最近音信が途切れがちになっていた彼から会って話がしたい、とラインの通知を見て手放しに喜べるほど私は幸せではなかった。
休日の昼下がり、待ち合わせたカフェで彼から発せられた予想通りの言葉に私は最後まで聞き分けのいい子でいたくて「……わかった」と小さく振り絞るので精一杯だった。

自宅までの足取りは重く、最近越してきたばかりの、アクリルのプレートに書かれた星墜モダンアパートの表札を見て、いつの間にか私は帰ってきたのかとぼんやり思った。

「あれ、名前さん? おかえりなさい」
「……手嶋さん」

そこでぼうっと立っていたら丁度一階のお店から顔を出した大家の手嶋さんと出くわしてしまった。本当は誰とも合わずに部屋に戻りたかったのだけれど、シェアハウスというだけあってそれはうまく行かないらしい。とくに彼は人の心情を読み取る事に長けている節がある。年も近く、親しみやすい人ではあるけれど、正直今はそんな気分になれなかった。

「そうだ、クレープ食べていきません?」
「いえ……私は」
「まあまあ、折角のティータイムだ。紅茶でも飲んで一息つけば少しは落ち着きますよ」

私に何かあったなんて手嶋さんにはきっとお見通しなんだろう。気遣いを無碍に出来きるわけもなく、先に扉を開けて待ってくれている彼にお礼を言うと「いらっしゃいませ」の言葉と共に滑るような動作で手を取られ、驚くまもなく中へと案内された。

外と中の境界線を越えてすぐ、ふわりと甘い匂いが鼻孔をくすぐった。次に飛び込んできたのはクリーム色の木目。全体的にそれを基調とした室内になっていて、ふんわりとした雰囲気が造られている。蜂の巣状の棚には紅茶の茶缶がずらりと置かれていて、趣味で集めたのだと少しだけ誇らしげな声をしていた。専門店なんて格式高いとろは入った事はないけれどこれだけの種類があれば専門店と呼んで良いくらいなのでは? と思う程だ。
手嶋さんの行ったとおり、ティータイムだからだろう、お店の中はすでにお客さんがちらほら。同じアパートに住む二人のカップルが彼のお手伝いをしているようだった。

カウンターに案内されて待つ事数分。
手嶋さんは棚から茶缶を取り出し、既に温まっているであろう陶磁器製のティーポットにティースプーン一杯分の茶葉を入れる。数分蒸らす間に専用の機械で数枚クレープを焼き始めた。彼の一つ一つの動作に感嘆の声を漏らしながら、鼻腔を擽る甘い匂いにそれらが出来上がるのを待ち遠しく思った。

「はい、お待たせしました」
「わあ……!」

可愛らしいお皿に盛られたミルクレープと紅茶。幾重にも重ねられた層の間にはオレンジのムースがサンドされていて、所々に果肉が散らばっている。甘さも控えめになっていて、柑橘風味の紅茶とよく合っていた。荷解きや仕事が忙しく食べる機会が無かったがこれ程美味しいと分かれば行かない理由が見つかる筈がない。素直な気持ちを伝えれば彼があんまり嬉しそうに笑うものだから、なんだか私も恥ずかしくなってしまう。
他愛ない話で盛り上がっていたら小一時間ほど話し込んでいたようでいつの間にか客の出入りは少なくなっていた。仕事の邪魔をして申し訳ないと思いつつ、私もそろそろお暇しようと考えた。

「あぁ、そうだこれ。名前さんに。ちょっと遅くなったけど大家のオレから引っ越し祝い」
「えっ! こんな可愛いもの……。貰っていいんですか?」
「これも大家の仕事みたいなもんですから」

透明なラッピングに包まれていたのは樹脂で作られた女の子の置物だった。淡い色でまとまっていて、その可愛らしい足の割には大きめなガラスの靴を履いているのが特徴的だった。

「その置物、実はそのガラスの靴だけオプションらしくて取り外しもできるんですよ」

手嶋さんに断りを入れてその場でラッピングを解く。中身を取り出すと、確かにガラスの靴は女の子の足からするりと外れた。

「名前さん、その靴、片方俺が預かってもいいですか?」
「え……構わないですけど、どうして?」
「必ずお迎えに上がりますって意味で解釈してもらえると嬉しいんですけどね」
「……全然サイズ合ってないですけど、いいんですか?」
「名前さんじゃないとダメなんだけど……、そこは目を瞑ってほしいかも」
「ふふ、じゃあその時まで楽しみにしてますね」

ほんの少し前まで悲しんでいたくせに、自分で呆れるほど現金な女だけど、彼がもう半分のガラスの靴を持って迎えに来てくれるのが本当に待ち遠しくて仕方ないのだ。