22悪夢

公園は嫌いだった。みんなと一緒に遊んでいても、最後には一人になってしまうから。
マミーは病気でパピーは仕事。兄ちゃんはヤンキーなんぞに成り下がっていつも帰りが遅かった。一人一人、それぞれのマミーやパピーが迎えに来て楽しそうに帰って行く。そんな後ろ姿を私は一人でぽつんと見てた。公園なんか大嫌いだった。

だけど雨の日は好きだった。誰も外で遊ぼうとしないから。
最初から誰もいなければ私の心は痛くない。雨の日に一人で公園に行き、濡れたブランコに座って遊ぶのは楽しかった。

そうして決まって雨の日は、あなたが迎えに来てくれる。


「ほら、濡れてるよ」


雨が傘を打つ音と共にあなたの影が落ちてくる。見上げてみれば困ったように笑う兄ちゃんと灰色の空が視界に入った。


「風邪引くよ」

「ひいてもいいアル」

「ダメだよ、母さんが心配するじゃん」

「……じゃあ、ひかない」

「うん、いい子」


ほら、と差し出された手を戸惑いながらもゆっくりと掴む。冷たくて、硬い兄ちゃんの手のひら。それをぎゅっと握り締め、私と兄ちゃんは泣き虫な雲の下を歩いていく。


「兄ちゃん、また喧嘩したアルか?」

「え、何で?」

「だって、手のうしろ、あかくなってるネ」


握り締めた手を持ち上げて「ほら。」と言えば、兄ちゃんは申し訳なさそうに私の頭を撫でた。


「……悪いね、神楽。兄ちゃんの手、いつも汚れてて」

「ううん。兄ちゃんの手、好きだからいいアル」

「え?」


きょとんとして神威は私を見下ろす。記憶の中の私は精一杯笑って、その硬くて傷だらけの汚れた手を強く握り締めた。



「だってネ、兄ちゃん。手が冷たいひとの心は、とってもあったかいのヨ」









ブランコの軋る音と共にゆっくりと目を開けた。冷たい雨が頬を打つ。それを遮る傘と優しいあなたの影はない。
公園は何年たっても殺風景で、かろうじて色褪せたブランコと滑り台が閑散と建っているだけ。神楽は遠くをぼんやりと眺めながらブランコを漕いだ。

幼いころは神威に連れられて、よくこの付近を探索したものだ。山奥まで入りすぎて遭難しかけたこともあった。空腹のあまり野草を食べたらしこたま怒られたっけ、と神楽は小さく笑みを漏らす。

そう、あの頃、彼はまだ「兄」だった。

母が亡くなったあの日、神威は何もかも変わってしまったのだ。透き通るビー玉のような藍の瞳は哀しみの色に変わり、何かを見ているようで何も見ていない哀色の目が彼の世界をうつす。そして、悲劇は起こってしまった。
噴き出していく赤い血。だらんと垂れる手に握られた包丁。狂気をそのまま形にしたような彼の微笑み。
神楽の目の前で、彼の狂気は頂点に達した。


「う、あああああっ!!」


噴き出す赤が黒々と床を汚していく。神楽は目の前の光景から逃げるように家を飛び出した。

走って走って、いつもの公園を通り過ぎてもまだ走った。太陽は薄い雲の裏に隠れている。まるで彼女にそっぽを向くように。
とうとう神楽の足が動かなくなったのは、公園の裏山を全力疾走で登りきってからだった。汗が全身から噴き出し、肺は潰れそうなほど痛い。それほど全力で逃げた。逃げたはずだった。


「神楽」


その名を呼ばれた瞬間、背中にぞくりと鳥肌が立って体が凍り付いた。手足が震え出し、先程とは別の汗が全身から噴き出す。ざくざくと砂利を踏む足音は神楽の背後でぴたりと止まった。


「何で逃げるの?」


無邪気な声。鬼ごっこを楽しんでいるかのようなその声は神楽の恐怖をますます煽る。振り返ると神威は血にまみれた体のままヘラヘラと笑っていた。


「まったく、神楽はいつもずるいんだよ。鬼ごっこのオニが決まる前に走って行っちゃうんだから」


楽しげに近付いて来る神威から神楽はゆっくりと後ずさる。脳内の危険信号はひたすらに赤を点滅させ続けていた。


「神楽、もう逃げられないよ?」

「……こ……こないでヨ……」

「ダメだよ、俺はオニだから」

「やだ……やだ!」


くすくすくすくす。神威は楽しそうに笑って徐々に近付いて来る。神楽自身も、もう自分に逃げ道がないことはよく分かっていた。この茂みの先には切り立った崖しか残されていないのだから。
一歩一歩、彼の歩幅に合わせて神楽は後ずさる。神威は獲物を追い詰める獅子のごとく楽しそうに神楽を崖っぷちに追い込んで行った。神楽にはもう、逃げ道はない。


「鬼ごっこは終わりだね」

「……あ、あ……」

「やだなあ……どうして、そんな顔をするの?」

「……や、やだ、くるな……」

「ずっと一緒にいるって言ったよね?神楽」

「……くるな……くるなぁ!」

「……それとも神楽も、俺を置き去りにしてどこかにいくの?」


崖っぷちでガタガタと震える神楽を見下ろす目が冷たく濁る。そして神威は不意にケタケタと笑い始めた。


「くすくすくすくす……」

「……?」

「ああ、そうだ、そうだよ。最初からこうすればよかったんだ。そうだ、そうだよね……くすくすくすくす」

「……に、にいちゃ……」


──ドゴォッ!

一瞬、何が起こったのか分からなかった。速くて重い神威の足が横腹を蹴り飛ばし、鈍い痛みに呼吸をすることすら許されずに茂みの中に倒れ込む。苦し紛れに咳を吐き出しながら、ガタガタと忙しなく震え続ける幼い神楽の目には涙があふれた。


「俺はお前の兄貴なんかじゃない」


ゴスッ、と再び鈍い音が響く。腹部に蹴りが入り込み、今度こそ神楽は意識を飛ばしそうになった。しかし気絶することすら叶わず、細い首を締め上げられて涙でぐちゃぐちゃになった顔が上がる。
空は青かった。そのくせぼろぼろ泣いていた。こういうのを狐の嫁入りって言うんだよって、神威が言っていたなあ。神楽はぼんやりと霞む意識の中でそんなことを思った。自分の首を締め付ける神威は哀色の瞳を細め、神楽に向かってにっこりと笑う。


「ばいばい、お人形さん」


ぱっ、と締められていた首が開放され、空気が肺に入り込んだ。それと同時に背筋に伝う浮遊感。

お、ち、る。

そう考えたときには凄まじいスピードで景色が視界を流れていき、叫ぶより先に冷たい灰の中にどぼんと落ちた。助けてと叫んでも誰も来ない。冷たい泡沫がこぽこぽと浮かんで消えていく。小さな手を伸ばしたとき、神楽の意識は闇に沈んだ。

どこまでも続く闇の中をさ迷う悪夢にうなされ、神楽が次に目を開けたのは大きな病院の中だった。あとから聞いた話だと、父の友人であり神威の担任である銀八が川に落ちた神楽を保護したらしい。
神楽が眠っている間に三日の月日が経過しており、その間に神威は少年院に入り、父である海坊主は病院に緊急搬送後、長時間に及ぶ手術の結果一命をとりとめたようだった。

それはすべて、あの悪夢のような日に起こってしまった、彼にとっては些細な出来事。


──五年前の事件を思い出しながら、神楽はぎりりと奥歯を噛み締めた。あれ以来、神楽の人生はめちゃくちゃになったのだ。
神威は人を殺したわけではない。しかし中学校時代には「人殺しの妹」という烙印を押され、陰口や蔑みの眼差しは絶えることがなかった。中学の同級生がほとんどいなかった銀魂高校に入学して、ようやく噂は消えたのだ。
けれどまた、彼のせいですべてが滅茶苦茶になっていく。

空は、青かった。そのくせやっぱり、泣いていた。


「……もう、終わりにしようヨ」

「……何が?」


ブランコを漕ぎながら呟く。ざくざくと砂利を踏む足音は止み、背後から返事が返ってきた。パラパラ、傘が雨を弾く音が耳に触れて、あなたの影が落ちてくる。


「もう終わりにしよう、神威」

「……へえ、驚いた。そんなこと言えるようになったなんてね。お前、それがどういう意味か分かってる?」

「ねえ神威、知ってた?狐の嫁入りってネ、死者が出る前触れでもあるんだってヨ」


神楽はゆっくりと立ち上がり、ポケットから取り出したカッターの刃先を神威に向けた。


「神威、お前を……殺す」


たとえ、あなたの冷たい手に二度と触れられなくなったとしても。









狭くて退屈な個室の中、沖田はぼんやりと目を開けて横になっていた。ほんの一時間ほど前までそばにいた温もりが、今更いとおしく感じる。
一時間前、沖田は神楽をからかってやろうと考えて狸寝入りをかましていたのだ。しかしその見返りは予想外のもので。
不意にやさしく触れたあのときの唇の感覚が、額から離れない。


──すきヨ。


その言葉が、離れない。沖田は静かに速まっていく鼓動を抑えようと必死だった。けれど止まらなかった。


(……あいつが俺のこと……)


──好きヨ。


かっ、と頬に熱が集まる。その顔を思うだけで、その声を思うだけで。


(……何だってんだよ)


熱い頬を火照らしたまま沖田は小便でもしてこようかと重たい腰を上げた。立ち眩みに足元をふらつかせながらも、点滴をカラカラと引きつつゆっくりと扉を開ける。

すると扉の前には先客がいた。それはどこか見覚えのある、白いウサギのぬいぐるみ。


(……あり?これって俺がチャイナにゲーセンで取ってやったぬいぐるみじゃねーかィ)


それが何故こんなところに?
そう考えていると沖田はぬいぐるみの手元に紙が挟まっているのを発見し、それを引き抜いて迷わず開く。そこには汚い字で「おきたへ」という書き出しからの手紙が書いてあった。


『おきたへ。今からかぐらのところにいってくるけど、きみもくる?ながれぼしと夕日がきれいな崖っぷちでまってるよ。神威より』


その文章を読み終えた瞬間、沖田は点滴の針を手の甲から引き抜いて走り出した。カランカランと残された点滴が音をたてて床に倒れる。


(チャイナ……!)


小さなうさぎの無事だけを、切に願った。
























悪い夢はもう要らない。