23泡沫

カッターナイフの刃を神威に向け、神楽は静かに息を吐いた。心音が忙しなく耳に届く。カッターを持つ手が震える。この状況に誰よりも恐れを成しているのは、正真正銘神楽自信だった。
止まれ、といくら強く念じてみても体の震えがおさまらない。それに対し、刃を向けられている神威は静かな笑みを浮かべたまま神楽を見下ろしている。


「……怖いの?」


神威が口を開くと、神楽は目を吊り上げて「怖くなんかないアル!」と大声を返した。その様子にくつくつと笑いを噛み殺しながら、神威は手元のカッターナイフを指差す。


「じゃあ、早く刺しなよ」

「……っ」

「憎んでるんでしょ?俺を」


笑顔を崩すことなく、神威は言った。彼は死というものを恐ろしく感じることすら忘れてしまったのだろうか。それとも神楽が神威を刺せるわけがないという自信でもあるのだろうか。
おそらく両方だろうと、神楽は目の前の狂気を睨みながら思った。


「……お前が思ってるほど、私は甘くないアル。お前が今までどれだけの人を苦しめて、傷付けてきたか……お前は分かってないネ」

「……だから俺を殺すの?」

「お前を殺して、私も死ぬ。地獄でお前をぶん殴ってやるヨ」


目尻を更に吊り上げて神楽が睨む。すると神威は声を上げて高らかと笑った。


「なっ……何がおかしいアルカ!」

「あはは、はっ……おかしいよ。全部おかしい」

「なっ……」

「傷付けられた人間のことを考えてないのはお前だよ、神楽」

「……え?」


神威の表情から突然笑顔が消え、神楽はゾッと全身に鳥肌が立つのを感じた。つかつかと歩み寄る神威の視線にまるで囚われたかのように、神楽の体は硬直して動かない。
神楽の目の前で神威は動きを止め、カッターナイフを持つ震えた腕をガシリと掴んだ。


「お前が俺を殺して何になる?お前が死んで誰が納得する?傷付けられた人間の傷が治るとでも思ってるの?」

「……違っ、私はただ!」

「親父も、お前の大好きな沖田くんも、そんなの望んでないよ。残される人がどういう思いを背負って生きていくことになるのか、お前は知らない」

「……神威?」


神威は一瞬目を伏せ、再び神楽に視線を戻す。藍色の双眸が哀しげに見つめている同じ色の瞳は、理解のし難い困惑に揺れていた。


「刺したいなら刺しなよ。俺は止めないから」

「……お、お前……」

「早く」

「……っ」


ガタガタと震える手に力がこもる。しかし神楽は戸惑いを隠しきれず、視線を右に左にと揺れ動かしながら黙り込んだ。
ふ、と神威の冷笑がこぼれる。


「意気地無し」


その瞬間だった。神威が冷たい手で掴んでいた神楽の腕が凄まじい力で引かれ、持っていたカッターナイフは神威の腹部に突き刺さった。ズッ、と鈍い音が耳の奥に雪崩れ込み、肉を突き抜ける生々しい感触が神楽の手に伝わってくる。


「ひっ……!?」


神楽は思わず手を放した。ボタボタと赤黒い血液が足元の水溜まりに溶けていく。無表情の神威の前で、神楽はぺたんと地面に座り込んだ。


「……そんな……お、お前っ……何でっ……!」


取り乱しながら、あの日の光景が脳裏に鮮明にフラッシュバックする。噴き出す赤い血、倒れる父親、転がっている片腕。どくどくと鼓動が音を立て、嫌な汗が全身から噴き出す。


「う……あ、ああ……!」

「……ね?人なんか刺したところで何も得なんかないでしょ?」


腹部に刺さったカッターナイフを引き抜くと、そこから更に血液が溢れた。それを気に止めることなく、神威は神楽に近寄る。
神楽は地面に座り込み、ボロボロと涙をこぼしながら震えていた。


「ほんと、度胸のないやつ。出来ないくせに殺すとか言い張って」

「……っ、来るな」

「結局お前は逃げたいだけなんだよ。泣くしか出来ない俺の可哀想な人形だから」

「来るなァ!」


悲痛な叫びがその場に響く。そして神楽は公園の裏山に向かって走り出した。

心音だけがバクバクと耳障りで、雨と涙のせいで視界がはっきりしない。怖くて怖くて必死に走った。あの日もこうやって走っていた。

早くしないとあいつがやって来る。あいつがやって来て私の腕を掴んで、そして──


──ガシッ


「!!」


不意に腕を掴まれ、神楽の体は震え上がった。掴まれた腕を振り払おうと抵抗するが全く歯が立たない。というより、先程の肉を突き刺す感触がまだ残っているため全く力が入らない。


「離せヨ!このっ……」


とうとう拳を振り上げる。すると腕を掴んでいる人物が大声で制止を呼び掛けた。


「待て待て!チャイナ、俺だ!」

「……え?」


ピタリ。拳は空中で動きを止める。
おそるおそる顔を上げると、そこにいたのは神威ではなく病院にいるはずの沖田だった。


「……沖田?」

「ったく、せっかくこの俺が走って助けに来てやったってのに。いきなり殴りかかるたァ、テメーは喧嘩売ってんのかコラ」


荒い呼吸を整えながら沖田が毒を吐く。どうやら本当に急いで来たようで、その額には汗がじんわりと浮かんでいた。神楽は暫し呆然とその姿を凝視していたが、しばらくしてハッと我に返る。


「……お前っ……何でこんなところにいるアルカ!入院してるくせに!」

「いやー、心配だったんでつい」

「バカか!お前はバカか!」

「いってえ!テメー怪我人を叩くんじゃねえや!!」


山道のど真ん中で二人がギャアギャアと言い争っていると、不意に神楽が沖田の手をぎゅっと握った。沖田はぴたりと動きを止め、神楽の顔を覗き込む。


「……どうした?」

「……」


黙り込む神楽。その手は小さく震えていて、神楽の姿がいつもに増して弱々しく見える。


「……あいつに、何かされたか?」

「……違う、違うネ……違うけど……」


ガタガタと震える体が何を示しているのか、沖田には分からなかった。何かを伝えようとしている神楽の、伝えたいものが理解できない。それが非常にもどかしく感じる。
そしてその小さな弱々しい神楽の背中に腕を回そうとしたとき、沖田は背後から放たれる殺気を瞬時に感知した。


「チャイナ!」

「!」


即座に神楽を抱き抱えて地面を蹴る。その瞬間、ドォン!という激しい音と共に今まで沖田がいた場所にはポッカリと穴が空いていた。


「……蹴り一発がなんつー破壊力してやがんでィ、あの化け物」

「おっと、俺としたことが外しちゃったみたいだね。残念」


くすくすと神威が笑う。その視線はまっすぐと沖田を見つめていた。


「やっぱり来たんだ、沖田くん」

「……そりゃあ、あんな挑戦的な手紙もらっちまったんでねィ」

「君にまた会える日を楽しみにしてたよ。一体どんな風に痛め付けてやろうかなって考えてたんだ」

「それはお互い様でさァ。俺もオメーをどうやってぶっ殺そうか考えてた」


じりじりと睨み合う二人。その様子を神楽は切なげに見つめる。


(……神威)


言い様のない感情が蔓延って、神楽はぎゅっと拳を握り締めた。
崖から落ちたあの日、すべてが変わったあの日、彼に何が起こったのだろう。

あの日に還って見れば、分かるのかな。

神楽はぎゅっと握っていた拳を解き、瞬時に沖田の腕を引いて走り出した。


「っおい、チャイナ!?」


沖田の呼ぶ声も無視して神楽は走る。上へ、上へ、上へ。山道をどんどん駆け登った。
神威は楽しげな笑みをこぼし、それを追いかけて行く。


「おい、チャイナ!いきなりどうしたんでィ!」

「……沖田」


大して高くはない裏山の頂上付近にたどり着き、神楽は振り向いた。目の前には崖があるだけで、道はもう見当たらない。
冷たい雨に打たれながら、神楽は沖田の肩をしっかりと掴む。


「……今から、私がやることに何も口を出さないで欲しいアル」

「……は?」

「……大丈夫だから。絶対大丈夫だから、沖田は心配しないで」


神楽は笑った。


「これは私たちの問題だから、私がけりをつけるネ」


そこまで言ったとき、もうひとつの足音がその場に響く。神威は楽しそうに笑いながら二人に近付いた。


「もう逃げ場はないね」

「……神威」


徐々に近寄ってくる神威の腹部からはまだ血が溢れだしている。神楽は息を大きく吸いこみ、崖っぷちに向かって一歩一歩後退した。
その行動に神威が眉をひそめる。


「……神楽?」

「……神威、私が昔言ったこと覚えてるアルカ?」

「神楽、どこ行くの?」

「神威は、自分の手を汚れてるって言ってたヨネ」

「ねえ、こっちにおいでよ」

「でもネ、私は神威の手が好きだから、汚れててもいいアル」

「神楽!」


神威が叫んだとき、神楽がいる場所は崖っぷちスレスレだった。あと一歩後退すれば崖の下に真っ逆さまである。
沖田はそれを眺めながら息を飲んだ。しかし口を出すなと言われているため、今にも駆け出しそうになる自分の足を抑える。


「神楽、バカなことしないでこっちにおいでよ。さっき言ったじゃん、お前が死んでも何も意味はないんだよ?」

「私嬉しかったヨ。もう、私の好きな神威の手には触れないと思ってたから」

「神楽、頼むから!」


悲痛に神威が叫ぶ。
けれど、神楽は笑った。

根拠はよく分からないけれど、大丈夫だと思った。だって私の腕を引いたあなたの手は、昔と何も変わっていなかったのだから。

神楽は再び大きく息を吸い込んだ。



「だってネ、兄ちゃん。手が冷たいひとの心は、とってもあったかいのヨ」



そう言って、神楽の体が崖から落ちる。その瞬間沖田は駆け出そうとしたが、その沖田を突き飛ばして神威が神楽を追うように崖から飛び下りた。

凄まじい速さで流れて行く景色を眺めながら神楽は目を閉じる。どれもこれも、いつかの光景と全く同じ。

ひとつだけ違うとしたら、強い力で私の体を抱き締めている神威の存在だろうか。


──ドボン!


口から出るはずだった言葉は灰色の泡となって消えていく。深い深い水の中。握り締めたあなたの手のひらは、泣きたくなるほど、冷たかった。























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そして意識も泡沫に溶けていく。