かない。代わりに、なまえを見つめていた僕に気付いて、女の人が小さく微笑んでくれた。なんでかなまえを呼んではいけないようないけない気がして、僕はぐっと唇を噛む。なんで、シェアハウスに入りたくないとか考えてた僕が、ひとりでシェアハウスに入らなきゃいけないのさ。大体、リビングで誰かとお話しててもいいよって、初対面の人と図々しく色々話せるような神経はしてないけど。渡された鍵をぎゅっと握って、僕は長く続く階段を見上げる。見上げたって、何がどうなる訳でもない。なまえは随分と楽しそうに話をしている。3人が入口を塞いでいるから、戻ることも出来ないし。はあああ、と大きめの溜息をつく。仕方なく僕は長い階段を上ることにした。意味が分からないんだけど。ていうか意味が分からないを通り越して不愉快なんだけど。そんなことを心の中で繰り返しながら。

階段を上り切れば、これまた随分と可愛らしい大きな扉がひとつ。なまえが言っていたことを思い出す。階段を上がるともうひとつ扉があって、そこを開けたら大きいリビングダイニング。リビングダイニングは各フロアの部屋の扉も見える居心地のいい場所で、土曜日の今日は誰かしらがいるはずだ、ということだった。僕にとっては、そうは思えないんだけど。鍵穴に、鍵を差し込む。かちゃり、と小さな音がする。なまえは、いつもこうして扉を開けてるんだろうか。僕は…僕の部屋はカードキーだけど、鍵を開けて部屋に入ったって誰もいない。当たり前だ。一人暮らしなんだから。けど、ここは違う。なまえは、扉を開ければ、いつも誰かにおかえりと言ってもらってるんだろうか。居心地がいいリビングとやらで、入居者の誰かと話をしたりご飯を食べたり昼寝をしたり大学の課題をしたり、そんなことをしてるんだろうか。そこは、僕といるよりも、居心地がいいんだろうか。入居者の人たちとは、そんなに仲がいいんだろうか。そうだとすると、僕と会えなくてさみしいとか、そういうことは、思わないんだろうか。

「…カッコ悪いな」

本当に、カッコ悪い。自分に向けて呟きながら、扉を開く。誰もいなければいい。誰とも会わなければいい。そんなことを思いながら足を踏み入れたそこは、なまえの言葉通りとても広かった。陽の光が差し込む大きな窓。大きなテーブルの上には小さな花瓶があり、鮮やかな花が飾られていた。近くにはソファもある。背の部分しか見えないけど、何人座れるんだというくらいのソファは優しい色合いをしている。気付くか気付かないかくらいで漂う甘い香りは、下の店舗からか。ぱっと見えるところに、人はいない。念のため、とぐるりとあたりを見渡す。やっぱり、誰の姿も見えない。ほ、っと息を吐き出す。もしかするといいタイミングだったのかもしれない。このまま部屋に向かってしまおう。誰かに会ったら面倒くさい。知らない誰かにつかまったりなんかしたら、最悪だ。そんなことを考えながらそろりとなまえの部屋を探そうとしたその時、ソファからにょきっと腕が伸びた。ぎょっとしていると、ソファから頭も見えた。…ソファで誰かが寝ていたらしい。ソファの背の部分しか見えなかったから、気が付かなかった。「んあ?…あー…寝てたのか」と低い声で唸りながら、男はぐるりと僕の方に顔を向けた。ばちり、と視線がぶつかった。随分と男率の高いアパートだ。いや、それとも、同居率が高いのか。それとも、ただ単に恋人や友人の部屋に遊びに来ただけなのか。まあ、僕には関係ないけど。ソファで眠っていたらしい男は僕に何か言いたげだったけど、僕は彼に向って社交辞令の笑みとお辞儀をひとつ。

「お邪魔します」

適当だったか分からないけど、そう挨拶をしてから、見つけた301と書かれた扉に向かって歩き出す。男から呼び止められたら面倒臭いなと思ったけど、呼びとめられることはなかった。なまえだったら、話しこむんだろうか。だとすれば、どんな話をするんだろう。そう考えて、また一人面白くなくなる。カッコ悪い、ともう一度、今度は心で呟く。

「おい、そこみょうじとかいうヤツの部屋だぞ」

301号室の前で足を止めたと同時に聞こえてきた声に、もう一度作り笑いを浮かべて、返事をする。

「知ってますよ」

ソファに座っていた男は、それっきり何も言わなかった。ウサギがついた鍵を使って、僕は301号室の扉を開けた。扉を開けば、ふわり、とリビングとは違う香りが広がっている。よく知っている、なまえの香りだ。入口のすぐ近く、壁に掛けられた大きめの丸い鏡は、小さなキラキラとした石で縁どられている。なまえが飾り付けたのか、それとも元々こうして売っていたのかは分からないけど、なまえらしいなと思った。落ち着いたデザインの壁紙に合わせたのか、ごちゃごちゃとしていない、綺麗な部屋だ。部屋にある雑貨なんかにも、なまえの好きな色が多い。小さなテーブルには大学で使っているのだろう書籍とルーズリーフが置いてあった。ルーズリーフには見慣れたなまえの字で、見慣れない言葉が並んでいた。ああ、なまえは本当にここに住んでいるんだなと改めて思う。このシェアハウスで。僕が好きではない居住空間で。…ここの入居者たちと、僕以上に一緒の時間を過ごしてるのか。偶然会った入居者たちと、僕を放って話しこんでしまうくらいに。入居者か、もしくは入居者の友人に、部屋番号と名前を覚えられているくらいに。そのくらいの時間を一緒に過ごして、毎日を楽しんでるのか。本当に、さっきから僕はすごくカッコ悪いな、情けない。

「…僕ばかりが、好きみたいだ」

綺麗に整えられたベッドに座る。シーツを撫でても、なまえの体温を感じることは出来ない。冷たいシーツを何度か撫でて、ひとりで溜息をつく。一人暮らしの部屋でも、僕はこうしている時間がたまにある。ベッドに座り込んで、なまえのことを考える時間がある。声が聞きたい、触れたい、会いたい。そんなことを思いながらスマホに触れる時間だって短くない。なまえには、こうやって座って、僕のことを考えてくれる時間があるんだろうか。楽しそうなシェアハウスでの生活の中で、僕を想ってくれてる時間があるんだろうか。カッコ悪い。情けない。それでも、気になるんだ。

「…なまえ、」

小さく名前を呼んだと同時に、「蛍くーん、開けてー」という声が扉の向こうから聞こえてきた。あまりのタイミングの良さに、びくっとしてしまった。「…タイミング良すぎでしょ」と一人呟きながら、扉の方へと近付く。入口でのおしゃべりは終わったらしい。僕を待たせておいて開けて、とは随分と態度がでかいなと思いながらも、「ハイハイ、今開けますよ」と言いながら扉を開ける。開けるとそこには、両手にクレープを持って満面の笑みを浮かべるなまえの姿があった。

「ごめんね、待たせちゃって!」
「本当だよね。招待しておいて自分は他の人と話しこむなんてちょっとどうかしてると思うけど」
「本当にごめんね。つい話しこんじゃって…」
「ふぅん。僕を放っておいてする話がどれだけすばらしいものだったか是非教えてもらいたいね」

言葉がつい刺々しくなる。なまえはそれを気にした様子もなく、楽しそうにしている。それほどにあのふたりとの話が楽しかったのか。だんだんと苛々してくる僕に気付かず、クレープを両手に持ったなまえは僕を見て笑った。

「どれだけすばらしいものだったか、って…。蛍くんの話だよ」
「…は?」
「だから、蛍くんの話。下で会ったふたりに、蛍くんのことを話したの。前に、高校の時の同級生と付き合ってるってお話したことがあって、さっきの背の高い人がそうなんですよって。それでね、あのふたり、よかったら明日にでも行ったらどうって、水族館の入場券くれたんだよ!明日、一緒に出掛けようよ!水族館、電車で1時間くらいのところにあるんだ。あ、あとほら、リビングにもひとりお兄さんがいたでしょう?蛍くんも会ったよね?あの人にも、あのメガネが彼氏かって聞かれてね。ほら、ここ、シェアハウスだから、入居者とか、入居者の知り合いとか、そういう人たちと自然と顔見知りになるんだけど、蛍くんは来るの初めてでしょ?初めて見る人が私の部屋に入って行ったから驚いたみたいで。ちゃんと蛍くんって名前で、彼氏なんだって言ってきたよ。…って、あ、それよりも、蛍くん、待たせちゃったお詫びに、下で買ってきたの!クレープ!ダブルクリームイチゴショートと、キャラメルアンドチョコクリーム!どっちがいい?あ、蛍くんはやっぱりイチゴの方がいい?」

なまえが、両手に持ったクレープを僕の目の前に差し出す。クリームがこれでもかという程にトッピングされたそれからは甘い匂いがした。それを受け取らることも忘れ、僕はただなまえの顔を見つめていた。なまえは相変わらず、にこにこしている。待たせすぎでしょ、とか、水族館って混んでないの、とか、メガネって随分と失礼だね、とか、恥ずかしいからあんまり僕のことぺらぺら喋らないでよ、とか。言いたいことと、言わなきゃいけないことはたくさんあったのに。僕が面白くないと思ってたことにも、苛々したことにも、カッコ悪いとか情けないとか思ってたことにも気付かないで、なまえは笑ってるから。僕の話をしてきたと、嬉しそうにしているから。その様子がものすごく憎らしくて、でも可愛らしくて、クレープを両手に持ったままのなまえを、抱き締めた。

「うわ、えっ?け、蛍くん?あ、あぶな、クレープ服についちゃう」
「…どんな話をしてるかと思えば。僕のいないところで、僕の話で勝手に盛り上がらないで欲しいんだけど。話題料とるよ」
「えっ、あ、ご、ごめんね。でもあのふたりにはよく蛍くんの話をしてたから、盛り上がっちゃって。リビングにいたお兄さんにも、蛍くんのこと聞かれて、嬉しくなって…」
「…へえ。なまえは、シェアハウスでの生活を満喫してるみたいだったから、僕のことなんてどうでもいいんじゃないかと思ってたんだけど、そうやって僕の話をしたりしてるんだ」

きつく抱きしめて、なまえの耳元に唇をこれでもかというくらいに近付ける。僕の話を勝手にしないでよという嫌悪の中に、確かに喜びがある。声が聞きたい、触れたい、会いたい。そんなことを思いながらスマホに触れる時間を、僕は過ごしてきたけど。もしかして、なまえも、同じだったんだろうか。楽しそうなシェアハウスでの生活の中で、僕を想ってくれてる時間があったんだろうか。入居者だったり、知り合いだったり、そんな人たちに僕の話をして、会いたいとか、そういうことを考えてくれたりしたんだろうか。本当はすごく気になっていることなのに茶化したような聞き方しか出来ない僕に気付かずに、なまえは慌てたようにクレープを持った腕を上下させた。そんなに上下させたら本当に服にクリームが付きそうなんだけど、と思いながら、そのままにさせておく。

「わ、私、蛍くんのことどうでもいいなんて思ったことないよ!確かにここでの生活は楽しいけど、でも、蛍くんのことを考えない日なんて一日もないし、それに、」

なまえが顔を角度を少し変える。至近距離で僕を見上げて、それから小さく、照れたように微笑した。

「…それに、他の誰と一緒にいるよりも、こうやって蛍くんと一緒にいられるのが、一番好きだよ」

ストレートに言われて、「っう…」と変な声が漏れた。かあっと顔が熱くなっていくのが分かる。君のそういうの、本当にずるいよね。僕の言いたいこととか考えてたこととかきっと何一つ分かっていないくせに、そうやって僕が欲しい言葉をくれて、僕が欲しい表情をくれる。一人で苛ついてた自分が、馬鹿みたいだ。それでも僕を苛つかせたなまえが憎たらしくて、僕はその微笑みをたたえた唇に触れるだけのキスを落とした。ちゅ、と音を立てて唇を離せば、真っ赤になったなまえと目が合う。「真っ赤なんだけど」と言えば、「蛍くんもだよ」と返された。誰のせいで、と言おうと思ったけれど、止めておいた。その代わり、どちらともなく、ぷはっと笑い出す。

「…それ、クレープ。半分にしようか。どっちも食べられるし、その方がいいでしょ」

僕の提案に、なまえは大きく頷いた。真っ赤になっているなまえを腕の中から解放して、差し出されたイチゴのクレープを受け取る。これをふたりで食べながら、明日の過ごし方でも決める事にしよう。水族館の入場券をもらったと言っていたから、明日は水族館に行くことは決定だろう。そのあとは、どこに行って、何をしようか。ああ、それよりも先に、まずはあの男女の名前や部屋番号を聞いておかないと。入場券のお礼をしなくちゃいけないし。あとはリビングで会った男の名前も。初対面の人のことをメガネと呼ぶような男と仲良くなれるかは別として、僕もあの男にふさわしいあだ名をつけてあげないといけないだろうし。…シェアハウス、ね。ここに住めと言われたらやっぱり断固拒否する。やっぱり息苦しいだろうし、煩わしいだろうし。けど、たまになら。本当にたまになら、また来てもいいかもしれない。なまえが僕の話をして、それを笑顔で聞いてあげるようなお人よしな入居者ばかりのここになら、また。

「蛍くん」
「なに」
「私、蛍くんと一緒にいられて、すっごく幸せだよ」
「は、何それ」

クレープを頬張りながら、嬉しそうにそう言うなまえ。僕もだよ、なんてそんな甘い言葉、僕の柄じゃないから言ってあげない。その代わりに、食べかけの甘いイチゴのクレープをそっとなまえの方に差し出した。