NOVEL | ナノ

 高校の付属の大学には進学せず他の大学に進学したさきで、直接サッカーに触れる機会は格段に減っていった。ほとんど一日中サッカーに関わっていた高校に比べるまでもなくだ。一緒の大学に進学した海くんとだけはいっそ高校時代以上に一緒に過ごすこともあったが、高校付属の大学に進学したメンバーやプロに行ったほかのメンバーとは時々の連絡以外では疎遠になっていた。海くん越しに活躍を聞くほうが多いぐらいだ。部を引退するときにそうなるだろうなと思っていたし、寂しくもあったがしょうがないことだった。そう言ったら海くんは苦笑していたことを覚えている。
 そんなときに聞かされたのが久しぶりに部のメンバーで集まるという話だった。一番多忙な保科くんがこっちに戻って来れる日に調整していたらしい。名前にも来て欲しいと言われて、私は思わず沈黙した。
「タクに会いたいだろ?」
 変に取り繕うことなくあっさりと放たれたその言葉が、そういう意味であることを私は知っている。元チームメイトとしてキャプテンに会いたいかという意味なんかじゃなかった。海くんは私がどんな目で保科くんを見ているかを知っていたからだ。何も言えなくなってしまった私に海くんはほほえましいものを見るような視線を向けた。海くんは私のそういう反応を面白がっている節が昔からある。
「タクもそうだと思うよ」
「まさか」
「本当だって。それにタクだけじゃなくてさ。皆、名前に会いたがっている」
 止めてしまった箸を、私は意図的に気にしていないふりを装って動かした。ご飯を口に運んで咀嚼して沈黙を置いてから、私はなんてことないように行こうかなとつぶやいた。もともと素直じゃないのだ。自分に可愛げがないことは分かっている。それでも海くんは嬉しそうに、良かったと笑って見せるので、そういうところがモテるんだろうなと思った。海くんはもともと女子に人気があったが大学に入って輪にかけたようにモテている。彼女を作る様子は今のところないようだったが、海くんがその気になれば一人でも二人でも作れてしまいそうだ。
 モテるといえば保科くんも高校のときに本当に漫画のような人気があった。ある意味アイドルのような扱いを受けていたのだ。女の子からの告白を彼らしい誠実さと実直さで一つ一つきちんと断っていたのを思い出して、胸がつまるような思いになった。高校のときでさえそうなのだからプロになった彼はよほどモテているに違いない。
 グラスに入った水を飲もうとして、すでに入っていないことに気づいた。動揺していた。海くんはそんな動揺すらお見通しのようだ。まだ口をつけていない自分の分のグラスを私に渡してくれたので素直に受け取る。ごめんというと、何が?と何も知らないように言葉が返ってくる。海くんは昔からとても優しい人だった。きっと海くんの彼女は幸せだろうなと、他人事めいた感想を抱く。箸で口に放り込んだきんぴらごぼうは味がしなかった。



 大人数が入ることができる居酒屋の個室には割と早い時間だったのにすでに多数の人が集まっている。当然のことだけど見知った人間ばかりだ。こちらを見てあっとした顔をする面々に思わず破顔して手を振る。中学のはじめからマネージャーをしていたので結局六年も付き合っていた面々だ。座敷の奥に通されながら、少しばかりの緊張もすぐにほどけてお互いの近況を離すことができた。
 海くんと一緒に来たせいか、付き合ってんの?という話題がものすごく振られた。当然のことながらそんな事実はまったくないので苦笑いで返す。その話の延長上、というかたぶんこっちが本命なのだろう、大学で解放されたのか彼女がいなかったはずの面々に何人か彼女ができたといそいそと報告されほほえましい気分になった。そうして始まりの時間が近づいたとき、入り口の方がわっと騒がしくなった。一瞬で分かる。保科君だ。
 周りのメンバーに騒がれながら、保科くんが席に着く。保科くんの席は私から遠く、話せそうにはなかったがむしろそれで良かった。全員が集まり、各自の飲み物が届いたところで保科くんの相変わらず固い音頭で乾杯をした。高校時代もいつもそんな感じだったなあとすでに切ないような気持ちになった。

 高校時代のメンツがお酒を飲んでいるのを見るとなんだか不思議な感じがする。お酒はあまり飲めないので無難にウーロン茶を頼もうとしたけどまあまあ今日ばかりはと周りが勝手にお酒を頼んでいた。まあ一杯ぐらいならと頼まれた甘いカクテルを飲んだものの、会が進んで雰囲気にのまれればもっと飲んでもいいかなあという気にもなってくる。他のところに行っていた海くんが私のところへ来る頃には自分で自覚できる程度には酔っていた。
「おいおい、大丈夫か」
「余裕ですよ海くん」
 隣に座った海くんの膝をばしばしと叩いた。ちょうど次のカクテルが届いたので受け取って口をつける。そんな私とは違い海くんは見る限りあんまり飲んでいないようだった。 海くんは飲まないの?と視線で問う。
「全員べろべろになったら収集つかないからな」
「わあまじめだなあ」
「タクも飲んでないよ。なあ?」
「ああ」
 グラスを落っことしそうになった。遠くにいたはずの保科くんがなぜか私の隣にいた。思わず二度見してしまった。
「さっきまでは飲んでたんだけどな」
「お前が勧めるからだろ」
「まあ少しぐらいはな。こうやって改めてみんなで集まって飲む機会は珍しいしもったいないだろ」
 私を挟んで二人で話しているが何が何やら分からない。さっきまで保科くん遠くにいなかっただろうか。酔ってるせいで記憶がぐだぐだだ。
「名前はタクと話すの久しぶりだよな。積もる話もあるんじゃないのか?」
 海くんの方を思わず見上げる。何気ない顔でそういった海くんはこちらに目くばせした。思わず保科くんの方を見上げる。保科くんはというとウーロン茶のグラスに口をつけていた。長い睫が伏せられている。私が視線を向けたことで、保科くんも視線をこちらに向けた。
「……」
「……」
 心の準備ができていない。何か言わなければいけないのに言葉が出てこない。動揺のせいで今度こそグラスを落とした。と、思った瞬間地面に落ちる前に保科くんがグラスをキャッチした。残り少なかった中身も零れていない。テーブルの上の私の前に保科くんがグラスを置く。
「ご、ごめん」
「大丈夫だ。それより汚れなかったか?」
「……うん。平気」
 久しぶりに、私に向けられた彼の声は何も変わってはいなかった。完全にこちらの失態なのに気遣うような言葉をかけられて、保科くんだなあと思う。保科くんは昔から優しい人だった。マネージャーということで何かあるごとに気をかけてもらったことも多かったのだ。好きだと自覚してからは優しくされるとどうしていいかわからなくて、うまく反応できなくて申し訳なかった。うまく反応できないことを家で思い出してはうずくまりたくなる衝動に駆られていたことが懐かしい。きっと保科くんにとってはなんてことないことだったし気にしていないのだろうけど、でも私にとっては大きなことだった。
「あ、えーっと、あのね、ずっと応援してるっていうか、その、保科くんの活躍いつも見てるよ」
 海くんが笑いをかみ殺しているのが空気で分かる。保科くんはとぎれとぎれの言葉に口を挟まずに私をじっと見ていた。保科くんに真正面から見つめられるのは苦手だったのに、どうしてだか平気だ。酔っているからかもしれない。多分素面で保科くんに向かうよりもずっと動揺せずにいられた。
「ああ。海から聞いてる。この前の試合も海と一緒にきてくれたんだろう?」
「え」
「勝った時も高校のときみたいに喜んでたよ」
 笑い交じりの海くんの追撃に、顔が熱い。恥ずかしかった。海くんと小さく諫めるものの、相変わらず海くんは楽しそうに笑ったままだ。
「ありがとう。聞いたとき嬉しかった」
「……応援するのなんて、もう当然っていうか」
 真面目な顔をして保科くんはお礼を言う。本気で思ってるんだろうなと分かった。だけどきっとそれは私じゃなくても同じなんだった。私じゃなくて見知らぬ女の子でも、ほかのチームメイトでも、保科くんはこんな風に誠実にお礼を言うに違いない。保科くんは誠実でまじめで律儀で、彼のその良さは私を切ないような気持ちにさせる。
 言葉にできないようない気持ちを振り払うように私はそこらへんに投げられていたメニューを立って取り上げ、保科くんの前に押し付けた。保科くんはきょとんとしている。
「今日は飲もう! 海くん面倒見てくれるらしいから大丈夫だよ!」
「いや、俺は」
「今日ぐらいは無礼講だろ。せっかく名前勧めてるんだし、ほら」
 二人に挟まれた保科くんはため息をついてから、注文をした。お酒はあまり飲まないのかと聞くと自制してると返ってきた。どこまでもストイックだった。元々そこまでお酒は好きじゃないのもあっていつもほとんど飲まないらしい。
 私と同じだねと笑うと、無言で見つめられた。いってから気づいたけどなんだけど今の状態はちょっと信用がなかった。私もいつもはそこまで飲まないよと訂正したものの、代わりに返ってきたのは割とまじめな注意だ。ただその口調は平常とどこかが違う。もしかしなくても見えないだけで保科くんも少なからず酔っているみたいだ。高校のときには絶対に見られなかったそんな姿に私はけらけらと笑う。おかしいこと言ったかと保科くんが真面目な顔で言うのでますますおかしかった。
 


 私の初恋は好きになったと自覚した瞬間に、無理だろうなと自覚した恋だった。だけど報われたいとは考えなかった気がする。自分とその人が一緒にいる未来を想像なんてできなかったからかもしれないし報われたいと思ったら苦しくなると分かっていたからかもしれない。
 一緒にいられる時間が過ぎ去ればこの先の未来で人生が交わることはきっとなく、いつかはこの感情も風化するはずだった。そうなってくれればいいと思っていた。でも実際のところは保科くんのチームの情勢をチェックしてしまうしメディアにでていれば反応してしまう。可能であれば試合を見に行ってもいた。さすがに恥ずかしいので海くんを誘わせてもらったけれど(その次からは海くんの方から誘ってくれるようになった。気を使わせていることに気づいてちょっと死にたくなった)私は今だに保科くんに対する思いを捨てられていない。健気を通り越して引くほど重い。本当は行かない方がいいのだろうということは分かっていた。
 全国に行けなかったあの試合のことを時々夢に見る。私はあの試合、全国に行けたら大会のあとで気持ちの区切りを告げるために告白するつもりだった。結局言えなかったからこんなにも心にしこりとなって残っている。誰にも言えないし認められなかったけど、本当はずっと苦しかった。
 ふと目が覚める。窓から道路が見える。暗闇の中で暖色の光が光っているのが見える。車のなかだ。自分が意識を飛ばしていたことにはたと気付く。
「起きたか?」
 保科くんの声だった。声の方に視線を向けると保科くんが私の隣にいた。タクシーの中らしい。
「……飲み会は」
 掠れた声だった。保科くんは私に水の入ったペットボトルを手渡す。中身は半分程度に減っていた。私が飲んだのか保科くんが飲んだのか分からない。もし保科くんだったら間接キスだななんてくだらないことを考えながら口をつけた。乾いた喉に水分が染み入っていくのが分かる。頭がじんわりと重かった。
「お開きになった。さっき海たちと別れたの覚えてないか?」
 記憶をめぐらしてみるも、保科くんにお酒を勧めて一緒に飲んだあたりから記憶があいまいだった。分からないという意味を込めて首を横に振るとそうかと返事が返ってくる。落ちていた私と違って、保科くんはしっかりした様子だ。もう酔いが覚めているのかもしれない。私もあの酔っているとき特有の言葉にできないような多幸感がすでに抜けていた。体は重いような気もするものの、さっきまでの変にハイな状態と比べればよほど素面に近い。
「手間をかけさせちゃってごめんね」
「いや一人で帰す方がずっと心配だった。俺が勝手に連れ添ったんだ、気にしなくていい」
「うん。ありがとう」
 自分でもびっくりするほど素直にお礼が言えた。気おくれしたり、変に狼狽えたりしなかったことにほっとした。
 お金を払った覚えがなくて、それを聞くと海くんが立て替えてくれたらしい。あとでお金と一緒にお礼を言わないと。終わりごろの記憶は本当に曖昧で思い出そうとしてみても途中で、すっかりと抜け落ちている。あの時点で意識がなくなってしまったような感じだった。ただ楽しかったという感情がぼんやり残っているだけだ。
 窓の外を通り過ぎていく光をぼんやりと見ていると、保科くんがぽつりとつぶやいた。
「今日は楽しかった」
「うん。私も」
「またこうして集まれたらいいと思う」
「そうだね。次はいつ集まれるかなあ」
 多分恋を自覚して以来、一番自然に話をすることができた。そこからぽつぽつと世間話を話した。保科くんはプロに行ってからのことをしゃべってくれて、淡々とした口調だったけど楽しいのだろうなというのが聞いていて分かる。お兄さんと同じチームで、実力のある人間と競いあいながら実力を高められるのは本当に満たされているのだろう。保科くんの活躍はいつもちゃんとチェックしてるんだとつげると保科くんは少しだけ口ごもって、気にしてもらえていることは嬉しいと言った。私もそんな風に言ってもらえて嬉しかった。私がそう告げればそう返してくれると分かっていた言葉でも。
 私は大学の生活のことを話した。サッカー自体からは遠ざかってしまったこと、学校の課題だとか授業だとか、海くんのことだとか。保科くんはそれにいちいち相槌を打ってくれたからいらないことまでべらべらとしゃべってしまう。こんな風に穏やかに保科くんと話せるのは夢を見ているみたいだった。
「海とは随分親しくしているんだな」
「高校時代より近くにいる気もするんだよねえ。なんやかんやで一緒っていうか面倒見てもらっちゃってる」
「……付き合ってるんじゃないのか」
「まさかあ」
 他のひとたちにも散々突っつかれた話題を私は笑って否定した。保科くんがそういう話題を振るのは本当に珍しかったし、というかないことだった。初めてといってもいいかもしれない。
「俺は、海と名字はお似合いだと前から思ってる」
 たぶん本心から言ってるんだなという言葉に心臓がしくしくと痛んだ。ひどく痛むのに、自分の顔はさっきまで浮かべていた笑顔が張り付いたままだった。良かったと思った。今ここで取り乱したらきっと目にも当てられないことになるに違いないからだ。私は、外に視線を向ける。すでに見知った街並みになっていた。自分のアパートまではもう少しのところだ。どうせなら聞きたくなかったなあと、横に置かれていたカバンをひざに乗せる。今の言葉を聞きさえしなければ、私はもっと幸せなまま寝られたに違いない。
 保科くんの目に私は映っていない。分かり切ったことだったが、改めて伝えられたくなかった。あきらめたいと思っていたのにわがままだった。結局私は、ずっと片思いのままでいたかったのかもしれない。
「そうかな」
「ああ。海といると名字も楽しそうに見える。海はいいやつだ。だから、」
 口調がどこかぼんやりしている。だからの後に続く言葉は、なかった。そのあとはお互いに無言になってしまう。酔っていないように見えていたが、多分保科くんは酔っていた。さっきと一緒だ。
 アパートが見える少し離れた場所で運転手さんにここでいい旨を告げた。いいんですか?と聞かれたので大丈夫ですと答える。私の突然の行動に保科くんがぎょっとしているのが分かる。私は財布を開いて、今日の飲み会の代金のために入れていたお金をそのまま出した。このままこの人の家まで行ってあげてくださいと伝える。深夜の割増料金でもおつりが来るくらいの額だから大丈夫だろう。
 お金のことか、突然私がおりようとしているからか、保科くんは名字と引き留めるように呼んだ。おりようとすると腕を取られる。触れられたことにびっくりしたけど、まあ酔っているからこうなんだろう。私の手首を握っているその手をできるだけ優しく外してあげる。おやすみという言葉とともに私は手を振って扉を閉め、後ろを見ないように歩き出した。後ろを振り返ったら戻って余計なことを言ってしまいそうだったからだ。少しの時間をおいたあと止まっていた車が走り出す音が聞こえる。
 かすかにふらつく足を動かしながらため息をついた瞬間だった。
「名字」
 肩を引かれる。今度は私がびっくりする番だった。何故かそこにはタクシーの中にいるはずの保科くんが立っていた。
「降りちゃったの?」
「ああ」
「どうしたの? 何かあった?」
 答えは返ってこない。無言だ。タクシーの方を見るがすでに走り去ってしまって影も形も見えない。どうしようと思ったものの今更呼び戻しにも行けない。残された行動は一つしかなかった。
 私は少し躊躇いながら保科くんの腕を取った。保科くんの腕が少しこわばるのを見ないふりをする。意識すると私のほうこそダメダメになりそうだった。
「一回、私の家に行こう。そっから保科くんこれからどうするか決めよう」
「いや、この時間に名字の家には」
 保科くんらしくない突飛な行動をしてくれたくせに、やっぱり保科くんは保科くんだった。海くんも泊まったことあるから大丈夫というと、保科くんが動きを止める。私は彼の腕をそのまま取りながら歩き出した。保科くんはもう何も言わなかった。



 とりあえず酔いを覚ましてもらうために水をついで、保科くんに出した。海くんが来たときもそうだったけど元々広くはない一室に体ががっしりしている人が入るとより狭く感じる。
 グラスに口をつけた保科くんを横に私は携帯でタクシーの運転時間を調べていた。もう終電は出てるので徒歩以外だとタクシーしかない。拾うことはともかくタクシーはこの時間でも呼べるのだろうか。
「海は」
「うん」
「よく部屋に来るのか?」
「ううん、来ないよ。泊めたっていっても一回だけだし。……もしかしてまだ付き合ってると思ってる?」
「いや」
 携帯に落としていた視線を挙げて聞いた質問に保科くんは首を振って答えた。あまり飲んでいないのかグラスの水は減っていない。
 本当ならタクシーを呼ばずとも泊めてあげたら解決することだった。実家に泊まっていると聞いたし、支障はないはずだ。私が勝手に抵抗を覚えてだけだった。そっと息を吸って、心を決める。
「……泊まっていく?」
「……」
「保科くんさえ良ければどうかな」
「名字はそれでいいのか」
「海くんを泊めてるのに保科くんがダメとは言わないよ」
「……海と俺は違う。分からないか?」
 保科くんの手が伸びて、私の手をつかんだ。タクシーの中でしたようなすがるような優しいつかみ方じゃなかった。どこにも行かせないような、力のこもったものだ。手首から伝わる保科くんの体温は熱い。ぞっとするような熱を持っていた。
 保科くんが私に近づいて、距離を詰める。彼の膝と私の膝がぶつかった。完全に酔っている。わけが分かっていない状態だ。恐る恐る保科くんの表情を伺うも、やはり表情だけはいつもの保科くんと変わることがない。目だけが据わっていた。腕を引こうとするが、保科くんの力には敵わないし、保科くん本人は離すつもりがなさそうだった。
「名字が俺のことも海のように信頼してくれていることは分かってる。海はきっとその信頼に応えられるんだろうな」
 とうとうと語られるその声音は平坦だ。思っていることを吐き出しているだけの一人ごとに近かった。返事をもらうことなんて期待していないのが分かる。どう反応するのが正解なのか分からず、私はそっと彼から離れようとした。
「俺は違うんだ。名字、俺は、名字を」
 それが分かったのかつかんだ腕に力がこもる。思わず引けた私の腰を保科くんは抱き寄せた。そのまま押し倒されて床に一緒に転がる。保科くんは手をつかんだままじっとりとした目で私を見下ろしていた。手が放される代わりに足と足の間に保科くんの足が入る。頬を優しく優しくなぞられると自分の背中が震えるのが分かった。顔が近い。お酒のにおいがする。心臓がひどく大きな音を立てていた。直接重なっているわけじゃないのに、のしかかられるようにされているだけで閉塞感がある。ためらいながらそっと胸のあたりを押し返すけど全く効果がない。
 そんな抵抗が多分目に入っていない保科くんが私の名前を呼ぶ。聞いたこともない必死さがあった。
「……あ、あの、あの」
「名前」
 ずっとこうやって呼んでみたかった。海が呼んでいるみたいに。
 そうささやかれた瞬間、胸の奥がじんとしびれた。体から一瞬で力がほどけていくのがわかる。押し返すようにしていた指先からもともと入っていない力が完全に抜けきった。お腹のあたりに、保科くんのてのひらが触れた。服をつかんでいるのが分かる。首元に顔をうずめるようにして保科くんが私を抱きすくめるから私も震える手のひらで保科くんの背中に手を回して服をつかんだ。制止しているのかもっとと請うているのか私にももう分からない。ただ両方の手で、ぎゅっと強く、握った。
「海と付き合ってるなら、それでいいと思っていた。名字は海と一緒にいるとよく笑っているから」
 首元にかかる吐息が熱い。保科くんの息は何もしていないのに荒かった。その吐息が耳もとに響くたびたびにじっとりとしたあせがうなじから噴き出す。
「俺はつまらない人間だから、名字にしてやれることがない」
「……」
「……俺は、それでも名字が」
 それ以上は言われなくても分かった。保科くんと、小さな声で呼ぶと保科くんはそっと顔を私から離した。背中から手を離して、私は保科くんの肩に手を回す。至近距離で目が合う。隆起した咽仏が上下するのが視界の端に見えた。
 私は何も言わずに目を閉じた。瞼越しに影が動くのが、分かる。震える唇が強く押し付けられた。熱くて乾いている。私の唇もきっとそうだった。保科くんの舌が、乾いていた唇を湿らせて中をなぞった。キスをしたとたんに箍が外れたみたいになって、そこからはお互いに必死だった。自分の息がどんどん荒くなっていくのが分かる。
 服を脱ぐ時間すら、惜しい気がした。多分保科くんもそうだったのだろう、保科くんらしくもなく乱暴に服を脱ぎ捨てる。
 好きだと伝えると、保科くんは何も言わずに私に何度もキスをした。どろどろになりながら真っ暗な暗闇のなかで何度も何度も体をつなげた。あえぐようにこぼれたダメとかやだとかそういう言葉に保科くんがやめてくれないことにひどく興奮した。それなのにわけも分からず泣きたくなった。幸せで、気持ちよくて、ぞくぞくしてるのに、それと同時にとても大切なものを失ってしまったような喪失感があった。失ったものなんてないはずなのに、切なくて苦しい。涙が出てくる。
 そんな気持ちを埋めるように、私は保科くんの肌にもっともっとすり寄った。汗ばんで熱い肌にしがみつくと、どうしようもないように嬉しくなれるのに、ますます切なくなる。
 涙で潤んだ視界の中で、保科くんが苦しそうにこちらを見つめるのが分かる。失ったものが何だったのかはさっぱり分からないのに、それがもう二度と自分のもとには戻らないよう実感だけはしっかりとあって、涙はどうしても止まってはくれなかった。

息の根をつみ上げた星の夜

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