NOVEL | ナノ

 まだ夜の明けきらない部屋の中で目覚めたとき、隣にある存在に気がついた。私の体に剥き出しの長い腕がしがみつくように絡みついていて、見知ったその腕の正体を振り返って確かめなくても分かっていた。
 後ろから私の体を抱きしめる体温を感じながら、近くに置いていたスマホに手を伸ばして時間を確認する。時刻とともに天気のニュースの通知に雨模様のマークが出ているのを目にしてからスマホを元の場所に戻した。
 横たわったままでも視界に入る窓の外は暗いというより青々としていてニュースの通りの天気であることが分かった。
 もう一度目を閉じてしまいたいという気持ちを抱きながらも喉の渇きを感じて彼の腕をそっと外した。体を起こしてベッドの上に座ると寒さすら感じる。かけていたタオルケットよりも私のベッドには大きすぎるその人から感じていた体温の方があたたかくて、寒々しい部屋の空気の中で唯一、彼だけが、熱があるものだということにそのとき気づいた。
 眠っているその人を見下ろす。頬ににかかって彼自身の顔を隠している長めの髪を耳にかけながら、彼の頬のラインを手の甲で撫でた。彼の寝姿はちゃんと生きているのか不安になるくらい静かだ。先ほどまで私の体に触れていた体温が肌に残っていて、抱きしめられていると熱いくらいなのになと寝顔と相反する体温が私を不思議な気持ちにさせた。
 そんなことを思いながら静かにベッドを抜け出した。冷蔵庫まで向かい、水を飲む。暗かったけど明け方に差し迫っている時間帯のせいか視認は出来たから、電気はつけなかった。
 もう一度ベッドに戻ったとき、出来る限り静かに動いたつもりだったけど横になった途端に彼の腕が私の体にまわった。予想していなかった正面からの抱擁に驚き、思わず息を呑む。その腕は一瞬でこちらを抱きすくめた。
 彼の力の強さや伝わってくる腕のしなやかさに、蛇に締めつけられるようなイメージをする。そして同時に彼の左足に掘られている蛇の意匠が脳裏に浮かんだ。
「冷えてる」
 どこか抑揚のない口調で、彼が耳に囁く。額が私の首筋に押しつけられると彼のさらさらした髪の毛が肌にぶつかってくすぐったかった。腕だけではなく彼の足も私に絡み、その足先が私の足を撫でる。私自身の体温が下がったせいか戻って来る前よりも彼の温度に熱を感じた。
「ドキドキしてるね〜」
「びっくりしたから……」
 私の早い鼓動が彼にも伝わっているらしかった。彼の口調は先ほどとは違い聞き慣れた軽いものに近づいていて、なんとなく罪悪感を抱いた。彼の頭を抱きしめるように腕をまわし「起こしてごめんね」と私も声を潜めて囁く。それからそうっと彼の頭を撫でた。しばらくして手を止めようとすると彼は無言のまま体をよせてきたので、もっと撫でてあげる。
 いつから彼がここにいてどれほど眠っているのか私には分からなかった。彼が私のベッドにもぐりこむとき、私はまったく気づけなくていつも起きたら一緒に眠っている。
 彼から腕から離したとき、今度は彼の方が私を胸に抱いた。微かな雨の音が彼の腕の中にいる私の耳に届いて、やっぱり天気予報の通り今日は止まないかもしれないなと思った。雨の日に彼の隣にいると私は彼と出会った日を思い出す。いつか彼が私の元に訪れなくなる日が来ても思い出すのかもしれない。
 彼と初めて出会った日も雨だった。私は傘を差していたけど彼はそうではなくて、しかもその姿がスーツだったから余計に大変そうだと思ったのを覚えている。
 雨の中で傘も差さずにベンチに座っている彼の姿を目にした私は、その横顔に彼が泣いているように錯覚した。泣くほど具合が悪くて動けないのかと思うと迷いつつも私は彼に声をかけた。
 声をかけたことでこちらを見上げた彼の顔を正面から直視して自分がした錯覚に気がついた。彼は全身が濡れ切ってその長い髪にすら水を含んでいたけど大きな瞳だけは濡れてはいないようだった。彼は何も言わず、真っ暗なその瞳で私を見つめた。
「あの……」
 誰か呼んだ方がいいですか? と尋ねると彼はいくらかの沈黙をおいてそれまでの完全な無表情からにっこり笑った。そうすると一気に雰囲気がやわらぐ印象を受けた。
 笑うだけで何も言わない彼に余計な心配をしてしまったんだろうなという後悔を覚えながら、余計なお世話ついでにと勇気を振り絞って自分の傘を差しかける。
「あの、どうぞ」
 その日降っていたのはこの瞬間に具合が悪くなくてもこうして当たり続ければそうなるであろう勢いの雨だった。折り畳み傘があったから気にしないでと伝えるために鞄から出して振って見せた。
 彼は一瞬その目を丸くした。それからすぐに彼の表情がまた消えて、でも手を出してくれたことにいろんな意味でほっとしながら持っていた傘を渡した。「どうしてもらっても構わない」とも伝えて彼の前から去って、そこで終わる話なのだと思っていた。でも彼は私に傘を返しに来たからそうはならなかった。
 彼は私がよく足を運んでいたコーヒーチェーン店に私の傘を手にして現れた。私が座った席のテーブルを挟んだ向こう側に、約束をしていたかもしれないと思うほど自然な様子で腰かけた彼は、「こんにちは」とこちらに声をかけ、伝えた覚えのない私の名前を呼んだ。
 あの日とは違いずっと笑みを浮かべたままの彼が私に傘を差しだすので受け取ったものの、傘を持っていた彼の指や甲にタトゥーが入っていることに気がついたとき、私の中に怯えが生まれた。膨らんだ悪い想像が頭をよぎった私は人がいるカウンターの方へと無意識に視線をやっていた。
 出来るだけ気づかれないように視線を向けたはずなのに私が抱いた不安を目の前のその人はちゃんと分かっているようだった。彼は「この前の僕の方が怖い気がするんだけどな〜」と、聞いていると、抱いた恐ろしさを忘れそうになるほどにやわらかな声で言った。
 そしてそれから、彼との関係が始まった。そうやって突然私の元に現れ、私の生活にも私自身にもあっという間に馴染んでしまった彼との関係はあっという間に進んだ。
「じゃあ今日から僕の彼女だ」
 そう言われたとき、今起こっている事実が身に余ってただ見つめ返すしか出来なかった私の視線を彼はニコニコしながら受け止めた。彼は笑顔を崩さず「今日から君の彼氏の僕としたいことある?」と尋ねた。
「ハグ……?」
 まともに思いつかず、躊躇いを感じつつも唯一思いついたことを言葉にした私を彼はすぐに抱きしめた。
「求めることが可愛いね〜、次はー?」
 私はすでにいっぱいいっぱいで彼の言葉への答えを考えられなかったし、その体からなんの香りもしないことに驚いていた。
 彼の衣服の隙間から時折覗いているその体に入れられたタトゥーの模様や彼自身が浮かべている笑みのように鮮烈で複雑な香りを身につけているのかなと勝手に思っていたからだ。そういえばどれほど近くによっても彼の香りを感じたことはなかったし、香りが移ったことはなかったことも思い出した。
「ちゃんと聞いてる〜?」
 彼は私の顔を覗くと「じゃあ僕がしたいことするね」と言ってキスをした。そうやって立ったままキスをされると彼との体格差をかなり強く感じた。キス自体より、そういうことの方に意識が飛んでいた。
 重なっていた唇は気づいたら舌が入っていた。その接触に私が怯んだことが伝わっていたと思うけど彼は逃がしてくれなかった。意地悪されることはあっても私が臆すると最後は優しくしてくれるのがそれまでの彼だったから余計にびっくりしてドキドキした。
 キスをしてから、彼は私と額をあわせてにっこり笑った。関係に名前をつけて、抱きしめて、キスをして、なのに彼の笑みを見ていると雲をつかんでいるような気持ちになった。それでも彼が私を抱きしめるのを受け入れて、抱きしめ返した。
 彼は一線を越える前に自らが殺し屋をしていることまで私に教えた。私は殺し屋≠ニいう職業を一般的な常識の範囲として知っていたものの、名乗られたことも本物を見かけたこともなかったので現実味がなかった。ただ、その現実味のない職業を彼がしているということには納得があった気がする。彼自身の気配のなさや香りがないところとか、そういうところに、腑に落ちた気がした。
「嫌になった?」
 彼は首を傾げて問いかけた。だから私は黙って首を横に振った。彼は私の前で本当なのか嘘なのか分からない振る舞いをよくしたけど、その瞬間だけ本気で尋ねていたように聞こえてずるいなと思った。
 私からも「初めて」だと打ち明けると「知ってたよ〜」と彼は答えて、私に明かした殺し屋≠ニいう言葉とは相反するように優しく触れた。そうやって優しくされて、それでも私が違和感に顔を出してしまうと「痛い? 頑張れる? ごめんね」と彼が私の耳元で言い聞かせた。彼が囁く声が静かさにドキドキして、困った顔をしてくれたことが嬉しかったと思う。
 関係に名前がついてから短くはない時間を過ごして、彼は私にこう尋ねた。その日も雨だった。
「僕に殺し屋止めて欲しいって思う?」
 ベッドに腰かける彼を、ベッドに横になったまま見上げた。私は真剣に考えて、こちらに振り向いた彼に首を横に振った。質問自体が笑って流せるようなものだと思わなかったけど、こちらを見ずに発された彼の声音自体にも、いつもと違うものを感じた。
 私が出会ったときに既に彼はその仕事をしていて、生まれたときからそのために生きていて、なる前に出会うということ自体が不可能だったろう。私が好きになったのも、一緒にいたのも、そうなってからの彼だった。
 彼が誰かを殺すことについて想像をしたことがないわけじゃなかった。でも一番想像したのは彼が傷つくかどうかだったと思う。その想像のたびに、私は彼が誰かを傷つけることよりも、彼が傷つくことを嫌だなと思ってしまうのだった。
 それでも、だから止めて欲しい≠ニは願えなかった。そう願うことは今の彼を否定してしまうようで怖かった。その職業を代々輩出している実家であることを既に彼に聞いていたので余計にそう感じた。
 もしそんな風に相手に伝えられるとしたら、相手の未来に口を出す勇気があって、なにもかも一緒に背負っていけるくらい大好きだからなんだろうなとも思った。私は彼のことがとっくに大好きになっていたけど、大好きだから私が口には出せない言葉だと感じたから、なおさらそう思った。
 私は逆に、今の仕事をしていなかったら何がしたかったかを彼に尋ねた。彼は考えこむような仕草を長くしたものの、思いつかない≠ニ答えた。特にやりたいことはなさそうだっで、代わりに私が考えてみる。
「俳優さんとか、モデルさんとかかな……?」
 彼ならきっとなれるだろうと私は思った。でも、そうなりたいと思っている彼のことは想像出来なかった。なりたい気持ち自体が強くなさそうだから、もしなるとしてもスカウトなのかもしれない。
 彼は私の言葉を聞いたあと「僕のこと格好良いって思ってるのはよく分かったかもー」と笑い、私のことを抱きしめて一緒に横になった。
「急に変なこと聞いてごめんねー。ちょっと聞いてみただけで悩んでるとかじゃないよ。困らせた〜? 」
 私の顔を覗き込んで、彼が言い聞かせるように言うからまた首を横に振った。迷いながら言葉にした。
「……今からだって、なろうとしたのなら、やりたいのなら、きっとなんだってなれるよ。なんでも出来るもんね」
 そう言うと彼は少し目を丸くした。そしてこちらの頭を撫でてから、私のために笑ってくれた。いつもより優しい笑顔だった。
 彼は私を後ろから抱きしめると今は一緒にいない友達の話をしてくれた。私はそれを最後まで口を挟まずに、黙って聞いていた。そうして聞いていると彼の顔を見なくても彼がどれだけ大事に思っているかがよく分かった。
 私は彼に好きなように生きて欲しいという気持ちを抱いていたけどその話を聞いたら彼が仕事を止める日はやっぱり来ないんじゃないかなと思えた。――出会ったあの雨の日に、彼があんな風になるのはその友達のことが関係していたのかなとも、思った。
「僕、普通の女の子と付き合ったの初めてなんだけど、普通の女の子ってみんなこうなのかな〜」
 さっきとは違って答えを欲した質問というより、独り言みたいに彼が言う。こう≠ニいう単語が具体的に何を指しているのか分からなかったけど、自分が殺し屋をしていない女の子の代表になれるような存在とは思わなかったし、一緒にいないと相手のことはよく分からないんじゃないかなと思った。きっと彼にとってもっと楽しい子とか、都合の良い子も世界にはいただろうと思う。
 私も彼以外の殺し屋の男の人のことを知らなかったので、浮かんだ疑問を口にした。
「殺し屋の男の人もみんなこんな感じ……?」
「僕以外とか知らなくていいでしょ」
 みんなが彼みたいなのかなと思いながら問いかけた言葉はあっさりと切り捨てられた。それまで前を向かされていた体が彼の方を向かされる。
 急な語気の変化にびっくりして彼を見つめると、彼はそれまでにも増してニコニコと擬音がつきそうな笑顔をしている。大きな手のひらは私の頬を撫で、そして彼の顔から受ける印象よりずっと太い指先が頬をつまんだ。僕も名前以外のことはもういいや〜とさっきとは真逆のことを口にした彼がこの話はおしまいと自分から広げた話を終わらせてしまった。でも私も彼以外の男の人というものにそもそもあまり興味がなかったので構わなかった。
 彼の様子がなんとなく違う気がしたのは最近のことだ。例えば連絡の頻度だとか一緒にいる間の距離の近さとか、そういうかすかな違いだったけど、それでもやっぱり違う°Cがした。何かがあったように思えた。でも無理に何かを問いかけたら、きっといつもの笑顔で、心配の必要がない本当ではない言葉を口にするのだろう。私は彼のことを彼自身が話してくれたことでしか知らない。でも彼は嘘が上手で、私は嘘をつかれていてもきっと分からない。彼自身の大事なことで嘘をつかれるのは寂しかった。何も言わなくてもいいから傍にいて欲しかった。何も打ちあけられなくても傍にいてくれるだけで嬉しかった。
 休みのある日、私は彼と家で一緒に映画を見た。互いに都合があわなくて映画館で見られなかった映画が配信されるのが告知されたときに、それを見ようねという話を以前からしていた。
 日が暮れるまで二人で何もせずに過ごして、夜にその映画をテレビで流した。ミステリーとサスペンスとホラーの混ざったその映画を私自身は楽しんでいたけど、彼はなんだか静かだった。
 私は彼のことをどちらかというと静かな人だなと思っていた。一緒にいるときに、にこにこ笑ってたくさん話をしてくれる彼の姿も好きだったけど、私と部屋で二人きりでいるときにたびたび見せる静かな表情の落差が大きくて印象的だったからかもしれない。
 彼と外に出かけて一緒に過ごすのも楽しかったけど本当に何もせずに部屋の中で一緒にいるのも私は楽しかった。外にいるときの彼は必ず明るかったけど、部屋の中で二人きりでいるときにそうじゃない姿を見ると彼自身に触れられたような気がしたのも嬉しかった。本当は気がしただけだったかもしれないけど、それでも嬉しかった。
 でも今、目の前にしている彼の静かさは私の知っている彼の静かさとは違った。
 映画に関する感想は基本的に一致することが多かったけど今日は違っただろうか。そうだったとしても彼が何も言わないことに違和感を覚えて、頬杖をつくようにしてソファーに座ってテレビ画面に視線を向けていた顔を覗きこんでみる。
 彼はなんだかぼんやりとしていた。その大きな瞳が、既に配信サービスのホーム画面に戻ったテレビを見てから私を見上げる。瞬きをした彼とようやく目があった心地になったときに、彼が口を開いた。
「あれ、終わっちゃった〜?」
「うん。もしかして疲れてる……?」
 冷たいものでも持って来ようかと立ち上がった私がそこから離れる前に、彼に手をつかまれる。
 こちらの手を握っている彼は、私を見上げたまま何かを考えこんでいるようにも見えた。しばらくそうされるままでいたけど無言のままの彼の手の力がどんどん強まって、私はついに彼の名前を呼んだ。名前を呼ばれた彼自身もびっくりした顔をして、それがすごく無防備な表情に見えた。
「ごめんね、痛くした」
 パッと離した手を上げたままの彼は私を安心させるように笑ったが、その手ですぐにまた私の手をつかんだ。今度はちゃんと加減をされて握り直される。
 彼の腕力の強さが見た目以上で、きっと普通の人より強いのはよく知っていたことだった。抱擁はその力を感じる最たることで、痛みはないのに圧だけを感じる強さでいつだって施されていた。彼がその加減を誤ったことは今までで一度もない。
 私は飲み物を取りに行くのを止めて彼の隣に座り直した。そうして近くに座った私のことを彼が腕を伸ばして引きよせると抱きしめる。彼は背が高かったから、そうやって座った状態や横になって抱きあわないと視線をあわせたまま私から距離をなくすることは難しかった。
 強く力がこめられる様子がないのに私を抱きしめる彼の腕を軽い気持ちで外そうとするとびっくりするほど外れないので毎回驚きを感じる。
 抵抗をやめるか、あるいは驚きを見せたときに腕を緩められるので、私の様子を見て満足しているのかもしれない。でも私は彼の手が緩む瞬間になんだか寂しくなる。だから一緒に眠っているときに彼がずっと抱きしめてくれるのが好きだった。
 彼に強く抱きしめられて、私がそれを受け入れ、今日も彼の腕が緩む。緩む彼の腕の力を感じたそのとき、私は自分から彼を強く抱きしめた。彼が手加減を誤ったことが初めてなように、私から彼のことをそんな風に正面から、自分から抱きしめたのは初めてのことだった。
 私は彼に出会ったときから優しく扱われていた。その自覚があったし、言葉や態度も与えられていたと思う。でも私からは彼を必要以上に求められなかった。きっといろんなことが怖かったから。
「甘えたい気分なんだ〜?」
 彼がことさらに優しい声で私に問いかける。私は黙ったままきつくきつく彼を抱きしめた。苦しいかなと思うくらい力を強めたのに彼はされるがままだ。彼はきっと私の腕を簡単に外せたのに。
 そうやって力の限り抱きしめていると私の方に腕力の限界が来てこちらから力を緩めた。苦しくさせたと思ったのに彼は何故か楽しそうだった。
「もーおわりにしちゃう?」
 甘えるような声音で囁かれて、もう一度、今度は優しく抱きしめてあげる。
 されるがままだった彼が腕を動かす気配がして、私は彼から手を離す。彼は私の頬に手をよせてから、額にかかっていた髪をその指先で梳いて肌を出すとキスをした。腕が体に伸ばされ、また抱きしめられながら額だけでなくこめかみにも頬にも唇にもキスを落とされる。
 重なってすぐに離れた軽いキスに私は瞬きをして彼を見つめた。目があった彼は少し笑って、私の唇にもう一度、今度は濡れたキスをした。そのまま彼の体の力に押されて私はソファーの上に倒れこんだ。
 彼が私の胸元に顔をよせたから、私は彼の肩に腕をまわし直して彼の頭を胸に抱いた。彼は私の胸に耳をつけた。
「今日は静かだね〜」
 意識すると、自分の鼓動がその言葉通りにゆっくりと響いているのを感じる。その音を感じながら私に出来る最も優しい力で、彼の頭を撫でた。照明の光を吸いこむような黒い髪を撫でて指に絡めると、さらさらしすぎて指の隙間を落ちていく。触れているだけでくすぐったいような気持ちになる。
 そのうち体勢を崩しきるように体重がかけられて彼の体の重さに動けなくなった。体そのものだけじゃなくて、腕も脚も、彼と私では重さから違った。
 私の体には大きさも重さも余る彼の体を全身で感じながら体を預けられるままでいると、彼が顔を上げて上目遣いで見つめられた。その大きな瞳が細められ私だけを見ているのだと認識したとき、胸を絞めつけられるような幸福を感じた。
 幸福の自覚とともに彼の髪を撫でていた指が思わず止まる。「好きだよ」と、口にしてしまいそうだった。私はその言葉を口に出すことはないまま、彼の額に自分の口を押し当てた。そうしてから彼のことを抱きしめ直す。何も言えない私とは裏腹に心臓がドキドキしていたけど聞こえていたはずの彼は何も言わなかった。ただ、私が抱きしめる以上の力で抱きしめ返してくれた。そうしてくれることが、やっぱりどうしようもなくなるくらい幸せだと思った。
 彼にずっと優しくされていた。言葉や態度も与えられていた。大事にされていると分かっていた。でも彼が突然私の前に現れたように、姿を消すときも突然なんじゃないかとずっと思っていた気がする。いつか≠ェあっけなく訪れるような思いがずっとずっとしていた。そしてそうなったらもう会えない気がする。
「……俳優にならなくてもテレビに出ちゃったね」
 テレビに大きく映し出される彼の姿と名前に、もし違う仕事をしていたらを想像して話したことを思い出しながら私は無意識に呟いた。そのニュースで報じられた日を境に、彼の一切の消息が分からなくなった。
 テレビを見たときも見たあとも、きっとその前から心のどこかで諦観にも似た気持ちを抱いていたはずだ。抱いて準備をしていたはずなのにそれでもあまり寝つけなくなった。眠れたその日は浅い夢の中で、いつの間にかベッドにいる彼にいつものように強く抱きしめられる光景を見た。目が覚めるたびに寒い≠ニ思った。
 雨が酷く降っているその日、帰路につく最中で、いつか彼が私の元に訪れなくなる日が来ても出会った日のことを思い出すのかもしれないと、そう考えた自分のことを私は思い出していた。でも思い出すのは一緒に過ごした時間の方だったと手にした傘を見ながら思う。今手にしている傘は男物で、本来の私のものよりずっと大きい。彼が置いていったものだ。彼は私の部屋に人としての痕跡を残さないけど、代わりみたいに自分の物を持ちこんでいた。
 そうやってぼんやりしながらマンションへの道を歩いていたとき、男の人が道端に立っているのが見えた。自分の傘越しにその人が傘も持たずにいるのが視界に入る。同時に横顔も目の当たりにする。明るくて長い髪をした男の人で、彼には似ていなかった。通り過ぎる私の存在すら視界に入れていないだろうと思えたその男の人の横を通り過ぎようとして、私はやっぱり迷いに迷って、後ろを振り返る。
 彼の様子に変化があったと分かっていたときに声をかけなかった自分への気持ちがあれからずっと私の胸にあった。その気持ちが衝動となって私をまた動かした。
「あの……」
 声をかけてから、前のように傘を「どうしてもらっても構わない」とは言えないことに気がつく。私が向こうを見上げると、その人の切れ長の目が、私を捉えた=B
「僕以外にもこうなんだ〜。心配になるなー」
 息を呑んだ。何度となく耳にしたことのある、聞き慣れた、望んでいた声だった。
 「あっ」と思った瞬間にその人は傘を握っていた私の手を上からつかみ、強引な力で引きよせて一緒に中に入ってしまう。私が一瞬だけ視線を外した間に、目の前にいるその姿がよく知る姿になっていた。
「どうして……」
 彼は自分の口の前に指を置いて声を出さずに私に合図をした。誰にも見えない傘の中で、彼が私の顔を覗きこむ。反応出来ない私の代わりにいつもより屈んだ彼が、何も口にしないまま私にキスをした。
 彼の唇は冷たくて、私は思わず彼の頬に手を伸ばして触れた。あの日の彼もこんなに冷えきっていたのかなと頭のどこかで思った。またこんなに冷えるまで雨の中にいたのかな。指先からは既に力が抜けていて彼に握りしめられていなければきっと傘を落としていた。
「もう会えないと思ってた」
 彼に合図をされたことが頭に浮かび、出来るだけ囁くように伝えると「薄情だな〜」と言いながら彼が私の体を抱いた。絞めつけられるような彼の腕の力は変わらず強かった。願っていた彼のその抱擁に既視感とともに郷愁すら感じる。
 彼の体からはやっぱり匂いがしなくて、そうして顔をうずめても感じ取れるのは雨の匂いだけだ。体温だけがいつもとは違って私の方が熱かった。それでも嬉しくて震える腕で彼を抱きしめ返した。
「顔を見て満足するつもりだったんだけどやっぱり話せた方がいいね〜?」
 私を抱いたまま、あれから日常が続いているみたいに変わらない声音で彼が言う。
 だから私も彼の胸に抱かれたままいろんなことを思った。彼があまりにも変わらない態度だったから、私も変わらない口を利きそうになった。本当に殺し屋だったんだね。テレビに映ってる写真が怖い顔だから、全然別の人みたいだと思ったよ。だけど言葉になることはなかった。
 彼が会いに来てくれて今こうして抱きしめてくれることが、私にはあまりにも重くて、だから、もうそれだけでいいと思ってしまった。彼がしている仕事が誰かを傷つける仕事だと改めて突きつけられても、それでも私は、結局、彼自身が傷ついてないかとか痛いことが起こっていないのかと考えてしまうのだと、彼がいなくなって改めて理解してしまっていた。
 こうなる前にちゃんと言うべきだったという心残りを彼の胸の中で改めて覚えて、こみあげてくる感情のままに「好きだよ」と伝えた。そんな風に伝えたことがなかったから彼が驚いているのが気配で分かった。驚きを見せたあと、何故か笑いをかみ殺した彼はもう一度私にキスをした。そしてそっと顔を離した彼と至近距離で目があう。
「僕もそうだよ。……待っててくれる?」
 彼の瞳はあの日そうだったように濡れているわけではなかったけど、それでも私のためにやわらかな光を帯びていた。彼の優しいまなざしにとらわれるように、私は彼を見つめ返す。
 反射的に頷き、「待ってる」と言葉にもならない声で返事をした。
「もう違う男に傘を差してあげたりしちゃダメだよー。僕と約束ね」
 そう耳元で囁いた彼は、誰かを殺すことが出来るその手で、優しく、私の頬を撫でた。私に傘の柄を握り直させると、彼は次の瞬間には外に出てしまう。私が仰ぐようにして傘を傾け、確かに彼が外に出た方へと視線を向けるとそこにはもう誰の姿も見えなかった。それでも私がつかんだ冷えた体温だけは手の中に残っていた。
 彼が会いに来なくなる日のことをずっと考えていた。いつか来るだろうその日は彼にとって仕方ない≠ニされるものなんだとも想像していた。でもそうではなかったのかもしれない、と、その時に思った。
 触れられた頬に思わず自分の手を重ねる。彼に待てるかどうかを言葉で問いかけられ、答えた瞬間から、私はきっとずっとそうしてしまうのだろうと思えた。
 視線をあげたことで、そのときに初めて空の端が明るくなっているということに気がついた。雨の音自体も小さくなっている。もうすぐ空は晴れるだろう。私は空を見ながら「待ってる」ともう一度口にしてみた。彼が私を抱きしめるあの腕の感触がまだ体に残っていた。彼にこうして抱きしめてもらったことも、私はずっと、何があっても、忘れられないだろうと思った。

未明には眠ったままでいたい

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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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