NOVEL | ナノ

「おかえり、五条くん」
 そう言って名前はいつも≠フように部屋に俺を迎えた。その恰好は時間が遅いせいか着替えられていて、纏められていた髪も下りている。
 差し出した袋の中身を見た名前が「あっ、本当に買ってきてくれたの?」と声を弾ませたので、むずがゆい気持ちになった。
「歯磨きして寝ちゃうところだったからまだしないでよかった」
 俺が座ると名前も隣に並んで座る。ご飯は食べた? と聞かれたので済ませたことを話した。
「じゃあこれから一緒に食べられるね」
 そう言って名前は袋から中身を出して手を拭くと、以前自ら口にしたようにアイスにクッキーをつけて俺の前に差し出した。名前の手に口を寄せてそのまま齧る。
「美味しい?」
 口の中でクッキーのチョコとアイスの濃い甘さが混ざる。舌に甘さが絡みつくような味だった。咀嚼しながら名前の口にも同じように入れてやった。
「わー、甘いね」
 小さい口を動かして口の中のものを飲み込んでから、名前はそう言って笑った。俺も嫌いじゃない味だったけど、名前がそうやって笑った顔の方が印象に残った。
 畳みに足を投げ出すように座っている名前の浴衣の裾から見える足首の生白さが照明に照らされてもっと白く見える。名前の薄い足先を見ていると口の中が余計に乾いてペットボトルを開封して一気に仰いだ。
 敷かれている一人分の布団が視界の端にずっとちらついている。名前は言葉通りに寝る寸前だったようだ。
 髪を下ろした姿も浴衣も目の当たりにしたことくらい今までもあった。この家でも既に何度か見ている。それでも、閉じられたこの部屋で防御力がなさそうな、隙間から手を突っ込んだら簡単に全部脱がせられる様子を想像させる、気を抜いた姿を見るとその度、無性にざわついた。
 俺が話さないからか、今日は代わりに名前が話をしている。名前はこの家に来てからも、閉じられている部屋に俺と二人でいることに全く頓着していないようだった。
 名前が俺の顔を見上げて首を傾げる。
「疲れてる?」
 布団で休みたい? と、名前が俺の視線の先を確認するように視線をやりながら言う。
 部屋に二人でいて男が布団を見てたら少しは違う考えになるんじゃねえのと言ってやりたかった。休みたいかという問いは名前にとってはそれ以上でもそれ以下でもなく言葉のままなのだということをこの部屋で一緒に過ごすようになって痛感させられていた。
 俺が名前のその細い手を引っ張って布団に引きずり込むシーンを思わず頭に思い浮かべた。この家には許可された人間以外は訪れない。唯一近くにいる、この家自体に侍っている人間も俺の家≠フ人間で、名前がどんな風に声を上げても「入って来るな」と俺が言えば従うだろう。俺がそうすればその前に名前は呪霊によって死を迎える。意味のない考えだ。だから名前はこんなに無防備でいられるのか? されることがないと思っている?
 何度となく感じた疑問を覚えながら、それでも名前を見ていると言いたかった言葉がいつものように口から出る前に消える。名前の心配そうな目を見ると自分ばかりが動揺している気がして面白くない気持ちすらもまあいいかと誤魔化される。名前の目を見たまま「全然」と答えて手の中でとけかけていたアイスをカップごと仰いで飲み干した。
 それから時間を見て話を切り上げ、玄関から帰ろうとした俺に、名前は何かを部屋から持って来ると俺の手に握らせた。手を開くと数個の飴玉があった。
「やっぱり疲れてるみたいだから。いつも来てくれてありがとう」
 元々五条くんにもらったものだけど、眉を下げて名前はそう続ける。形容しがたい気持ちで胸が疼いた。咄嗟に腕をその薄い肩に伸ばしそうになって、その前に腕の行先を変えて、名前の頭を撫でる。
「また来るから」
 うん、と名前が嬉しそうに頷く。
「ちゃんと休んでね。おやすみなさい」
 家を出て一番に飴の包みを破いて口に入れた。歯にぶつかってかたい音が口の中に広がる。甘い味に、さっき見たばかりの名前の顔が頭に過ぎった。敷地から出て車に乗り込んだ後もその飴を舐めながらずっと名前のことを考えていた。俺の隣に座って、小さい口を開いて俺が渡したものを食べるその横顔を。あの家で俺を出迎えて、見送る名前のことを。その腹にある名前のものではない呪力を。
 俺が名前と一緒に任務に行けばよかった。そうすれば名前が呪霊に侵されることもなかった。あの呪霊は俺ですら触れていない名前の体の奥に今も居座っている。
 歯の間で飴が砕け、砕けた飴が舌を裂いて血の味がした。
 でもあそこに居る限り名前は傷ついたりしない。死んだりしない、いなくなったりもしない。必ずあそこにいて俺のことだけ待ってる。俺と顔を合わせて話をするために生きてる。ずっとあそこにいればいいのに。ずっとああやって過ごせればいいのに。
 そんな夢を見ていた。つい最近の記憶だ。
 目を開けるとこちらを見下ろす名前と目が合う。つけていたはずのサングラスが外されて、ブランケットがかけられていることに気が付いた。
 俺を見つめたまま、潜めた声で名前が言う。
「時間になってないからまだ寝てても大丈夫だよ」
 名前は俺の顔に手を伸ばすと瞼を閉じさせるように目元を撫でた。すぐにその手が離れていきそうになるのが分かってその前に手を掴んで押さえた。名前の手の中で目を瞑り直す。 
「五条くん、寝ちゃった?」
「……」
「五条くんの髪、きらきらしてる……」
 しみじみとした声を出すので思わず笑いそうになって堪えたが名前は気づかなかったようだ。手を押さえられたままの名前が俺を見ているのが分かった。
 名前のもう片方の手が俺の手の上に重ねられる。やわらかすぎて握るたびに言いようのない気持ちになるから名前の手を引く時に俺はいつも手のひらではなく手首を握っていた。
 重ねられることで押さえるよりその手のやわらかさが鮮明に伝わって来て背中に汗が滲む。この部屋で会うようになってから名前に触れすぎないようにしていた。ここに来てからの名前は特に俺に素直で、可愛くて、必要以上に触れたら自分がどうするか分からなかった。
 そんなことを考えている俺をお構いなしに名前は言う。
「……きっと私の所に来てくれるから疲れてるんだよね」
 思ってもみない言葉だった。
「大丈夫って言ってあげるべきなのに、ここに来てくれるの嬉しくて……。次は言わなくちゃって思うのに。ごめんね」
 イヤイヤ来てるとでも思ってんのかよ。だったら名前の顔を見に、眠っている時間にまでこの家に来たりしない。名前がずっとここで、俺だけを見ていればいいのになんて思ったりしない。ここに来るのはお前がいるからだ。
 なのに名前が重ねた手で俺の手を撫でるから今すぐ飛び起きてやりたかったのに出来なかった。壊れやすいものに触れるようなその手つきで撫でられると苦しくすら思えた。
 しょうがなく、しばらく経ってからため息をついて体を起こした。俺の顔を見た名前が首を傾げて、その膝に置かれているサングラスを差し出す。
「起こしちゃった? まだ眠い?」
 この馬鹿。思わず名前の顔を睥睨した。でもそうして名前の顔を見ていると、名前は俺が帰ってきたら嬉しいんだなと改めて思った。ずっとここに居ろよもう。俺のことだけ待ってろ。
 俺がどうすれば名前をあそこに居させられるのか、ふとした時に考えた。あの呪霊がもし名前の中に在り続けているということになれば? 本気で閉じ込めようと思えば、呪霊でもなんでも、理由なんてどうとでもなる。名前が居るならもうあの場所じゃなくたっていい。俺がそう願うなら、そうすることが出来る。
 俺の手の下で名前が俺を「好き」だと告げた時、考える前に体が動いて抱きしめていた。勢いを考えることもなかったのでそのまま畳に転がる。名前を潰さないようにギリギリのところで庇えた。
 俺の言葉を無視して「好き」だと口にしたあげく、好きだと言って欲しがる名前を抱きしめる。少しは人の話を聞けと思ったが、そう呆れながらも気を抜くとにやけそうになって、見せないように名前の頭を胸元に押し付けた。
 この部屋で名前の体に触れたらどうするか分からない。そうずっと考えていたはずなのに、どれだけ呻いても今更手を離せるはずがなかった。意識がない名前を運んだあの日とは違って名前も俺を抱きしめ返してくる。その腕までやわらかいのだと思った。
 衝動を誤魔化すように、これ以上触れ合うことが不可能であることを伝えると名前は何故かより煽るようなことを口にする。キス出来るならお前が俺を見つめたその瞬間にとっくにしてた。
「お前さ、わざとやってる? ……それとも呪霊のせいでどうせ無理だと思ってるから俺の前でいつもいつも無防備でいられんの? それとも呪霊がさせてる?」
 言葉にすると名前がどれほど(今日だけじゃなくてこれまでも含めてだ)俺の前で無防備に振舞ってきているかを思い出されて、口元が引き攣りそうだった。やっぱりおかしいだろ。いや、ここに来る前から名前は俺に対してそんな感じではあったが、二人しかいない部屋でする言動じゃねえ。
 呪霊がさせていないことは呪力の程度で分かっていたが、そうだった方がマシな気すらしていた。
 分かっていないという顔で俺の言葉を聞いていた名前は、それでも皮肉の籠った最後の言葉にだけ反論をした。
「ずっと前から、この部屋に来る前から、五条くんが好きだよ」
 俺に抱かれながら俺を見てそう言う名前に、考えていたことが意識から遠ざかり、頭の中が白く濁った。
 気づいたときにはギリギリの理性で名前のこめかみに口づけていた。
「口にはしない」
 自分で何を言っているかよく分からないまま口にした。自分に言い聞かせるようなことだった気がする。我慢していた分、名前の髪にも頬にも触れて撫でた。名前の温度のなさそうな白い肌はそうしてちゃんと触れるとあたたかかったし、どんどん熱を帯びて赤くなっていく。
 名前から顔をやっと離した時、ぼんやりとした瞳と目が合った。潤んだ瞳が俺の目をじっと見たあとにこちらの口元を捉える。名前は俺の口を見たまま、自分の口を舐めた。
 反射的に手に力が籠る。煽んなと名前を詰ってやりたかったけど黙ったままでいた。口を開いたらそのまま舌をねじ込んで名前の赤い舌を吸っていただろうから。
 その口は名前の体の中でも特にやわらかいのだろうと想像した。惜しむように名前の口の端にキスすると嬉しそうに声を漏らすから本当にコイツはと思った。
 名前の胸元のボタンに手をかける。首筋や顕わになった胸元の肌を好きなようにした。名前が上げる小さな声にますます煽られる気持ちになって、衝動をその肌に口づけることで耐えた。
 顔を埋めると名前の匂いがする。名前が受け入れるように俺を抱きしめるからもっと堪らなくなった。
 我を忘れそうになりながらそうしていると名前が俺の首に自分から顔を寄せてキスをする。名前にそうされて俺は自然と動きを止めていた。
 名前の手が俺の胸元をなぞり、細い指先がシャツのボタンを外す。名前は少しの間寛げさせた胸元をじっと見つめると、それからもう一度口を寄せた。俺がしたようにはせずに、名前は唇だけで触れた。
 名前がそうするとくすぐったくて、胸のうちがざわついた。子供みたいな稚いキスには恥ずかしくなるくらい愛情が満ちていて、コイツは俺が好きなのだとよく分かった。名前が俺にいつも向ける真っ直ぐな視線が脳内に過ぎって、名前はずっとそう≠セったことを理解した。
 名前の体を抱きしめ直して肩に額を押し付ける。名前は何度も、キスの合間にひたむきに、俺を好きだと言う。それを聞くたびに湧き上がってくる感情を、息を吐いて堪えた。
 足を絡めるように抱きあったまま、名前が俺の顔を見て「本当にしなくていいの」と尋ねる。名前の目はどこか穏やかで、そうされれば死ぬと分かっているくせに俺が手を出したら受け入れるんじゃないかと思える危なっかしさにいろんな意味でイラついた。
「抱いたらお前が死ぬって分かってて抱くかっつーの」
 額を強めに名前の額にぶつけると名前は俺の頬に両手を伸ばして添える。額を重ね合わせながら俺の口を名前が指でなぞった。
 俺が名前に侵入¥o来ないように、名前がそうしようとしたら止めさせなければいけなかったが、止めるまでもなく名前は唇の表皮にだけ触れた。受け入れ≠スがる名前の気持ちはその時になんとなく分かった。
 吐息がぶつかる距離のまま、名前がまた「好きだよ」と囁く。俺の内側をなぞるような、どうしようもない気持ちになるその囁き声に、今すぐその口にキスがしたいと強く思った。
「……俺だってお前が好きだよ」
 気づいたら口にしていた。もはやそうせずにはいられなかった。俺に音を上げさせた名前は噛みしめるように「うん」と頷く。
 名前がそっと俺から手を離そうとするから、名前の体を動かして後ろから抱きしめた。そしてその腹に触る。薄い腹には今も印≠ェ刻まれていて、見ようとしなくても名前以外の呪霊の呪力を感じた。呪力を感じるたびに名前の腹を破るその呪霊の想像をさせられて、心底最悪な気持ちになる。
 名前は俺が好きで、俺が名前は好きなんだからこの腹の中まで俺のものだった。そうやって撫でていると名前の体が小さく震えた。
 その気持ちが溢れそうになった時、名前が「この部屋にいられなくなるのが寂しい」と口にする。言わずにいてやろうかなと思っていたことがそのせいで口を衝いて出たが名前の反応はうっすらとしたものだった。お前、自分がされそうになってることをちゃんと分かってるのか?
 体を抱かれたままの名前が首だけで振り返って俺の瞳を見つめる。「いいよ」と、名前が俺の目を見て、声を出さずに囁くから思わず何も言えなくなった。名前の肩に額を強く押しあてる。「よくねえ」と自然と口からこぼれた。本当に受け入れるなよ。
「オッマエさあ……本当に……馬鹿なヤツ……」
 他に言いようがなくなって、でもそんなところすら可愛いと思ってしまって、その気持ちのまま名前を抱きしめた。名前の体はそうやって全身で抱きしめるとどこもしこもやわらかくて力加減が狂いそうになる。気を抜くと名前の体を力いっぱい抱きしめそうになって耐えた。名前にもらった飴のように名前自身を砕くわけにはいかなかった。
 それから、俺が帰ったその日に呪霊が消えたらしい名前とちゃんと会えたのはそれからしばらく経ってのことだった。高専に帰って来て一番に名前に会うつもりだったのに肝心の名前が校舎内にいないせいで聞きまわることになった。
 探してやっと見つけた名前は校舎より離れた樹陰のベンチに座っていた。前に立った俺を見上げる名前は俺が探し回ったことも知らずにいつもと変わりない顔をしている。
 名前を直接′ゥて、名前そのものの呪力だけが在ることを確認してやっと気が抜けて、隣に座った。
「体は?」
「変わらず元気だよ。印ももう完全に消えてくれた」
 そう言って自分の腹を撫でた名前の髪に日の光がかかっていつもとは違う色合いに見える。
 名前がこちらを向いて、俺を見るその目すらも日の中で輝いているように見えた時、名前をやっぱり閉じ込めなくて良かったなという気分になった。
 顔を合わせない日が重なることくらい、それこそ名前があの家にいるようになってから割とあったのにそうして名前を見ていると浮つく気持ちになった。顔が見たかったんだと、名前を見て気づいた。
 その気持ちのまま余計なことを言いそうになってわざと不機嫌な声を出して別なことを口にした。実際に口にすると携帯で名前から連絡が来たときの気持ちを思い出して表情に出した俺に、何故か名前は微笑む。
「なんで笑ってんの」
 名前が笑ったまま「おかえりなさい」と言うから、思わず手が伸びた。伸ばした手で頬を撫でると、名前がますます頬を緩める。その口に指で触れると頬よりもやわらかかった。
 されるがままだった名前は、ふと思いついたというように包みを取り出すと、その中に入っていた飴を俺の口に触れさせる。
「あげる。今度はちゃんと私からだね」
 口を開けて受け取ってやると、口内に甘さが広がった。まだ気にしてたのかよと思いつつ、その飴を舌で転がす。俺の顔をじっと見ていた名前が体を寄せてくる。初めて名前からされた行動に一瞬固まった俺に名前は耳元で吹き込んだ。
「私ね、あの部屋に閉じ込められなくたって五条くんが帰って来てくれるのを待ってるよ」
 名前が俺の目を見て目を細める。その表情を目の当たりにした瞬間に体が動いて、気づいたときに口を重ねていた。やっぱりその口は何よりもやわらかい。
 名前の手が当たり前のように俺の背中にまわされるから、むずがゆくなった。
「……覚えとけよって言ったよな」
 あの日と同じように名前に囁いた俺に、名前はむしろ自分からキスをした。その舌が俺の口を舐めると同時に口の中の飴が砕けて粉々になる。俺が動揺したのが分かったのか、名前が笑うから、コイツ……と思いながらわざと強く抱きしめた。それなのに名前がますます嬉しそうに笑って俺に体を預けてくる。名前がこぼした笑い声にくすぐられるような気持ちになって、無意識に俺の顔まで緩んだ。
 胸の辺りが熱くなってざわつく。名前の俺を見る目もその声も日に当たった髪の色も肌も笑った顔も横顔も俺を抱きしめる腕もやわらかいその体の軽さにさえ、その気持ちになる。ますます腕に力が籠りそうになりそうなのを我慢してやっているのに名前が俺の胸の中で「好き」と口にする。
 まだ名前の「好き」という言葉を聞いていたくもあったけど、それよりも堪らなくなる気持ちの方が強まって、俺はその口をもう一度塞いだ。

白日の落下地点まで

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