その日は長袖にしては少し暑い日だった。
季節は徐々に暑くなり始めている六月上旬。クラスメイトの着ている制服も、長袖よりも半袖のものが増えてきている。夏希は今日も長袖だったが、今日は天気も良く陽射しも強い。
信号で止まって、流れる汗をハンカチで拭いながら、ああ、失敗したなあと思った。暑い。こんなに陽射しが強くなるとは思わなかった。こんなことならば半袖を着てくるのだった。
制服の袖を捲り上げながら、信号が変わったのを見て、またペダルをこぎ出す。
夏希の家から高校までは、四十分ほどかかる。その道筋は田んぼや畑が多く、木陰は殆どないため日光が直接当たった。早く帰ろうとスピードを上げようとしたが、その気力もこの暑さで無くなってしまう。
「あっつい……」
日はまだ高い。携帯を見てみると、時刻は四時を少し過ぎていた。今日は部活もバイトも無く、正直このまま真っ直ぐ家に帰るもの勿体無いと思うが、夏希が部活が無いかわりに彼女といつも一緒に帰っている友人が部活なのだ。
二人とも部活が無く、夏希のバイトが無い日は一緒に帰って何処かに出かけたりしている。それは駅前のカフェだったり、ファミレスだったり、近くのショッピングモールだったりするのだが、さすがに一人では行かない。
いや、モールは一人でも買い物に行くが、今日はそんな気分ではなかったのだ。
「でもやっぱり何処かに寄っていこうかなあ……」
カフェやファミレスは一人で行く勇気は無いが、何処かで涼んでいくというのも良いかもしれない。本屋にでも行こうかと、家に真っ直ぐ向かっていた道を逸れて、住宅街に入る。
と、その時。
――りいん……
「え?」
鈴の音がした。綺麗で、澄んだ音だった。近くに猫でも居るのだろうかと辺りを見回してみると、居た。真っ白な猫だ。誰かに飼われているのか、首輪を付けている。
「猫だ、可愛い」
猫はジッと夏希を見ていた。思わず手を伸ばすが、さらりと交わして駆け出してしまう。あ、と思ったがそれだけだ。逃げられてしまっては仕方ない。追いかけようとは思わなかった。
しかし猫は夏希から離れた場所で止まって、再びジッと彼女を見てきた。首を傾げて近づいてみると、また駆け出す。けれども一定の場所まで行くと、止まって夏希を見つめてくるのだ。まるで付いて来いと言わんばかりに。
どうしようかと思ったが、帰ろうとすると鳴くのだ。にゃおんと、悲しそうな声音で。
そうとなれば、ついて行くしかなかった。
元々暇を持て余していた身、たまには猫について冒険してみるのも面白そうではないか。
現在地から自宅はそう遠くないし、万が一迷子になってしまっても携帯があれば、家には帰れるだろう。そう判断した夏希は、自転車を押しながら猫の後をついて行った。
真っ白な猫はにゃあんと鳴きながら、彼女を未知なる場所へと案内していく。時折りいん、と鈴の音を響かせながら。
何処をどう通ったのかは、猫を見失わないように夢中だったので覚えていない。気が付くと夏希は見たことも無いアンティークや小物を売っている店の前に居た。猫の姿を探してみると、丁度店の中に入っていくところだった。
ということは、猫が案内したがっていた場所は此処なのだろうか。
アンティークや小物には興味があるし、見ているのは結構好きだ。どうせだし入っていこうと自転車を邪魔にならない場所に停めて、扉に手をかける。
少し押すと、扉が開いたことを知らせるベルのような音が鳴り響いた。その音を聞いてか、店を営んでいる主人だろう初老の男性が、夏希をこの店まで導いた真っ白な猫を抱いて彼女の前に現れた。
「いらっしゃいませ」
「あ、その猫……」
「この子がどうかしましたか?」
「その子を追いかけてここに辿り着いたんです」
「そうでしたか。この子は時折、貴方のように誰かを連れてくることがあるのです」
「そうなんですか……」
店を営んでいる主人のために客を連れて来ているのだろうか。微笑ましくなって手を伸ばすと、猫は今度は逃げずに大人しく撫でられてくれた。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
男性はそう言うと、猫を放して元から座っていたのだろう、カウンターのところにある椅子に腰掛けた。レジがあることから、あそこで支払いをするのだろう。
店の中はそこまで広くはなかった。如何にも個人店、と言ったところだろうか。けれども夏希はこういった雰囲気の店は好きだったりする。
ぐるりと店の中を見渡す。古い置時計や懐中時計などの他に鏡や扇子、髪飾りなども置かれていいた。模様や細工がとても彼女好みだ。他にも見て回っていると、夏希の目を引くものがあった。
鈴だった。
何の変哲も無い普通の鈴。桃色の紐の先についているビー玉くらいの大きさのそれは、不思議な装飾を施されている。軽く持ち上げるとりいん、と鳴った。ただの鈴なのに、何故だかとても気になる。音が綺麗だし、この鈴を買ってバックにでも付けようか。
バイトをしているのでお金には少し余裕があった。下ろしてきたばかりだし、たぶん大丈夫だろう。いや、いくらか確認してみなければと思って、ふと気がついた。
置かれているものに値札が見当たらない。目の前のものだけかと思ったが、店の中に置かれているもの全てに値札は張られていなかった。
「あの、すみません」
「おや、どうしましたか?」
夏希は鈴を持ったまま、椅子に座っている男性に声をかけた。
「この鈴が欲しいんですけど、値札が見当たらなくて……」
「その鈴……ああ、そうですか。貴方を、選んだのですね」
「え?」
男性は彼女の手に持っている鈴を見て、そんなことを言った。夏希が不思議そうにしていると、彼は微笑んで言った。
「綺麗な音を響かせるでしょう?」
「あ、はい。凄く綺麗ですよね」
「でもその鈴、滅多に鳴らないんですよ」
「え、でも普通に鳴りますよ」
そう言って揺らすと鈴はりいん、と鳴った。
「それは貴方が鈴に選ばれたからですね」
「選ばれた……?」
何を言っているのだろう、と思っていると、また鈴が鳴る。りいん、りいんと。何度も何度も、鈴は鳴った。
え、と思う。揺らしていないのに鈴は鳴り響くのだ。
「あの、鈴が……っ」
「貴方はあの人にとても似ています」
「すみません、あの……っ」
「だからでしょうか。鈴が貴方を選んだのは」
男性は夏希の呼び掛けを無視し、言葉を紡いでいく。言っていることがまるで分からない。その間にも鈴は鳴り止まずに、その音を響かせる。
不意に、鈴が淡く光り始めた。何が何だかさっぱり分からない。
「何なの……っ?」
「貴方にはこれから数々の困難が降りかかるでしょう。ですが、貴方ならばその困難を乗り越えられると思っております」
男性は微笑みながらも真剣な表情でそう言った。鈴の光は強くなっていき、音も絶え間なく鳴り響いている。もうすぐ光に呑み込まれそうだった。
怖くなって鈴を手放した。地面に落ちた鈴はしかし、音も光も消えてはくれない。
「幸運を祈ります。……君に、幸あらんことを」
「あ……っ」
男性に手を伸ばそうとした瞬間、光が完全に夏希を包む。
――りいん……!
今までよりも一層強い音を響かせた。夏希を包んだ光は徐々に小さくなっていき、やがて消失した。そこに彼女の姿も、鈴も何処にもなかった。まるで最初から存在しなかったかのように。
けれども店の前には確かに自転車が一台停めてあり、此処に夏希が立ち寄ったことを証明していた。
「ようやく貴方の望む人が現れましたよ、マリアさん……」
男性は擦り寄ってきた猫を抱き上げて呟く。
「彼女にも、良き出会いがあれば良いのだが……」
巻きこんでしまった先程の少女のことを思い、せめてと祈るように目を閉じた。