「──食い過ぎじゃね?」 ぽつりと漏れた沖田のつぶやきは、目の前でがつがつとパスタを頬張る神楽の耳には入らなかったらしい。 そもそも昼食を取るつもりで最近できた喫茶店に入って、割引キャンペーン中だとかなんとかで半額になったのが全ての始まりである。何のキャンペーンなのかと尋ねると、店員は可愛らしい笑顔で「カップル限定の割引キャンペーンになっております」なんて言ってくれたものだから、即座に沖田と神楽は顔を真っ赤に染め上げたのだった。そんなこんなで昼食を取って、携帯を開けば時刻は3時前。 「……あ、そろそろ帰らなきゃやばいアル」 たしか洗濯物を干しっぱなしにしていたと思う。と沖田に伝えると、オメーみたいな山猿にも家事は出来るんだな、と失礼な答えが返ってきたから迷わずその顔面に拳を撃ち込んだ。 「いてて……、なにしやがんでィ」 「レディーに失礼なこと言ったお前が悪いネ」 「どこにレディーなんかいんだよ」 ここに決まってんだろーが、と神楽は膨れたが、先に席を立った沖田の手に伝票が挟まっていて、たちまち膨れっ面だった表情が緩む。 「ゴチになりますヨ!」 「……おー」 ぶっきらぼうに相槌を打って沖田はレジに向かった。その横をするりとすり抜け、神楽は先に店を出る。るんるんと鼻唄をうたいながら出て行ったので、機嫌はすっかり治ったらしい。 レジに立った店員は若い女で、そいつはスキップして出て行った神楽にちらりと視線を向けた。 「可愛い彼女さんですね」 「え、あ、……まあ」 女の店員は微笑み、会計をするときもう一度繰り返された「カップル限定割引」に、沖田の頬はほんのりと熱くなった。彼女という言葉を否定しなかったのは、カップル限定半額という特典を無駄にしたくなかっただけだ、きっと。 * 沖田に家まで送ってもらえた。それが嬉しくてにやけそうになる口元を神楽は必死に引き締める。 神楽のアパートに着いたころには、元からどんよりと重たげに濁っていた空の雲の厚みはさらに増し、いまにもこぼれ落ちそうな色へと変貌を遂げていた。おそらくまだ降っていないので、洗濯物は無事らしい。 「今日はまあまあ楽しかったアル」 「まあまあって何だよクソガキ」 デコピンを一発打って、沖田は神楽に背を向ける。また今度なァ、と手を振る沖田の背中に心地好い胸の疼きを感じながら、神楽は階段をのぼった。 そして部屋の戸を開けた瞬間、突如世界がぐるんと反転する。 ──ドサッ 背中に響く、鈍い痛み。 「デートは楽しかった?」 暗くて目前の影の姿がよく見えない。けれど、くすくすと楽しげな笑みをこぼしているそれが神威だというのはすぐに理解できて、神楽の顔は瞬時に蒼白に染まった。 (やばい) 本能が危険信号を赤く点滅させる。神威の放つ殺気にも似た威圧感は容赦なく神楽の頬を殴り飛ばした。吐き出す血は熱い。ぎりりと神威の手が神楽の首を締め付ける。 「っ、ぐぅ……!」 「神楽、やっぱダメだよ、お前」 締め付ける力を緩めたり強めたりしながら、神威はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。 「何もかも、なくしちゃってるんだもん」 込み上げる咳を吐き出すことも出来ず、神楽は苦しげに表情を歪めた。それを視界に入れながら神威はぐにゃりと口角を上げ、神楽の着ていた服をびりびりと引き裂く。 「言ってもわかんないバカには、身体で教えてあげるしかないね」 危険信号はインターバルなど一切なしで、ひたすら赤を点滅させ続けている。それでも神楽の体はぴたりと固まって動かなかった。 ──その頃、沖田は河川敷に寝そべりながら重たげな空を見つめていた。 (あー、調子狂う) 浅く吐き出された溜め息はゆっくりと蒸し暑い空気のなかに混ざる。ぼんやりと空を眺め、ふと脳裏に浮かんだのは先程まで隣にいたチャイナ娘。 「……チッ」 何かがおかしい。妙に胸がざわつく。たかが、喫茶店でカップルに間違われただけだ。おかげで金銭面では得したわけだが、何かが胸に纏わり付く。 しっかりしろよ、と自分を励ます沖田だったが、やはり思い出すのは楽しげに表情を綻ばせる神楽の顔で、なぜだか思い出すたびに顔が熱くなった。 (いやいやいやいや、ないだろ。それはない) あんなガキにときめくなんて有り得ねえ。そう自分を諭しながら、沖田は重たい腰をあげて歩き出す。 (……あ) 徐々に明かりのともる住宅街を抜けたころ、沖田はぴたりと足を止めた。目の前にはドラッグストア。不意に昼間の神楽の言葉がよみがえる。 (そーいや、あいつ風邪気味だって言ってたな) どこかよそよそしく紡がれた言葉だったのだが、考えるより先に沖田の足は自動ドアをくぐり抜けていた。冷えた空気に包まれながら沖田は風邪薬を手に取る。 (……あれ、なんで俺、チャイナのために薬なんか買ってんだ?) ふと生まれた疑問。しかし沖田はたいして気にかけることもなく、風邪薬をレジに持って行った。 会計を済ませ、ありがとうございましたー、と見送る店員に背を向けて自動ドアを抜けると、再び沖田は神楽の家へと向かう。途中、ぽつぽつと雨が降りだし、とうとう空が泣き出しやがったかと溜め息をこぼした。 泣き出した空の下、沖田はゆっくりと神楽の家に向かって歩いて行く。 既にうさぎが食い尽くされたことなど、彼もお天道様も、知る術などなかった。 . 襲われた心 ▽ |