NOVEL | ナノ

「何かあったら僕の体は憂太にあげることになったんだけど名前は何か欲しいものはある?」
 彼がそう言った時、私は思わず口を噤んだ。体をあげる≠ニいう言葉の意味が上手く呑みこめないと思ったし、何かあったら≠ニいう言葉の重さが私の喉を締めつけて声ごと言葉を奪った。私が唯一まともに分かったのは憂太くんの名前くらいだった。
 目をあわせたまま十分なほどの沈黙が降りて、やっと口を開いた私は「体をあげるの?」と彼の言葉を聞き返した。彼は笑みさえ薄く浮かべたまま答えた。
「僕が死んだらね」
 彼が直接的な言葉を口にしたことに、冷たい手で心臓を撫でられた気持ちになった。
 彼が私の元に帰って@てくれたのは少し前のことで、帰って来てくれたのにまた命をかけて戦わなければいけないのだと説明を受けたのも時を同じくしていた。彼の仕事≠ノついて命の危機すらあるということを以前から伝えてもらっていたが、具体的な日付や詳細な場所と内容を彼が私に明かしたのはそれが初めてのことで、本当はその時も怖かった。彼が私に伝えたのがどれほど重い事態なのかを理解してしまったから。
 だから、彼の「死んだら」という言葉も、いつか≠想定した例え話ではなくて、既に教えられていた予定されたその日に、もしそうなってしまったらという現実的な話なのだろう。
 彼が自分の仕事を血生臭い*ハがあると評したことが一度だけあった。
「だからあんまり聞かせたくないんだよね」
 それを口にした彼の横顔が、私を見て頬を撫でてくれた一度きりが、ずっと心に残っている。真綿でくるむように彼が私を大事にしていることを知っていた。大事にしているから聞かせたくないと彼が思っていてくれているのだと分かっていた。
 だから私も知らないふりをする。彼がその血生臭い℃d事をして帰って来るたびに、私に殊更優しく$Gれたがることも、私の元に訪れる際にすべての匂いを落としてくることも。――今日も恐らくそうだったのであろうことも。
 青く輝く彼の瞳が私だけを見ている。その目を見続けていると胸が切なく痛んだ。弱弱しい言葉をこぼしてしまいそうだったから、隣りあって一緒に座っていたソファーの背もたれに深く倒れた。背もたれにすべてを預けながら彼を見あげる。そして彼の言葉を改めて考えた。
「体あげちゃうんだね、いいな……」
「名前も僕の体欲しいの?」
「欲しいよ」
 貴方のものなら私はきっとなんだって欲しいだろう。彼を見つめながらそう思った。
 すべてが理解出来たわけではなかったけど、でも、憂太くんがもらうというならそうすることが本当に必要なのだろうと頭で思った。憂太くんになら構わないと心で思えた。
 彼が手を伸ばして私の頬を撫でる。その手の体温を感じながら、軋む心を無視して考える。
「こうやって見つめられるの好きだな」
 逃避のように私の口から出た言葉に彼が僅かに首を傾げる。
「僕の眼が欲しい?」
 まるで今から渡してもいいように彼が言う。体を渡す必要があるのに? と私が問いを投げかけると「名前にあげたら治してから渡すよ」と変わらない声色のまま彼は答えた。
 ああ、本気なんだなと思った。
 彼が自分の傷を治せるということは知っていてもそんな方法を頭によぎらせることがないまま、現実味のなさを感じながら問いかけた私とは違って彼はずっと本気で、私が欲しがったら本当にくれるつもりなのだ。
 そう感じるほどに彼がその日になにがあってもいいようにしているのが分かってしまって、私は自分の頬に伸ばされた彼の手に震えそうになる自らの手を重ねた。
「そんなことしたら痛いよ。痛いって分かってること、しないで……」
 私がいくら彼を欲しいと求めても、治すから平気だと言われても、そうすれば彼が痛みを感じて傷つくと分かっていることを求めるのはとてもではないが考えられない。それでもいつか、もらっておけばよかったと思う日が来てしまうのだろうか?
 彼は何故か機嫌が良さそうに声をあげて笑って、私の肩を抱きよせた。「やっぱり眼だと管理も大変かな」と言いながら彼が私の顔を覗きこむ。
「泣きそうだ」
 彼のその瞳が翳って、二度と瞼が開かれない日を想像すると心臓が縮こまる。厭な痛みを発しながら鼓動が打っていた。彼の言葉通りに私の目からは涙がすでにこぼれかけていた。
 凄く嫌だなあと子供が考えるように思った。喪うことを考えただけでそんなの無理≠セ、と思う。命をかけなければいけない場所に向かう彼自身の態度は常と変わることがないのに、待つことしか出来ない私だけこうやって受け止めきれずいる。でも、彼がそうして平気な顔で自らの死の話を、そのあと≠フ話をすることが、とても辛かった。
 私が欲しいのはこうして私の頬を撫でてくれる貴方で、見つめてくれる貴方で、抱きしめてくれる貴方で、生きている貴方だった。だからずっとずっと、一緒にいて欲しかった。それが難しいことだと分かっていても願わずにはいられないことだった。
「悟さんがいてくれるのがいい」
 そう告げるとともに瞬きでこぼれた涙を彼がその指でぬぐう。それでも止まらないから、彼は私の瞼に唇をよせてキスをした。
「僕はこれまでもこれからも死ぬつもりで戦うことはないよ」
「うん……」
「僕から言ったけど名前も僕の死を前提に考えすぎ」
 私は彼を抱きしめながらその胸元に耳をよせた。目をつぶりながら波のように一定の彼の心臓の音に耳を澄ませた。抱きしめ返されながらそのまま髪を撫でられる。
 そうしていると彼と一緒にいたいという気持ち以外なにも浮かばなかった。本当になにも思いつかないとぼんやりした口調で言った私が抱きしめる腕をもっと強めると、彼は「名前は僕だけが欲しいんだね」と優しい声で言った。
 彼は私を抱きあげてソファーから立ちあがると、私の寝室に向かった。ベッドにおろされた私に彼がキスをする。
「じゃあ僕としか出来ないこといっぱいしよっか」
 私を見つめてそう言う彼に頷き、今度は私からもう一度キスをした。ベッドに押し倒されながら私は彼を見つめる。体を撫でてくれるその手のひらを、重なる体の重さを、まなざしを、苦しいくらい優しく℃рノ触れる触れ方を、ただ愛しく思った。
 彼が私の髪や顔や体のあちこちにくちづけを落とすと、彼もまた私を愛しんでいることが分かって、なのに胸が張り裂けそうになる。その触れ方に寂しくなって、大好きなのに苦しくて、ひたすらに切なくなった。彼と抱きあうことは、彼を抱きしめることは、痛みに似た切なさを感じることだったけどこれまでの比ではなかった。
 また泣き出した私に、彼は私の頭を撫でてあやして抱きしめた。抱きしめられながら彼を抱きしめて、私はもう一度彼の胸元に耳をつけた。彼の鼓動を聞いていると激しい焦燥を伴う私の存在ごと崩れてしまいそうな辛さが、静かな切なさへと移り変わっていく。
「名前はそうするのが好きだね」
 髪をその指で梳いてくれる彼がそう言うから、頷いた。私の目を彼がじっと見つめる。
「泣きすぎて眼がとけそう。むしろ僕が名前の眼をもらおうかな」
「いいよ、あげる」
「僕にはダメって言ったくせに」
 彼は苦笑したが、私は彼が私に目を差し出そうとした瞬間の気持ちを思ってもっと悲しくなっていた。私だって求められたら目なんてあげてもいいと思った。
 彼が欲しいと言ってくれるなら、彼が戻って来てくれるなら、例えそれが私の元にではなくても、私はなんでも差し出してしまえるだろう。
 一緒にいたかった。でも彼が生きてさえいてくれるなら、一緒にいられなくても受け入れられると思う。帰って来れなくなった彼を待つ経験をした時に、私はすでに答えを出していた。
「名前からはもう奪いたくないな」
 その声には激しい感情はこめられていなかった。こめられていないからこそ彼が本気で言っていることがよく分かって、胸が砕けそうになった。
「奪うんじゃなくてあげるんだよ」
 だから、私の方が必死になった。彼といてなにかを奪われたことなんてない。私はずっと彼に与えられ続けている。
 私はその瞬間に衝動的にある言葉を発しそうになったが踏みとどまった。言うべきではないという理性が残っていた。そして例え伝えても、彼はそうしないだろうと思えた。
 その言葉を呑みこみ、むしろ私の方が奪ってる気がすると小さな声で伝えると彼は逆に表情を緩める。何故か彼は「かわいいね」と甘やかな声を私に囁いた。
「全部あげる」
 彼の瞳を見つめながら、私は、心から伝えた。私に出来ることはそれくらいで、自分で口にして耐え切れなくなって腕を彼の首に伸ばして縋る。だから、彼がどんな顔をしていたのかは分からない。
「大好きだよ」
 また涙声になった私のことを彼はその両腕で彼は抱きしめ直してくれた。彼の腕の中で、永遠を望みながら、私は目を閉じる。
 渋谷から戻らない彼を待つ月日は恐ろしく永く感じたのを記憶しているのに、その日が訪れたのは早かった。彼を見送った≠と、私は、渋谷で災害が起こる前に彼によって与えられた住居で、渋谷から帰って来る彼を待っていたように、彼が帰ってくることをずっとずっと待った。そうして待ち続けて、チャイムが鳴った瞬間に私の体は勝手に震えた。予感があった。彼は、チャイムを押さない。
 震える手足を動かして扉を開き、玄関の前に立っている人影と目があう。額の大きな傷が目に入って、それからその表情に深く息を吐いた。彼が言った体をあげる≠ニいう言葉の正しい意味をその瞬間にようやく私は理解をした。
「憂太くん?」
 無意識のうちに呼んだ名前に、目の前のその人が、私の愛している人と同じ姿をした人が、目を丸くする。彼のする驚いた表情とは違う表情だった。憂いの滲む表情に彼の顔はそういう表情も浮かべるんだなと思った。彼そのものなのに違う≠ニいうことがはっきりと分かった。
 私が呼んだ名前を、彼の姿をした憂太くんは苦しそうな顔で肯定する。私はその様子を見ながら躊躇いを見せる憂太くんを家の中に招き入れた。
「憂太くんはコーヒーが飲めたよね?」
「……はい」
 座るように促したあと、淹れたコーヒーを憂太くんの前に出すと、俯くように視線をさげていた憂太くんは絞り出すような声でお礼を言った。
 それからすぐに憂太くんは顔をあげた。彼の顔をした憂太くんの眉間には力を入れられすぎて皺がよっていた。
「五条先生の体をもらうことを僕が言い出したんです」
 そう切り出した憂太くんは彼がどう戦ったかから、彼を助けるために自分の力が及ばなかったということも、自身の命が尽きるその前に彼の体を継いでこうして生きているということも、――そうしてたくさんの人が死力を尽くして終わらせることが出来たのだと、すべてを説明した。私の知らなかった彼の親友の話についてまで触れたその説明は、含まれる事実は正しくてもきっと自責的な説明なのだろうなと憂太くんが作る険しいままの表情を見ながら、思った。憂太くんの出す声は彼のものなのに、その声もまた彼とは違うように聞こえた。
 憂太くんの言葉はあくまで説明であって、彼に対する気持ちを詳細に話すというものではなかったのに、そうして聞いているだけで憂太くんがどれほど強く彼を思って考えてくれたのかがよく分かった。だからやっぱり憂太くんでよかったなと思った。視界が狭まり、現実に追いつききれないまま本当は白く霞んでいた頭の中で、思った。
 ひとしきりの説明を終えた憂太くんの言葉が途切れた時、ここに来てくれた時から憂太くんに伝えてあげたかった言葉を私は口にした。
「憂太くんにあげるんだって本人からちゃんと直接聞いてたよ。……憂太くんはきっと気にしちゃうだろうけど、私は憂太くんにそうしてもらってよかったと思う」
「怒らないんですか?」
 なんだか泣きそうに聞こえて私はその手を握ってしまいたくなった。そんなことをしないようにテーブルの上に出していた自分の両手を組む。
「ううん。むしろ私は……。待っている以外、本当になにも出来なかったから」
 組んだ自分の指先に落としかけた視線をあげて、憂太くんが私にしてくれたように私も憂太くんにちゃんと視線を向けた。
「教えてくれてありがとう。凄く凄く大変だったのにその間も、その前から、悟さんのことたくさん考えてくれたんだよね。悟さんのことを大事に思ってる人からこうやって話が聞けたのが……、……誰かが大事に思ってるってことを分かるのが、すごく嬉しかった……」
「……」
「憂太くんの体調は大丈夫?」
「問題ないです」
「そっか。……あのね、憂太くん」
「はい」
「コーヒー冷めちゃったね」
 強く返事をした憂太くんの青い瞳を見たままそう言うと、予想しなかった言葉だったのか憂太くんの肩からはみるみる力が抜けた。
「淹れ直そうか」
「えっ、そんなっ、せっかく淹れてもらったのに。僕、飲みます」
「冷えちゃったからお砂糖溶けないかも。味覚は一緒なのかな?」
 そう問いかけてみると味覚の好み自体が彼の体になってから変わったということを教えてくれた。そうして話していると憂太くんから緊張がいくらかほどけていくのが分かる。
 淹れ直してもう一度出したコーヒーに、憂太くんは「すみません」と謝りながら彼がいつもそうするようにシュガーポットから砂糖を入れて口をつけた。コーヒーを飲む憂太くんを見ながらそうなって困ったようなことはないのか聞いて見る。服のサイズが変わって自分の服が着られなくなったという話をしてくれたので、彼の服ならここにあるから必要なら持って帰ってもいいと伝えると憂太くんは眉をさげて受け入れた。
 それからしばらく話をした。憂太くんはこうなってからまさに彼のように、彼の分まで動いているらしい。
「代わりになんてなれませんけど」
 そう言う憂太くんの表情は悲し気だったが、そう考えながら誰より頑張っているんだろうなと思った。
 いまだ恐ろしく忙しいらしい憂太くん(それなのに私に直接伝えるためだけに来てくれたらしい)と会話を終えた帰り際、彼が使っていた部屋に憂太くんと一緒に入って必要な分の着替えをスーツケースに詰めて渡し、ともに玄関に向かった。扉の前で振り返った憂太くんは同じように三和土に降りていた私を見て、もう一度頭をさげた。
「名前さんにも直接伝えるべきだったのにこうなる前に来れなくてすみません。それにすぐ来れなくて」
 その言葉に首を横に振る。憂太くんには渋谷で起こったという災厄で彼が帰って来られなくなった時にも気にかけてもらっていた。あの時も私の元に一番にそれを伝えに来たのは憂太くんだ。彼が帰って来てからはもっと大変だったのだということは私の元に戻って来てくれた彼本人の様子からも分かっていた。大丈夫だよ、と彼に笑いかける。
 憂太くんが眉をさげる。全く違う顔立ちなのにその表情は憂太くん本来の顔を思い出させた。
 スーツケースを手にかけていない方の憂太くんの腕があがり、憂太くん自身がじっと自分の腕を見つめる。どうしたんだろうと思った次の瞬間、その腕は私の肩を掴んで憂太くんのものとなった胸元へ抱きよせた。何故かそうしたはずの憂太くんが驚くような声をあげる。
 私はその腕に抱きしめられながら胸の鼓動を聞いた。心臓がちゃんと動いていて、生きている、と思った。聞いたこともないくらいにその鼓動は早かった。
「……早いね」
「……五条先生はこんなにドキドキしたりしなかったですかね」
「私が転んだりするとびっくりしてたかな……。信じられないものを見る目をしてて……」
「ああ……」
 納得した声を出す乙骨くんに思わず笑った。私は憂太くんの前でもそうやって助けて貰った心当たりがあったから、思い出したのかもしれない。憂太くんの顔を見あげる。
「触ってもいい……?」
 囁くと小さく頷かれる。私はつま先立ちになって彼の額に手を伸ばした。その額に触れてみる。
「傷は痛む?」
「見た目だけです。もう痛くもありません」
 指に伝わってくる大きな傷跡の感触を自分の痛みのように感じて、囁きかけるように問いかけると憂太くんはそう答えてくれた。
 私はそっと手を離した。そうしておろした腕を、迷いながらも憂太くんの背にまわす。そうすると私の背中にまわっていた腕の力が想像を超える強さで大きくなった。
 彼にもされたことがない力の強さに、それでも私は憂太くんのことを抱きしめていた。力がこめられているその腕は震えていて、憂太くんが震えているのだと分かった。
「……」
 なにかを言ってあげたかったが私は憂太くんになにも言えるはずがなかった。彼のためにも戦ってくれて、彼の為に自分を捧げるような決意をして、それを貫いた憂太くんに、今も頑張り続けている憂太くんに、私なんかがなにを言えるだろう。だけど伝えたかった。
「憂太くん」
「はい」
「こうやって心臓の音を聞けて良かった。聞かせてくれてありがとう。憂太くんが生きて帰って来てくれて嬉しい。……本当に良かった」
 その心臓は彼の鼓動であり、憂太くんの鼓動だ。本心からの言葉を囁くと、腕の力がまた強まる。全力じゃなかったことに対する驚きの感情を俯瞰するように感じた。最後に抱きしめあってから手を離すと憂太くんはまた顔を見に来てもいいですかと聞くので私は当たり前だよと笑った。
 彼を見送ったあと、私はリビングに戻りテーブルを片づけようとした。自らの分のカップを持ちあげようとしたその指が、次の瞬間に手の中から中身ごと滑らせる。口をつけられずに並々と注がれたままの中身が床にもテーブルにも私自身にもかかり、地に落ちたカップが悲鳴のような音を立てた。
 砕けたカップを見おろしながら私は立っていた。憂太くんの前で行ったまともな振る舞いを忘れたように体から力が抜けていた。惰性でしゃがんでからなにも考えずに割れた破片を握りしめた。粘度のある赤い液体が手のひらに伝う。
 コーヒーや血のついた衣服を放っておけば汚れはとれなくなる。早く手を開かないと破片はもっと食いこむだろうとも想像出来た。だからなんだって言うんだろう。
 私が怪我をするとその傷を撫でて「傷なんて作らないでよ」と言う彼はいないのだ、と思った。私がただ待っている間、彼はどれほどの痛みを感じて戦っていたのだろう。
 もう立てなかった。立てるはずがなかった。今更全身が震えている。私は床に崩れ落ちたまま、ようやく手を開き、自分の顔を覆った。手のひらが痛んでいるのが分かったがその感覚は遠く、現実味がなくて、夢の中にいるみたいだ。
 そして私は、彼に自分をあげることも出来ず、彼自身の体を与えられることもなく、彼を失った代わりに何もしなくても一人で生きていける人生を彼によって用意されていたことを、彼がいなくなってから知ることになった。

「靴も必要じゃなかった?」
 あれから憂太くんが本当に私の顔を見に来てくれた時、あの日に思い至れなかったことを問いかけると憂太くんは少し目を丸くした。そして、学校にも彼の私物が保管されていたのでそちらを使わせてもらっているのだと教えてくれた。憂太くんは渡した衣服を私に返してくれた。
「あの日、何も考えずに受け取って帰ったけどこれも名前さんに残されてたものだったなって思ったら返すべきだと思いました」
 でも凄く助かりましたとほほ笑む憂太くんは最近になって今の衣服や靴のサイズを覚えたという話もしてくれた。
 衣服以外の私物も学校に置かれているらしい。私を連れて行くことは難しいけどこちらに持ってくることは出来ると教えてくれた。
「五条先生のものでも名前さんにどうしても渡せないのもあってそっちは五条先生の実家の方も手をあげてるみたいなんです。でも私物の方なら五条先生もきっと名前さんに渡していいよって言うと思うから」
 むしろこちらから頭を下げて頼まなければいけないことだったと思いながらお願いした。よかったと顔を綻ばせる憂太くんに、私の顔も自然と笑みをつくる。
 記憶の中の彼も常に忙しかった覚えがあったけど、今だ落ちつかない情勢もあって憂太くんもかなり忙しいようだ。その中で彼の私物の件が終わったあとも、憂太くんは目に見えて私を気にかけていた。
 あの日を境にカーテンを引いたままの部屋の中でただ眠るような暮らしをしていたが、憂太くんが私に会いに来る時や外で約束をした時だけ、自然とまともな振る舞いをすることが出来た。憂太くんと会う瞬間だけ、私は以前のままだった。
 私がおかしな言動を彼の前で見せればどれほど憂太くんが心を痛めるのか、そして今以上にない時間を割こうとするだろうということが分かっていた。私の理性はそうなることが絶対にないようにするためだけに使われていた。
 その日の気温はあたたかく、外で会う予定の為に気温を確認して用意した薄手の服装でも実際にもう寒くはなかった。頬に触れる空気の温度に、去年の秋から冬にかけて続けて起こったあの″ミ厄からの復旧のニュースの狭間で桜の開花を告げるニュースがされていたのを、スマホを確認した時に目にしたのを思い出す。
 憂太くんとの待ちあわせの場所へ向かうために歩きながらその季節の変化に、私はクリーニングに出す必要のあるもののことを考えていた。意図して考えようとしなくても習慣として勝手に頭に浮かぶのを他人事みたいに感じたしほとんどどうでも良い気持ちにもなっていた。
「名前さん!」
 そんな風に意味もなく息をしているだけの私の名前を、憂太くんが遠くから、弾む声で呼んだ。声のする方に視線を向ける。憂太くんの背後には桜が咲き誇っていて、その時に初めて私は桜が咲いているということに気づいた。輝くような空の明るさに本当に春が来たんだなと思った。
 憂太くんのものとなった光に透ける髪を春の日差しが照らして、桜以上に輝かせている。その姿をした憂太くんが私の元に駆けよって来る光景に、いつかの光景を、私は見て≠オまった。
「……憂太くん、早かったね」
「早くに予定が終わったんです。行き違いにならなくてよかった」
 足元からぐらつく感覚に襲われていたが、私の口はいつものようにまともに聞こえる言葉を紡いだ。
 すると、憂太くんの手が私の髪に伸ばされる。ひそかに息を呑んだ私を前に、憂太くんはその指先で髪の表面に触れてすぐに離した。憂太くんの指先には花弁がつままれていた。
 綺麗ですねと言って憂太くんが笑う。いつも見ることが多い、困ったような笑い顔とは違う純粋な笑みだ。私は桜よりも憂太くんを見ていた。
 花弁を風に渡した憂太くんが桜を見あげる。今まで感じたことがなかったのに、その横顔が彼そのものだということに私は気がつく。
「名前さん?」
 私を呼ぶ憂太くんの声に私を呼ぶ彼の声が重なって、耳の奥でリフレインする。甘さを帯びた声が、私のことを呼んでいる。幻だと理解しているのにその声に引き起こされるように一緒に歩いた桜の景色が目の前に重なる。彼が私に笑いかけた表情が、桜の下で私の髪をいつものように撫でたその手の感触が、あのやわらかなまなざしが、私を支配する。
 強い眩暈とともに笑い出した膝から崩れそうになった私の腕を憂太くんは倒れこむ前に掴んだ。ふらつく足で地面に立っている私の肩に、憂太くんが手を添えて支えてくれる。
「……憂太くん、ごめんね……」
「大丈夫ですよ。ちょっと休みましょう」
 憂太くんは私を近くのベンチに連れて行ってくれた。私を座らせたあと、なにか飲みものを買ってくると言ってくれた憂太くんの腕に私は無意識に縋っていた。ハッとしてすぐに手を離した私の前に憂太くんは膝をついてしゃがみこみ、「傍にいます」と真剣な顔で答えた。
 その表情はもう彼とは重ならなかった。本来の憂太くんがこういう時に浮かべる表情を思い出してふっと泣きたい気持ちになった。
 堪らなくなって、どうかと思うような小さい声でもう一度謝ると、憂太くんは安心させるように「大丈夫です」と言ってくれた。
 そして憂太くんが私の手を見ていることに気がつく。膝に置いていた私の両手は、震えていた。
「触っても平気ですか?」
 黙ったまま頷いたのを確認した憂太くんがその両手で私の両手を握ってくれる。肩に添えられた時も思ったけどその手はあたたかかった。
「大丈夫です」
 憂太くんは私のために「大丈夫」と繰り返してくれた。そうなることを一緒に願ってくれるような言い方だと思った。その声の真摯さに、彼が「大丈夫」だと言う時はいつも断定するように、わざと軽く言うことを思い出した。安心させるためにそんな風に言う人だった。
 「名前からはもう奪いたくないな」と言った彼の言葉を思い出す。彼は私が失うことを知っていたんだろうか。――彼自身が奪われることを。
 もう大丈夫だと伝えるために憂太くんの名前を呼んだ。私の手を握っていた憂太くんの手の力が緩む。冷えていた私の指先は憂太くんに包んでもらったことで今はあたたかな熱を持っていた。私のために「大丈夫だ」と言ってくれたことが嬉しかったから「ありがとう」と心から告げる。いつものようにちゃんと笑えたはずなのに、憂太くんは何故か悲しそうな顔をした。
 その素直な表情に頬を撫でてあげたくなって、自らの手のひらを握りしめる。そうして優しくされながら、地面から足が浮いているような、ここにいるべきではないような気持ちになった。でもどこにいたって、どんな場所にいたってそう感じるんだろう。どこにも彼はいないのだから。
 憂太くんが綺麗だと言っていた桜もあっという間に散ってその影すらももう見えない季節のある夜、憂太くんは私の元に訪れた。憂太くんが連絡をせずに私の元に訪れたのは初めてのことだった。
 玄関の扉を開けた私に、憂太くんは険しい顔をしたまま「入ってもいいですか?」と尋ねた。憂太くんからそう言うこと自体も珍しかった。
 もちろんと頷いて中に入るように私が促した先で、テーブルに広がったグラスと瓶を見た憂太くんは私が飲酒していることに気がついたようだった。憂太くんはそれまで浮かべていた険しい顔を消してびっくりした顔をした。
「名前さんってお酒飲むんですね」
「うん」
 初めて知った、と何故かしみじみと憂太くんが言うので私は思わず声をあげて笑った。私がそうやって笑ったことにも憂太くんは驚いているようだった。
 私の対面に憂太くんに座ってもらって、いつものようにコーヒーを淹れて出した。憂太くんはカップを見おろしながら、少し言いづらそうに口にした。
「名前さんに話があって、それについて話をしに来たつもりだったんですけど、でも」
「お酒飲んでたのタイミング悪かったね。ごめんね」
「僕が連絡しなかったのが悪いので……」
 憂太くんの話≠ニは真面目なもので、アルコールを飲んでいる人間にする話ではなかったのかもしれない。相変わらず忙しい間に来てくれただろう憂太くんに申し訳ない気持ちになった。
 残っていたお酒をグラスを煽って飲み干す。それ以上飲むつもりはなかったけど、憂太くんはじっと私の手元を見ていた。
「憂太くんも飲んでみる?」
「えっ」
「甘いのが好きならきっと味は好きなんじゃないかなあ。ああ、でも悟さんと同じだと舐めるのもダメかも……。どうなのかな」
 ショットグラスに少しだけ注いであげると、迷った様子を見せたあと憂太くんは手をつけた。そしてすぐに噎せた。私は違うグラスに水を注いで差し出した。
「確かに甘い、ですね……」
 苦々しいその表情は以前に彼が私の前で誤ってお酒に口をつけた時と全く同じものだった。水を飲んだあと、それからすぐに治した≠轤オく、染まっていた赤い頬が白く戻っていく。それすらも彼と同じで、私はなんとなくおかしくなる。
「名前さん、これが飲めるの凄いですね」
 まるで本当に凄いことをしているように憂太くんは褒めてくれた。褒めながら砂糖を入れたコーヒーを口直しに飲んでいる様子を見て、私はついほほ笑む。そうやって誰かを素直に褒められる憂太くんの方がよほど凄いに決まっている。
 私もそれ以上はお酒には手をつけず、自分のグラスに水を注いだ。
「悟さん、飲めないのにお酒もらって帰って来ることがあって……。ずっと置いたままにしておくより私が全部飲んじゃおうかなって思ったの」
 悟さんといる時は増える一方だったけど、飲みだすととやっぱりいつかはなくなっちゃうねと口にしてから、その口の中に水を入れてお酒の後味を流しこんだ。
 彼といる時に私はお酒を飲まなかったし、彼は連絡がなくてもここに帰って来てくれることがあったのでその際に酔っているのは惜しかったから、特にこの住居に住むようになってからは、私一人の時間でも機会は全くないものになっていた。
「名前さん。……あの、お酒だけじゃなくて他のものも減ってますよね」
 部屋の中に視線を向けるような仕草をすることもないまま、私だけを見て憂太くんがそう言う。よく気づくなあと思いながら頷いた。確かに幾らかのものは処分したけどそれ自体の数は多くはなかったし小さいものだった。私個人のものや私が選んだものだけを片づけたので大半の大きな家具はそのままだったし、大して見た目も変わっていない。
 彼が家に持ちこんだいろんなものがこの家にはよくあった。お酒自体や憂太くんに渡したショットグラスもそうだった。私の物や彼の思い出がないものだけが片づけられ、今のこの家にはそういうものだけが残っていた。
「いろいろ片づけようと思ったんだけど結構時間がかかっちゃった。でももう少ししたら終わるかな」
「……」
「悟さんが残したものは全部残ってるんだけどもし欲しかったらなんでも言ってね。悟さんのもの、憂太くんがもらってくれるなら嬉しい」
 彼のものは憂太くんが返してくれたものも含めてすべて大事に思えた。彼の残したものを見ると、彼がいた瞬間の色のある思い出が刹那の間だけ私の眼裏に蘇る。でも、大事だと感じた上で、憂太くんにならいいと思った。憂太くんが強く彼を思ってくれていることを知っていたから。その気持ちが私はいつだって泣きたくなるくらい嬉しかったから。だから、憂太くんなら、良かった。
 彼は血生臭い§bを私にはけしてしなかったけど、代わりに、彼が受け持った生徒の話は時折話してくれることがあった。憂太くんと顔をあわせた時に「本物の生徒さん?」と素直にびっくりした私の額を「どういう意味?」と彼は優しくつついた。それを目の当たりにした憂太くんあの困った顔を今でも覚えている。
「本当に、なんでももらっていいんですか?」
「うん。憂太くんに服を私の判断で渡したけど、あれだってきっと悟さんがいたら、好きなの持って行けばって同じように言うと思うな。……なんでもあげちゃいそう」
 本人からも憂太くんに必要になったらしい私物をあげた話を聞いたことが実際にある。憂太くんだけじゃなく、誰かにものをあげることに躊躇がないようだった。
 彼の執着を私は感じたことがない。彼はたくさんのものを持っていたけど、彼にとって本当に手離したくないと感じているものは少なかったように思えた。そしてそういうものでさえ、必要があるならどんなものも彼は手離すのだろうと私はたびたび想像をした。
 彼に慈しまれて、大事にされて、優しくされて、そうして愛された時、私は嬉しかった。でもそうされるたびになんだか寂しくなった。その愛情にはいつか≠フ別離の予感を孕んでいるからだと分かっていた。それでも私は彼のものでいたかった。
 大好きだから、傍にいたかった。大好きだったから、いつか≠ネんて永遠に来なければいいなってずっと思ってた。でも一緒にいられるならなんだってよかった。大好きだから、寂しくても、それでもよかった。
「自分のものにもそうだけど、……きっと自分自身にも執着してなかったから、だから見てるともどかしいよね。こっちが大事に思っても伝わってないかもって思っちゃう。 なんてね……」
 憂太くんは言葉少なにそれを肯定した。私は彼の顔をした憂太くんの顔を見つめた。
「でもそれは憂太くんもだよ」
「えっ」
 急に話題を振られた憂太くんが困った顔をする。困った顔を憂太くんがすると、同じ彼の顔なのに特別に優し気に見えた。憂太くんが浮かべることによって新鮮な表情になるのを見るたびに私は以前の憂太くんの姿を思う。彼の顔に私のよく知っている本来の憂太くんが重なる。
 持っていたカップを置いた憂太くんは眉をさげたまま私を見つめ返した。
「名前さんもそうだと思いますよ」
「そうかなあ」
「きっとみんな似てるってことですね」
「私だけかなり違う気がするかも……」
 そのあとも話をして、それから憂太くんに今日は泊まってもらうことになった。既に深夜をまわっていたし、すぐに帰らなければいけない都合がなければ休んでいってほしいと私が勧めた。
 憂太くんの忙しそうな様子に、本人の着替えもあるし部屋もあるのでこの家をホテルの代わりのように使っても構わないと伝えたことがあったが、なされたことはなかったので、これも初めてのことだった。
 彼の部屋を案内したあと、浴室について説明をして歯ブラシや着替えだとかを渡し、既にシャワーを浴びていた私も歯を磨いて部屋に戻る。
 残っていたお酒を最近は毎日のように飲んでいたがそうしていても大して酔えなくて、すぐに頭は冴えた。意識が冴えて眠れないまま一人きりであることを噛みしめるのは辛かったけど今日は楽しかった。憂太くんとこんな風に話が出来て良かったなと思う。
 彼が帰って来なくなってから、私はまず彼が開けたままだった物に手をつけた。次に未開封で残されていた嗜好品を食べた。私以外食べる人がいなくなったものを、すべて、彼を思いながら食べた。時間をかけて、戻さないように、食べた。
 彼が頼んでいたらしい、本人も食べる予定だった通販のデザートだとかが何度か届くことがあったから、それもちゃんと食べた。憂太くんが時々来てくれた時に一緒に出して食べていたのもそれだった。その頻度もほとんど落ちて、今はもうなくなってきている。
 だから、この家に残っている私が口に入れなければいけないものはあとはお酒くらいで、それももう少しで終わるところだった。私は引き出しにしまっていた渡された&rを取り出し、ベッドに腰かけたまま手のひらの中で振ってみる。透明な瓶の中には血のような液体が詰まっていて、閉ざされた蓋にはしっかりと封がなされている。この家ではない場所で一人きりで開けるようにと言われていた。
 照明に透かすようにそれをかざす。魅了されるようにそれをじっと見つめた。片づけ終えたら=Aやっといつでも終わりにすることが出来る。
 その瞬間、扉が開かれる。目にした光景に彼がそこに立っているのだという錯覚を、私は一瞬だけ、した。
 次の瞬間には憂太くんはベッドに乗りあげて私の手からその瓶を取りあげてしまった。そしてその瓶の中身を見つめると顔を歪めた。握りしめられた憂太くんの手の中でガラスが割れる。開放された中身がそこからこぼれる、と思ったと同時に蒸発するようにすべてが消えてしまった。代わりに砕けたガラスが床に落ちていく。
「やっぱりそういうつもりだったんですね」
 聞いたことがない憂太くんの重い声を前に、それでも私の心臓は平静なままだった。一生分の感情を使ってしまったように、あの日から、私の心臓はずっとそうだった。どんなに苦しくても彼の前で流したような涙は二度とこぼれなかったし、彼と見て綺麗だと思ったことのある桜を見てもただの景色にしか見えなかったし彼と一緒に食べて美味しいと感じたことがあるものを口に入れても砂を噛むような苦痛しかなかった。
 でも、憂太くんといるのは楽しかったなと思う。憂太くんといるとその間だけは本当の自分が死んだように生きていることを忘れた。虚しさすらも紛れた。
「名前さんにわざわざ会いに行ってる五条先生の家の人がいるって聞いたんです。でも五条先生は名前さんに必要以上に近づきすぎないように言ってたはずなのに、絶対おかしいと思って……。だから今日は話がしたくて……。……渡された≠ですね?」
 憂太くんはそう尋ねながらも確信しているようだった。
「何を言われたんですか?」
 言われた言葉が頭の中を巡ったが、憂太くんに伝えるべきだとは思えなかった。憂太くんに言えば傷つくと分かっていた。 
「この家では開けないようにって言われた。意味がない≠チて」
「……この家には五条先生の残穢があるから? 外で殺すために?」
 わざとズレた言葉を返したつもりだったけど憂太くんは顔色をもっと変えた。ざんえ≠ニいう単語の意味は私には分からなかったが、憂太くんはそれを気にしていなかった。自分自身の中でだけ確かめるような言葉だった。
 憂太くんはそれから深く息を吐いて、あの瓶の中にあった液体が呪霊を呼ぶものだったということをわずかに震えた声で教えてくれた。私が外で一人で開ければ恐らくよってきた呪霊に殺されていただろうことも。
 憂太くんは私の隣に腰かけたまま顔を手で覆ってしまった。大きな背を丸めるような仕草は傍から見ているだけの人間にすら移るような苦しさが滲んでいた。私は思わず憂太くんの名前を呼んでいた。安心してほしくて「大丈夫だよ」と伝えると憂太くんは大きな声をあげた。
「名前さんは殺されかけたんですよ」
「そうじゃないよ」
「何がそうじゃないんですか?」
 憂太くんが顔をあげる。その顔には声と同様に怒気が滲んでいて私のために憂太くんがこんなに感情を荒らげてくれることに不思議な気持ちになった。くすぐったい気持ちにすらなった。
 私が望んだのに、それに気づいてるのに、「殺されかけた」と言ってくれることに、そうやって憂太くんに心を与えられていることを確かに嬉しく思った。
「名前さんは、死にたいんですか……?」
 憂太くんがもう一度私の名前を呼び、なにかを言いかけようとする。でもその前に憂太くんの腕が持ちあがり、私に伸ばされる。あの日≠フように、憂太くんが驚いた声をあげ、その手は肩ではなく私の喉を掴んだ。
 そのまま体重をかけてベッドに押し倒される。私の首にかかった手によって強い力で絞められながら彼の体≠見あげる。信じられないものを見ているような憂太くんの表情とは裏腹に、腕には力がこめられていく。
 彼と出会った日からの思い出が走馬燈のように頭を巡った。それから、彼が憂太くんに体をあげるという話をした日が脳裏に映った。今の光景に、記憶に残された私が見上げた彼の姿が重なり、それから発しかけて言えなかった言葉を思い出す。私は置いて行かれるならその手で殺して欲しい≠ニ言いたかったのだ。彼に生きていて欲しかった。彼と一緒にいたかった。それも叶わないなら貴方に私を終わりにして欲しかった。
 そもそもまともに抵抗出来るはずもなかった体から完全に力を抜いて、私は受け入れることを選んだ。手のひらを私の首を絞める大きな手に重ねる。その時、彼≠ニ目があった気がした。彼≠ネのだと分かった。その瞬間に手にこめられた力がそれまでとは一線を越えて、本気の力≠ノなった。
 暴力的に強められた手のひらの代わりにもう一つの手が私の頬を優しく撫でる。良く知ったその撫で方に凍りついていた涙がこぼれた。私を呼ぶ特別に甘い彼の声が頭の中で反響する。
 嬉しかった。私はずっと貴方にこうやってあげたかった=Bずっとずっと貴方の傍にいたかった。だからそれが命でも欲しがってくれる≠フが嬉しい。彼がいなくても生きていけるようになんて望まれたくなかった。
「やめてください!」
 憂太くん≠ェ叫んだ瞬間、私の首から手が離される。力の抜けた体は、それまで私の首を絞めていた腕で力いっぱい抱きしめられた。憂太くんの抱擁は彼の抱擁よりも強くて全身が軋む。憂太くんに初めて抱きしめられた日を思い出す。
「僕は名前さんのことまで失わなくちゃいけないんですか?」
 そう言った憂太くんの頬は濡れていた。頬同士が触れて私以上に憂太くんが泣いているのだということに気がついた。
 憂太くんにそう言われてしまったのを理解した時、もう私は今までのように消えてしまいたいと考えることを望めないと思った。憂太くんからこれ以上奪いたくないと≠ニ思ってしまったから。こう思う気持ちを彼も私に少しでも抱いてくれていたのだろうか。
 いつもの間にか唇同士が触れあい、重ねるだけのキスをした。憂太くんが必死なのが伝わって来て素直に愛しいと思った。
 嗚咽に近い憂太くんは苦しそうな声をもらして私の首を撫でた。さっきとは違って優しく触れる指先に、手を離されても残っていた息苦しさがあたたかな熱を与えられて消えていく。憂太くんが落ち着くまで私はそうして抱きしめられるままでいた。
 しばらくして憂太くんは私の体を抱きしめていた腕からゆっくりと力を抜いた。そして互いにベッドに横になって向きあったまま、動けば額がぶつかる距離で、むき出しの私の腕をその手で撫でた。
「……赤くなってる」
 憂太くんは私の袖を持ちあげて痕が衣服の下にもあることを目視すると私のことを改めて優しく抱きしめる。さっきは首だけに与えられていたぬくもりに全身が包まれ、痛みが薄れていった。
「手加減して抱きしめたつもりだったんです。五条先生はどれだけ加減してたんだろう……」
 その言葉で気づいた。同じ体なんだから憂太くんの力が強いわけじゃなくて、彼が殊更優しく私に触れていたのだ。
優しく$Gれられていることを知っていたはずだった。でも私がそう考えていたよりも、彼はもっともっと優しく触れたいと考えて触れていてくれていたのかなと、今更思った。
「この体をもらった時に五条先生の記憶も一緒にもらいました。だから僕は、五条先生が名前さんのことを大事だったって知ってます。記憶がなくたって分かることだけど」
「……そうなのかな」
「そうです。五条先生って名前さんの話を僕にも話すことあんまりなかったんです。他の人にも。五条先生にとっての大事な誰かってきっと人に詳しく話すようなことじゃなかった」
「……」
「僕が五条先生の体をもらうって話をした後だったから、あの日に名前さんは大丈夫ですかって聞いたんです。五条先生は僕のこと心配して泣いてて可愛かったよって笑ってました。その時に名前さんは五条先生が大好きだから五条先生の前でだけ泣くんだなって思った。記憶をもらったらもっとそう思いました」
 「大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言わなくて済むように、僕の前でも泣いてもらえるように頑張るから」、憂太くんが、切実な声で私に囁く。私は自分の体にまわっていた憂太くんの腕を外して手を繋ぎ、抱きあうことで交差していた視線をちゃんとあわせた。
 憂太くんの言葉が誠実だと分かるからこそ、その誠実さに報いたかったのにどうすれば正しいのか分からなかった。憂太くんが私を大事に思ってくれていることが痛いほど分かっても、その気持ちが嬉しかったのに、嬉しかったから、そんな価値ある気持ちに返すものを私が持ちあわせていないことに苦しかった。
 私は迷いながらも口を開いた。
「憂太くん、……ごめん。ごめんね。ずっとずっといっぱい迷惑かけて」
「迷惑なんてかけられてないし、かけたっていいです。一人で死のうとされるよりもずっと」
 憂太くんは私を見て真っ直ぐにそう言った。躊躇がない真っ直ぐなところが、憂太くんのそういうところが、いつだって眩しかった。
「悟さんのこともたくさん背負ってくれたのに私のことまで背負わせてごめん。……でも、ありがとう」
 私は憂太くんのまなざしに、憂太くんが私に生きていて欲しいと願っていてくれることをその時に初めて正しく自分の中に呑みこむことが出来た。
 私は自らの死んだあとの話を彼が笑ってすることが辛かったけどそう伝えなかった。ただ生きていてくれるだけで嬉しいと思っているということも、それを口にした瞬間に損なわれる未来を想像してしまって伝えられなかった。でも言えばよかったと思う。憂太くんがそうするみたいに、伝えるべきだった。
 その言葉が過去を変えることは出来ないのだとしても、伝えられることはこんな風に嬉しいことなのだから。それだけはきっと紛れもない事実なのだから。
「名前さん」
「うん」
「五条先生のものをなんでももらっていいのなら、名前さんをください。名前さんが欲しいです。ちゃんと大切にします。だからそんな風に簡単に捨てないで」
 憂太くんがしている強張った顔に、憂太くん自身だって告げたくなんてなかっただろうことを私に告げに来たあの日をまた思い出した。
 私は両手を憂太くんの頬に添えた。顔をよせて、憂太くんの額の傷にキスをする。桜の下で、憂太くんが私の手を握って「大丈夫」だと囁いて願ってくれたように、貴方がこれ以上なにも喪いませんようにと心からの祈りをこめた。
「明日の朝、私がコーヒーを淹れたら、また飲んでくれる?」
 憂太くんの前で自分から未来の話をするのは、あれ以来、なかったことだったと思う。憂太くんが腕を伸ばし、私を抱きしめる。縋るみたいに抱きしめてくれる、「はい」と答えてくれた憂太くんの声は震えている。頑張るなんて言わなくたって私の目も既にまた潤んでいた。憂太くんはもうずっと頑張っている。
 あの瓶≠渡された時に、憂太くんが彼の仕事を立場ごと継ぐ形になっていると改めて知らされていた。その言葉やあの瓶を渡されたのは私のような人間のために煩わせ続けるなという意味でもあった。
 憂太くんの肩にはあれから、今この瞬間すらも、ぞっとするような重さがかけられている。まともな人間には耐えがたい重圧がかかっているということを他人に見せる振る舞いをしないところに酷い既視感を覚えていた。
 憂太くんと彼を似ていると思ったことは、憂太くんがその体を継いでからだってなかった。彼等は全く別の男の人だった。でも憂太くんが彼になった時、憂太くんはいろんな意味で彼に近づくことを選んだのかもしれない。彼等にとってはそうあることが普通≠ネのだろうか。
 彼といる時と同じ寂しさが胸を締めつけるのを感じながらそれでも私は憂太くんを力の限り抱きしめ返した。私が憂太くんのために出来ることは結局それくらいしかなかった。それでも憂太くんのためにそうしたかったから、抱きしめる。憂太くんの傍にいることを私は自分の意志で決めて、選ぶ。
 永遠はなくいつかは必ず喪うのだということを既に身をもって知っていたけど、それでも憂太くんと一緒にいられる時間が永くあることを願いながら、私は目を閉じた。

ねむりのあとの世界のこと

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