6変貌

「神楽ちゃんは幸せ者ね、こんなに優しいお兄ちゃんがいて」


そう言われるのは慣れていた。そのたびに神威は「俺の妹だから優しくするのは当たり前だよ。」と笑っていたと思う。私と神威はいつも一緒にいて、周りからも仲のいい兄妹だと定評だった。

中学に上がった神威は、ヤンキーなんぞに影響されて毎日毎日喧嘩に明け暮れるようになった。まだ小学生だった私はいつも帰りが遅い兄をひたすら待っていて、ボロボロで神威が帰ってくるたびにおかえりと笑って飛び付いていく。


「神楽ちゃんはお兄ちゃんが大好きなのね」

「ウン!」


そう、私は神威が、兄ちゃんが大好きだった。私はまだ、神威の妹だったのだ。

けれど。



「にいちゃん」



どうして私を置いていくの。迎えに来てくれないの。

とん、と肩を押された。
ぐるりと世界は回り、私のちいさな足の向こうに恋い焦がれた太陽が見える。そして一瞬で灰色に変わる、赤。


「にいちゃん」


こんなに呼んでいるのに届かなくて、灰色の泡がこぽりこぽりと浮かんで消えるだけ。たすけて、と叫んだのに神威は来てくれなくて、私の名前を呼んではくれなくて、最後に聴いた声はとても冷たく、


「ばいばい、お人形さん」





「──っ!」


目が覚めたとき、神楽の背中は汗でぐっちょりと湿っていた。どくどくと鼓動だけがやけに速まり、静かな病室にこだましているのではないかと疑ってしまうほど。まだ重たい体をむくりと起こすと、もうアバラの骨は痛くなかった。


(……嫌な夢ネ)


まだ真っ暗な病室。時計の針は夜中の3時を回ったところだ。再び布団に体を沈め、目を閉じる。そしてなぜか浮かんだのは、いけ好かないサディスティック野郎の顔だった。


(あの野郎、今度会ったらぶっ飛ばすアル)


昼間に食わされたタバスコ酢昆布の恨みはまだ忘れていない。仮にも怪我人になんてもん食わせやがんだあのサディスト。絶対退院した瞬間あいつの顔面に右ストレート打ち込んでやる。

そう思いながら、神楽は眠りについた。なぜか不思議と穏やかな気持ちで眠りにつけたのだった。




──それから5日がたったころ、予定よりも早く神楽は退院することになった。久しぶりの早起きは非常に億劫だったが、みんなに会えると思えばそれすら容易い。


「退院おめでとう、神楽ちゃん」

「ありがとアル、姐御!」


にこりと笑いかけるお妙の手には「退院祝いよ。」と何か黒い物体の入ったタッパーが握られている。違う意味でまた病院送りになりそうなのでそれは固く遠慮しておいた。


「すげーなお前。普通全治3週間かかる怪我を1週間で完治って。いやーやっぱゴリラの力はすげーわ」

「殴られたいアルか天パ」


言いながら左の頬に強烈な一撃を放つ。「いや殴ってんじゃん。もう殴ってんじゃん。」と涙目の銀八が何か言っているが無視。


「でもよかったね、はやく退院できて」

「うるせーな駄眼鏡」

「あれ、なんで?なんで僕だけ標準語?」

「それはお前が“まるでダメなお眼鏡様”略してマダオだからネ」


がやがやと神楽の周りには人だかりが出来ていた。退院おめでとう、とか寂しかったよ、と笑う彼らに応対しながら、神楽はキョロキョロと亜麻色をさがす。しかし、小生意気な亜麻色はどこにも見当たらない。


「……銀ちゃん、サド野郎は?」


こっそり耳打ちすると、銀八は死んだようなその瞳をぱちりと瞬いて周りをぐるりと見渡した。


「そういや来てねーな」


お前ちゃんと出席取ったのかよ、とは思ったが口には出さずに眉間だけ寄せる。するとその時、教室の扉がガラガラと音をたてて開いた。
瞬間、あんなにがやがやとやかましかった教室内が急に静まる。集中した視線の先には、ボロボロになった沖田の姿。


「お、沖田!?」

「遅れてすいやせん」

「いやいや、遅れてすいやせんじゃなくて。何、お前朝から動物園でライオンとでも戦って来たの?」


銀八の言葉に、その場の誰もが頷いた。それほど沖田はボロボロだったのだ。たいした怪我はなさそうだが、いつも綺麗なさらさらの髪はボサボサになり、顔や腕は擦り傷や痣で痛々しい。


「階段で派手にコケましてねィ。このザマでさァ」

「階段でコケただァ?うちのクラスでは階段踏み外すのが流行ってんの?」

「みたいですねィ。ささ、先生も是非。流行の波に乗り遅れたらいけねェや」

「おま、俺の波乗りテクをナメてない?流行の波だろーが磯野波平だろーが自在に乗りこなせんだぞナメんなよコノヤロー」

「先生、その波に乗ったらあなたもこうなるの分かってます?」


静かに新八が突っ込み、脱線してしまった会話に終止符が打たれた。「あんま怪我ばっかすんなよ、いちいち見舞い行くのダリィから。」と言ってホームルームを無理矢理終わらせた銀八は本当に我がZ組の担任なのだろうか。


(はー、)


沖田はゆっくりと溜め息を吐き出し、自分の席にどっかりともたれかかる。どうやら上手くごまかせたようだ。そう安堵したのも束の間、近付いて来た小さな足音に沖田は再び息を吐く。


(やっぱ、こいつはごまかせねーか)


「……オイ」


久しく聞いたその声。けれど普段より幾分か低い。その理由のひとつには確実にタバスコ酢昆布の件もあるだろうが、もうひとつ彼女は自分に言いたいことがあるはずだ。


「お前ちょっと表出ろヨ。この間の落し前、きっちりつけさせてもらうアル」


じろりと睨み付けるチャイナ娘を負けじと睨み返す。土方はそんな二人を慌てて止めに入ったが、スイッチをオンにした二人には聞く耳などない。


「今以上にボッコボコにしてやるネ」

「臨むところでィ」


じりじりと睨み合ったまま教室を出た二人を、土方は「まとめてくたばっちまえ。」と毒を吐いて見送ったのだった。







「──ボッコボコにするんじゃなかったのかィ?」


教室を出て結果的に屋上に行き着いた二人は、その間一言も交えず、第一声を発したのは沖田だった。神楽は沖田に背を向けたまま小さく息を吐き出す。


「……タバスコ酢昆布の件はむかついたアル。だけど、怪我人に手をあげるほど人間腐っちゃいないネ」

「……へえ。じゃあなんで俺を連れ出したんでィ」


答えなど分かっていた。けれどあえて聞いてみた。すると神楽はくるりと振り返り、その青い瞳が真っすぐと沖田を突き刺す。


「いちいち説明しなくても分かってるはずネ。正直に話すアル。お前はバカだけど、階段踏み外して落ちるよーなマネは意地でもしないはずヨ。そんなお前キモいアル、吐きそう」

「……は、言ってくれるぜ糞ガキ」


薄く笑みをこぼし、沖田はフェンスにもたれるように座り込んだ。神楽はそんな沖田を見据えて答えを待っている。こうなると、沖田も観念せざるを得ない。


「……階段から落ちたってのは本当でィ。正しく言い換えりゃ、落とされたわけだがねィ」


そう告げると、神楽の表情が曇った。続いて「誰に、」と力無く尋ねられる。


「一瞬だったからわかんねェや。受け身も取れねェぐらいの勢いで蹴り飛ばしやがった」

「顔は見なかったのかヨ」

「逃げ足のはえー野郎で、上見たときにゃ消えてた。一瞬傘が見えた気がしたから、最初はオメーだと思ったんだけどな」


どくり。神楽の心臓が鈍く揺れた。こんな晴れた日の朝に傘を差す人間など滅多にいない。──あいつを除いては。


(……神威……)


心がざわつく。
吐き気がする。

どうして、あいつが沖田を?



「……チャイナ?」



ひんやりとした冷たい手が火照った頬に触れた。視線を下ろすと、あのサディスティック王子が珍しく心配そうな顔で私を見上げていて。


「どうした?」


なんて優しい声を出すものだから、なんだか目頭が熱くなって、危うく全部こぼれ落ちてしまいそうだった。


「──何でもないアル」


笑った。つもりだ。
けれど沖田の表情は苦々しく歪んで、なのに無理に戻して、いつもより歪んだ笑顔が「ばーか。」と私の頬をぺちりと叩いた。























きみが変わっていく