その日、泣いたのは兎だった。弱くて小さな、青い瞳の兎だった。 「神威、えらいじゃない。今日の算数のテスト、満点だったんですって?」 「うん!それにね、母さん。体育の逆上がりもクラスで一番だったんだ」 「まあ、すごいわね。神楽が小学校に上がったら何でもお兄ちゃんが教えてあげるのよ?」 「はーい」 俺は昔から何でも出来る子供だった。 家には母さんと妹の神楽の三人で暮らしていて、一応親父もいるけれど、親父は仕事にばかり励んでいつも家にはいなかったから実質俺たち家族は三人暮らしだった。 暮らしは裕福な方ではなかったが、俺は優しい母さんが好きだったし、可愛い妹も居たから何不自由なく子供時代を過ごしていた。 「……母さん、何だか顔色悪いね」 「……ああ、そう?今日は暑かったから、母さんちょっと疲れちゃったわ」 「……そう」 俺が中学に上がってすぐ、母さんは寝込みがちになった。母さんは俺たちに疲れているだけだと言って笑っていたけれど、俺にはそれが嘘だということも、それが決して治ることのない病だということも分かっていた。幼い神楽はよく分かっていないようだったが、俺の目は誤魔化せない。 「心配しないで。大丈夫、ずっと一緒にいるからね」 「ずっと……?」 「ええ、母さんが二人を守るから」 「……分かった」 母さんは笑ってた。ずっと一緒にいるって言って。 ちょうどそのころから、俺は時々帰ってくる親父と衝突することが増えた。仕事ばかりに構って、病気の母さんを置いていく親父を憎らしく思っていたからだ。俺たちが殴り合いの喧嘩をするたびに止めに入るのはいつも決まって神楽だった。 「ねえ、もう、やめてヨ」 涙声で俺の足にしがみつく神楽の姿は今でもはっきりと思い出せる。恐怖に震える彼女を、病に苦しむ母を、何よりムカつく親父の顔を見たくなくて、俺はあまり家に帰らなくなった。 けれど俺が深夜に家に帰るたびに、病気がちの母さんは笑顔で「お帰り。」と囁くのだった。 「……ねえ兄ちゃん」 「うん?」 「兄ちゃんはどこにも行かないでネ」 「……どうして?」 「……パピーも、マミーも、どこかに行っちゃいそうだから……」 神楽が11歳になったとき、当時中三だった俺にそう言った。深夜にしか家に帰らない生活が続いていたため俺は知らなかったが、どうやら母さんの容態は非常に良くなかったらしい。 親父も相変わらずの仕事人間で、三ヶ月以上も家に帰って来ていないとか。俺は呆れた。それと同時に今までどれほど神楽に寂しい思いをさせたのだろうという焦燥感が沸き上がった。 「ごめんね、神楽」 「ううん、いいヨ。友達もいるし、寂しくないアル」 「……そっか」 その言葉も所詮は強がり。神楽は人に迷惑を掛けることが嫌いな、甘え下手な子供だった。俺も俺で喧嘩ばかり繰り返してろくでもない生活をしていたから、公共の場で神楽と一緒にいることはほとんど無かった。──雨の日を除いては。 「ほら、濡れてるよ」 雨粒から守るように傘を差し出す。雨に濡れてブランコに座り込む小さな背中は、寂しそうにいつも俺を待っていた。 「風邪引くよ」 「ひいてもいいアル」 「ダメだよ、母さんが心配するじゃん」 「……じゃあ、ひかない」 「うん、いい子」 ほら、と手を差し出せば小さな手が握り返す。それが雨の日の風景だった。 その日、俺は神楽の兄だった。神楽は俺の妹だった。それが変わったのはいつだった? そう、それは、蝉がけたたましく泣きわめく八月の終わりごろのこと。 「……今、なんて……?」 携帯に入った一本の電話は、母さんの死を告げるものだった。受話器の向こうから聞こえる泣きじゃくる神楽の声は嗚咽が邪魔をしてよく聞き取れなかったが、「しんじゃった。」という言葉だけは何故かすんなりと耳に染み込んできた。 俺はすぐに自宅へと走ったが、やはり母さんはもう手遅れだった。昼間倒れて、そのまま息を引き取ったらしい。倒れた母の姿に幼い神楽では何をすることも出来なかったのだろう。神楽は声を上げて泣いていた。俺は立ち尽くしていた。親父は、その場にいなかった。 母さんの遺体の前に立ち尽くす俺は、哀しみというよりは憎しみに取り付かれていた。あのとき親父がいれば、普段から親父が仕事よりも母さんのことを考えてくれていれば、母さんは死ななかったかもしれない。そう思うと悔しくて仕方がなかった。 「兄ちゃん……」 「……神楽」 「大丈夫ネ。わたしが、ずっと一緒にいるから」 「……ずっと……?」 その言葉を聞いた瞬間、俺は何かが真っ黒に塗り潰されていくのを感じた。 ──ずっと一緒にいるからね。 母さんもそう言っていた。だけど母さんは居なくなった。母さんは消えた。ずっと一緒にいるって言ったのに。神楽もずっと一緒にいるって言った。じゃあ神楽も居なくなる?消える?壊れる?何で。何で何で何で。 「……兄ちゃん?」 「……お前だけは、消さない」 「え……?」 どうやったら消えない?どうやったらお前はずっとそばに居てくれる?どうやったらずっと俺のものにできる?俺の妹を……。 「兄ちゃん」 ……いもうと? 「兄ちゃん、どうしたの?」 ……違う。妹なんて弱い鎖じゃ、お前はすぐに消えてしまう。 「……兄ちゃ、」 「兄ちゃんじゃない」 「え……?」 「俺はお前の兄ちゃんなんかじゃない」 声なんて要らない。表情なんて要らない。感情だって要らない。俺のそばで座っている人形のような存在であってくれれば、それでいい。 (ああ、そうだ) 壊れやすい信頼なんかで結ばれるよりも、絶対的な恐怖で縛り付けてしまった方がいいじゃないか。そうすれば、お前はずっと俺から離れないだろ。 そう思い立ったときだった。親父が部屋に駆け込んで来たのは。 親父の姿を見た瞬間、俺の憎しみや怒りを繋ぎ止めていた僅かな理性がバラバラと崩れ落ちる。俺は台所に走り、包丁を手に取った。そして──……そのあとのことを、俺はよく覚えていない。 神楽の悲鳴で我に返ると、足元には親父の片腕が転がっていた。床はまるで血の池のようだった。しかし倒れている親父の姿を見ても罪悪感などこれっぽっちも感じること無く、むしろ得体の知れない満足感で俺の胸中は満たされていた。 「……神楽……」 震える神楽に視線を向ける。顔面蒼白の幼い兎は俺から逃げるように走り去った。鬼ごっこだ、と口角をつり上げ、俺は神楽を追った。 公園の裏山は神楽のお気に入りの場所だった。俺と喧嘩をすると、神楽は必ずあそこに座っている。だから俺は難なく神楽を見つけ出した。 「……こ、こないでヨ……」 一歩一歩、俺の歩幅に合わせて神楽は後ずさる。しかしここは崖、逃げ道はない。 「鬼ごっこは終わりだね」 「……あ、あ……」 「やだなあ……どうして、そんな顔をするの?」 「……や、やだ、くるな……」 「ずっと一緒にいるって言ったよね?神楽」 「……くるな……くるなぁ!」 どうして俺から逃げるの? どうして俺を拒絶するの? どうして、そんな目で見るの? 「……それとも神楽も、俺を置き去りにしてどこかにいくの?」 崖っぷちでガタガタと震える神楽の姿に、俺の心が再び黒く塗り潰されて行く。やっぱり、ダメだね。妹なんて弱い鎖じゃ。 「くすくすくすくす……」 「……?」 「ああ、そうだ、そうだよ。最初からこうすればよかったんだ。そうだ、そうだよね……くすくすくすくす」 「……に、にいちゃ……」 ──ドゴォッ! その言葉を言わせたくなかった。恐怖と憎悪と哀しみで縛り付けたかった。 俺からお前が逃げないように、お前が俺のそばにしかいられないように。たくさんの、たくさんの、たくさんの、絶望を。 「俺はお前の兄貴なんかじゃない」 ゴスッ、と再び鈍い音が響く。神楽の腹部に蹴りが入り込み、神楽の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。細い首を締め上げる。俺は神楽と同じ色をした瞳を細め、彼女に向かってにっこりと笑う。 「ばいばい、お人形さん」 そして、手を離した。涙でいっぱいの目を見開いて、兎は灰の中へと沈んでいった。 ──ぱち。 目を開けると、真っ暗な世界に点々と浮かぶ星だけが見えた。体の至るところが痛い。 そう思いながら上体を起こすと、「さすが、バカだと回復が早い。」という皮肉が耳に届く。 「お目覚めかい、すっとこどっこい」 「……阿伏兎……」 現れたのは阿伏兎。なぜ阿伏兎がここにいるのだろうか。記憶があちこちで絡まって、崖から落ちたあとのことがよく思い出せない。 「やるね〜。お人形さんのために身を呈して庇うたァ、ちょっと見直したよ」 「……神楽は?」 「無事だよ、誰かさんのお陰でな。そのあと気ぃ失ったあんたらを誰が助けてやったと思ってんだ、ちったァ感謝しろ」 「あっそ、どうも」 なるほど、そういうことか。くすくすと神威は笑ったが、その瞬間腹部に鈍い痛みを感じて思わず顔をしかめた。阿伏兎は冷静に「あんまり無茶するなよ。」と溜め息をこぼす。 「結構深く刺さったみてーだからな」 「……そんなの俺が一番分かってるよ」 「それもそうか」 ふ、と笑って阿伏兎は背を向けた。 「せいぜい早めに治せよ。標的が動くのは三日後だ」 「……あれ、一週間後って言ってなかった?」 「予定はすぐ変わるもんさ。お人形さんへの別れの言葉でも用意しとくんだな」 「……」 去っていった阿伏兎の背を黙って見送り、神威は再び横になった。 長い、長い夢を見ていた気がする。あの日、崖の上で兎が泣いた日の夢。大人になるに連れて薄れて行った、忘れられた長い夢。 ──ばいばい、お人形さん。 あの日、泣いたのは兎だった。弱くて小さな、青い瞳の兎だった。 記憶の隅で覚えている嗚咽が俺の脳裏をよぎって行く。あの日、地面に膝をつき、泣いていたのは誰だった?自分の手には何一つ残っていないことに気が付いて、ひとりで泣いていたのは。 ──泣かないで ──大丈夫だよ ──ここにいるよ ──だから泣かないで 誰かの声が記憶を揺らす。聞き慣れた、心地好い声。俺が欲しくてたまらなかった、あいつの。 ──ずっと一緒にいるから。 「……ああ、そっか、思い出した」 俺はゆっくりと目を開ける。月が明るく俺を照らしていた。そうだ、あの日の夜も、こんな月が出ていた気がする。 あの日、泣いたのは兎だった。弱くて、小さな、青い瞳の。 そうだ、泣いたのは、 「……俺、だったんだ」 . 世界が哀色に染まった日 ▽ |