NOVEL | ナノ

*ひどい話

「自分を顧みない人間に恋をすることは不毛だと思うんだが、どう思う?」
 平源一郎という人間は優しくない。意地悪だとか性格が悪いとか、それらの言葉も違うわけではないけれど、多分その言葉が一番当てはまっていた。
 自分のルールのもとに自分の好きなように動いているから、普通の人間だったらためらうようなことだって平気でできる。それが他人に与える影響なんてどうでもいいのだ。それを許されている人間だった。それが彼だ。知っていたはずだった。
 振り上げた手のひらは当然のように受け止められる。ほとんど反射的にあげた手のひらは私も無意識の一瞬のことだったのに、本当にあっさりだった。大きくて、力が強くて、簡単に他人を屈服させることができる手のひらは、私の手をきつく握りしめた。遠慮のないその力によって走る痛みに、思わず顔をしかめてしまう。
 彼は何も言わずに私の顔を見つめていた。いっそあどけないような顔立ちのなのに、首から下は恐ろしさを感じさせるほど男だ。押し付けられるようにされた体は重いし、握られた手のひらは少しも動かせない。今すぐに手を離してもらっても私の手にはくっきりと手のひらの跡が残るだろう。
 私が絶対に自分に振り向かないような人間に恋をしていることは彼の知る事実であった。彼は誰よりも洞察力に長けている。私の隠し切れない恋心はあっさりと彼に見破られていた。その事実に私は羞恥心を抱いてものの、それだけで終わっていたことでもあった。なぜなら彼は興味のないものに首を突っ込むような人ではなかったからだ。私の恋心など彼にとってひとかけらも興味のそそられるものではないと私は認識していた。実際に今日に至るまで、彼が私の恋愛に言及したことなどなかった。それが今になって―――私が失恋をした今日に限って、今更、どうして。
 そんな疑問は浮かんでいたが、それよりも私の心を支配しているのは明確な怒りであった。他人に知られたくもない現実をわざわざ指摘された事への羞恥が、その怒りを燃え立たせていた。
「知ってたよ。……そんなの最初から知ってたんだってば!」
 そんなことはわざわざ言葉にされなくたって分かり切っていた事実だ。今日じゃなくたって、いつかは思い知らされていた事実なのだ。きっと私はそれをこの瞬間以外に指摘されていたらこんな風になりはしなかっただろう。あいまいな笑顔でどうかなと流せていたのだろう。私はいつだって彼にそうしてきた。
「わざわざ平くんに指摘されなくたって!そんなのは分かってたんだよ! それでも好きだったの!」
 くらくらした。こんな風に誰かに怒鳴り散らすのは初めてだった。目の前がちかちかして倒れそうだった。離せというようにもう片方の手で彼の胸をたたくが、あっさりと握りしめられてしまう。
 そんな私に彼はぐっと顔を近づけた。大きな瞳がそうっと細められる。そのくせ相変わらず真顔で何を考えているのかさっぱり分からなかった。いつも遊んでいる女の子の前では笑うのかもしれないが、私の前で彼が明確に感情表現をしたことはない。私のために笑ってもらったことも怒らせたこともなかった。あえていうなら試合の前だとかライバル校の前で自信に満ちた笑みを浮かべるのを傍目で見ていたくらいだ。
 不審げな表情で見上げている私に彼はやはり何も言わずに少しだけ首をかしげると、何を思ったのかそのまま私を壁に押し付けるように口づけをした。
 舌が無理やり口の中に入り込む。その舌は私の口を遠慮もなく蹂躙した。逃げようとしているのに、両手を拘束する腕はどうやっても外れない。
「やっ、や、だ」
 呼吸の合間、微かな悲鳴とともにあげた声は、彼の口づけであっさりとかき消されてしまう。そうしているうちに体から力が抜け落ちていった。だらだらと唾液が口の端から零れ落ちる。そこでようやく手を離された。離された腕は、つかまれた部分がひりひりしていた。私を抱き寄せる腕に思わずふるふると首を横に振る。私はすでにその動作で彼が一体何をしようとしているのかを悟った。嫌だ嫌だと首を振って抵抗する私に構わずに彼は私のことを強く抱きすくめ、そうしてもう一度口づけし、今度はそのまま床へと押し付ける。
「名前」
 声だけは楽しそうにも聞こえた。制服の隙間から私の肌にふれたその指先はひどく冷たいのに、降ってくる声だけはぞっとするような熱さがこもっている。笑い声が首元をかすめる。平くんは笑っていた。私の抵抗すらも楽しんでいるようだった。
「助けてって言ってみるかい? あいつに届くかもしれない」
 絶対そんなことを思ってはいないだろうに、平くんはそれがとてもいい案であるように口にして見せた。当然ここから騒いだところであの人に届くはずもないし私を助けてくれる人なんていない。なんだかひどく情けなかった。どうしてこんなことになってるのかもさっぱり分からない。ぐちゃぐちゃな感情で胸がいっぱいで、だけど自分の置かれている状況がいっそおかしくて、一周まわって笑えてくる。
 私の顔をじっと観察するように見ている平くんは私が笑うのを見て腕を止める。このままどけてくれないかなと思ったけれど、そこまでは許してくれないようだ。
「……平くん、痛いよ」
「わざとだよ」
「どうして?」
「お前に思い知らせてやりたい」
「何を」
「お前がすがる相手が誰であるべきなのか」
 私が完全に抵抗を辞めたのを見届け、平くんは腕を離してもう一度私に口づけた。私はもうそのときには疲れきっていて、今更逃げ出そうとも思えなかった。いっそ駄目になってしまいたかったのかもしれない。目の前にいるこの人なら、私のいろいろなものを壊してくれるように思えた。さっきまで殴り飛ばしてやりたいと思っていた人間に、平くんに、自分の体を預けるというのは自分でも驚くような心の変遷だった。ううん、はっきり言ってしまうともうどうでもよかったのだ。なんでもいい。怒り続けるのは疲れるのに、悲しみだけはずっと尾を引く。
 食べられてしまいそうなキスの仕方だった。その下で、スカーフがほどかれるのが指の動きで分かる。彼が何人のスカーフをこうしてほどいてきたのか私には分からない。その一人に私を選んだ理由もやっぱりさっぱり分からないのだった。



 部屋に平くんの私物が置かれるようになった。最初はライターだった。彼がわざと置いていったのか本当に忘れていったのかは分からないそれは返す機会を失って、結局部屋に置かれるようになった。次は避妊具。その次は灰皿だった。次々とこの部屋を侵食するそれらは彼自身の気配を色濃くまとって、部屋に影響を及ぼした。彼がこの部屋に来るのは、もう当然のことのようになっていた。
 私が抱いていた恋心は、部屋が、平くんの気配で満たされていくにつれ、傷跡が癒えるように、平気になっていた。あんなにも好きだったのに、時間さえ過ぎれば意外と平気になるものだと薄情なほどあっさりと思った。胸が痛むときはあれど、耐えられたのは平くんの存在があったからだ。私はそれを否定できない。浮かれていたような気もする。だから忘れていた。平くんがこの部屋に訪れて、私を抱くのも、部屋を出ていくのも、全部平くんの気まぐれで平くんの意思だ。そこに私の意思は介入していない。結局私は平くんの意思に言いなりになるばかりなのだと。

 あの人からもう一度声をかけられたのはつい最近のことだった。恋人と別れたらしい。そういったあの人の目には、全く理解できないことに私に対する情が見え隠れしていた。けれどもうそのころには私はすっかり彼への情を失っていた。だからいっそ面白がるような調子で平くんの前で口にしたのだ。
「ふうん。面白いな」
 いつものことながらちっとも面白そうに聞こえない。だけどその瞳がそういう色を含んでいることは見て取れた。開け放たれた窓の近くで平くんは煙草を吸っている。 布団にくるまって体に残る倦怠感に体を投げ出しながら、私はそれを見ていた。
「それで他には何か言ってたのかい?」
「何も。ただ別れたとだけ」
「名前がそれをこんな風に俺に告げてるとは夢にも思ってないだろうな」
 それはそうだろうなとぼんやりと思う。可愛そうなやつだとおまけのように付け足されたものの、まったく思ってないだろうことは丸わかりだった。楽しんでいるような気配がいまだあった。
「なまえはどう思ったんだい?」
「どうって、別に。もう終わったことだし」
 私の言葉に平くんは自分の膝をたたいた。近くによれという合図だった。私は這うようにして近づくといつものように彼のひざへとくっついた。頭を撫でられる。芸ができた犬を褒めるような、そんな仕草だ。実際のところ、あまり意味も違わない気がした。
「いいことを思いついた」
「……なに?」
 平くんのいいことというのは私の体にとっていいことではないので、私は少し遅れながら返事をした。こちらを見下ろす平くんの瞳は爛々と輝いていた。こうなるといつも人のいうことを聞かないのに、もっと聞いてくれなくなる。
「あいつにセックスさせてやりなよ」
「え?」
「どんな風に抱かれたのか俺に報告するんだ」
 私は思わず体を起こしていた。自分が情けない顔をしているのが、分かる。まったく意味の分からない言葉だった。
 私がそんな顔をするのを不思議がるように、平くんは首をかしげて見せた。あどけないようなしぐさだったが、私は彼があどけないと正反対にたつ生き物であることを知っている。後ずさりかけた私の体を、平くんが抱き寄せた。珍しく甘やかすような優しさを含んでいたが、私はさっきの言葉でそれどころではない。
「何も怖いことなんてないよ。俺にしてくれることをそいつにしてやればいい」
 耳に吹き込むように、彼は囁いて見せた。いつも私にそうするように、私の体に教え込むように、それが正しいことのように。
「言っただろう?俺はなまえに誰にすがるべきだったのかを知らしめたいんだって」
 私を抱きしめたままけして離そうとはしない、その腕はまるで手錠のようだった。あの日を思い出す。私はあの日もそう感じたのだ。
「名前は俺の言うことを聞くの、好きだろう?」
 私はその言葉に結局頷くことしかできない。私が泣き出しかけていることを察したのか、平くんは唇をよせ、恋人にそうするように愛情を持って、口づけをした。平くんの瞳は、やはり爛々と輝いている。私を初めて抱いたときと同じ瞳だった。平くんはきっとあの時とは何も変わっていない。だけど私は変わってしまった。変わるべきではなかったと思ってもきっともうあとに戻れるところにはいない。
 自分を顧みない人間に恋をすることは不毛だと、そう囁いた平くん自身の言葉を思い出す。まったくもってその通りだ。平くんが言って良いことじゃない。あの時のように、私はもういっそ笑えてきて、くちびるをかみしめながら平くんに縋りついた。やはり助けてくれる人などどこにもいないのだ。

手にはまだ生ぬるい罰

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