25愛色

「ふあー……」


長い夢から目を覚ました神楽は病院のベッドの上で大きな欠伸をこぼし、チクタクと時を刻む時計に目をやった。時刻は九時過ぎ。カレンダーの日付は8月20日と表示されている。


(……腹へったアル)


なんて呑気なことを考えていると、病室の扉が静かに開かれた。


「おー、起きたか神楽」

「あ、銀ちゃん……おはよ」

「今日で退院らしいぞ〜よかったな〜」

「マジでか!」


病室に入ってきた銀八からの朗報に神楽は目を輝かせる。ようやくこの退屈な入院生活におさらば出来るのかと思えば神楽の心は弾んだ。これでしばらくは不味い飯ともおさらばである。


「キャッホー!今日は酢昆布でお祝いアル!」

「おーおー、お祝いしなさい。よかったな〜」


上機嫌な神楽を横目で見ながら、ふと銀八は思い出したように不敵な笑みをこぼした。


「これでちゃんと沖田くんにも会えるしな〜、神楽ちゃん?」

「!!」


銀八の唐突な一言に神楽の表情がピタリと固まる。次いで爆発せんばかりに赤みを増した彼女の頬をぺちぺち叩いて、銀八は再びニタニタと怪しく微笑んだ。


「いやー、若いっていいね〜」

「う、うるさいアル!べつに沖田はそんなんじゃないネ!」

「え?そんなんってどんなん?銀さんまだ何も言ってないんだけどォ〜」

「うっ……!」


やられた、と考えたときには神楽の恥ずかしさは一気にピークまで駆け上がった。もう誤魔化しがきかないのは明白。銀八は相変わらず嫌な笑顔を貼り付けたまま扉に手を掛ける。


「まあ、頑張れよ。銀さんは若い二人を応援してっから」

「……う、うるさいアル」

「おっ。噂をすれば、王子さまの登場みてーだぞ神楽ぁ」

「え!」


ドキッと心臓が跳ね上がったそのとき、見慣れたポーカーフェイスがひょっこりと顔を出した。神楽の頬には更なる熱が集まる。


「お、沖田……」

「よォ。お二人さんで仲良く何の話ですかィ?」


そう言いながら沖田は軽く銀八を睨んだ。「おー、こえー……」と銀八はひきつった笑顔を二人に向け、そそくさと病室を後にする。


「……あれ?銀ちゃん帰っちゃったアル」

「糖分でも切れたんだろィ、気にすんな」


沖田はそう言うと椅子に座り込んだ。神楽もおとなしくベッドの上に正座する。
久しぶりに会ったような感覚だが、彼の顔を見るのは昨日以来である。というのも、沖田も昨日まで入院していたわけで、彼の方が1日早く退院したというだけなのだが。


「今日は、部活行ったのネ」


神楽は沖田の足元に置かれたバッグを見ながらそう言った。すると沖田は「いや……」と視線を下げる。そしてゴソゴソとバッグの中を漁り始めた。


「こいつ取りに行ってたんでィ」

「……え、これ……」


ぼすっ、と少々乱暴に投げつけられたのは白いうさぎのぬいぐるみだった。ある日を境に姿を見せなくなったぬいぐるみは、しばらく見ないうちにすっかり汚れてしまったらしい。


「このぬいぐるみ、どっか行ったと思ってたヨ!何でお前が持ってるネ」

「あー、それは内緒」

「何ヨそれ……でも、戻ってきてよかったアル。お前が取ってくれたぬいぐるみだもんネ」


汚れたぬいぐるみを抱き締めながらにっこり微笑む神楽に、沖田の心臓がどきりと跳ねた。最近は色々なことがありすぎて喧嘩もまともに出来ていないせいか、何と言うか調子が狂う。
黙りこんだ沖田の顔を、神楽は訝しげに覗き込んだ。


「……沖田?なんか顔赤いアル。まだ体調悪い?」

「うるせー、黙れ」

「何ヨ、心配してやってんだぞコノヤロー」

「うるせー、いいから黙れ」

「むぎゅ!」


神楽の口元を沖田の手が塞ぐ。神楽はぱちぱちと瞬きを繰り返した。沖田の表情は俯いていて見えない。


「……なあ、」

「むぐ?」

「お前、あのとき……」


言いかけて、沖田はパッと神楽の口元から手を離した。


「……やっぱ何でもねえ」

「はあ?」

「オメーが退院してから言う」

「何ヨ、それ」

「いいから。退院祝いに期待しときなァ」


そう言って、読み取りにくい表情のまま沖田は病室から出ていく。神楽はその背を見送り、うさぎのぬいぐるみをぎゅうっと強く抱き締めたのだった。









──それから程無くして、神楽は退院した。わんわんと鳴り響く蝉時雨の下を陽気にスキップしながら歩いて行く。それはさながら幼い子供のように、けらけらと笑いながら。


「やっぱり外の空気は気持ちいいアル」

「あんまはしゃいでっと、また階段から落ちて怪我すんぞ!」

「はーい!」


と返事しながらも、ふわふわ浮わついた足取りは相変わらず。銀八は溜め息をこぼし、原付のエンジンをふかした。


「じゃ、気を付けて帰れよ神楽。あとから荷物届けてやっから」

「……ねえ、銀ちゃん」

「あ?」

「……神威は……」


気まずそうに切り出された言葉に、銀八の表情が曇る。


「……まだ見つかってねえ。手当たり次第に聞き込んでみたが、奴の消息はさっぱりだ」

「……そうアルか」

「……ま、奴のことだからどっかで生きてんだろ。あんま気にしすぎるんじゃねえぞ」

「うん。ありがとネ銀ちゃん」

「おー」


軽い返事を返し、銀八は去っていった。遠くなる背中を見送り、神楽も再び歩き出す。仰ぐ空は限りなく、青い。

神楽と神威が崖から落ちたあの日、神威は忽然と姿を消した。

沖田の話を聞く限り、川岸に流れ着いていたのは神楽だけだったらしい。そこに神威の姿はなかったが、代わりに点々と続く足跡だけが残っていたとか。


(無傷なわけないと思うけど……あいつどこに消えたアルか)


入院している間も、彼の姿を見ることは一度もなかった。生きているのは明らかにしろ、思いの外心配してしまう。


(……まあ、あいつに会わなくて済むなら、その方がいいネ)


神楽は視線を上げ、そう思い直すことにした。あんなやつの心配をするなんて自分らしくない。
病院と自宅の距離は近く、すぐにアパートにたどり着くことが出来た。久しぶりの我が家に頬を綻ばせながら階段に近付く。

しかし階段に差し掛かった瞬間、神楽は言葉を失った。


「……遅かったね」

「……、かむい……?」


階段に座り込む藍色の目をした男。涼しげな表情でそこに座る神威は、警戒して後ずさった神楽を見下ろしながらクスクスと笑っている。その頬には殴られたような痣が残っていた。


「……なに警戒してるの」

「……」

「まあ、当然か。今まで散々痛め付けてきたんだし、警戒しない方がどうかしてる」


神威は言いながら立ち上がる。一段一段、階段を降りてくるその姿に神楽は身構えた。──しかし、神威は神楽の横を素通りして離れていく。


「……神威?」

「安心しなよ。今日は顔を見にきただけだから」


それだけを残し、神威は去っていった。寂しげな背中が遠くに消えていく。
彼の気まぐれに首を傾げつつ、神楽はそっと視線を戻して階段を上がった。

──ガチャ


(……カギ開いてる)


何の気なしにドアノブを捻ると、掛けておいたはずのカギは開いていた。どうやら神威が中に入ったらしい。
不法侵入にも程があるヨ、なんて考えながらため息混じりに部屋に入る。するとそこで待ち構えていたのは、予想外の客人だった。


「よお」

「……沖田!?」


驚愕のあまり、思わず声が裏返る。「何でィ、その声。」と沖田は笑った。


「な、何でお前、ここにいるアルか!」

「オメーの兄貴に入れてもらった」

「……はあ!?」


バッ、と外に出て神威を探す。しかし彼の姿はすでにどこにもない。


「あ、あいつ何考えてるネ……。お前、あいつに何もされなかったアルか?」

「……俺は何もされてねえよ。むしろ俺があいつ殴っちまったぐらいでィ」

「殴っちまったって……それでお前よく無事だったナ」

「まあ、俺ァ最強だからな。それよりお前の兄貴から手紙預かってんぜィ」

「……はあ?」


ほら、と沖田が白い封筒を差し出す。それを訝しげに受け取り、神楽は乱雑に封を切った。


「あいつ手紙なんて書けるのかヨ。全身ケガだらけのくせに」

「体力だけはバケモン並みにあるんだろィ、誰かさんと一緒でな」

「ぶっ殺すぞ」


毒を吐きつつ、神楽は手紙に目を通した。教養不足だということがよく分かる汚い字が続いている。


──神楽へ。


その冒頭から始まる文章を目で追って、神楽はギュッと唇を噛み締めた。


「……今なら間に合うぜィ」

「……でも、どんな顔で会えばいいアルか」

「素のまんまでいいんでィ。ふざけんじゃねえ!って一発ガツンと殴ってやんな」


少なくとも俺はそうしたぜィ、と微笑む沖田に目を向け、神楽も微笑む。「……そうアルナ。」そうして神楽はポケットに手紙を突っ込んだ。


「沖田、私、帰ってきたらお前に言いたいことがあるネ」

「そりゃ奇遇だなァ。ちょうど俺にも言いたいことがあったんでィ」

「たくさん、言いたいことがあるのヨ」

「俺だって負けてねーよ」


二人は笑い、声を揃えた。「それじゃあ、また後で。」
玄関を開けて神楽は走り出す。ポケットにしまい込んだ手紙を握り締めながら。


(……バカ兄貴。いつも自分だけで解決しようとしやがって)


神楽はギリリと奥歯を噛み締めた。手紙の文字が脳裏をよぎる。





──神楽へ。

何からかけばいいのかよくわからないから、とりあえず用件だけかいておくね。

おれは今日で、この国から出ていくことになったよ。前からきまってたことだからしかたないけど、しごとの都合でね。

もう二度と会うことはないだろうけど、元気でね。バカ妹。

兄より。──





彼の心の闇をすべて知っているわけじゃない。彼が背負っていた傷の重さを理解したわけじゃない。けれど、彼の哀しみを少しでも和らげてあげたいとは思った。哀色に光るその目が、少しでも愛の色に染まるようにと。

だから私はあの日、あなたを兄と呼んだのです。


「──バカ兄貴ィ!!」


車に乗り込もうとする背中に叫ぶ。振り返った神威は驚いたように目を見開いていた。


「……神楽?」

「やるだけやっといて勝手に居なくなるなんて、お前どこまでもマダオアルな!」


ぜえぜえと呼吸を乱しながら神楽が詰め寄る。神威はその様子にクスクスと笑った。


「こいつは驚いた。まさか追い掛けてくるなんてね」

「ああ!?お前が勝手に逃げようとするから一発殴りに来てやったんだヨ!歯ァ食いしばれコノヤロー!」

「冗談じゃないよ。さっき殴られたばっかなのにさ」


神楽が繰り出したパンチを軽々と受け止め、神威は神楽の体をポイッと投げ飛ばす。いとも容易く吹っ飛ばされた神楽は、近くの池の中へと真っ逆さまに落ちていった。

その様子に阿伏兎が呆れたような視線を向ける。


「……おいおい、いいのか?わざわざ見送りに来てくれたんだろ、お人形さんが」

「いいんだよ、さっさと出発しよう。それからあいつ、もう人形じゃないし」

「ああ?」


阿伏兎が訝しげに首を捻ると、神威は藍色の瞳を細めて微笑んだ。


「ほんと、行儀の悪い妹だよ」


そんな神威の言葉に阿伏兎は少しだけ目を見開いた。しかしすぐさま彼と同じような微笑をこぼす。


「……あんたに似たんだろ」

「そうかもね」


それだけ言って、二人は車に乗り込んだ。神威が池から這い出してくる神楽に一瞬視線を向けたころ、車は空港に向かって走り出す。そのとき彼が見た世界は、どこか淡く、それでいて繊細にくっきりと色づいて見えた。

ああそうか。おそらくこれが、俺の待ち望んだ色。


「……愛色だ」

「あんたもな」


阿伏兎の返事に神威は目を細め、「そっか。」とだけ相槌を打って小さくなっていく神楽から目をそらした。









「……行っちゃったアル」


走り去って行く車が見えなくなったころ、神楽はぼんやりと呟いた。全身びしょびしょのまま座り込んでいると、不意に自転車のベルが鳴り響く。


「お疲れさん」

「……沖田」


そこにいたのは沖田だった。どうやら自転車に乗って迎えに来てくれたらしい。彼はびしょ濡れの神楽の手を引いて座り込む体を立ち上がらせ、

「飯でも食いに行こーぜ」

と荷台を指差す。


「……お前の奢りだろうナ」

「んなわけねーだろィ」


即答。予想はしていたが期待もしていただけあって、神楽はムッと眉間を寄せた。しかし不覚にも、やはりこいつを見るとドキドキと煩くなる左胸の奥が憎い。


(……そうだ。好きですって言わなくちゃ)


ふと、ある種の使命感のようなものが芽生え、神楽はごくりと生唾を飲んだ。帰ってきたら言いたいことがあると宣言してしまった以上、言わねばならない。好きです。あなたが好きです。何度も頭の中で繰り返し、心を落ち着かせるように神楽はすうっと息を吸い込む。



「あ、あのネ、沖田。私──」

「ストーップ」



しかし言葉を続ける前に沖田の制止がかかり、神楽は口を閉じた。自転車のハンドルを持ったまま前方を見つめている彼の表情を窺い知ることは出来ない。


「退院祝いが先でィ。期待しとけって言ったろ」

「へ?……ああ」


荷台に手を置いた状態で神楽の瞳がぱちりと瞬く。そういえば病院でそんなことを言っていたような。
沖田は振り向きもせず、相変わらず前方をまっすぐ見つめたままハッキリと言った。



「オメー、感謝しろよ。退院祝いに、この沖田総悟様の一世一代の告白が聞けるんだからな」


「……え?」



ぴた。思考が固まる。

一瞬、何を言われているのか分からなかった。思考が真っ白になり、徐々に心からじんわりと染み出してくるかのような動悸がばくばくと激しさを増してゆく。

告白?告白って……コクハクって?



「お、お前、それどういう……」

「よーし、チャリ乗ったな。さあ出発!」

「え、ちょ、は!?待つアル!私まだ乗ってないネェェェ!」


ぐっ、とペダルを踏み込み、神楽を(わざと)乗せ忘れた沖田の自転車が走り出す。退院直後だということも忘れて、神楽は思いっきり地面を蹴った。


「てんめェェェ!!病み上がりの私を走らせるつもりアルかァァこの腐れ外道!!上等アル!財布の中身なくなるまで飯おごってもらうからな!!」

「あー、風がきもちいー」

「聞けコノヤロォォォ!!!」


残暑の残る下り坂を全力で駆け抜ける。

騒がしい二人の姿をこっそりと眺めながら、銀八はため息混じりに呟いた。


「はー、青いねえ」






* * *






藍色の瞳がうつす世界は今日も回る。緋色の瞳がうつす世界も、もちろん同様に。

広く青い空の下、走って走って走り疲れたうさぎがしゃがみこむ背中にそっと近づく。藍色の目が恨めしそうに睨んできた。


「……テメー、まじで、ぶっ殺す、アル……」

「なあチャイナ」


自販機で買ったスポーツ飲料を投げ渡し、肩で息をするその小さな体のそばで膝を曲げる。目線が同じ高さで交わって、うさぎは表情をカチコチとぎこちなく固めてスポーツ飲料のペットボトルを握り締めた。

その反応が、かわいいわけで。


「俺の言葉をよーく聞いとけよ」

「……え、や、えっと……」

「俺が先に言うって決めてたんでィ」


やっと、やっと言える。ずっと募らせてきたこの思いを、やっと言える時が来た。
たくさんの傷を負い、たくさんの涙を隠し、たくさんの哀しみを背負ってきた、君に。伝えたいことがあるから。



「黙って聞けよ。俺は──」






ほら、たくさんの、愛を君にあげる。






「──お前が好きだ」





この直後、緊張と疲労で顔から湯気を出して気絶した神楽が再び入院したことで沖田は銀八にこっぴどく説教されることになるのだが、それはまた、別のお話。








End.