NOVEL | ナノ

 私が衝撃を受けたのと領域がほどけたのは同時だった。隔絶されていた異形な様相の空間が幻だったようにかき消え、本来の建物の有様が戻って来る。その代わりに腹部が脈打っていて、熱のように発する痛みに私は膝をついていた。私はその痛みを傷≠セと勘違いして、本能的に庇うように抱いた。
 次の瞬間、ここにはいないはずの五条くんが瞬く間に目の前に現れ、そんな私を抱え起こした。その都合の良さに夢かもしれないと思ったけど五条くんの瞳を見ていると現実だということが分かった。既にサングラスを外されている五条くんの瞳が言葉で痛みを訴える前に私の腹部≠見つめ、そして大きく開かれる。
 私の意識があったのは彼と目があったその瞬間までだ。
 何度も頭の中で見つめ直した光景を思い浮かべて畳の上に寝転がったまま、開け放たれている縁側から見える空を私はぼんやり見上げた。もう痛みだけはないお腹になんとなく手を当てながら長閑な空を見つめていると日差しが陰り、視線をあげると五条くんが立っていた。私を見下ろす五条くんと目があい、彼が手にしているコンビニの袋を差し出される。
「ん」
 起き上がった私はお礼を言いながら受け取って、きちんと座り直した。部屋の中へと上がった五条くんも私の隣に座る。最初は部屋に用意されている座布団を出していたけど、最近はお互いに畳に直に座っている。
 袋の中にはハーゲンダッツの二人分のミニカップとジュースと、お菓子の類が入っていて私は五条くんの顔を伺った。「好きな方選べば」といつものように言われ、遠慮せずに気分でアイスとジュースを選ぶ。もう片方のアイスと付属のスプーンとジュースを五条くんに手渡した。
 お手拭きで手を拭いてから私はアイスのカップを開けて口をつける。
「ありがとう、五条くん」
「アイスで大袈裟だろ」
 もちろんそれはアイスだけの話ではなかったけど、五条くんはそう言って、隣で同じように口をつけ始めた。
 私がここ(五条くんの家の別家らしい)にいるようになったのは私があの任務の呪霊によって印≠つけられたからだ。印≠つけられた私が周りに影響を及ぼすことがないように隔離が行われてからしばらく経っていた。
 呪霊が私に印≠つけたのは生まれ直す≠スめだ。印をつけられた女性が性的な行為をするという手順を踏むこと≠ノより呪霊は再び誕生するらしい。既に何度も繰り返していたようだ。そもそもの呪霊が現れる条件も妊孕性のある女性がその場にいることらしく、術師ではない私が任務に赴いたのも囮のためだった。
 その印≠つけられた女性は行為によって母体と成り、最後には肉と呪力をその呪霊のものとして取り込まれ死亡する。何度もそうして再誕しては、周りの人間ごと襲って殺してきたようだ。ただ、今回は既に祓われかけていたということでわざわざ行為≠行うようなことがなければ呪力すら維持出来ず、遠からず消えるだろうと判断されていた。
 本当なら別の場所でもっと強い拘禁が行われるらしいところを移動が許されたのは五条くんの口添えのおかげだった。私に印≠つけた呪霊そのものの力は強くない(任務としての危険度も高いものではなく、だから私が囮に用いられていた)のもあった。その代わりに印≠つけた女性の内≠ノ潜る性質があり、その女性ごと対処する方法しかなかったようだ。時間さえ置けば解決すると言われた私の状態は逆に言えばそうすることでしか解決できないので、呪霊が消えるまで拘束という体で私は五条くんの別家に置かれる予定だった。
 利用するために呪霊を飼うことは高専でもしているし五条くんのようなお家でも珍しくないらしい。でも呪霊に憑かれる、自らの力として使うのではなくむしろ支配されかけるような術師に対して(私は術師と名乗れる人間ではなかったけど)呪術規定は厳しく、だからこそ五条くんが私を家に引き取るということはいざとなれば五条くんが責任を取ることになるそうだ。
「大したことねえ呪霊にいい様にされてんなよ」
 そう言って私の額を小突いた彼は心配することなどないとも言ってくれた。――もし本当にどうしようもなくなっても、いざとなればお前くらい家に置いておけるとも。その時は五条くんの家のお手伝いさんにでもならせてねと言うと、五条くんは私の髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
 夜蛾先生からも直接説明を受けた。励ましの言葉をもらっていたし、通学出来ない私のための課題ももらえた。先生と会えたのは短い時間だったけど(五条くんは当たり前のように何度も顔を見せに来てくれていたが、呪霊の性質が性質なので追い詰められて私の体を使って¥件を果たそうとする恐れがあるからそもそもあまり男性と会わない方がいいと判断されていたようだった)先生や高専のみんなに案じてもらっていることはよく分かったし、私の面倒をこんな風に見るために五条くんがどれくらい頑張ってくれたのかも聞き及んでいた。
 唯一の連絡手段の携帯で高専にいるメンバーとは時々話をしていたけど、ここに来てから一番顔を見ているのはやっぱり五条くんだった。ここが五条くんの別家だからかもしれないけど、五条くんは私のところに何度も様子を見に来てくれていた。欲しいものがあるかと聞かれた時に「甘いアイスが食べたい」と私が答えると(後から考えると多分もっと違う要望の意味で聞かれていた)五条くんはそれから買ってきてくれたり、あるいはお菓子を持ってきてくれたりした。
 開かれた向こうの空を向いて五条くんが持ってきてくれたアイスを一緒に食べながら、五条くんは高専での話や任務先の話をしてくれた。私はそれを聞きながらその様子を想像する。
 そうしていると五条くんが私のアイスを持っていた手を引っ張る。無言のまま視線で促されるので、私はスプーンを彼の口に運んだ。代わりに当然のように五条くんの持つスプーンを差し出されて口にする。どちらも濃い甘さだ。
 アイスの後に五条くんが開けたチョコチップクッキーを、既に満たされていた私は数枚をもらってゆっくりと齧った。こうしていることに幸せだと思っている自分がいることを感じながら指先に摘んだクッキーを見つめていると五条くんがどうしたんだよと尋ねる。
「……アイスもう食べちゃったけど、つけても美味しかっただろうなって思った」
「いいじゃん。次にやろうぜ」
「うん」
 また買ってきてくれるらしい。私は頷いて、手に持っていたクッキーを口に入れて噛みしめた。甘さでいっぱいの口にジュースを傾けると、同じ甘い味でも少しさっぱりした。
 そうして一緒に食べて話をしてしばらく時間を過ごしたあと、五条くんはまたこの場所から発った。高専に戻るのではなく次の任務があるそうだ。
 外に出るわけにはいかないので、玄関で彼を送り出すのは、ここに来てからの習慣のようになっていた。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
 ひらひらと手を振ってくれる五条くんの背を見送る。「いってらっしゃい」という言葉は高専でも当たり前の言葉として使っていたけど、そんな場合じゃないのにこうして見送ることがまるで違う意味がある状況のように感じてしまう。
 いつの間にかそうなっていたこの習慣に五条くんは鬱陶しいとは言わないのでそれをいいことに続けていた。彼はそもそも見送りに慣れていて、私と違って何かを感じることじゃないのかなと思う。私は五条くんの実家を目の当たりにしたことはなかったけど、たくさんの人に見送られて家を出ていそうだなと、この家の大きさや何人か会うことになった五条くんの家の人を見ると思う。
 名ばかりの拘禁をしてもらっている間、私は課題をしたり、家事をしたり(といっても五条くんのお家の人が常駐していて、私自身はほとんど部屋の外にも出ないようにしているのでその中で出来るのは限られていた)、安穏とした日々を送っている中で、五条くんは任務と学校とこの場所をまわっているようだ。もともと忙しくしている五条くんに輪をかけさせているのに、私は五条くんがこの家に来る時間を幸せだと感じてしまう。それを自覚するたびに戒めても気づいた時にはいつもそう感じている自分がいた。
 彼が持ってきてくれる差し入れを一緒に食べたりするだけでなく、提供されている食事をこの部屋で共にとったりする。彼が任務の合間にこの部屋で休んでいく横で何かをしたり、しなかったりする。高専でも同じことをしていたはずなのにここで、彼を待つ生活になっていると本当に誤解しそうになる。ここに訪れる五条くんのことをいつの間にか(ここはそもそも五条くんのお家なのだからそれが正しいのかもしれないけど、その意味だけでなく)私≠フ元に帰って来る≠ニいうように感じてしまっていた。
「早く私に憑いてる呪霊、消えたらいいな」
 だから彼が来てくれた時、私は思わず口にしていた。五条くんはそれまで口に運んでいたスプーンの動きを止めた。
「お前はここにいるの嫌?」
 もちろん互いに早く解決することを求めていたと思うが、改めてそうして口にしたのは初めてのことだったからか、彼にそんな風に問いかけられた。
「私はここにいるの好き。五条くんも会いに来てくれるしね。ここにいさせてもらってるのすごく感謝してる」
「……じゃあいいじゃん」
 五条くんがどこか拗ねた口調で言うので私は思わず笑ってしまった。
 五条くんに伝えた言葉は全部本心だった。それに私はこの場所にいながら趣味嗜好の物品を含めた大半のものを手に入れられるように取り計られていて、部屋から出ることを控えているという点を除けばむしろ恵まれている生活をしていた。
 でも、ここにいることが、彼が来てくれるのが嬉しいと思う≠ゥらこそ早く解決することを願わなければいけないと思った。私の元に五条くんが訪れるのを待ち望んで、それが私にとって当たり前になって、そうしてもらえないと辛くて苦しくてどうしようもなくなる前に。
「五条くんにいつまでも迷惑をかけられないからなあ」
 彼と並んで座ったまま窓の向こうを見ながら言うと五条くんは私の髪を急にぐしゃぐしゃに撫でた。強い勢いで撫でたあと、五条くんは自ら私の乱れた髪を梳いて直してくれた。
 夜、布団の中に入って眠りにつく時、私は自らの腹部に触れてみる。私のお腹にいるらしい呪霊の呪力はもはや私自身にも見えず、呪力を見ることが出来る五条くんにしか把握出来ない状態だ。だけど私の腹部にはあの日から呪霊による印≠フ紋様が見える形で刻まれている。
 呪霊の存在ごと早く消えますようにと、祈ってもどうにもならないことがたくさんあると分かっていても、それでも夜を迎えるたびに願った。ここから出て高専に戻らなければいけなかったし、なにより五条くんを解放してあげたかった。
 今日もそうして眠りにつく。だけど目が覚めたのは恐らくまだ夜明けよりも前だった。薄く開いた瞼から見る部屋の中は暗く、朝日は見えない。ぼんやりしていると急に部屋の襖が開いた。
 部屋へと入ってくる人が私の眠っている布団の隣に移動するのが見えなくても気配で分かった。見えなくても、この部屋にそんな風に入ってくるのは一人しかいなかった。
 指が、額にかかっていた私の髪に触れる。表面を梳くように軽く触れるその指先を髪越しに感じて、その手つきがあまりにも優しくて、胸が疼く思いになった。
「五条くん……」
 私は思わず、彼の名前を呼んでいた。掠れていた私の声に彼の手の動きが止まる。重たい目を開くと窓から差し込む僅かな月明りに照らされながらこちらを見下ろす五条くんが見えた。
 五条くんは私の髪に触れたままだった手を動かすと、私の瞼の上に重ねてしまった。目の上に手を置かれ隠されたまま私は口を開いた。
「おかえりなさい。 ……任務の帰り? それとも行く前かな……?」
「終わらせて帰ってきた。近かったからついでによった」
 私とは裏腹に五条くんの口調に眠気は全く感じられなかった。だから、余計に労しくなった。
「眠っていったら?」
 私の顔に置かれたままの指先に力がこもるのが微かな動きで感じ取れた。
「一緒に寝てけって?」
「隣でも、どこでも……。疲れてない……?」
「……」
「布団、敷く? 寝たくないなら起きてるの付きあうし、休むだけでも……」
 もしちゃんと意識がはっきりしていたら迷惑かなと考えてしまって引き留められなかったと思う。寝ぼけていたからそうやって素直に言葉にしてしまった。
 目を覆っていた手が離され、視界をとざされていたことによりぼやけたままの輪郭で映る彼の顔を見上げた。私はより彼を見つめられるよう、彼の方を向いて寝返る。
 彼はつけていたサングラスごと自分の目を覆うようにして、深く息を吐いていた。やっぱり疲れてるのかな、今、何時だろう。体を起こそうとした私を五条くんは伸ばした手で肩を押して制した。
「寝てていいよ、今日はもう帰るから」
「来てくれたのに……。じゃあ見送る」
 囁く彼の声音に、私の声音も自然と小さくなった。返事の代わりにもう一度私を布団に押した五条くんは表情を浮かべない顔で何故か頬をつついてくる。
「また来る?」
「来るよ」
「そっか……」
「おやすみ」
「うん」
 彼の言葉に安心して力が抜けた顔を覗き込まれる。サングラスの向こうで彼が目を細めた。部屋の暗さよりも暗さのあるサングラスだから見えないはずなのに、分かった。
 入ってきた時のように襖が開かれ、立ち上がった彼が廊下へと足を向けるのを横になったまま見送った。もう一度閉じられた襖を見ながら、彼のためにいつも明かりがついている玄関の扉を開きその向こうの暗闇に姿を消す彼の背中を頭の中で思い浮かべた。いつも彼を見送る寂しさが今日はもっと胸に広がっていくのを感じながら、私はいつの間にかまた眠っていた。
 そして携帯でかけているアラームが鳴るよりも早く目覚めた時、自分が五条くんの前でした言動が思い出されて、私は朝日の中で思わず顔を手で覆った。
 でも「来るよ」と言っていた通りにまたすぐに顔を出してくれた五条くんの様子は変わらなかったので、変だとすら思われていなかったのかもしれない。また来て欲しいと強請るような甘えた態度になってしまったが、五条くんは「しょうがないな」と付きあってくれている気持ちなのかもしれなかった。
 あの日は偶然起きていたけど、もしかしてあの日だけでなく私が眠っている時も訪れていた日があったのだろうか。髪に触れる五条くんの指先を思い出す時、私は髪に自ら触れてみる。その度くすぐったくなるような思いになった。
 今日も顔を出してくれた五条くんと話しながら印≠ェまだ消えていないことを伝えた。それでも大分薄くなってきている。五条くんは印≠確認しなくても私自身を見ていて呪霊の消滅具合を分かってしまうらしいが、それでも変化は細かく報告していた。
「せめて条件がしないことじゃなくてすることとかだったらもっと早く解決してたかも。そうしたら五条くんのお家に預かってもらうようなこともなかったしね」
 口にしてしまったから、行うことが解呪の条件になったとしてもそもそもの呪霊が変わらないのだと仮定するならを考えると、変なことを仄めかしてしまったような気がして恥ずかしくなった。窓の向こうを見ていた視線をなんとなく下げて畳を見る。膝を抱えていた腕を動かして、改めて強く膝を抱えた。
「抱いて解決するんだったら俺がお前をさっさと抱いてる」
 それまで手元でサングラスをいじっていた彼がいつの間にか私をまっすぐに見ていて、そんなことを言うので、二の句が継げなくなった。直接的な言葉に動揺する気持ちを誤魔化すように、恋人じゃないのに? とか、私のためにえっちなことまで出来るの? とか、わざと明るく言わなくちゃいけない気がして、そういう言葉を考えたけど実際に口には出来なかった。
 五条くんの私を見る目を見てたら言えなかった。だってその目を見たら五条くんが私を好きなことが、直感的に分かってしまったから。
 その瞬間に今まで五条くんが私にくれた優しさや視線や手の温度や横顔が、熱と意味を持って私の胸をよぎった。私が彼に向き直ると抱えていた足から力の抜けた手が勝手に離れて、膝がぺたんと畳についた。ガラス戸の向こうから差している金色の夕日が、五条くんの髪を照らして、きらきらと輝いている。
「……五条くん」
「……なんだよ」
 口を開こうとすると、何を言おうとしたのか分かっているらしい五条くんは手を伸ばしてその前に私の口を塞いだ。彼の目を見つめ返す。彼の瞳にも金色の光が映っていて、水面に映る光の光景を思わせた。
「今言うな」
 全部終わったらの方がいいだろ、と彼が言う。
 向きあって五条くんの目と見つめあっていると五条くんがどれほど私を好きなのかよく分かった。私の目も同じなのだろうか。自分の目を見ることは出来なかったけどそれでもこの瞬間の気持ちだけは互いに分かりあって、伝わっていることが、言葉がなくても不思議なくらいに分かった。
 私が大人しくされるがままだからか、五条くんの手の力は緩い。緩い力の彼の手の下で「言われるの嫌?」と囁くと、五条くんは眉ぎゅっと釣りあげた。
「なわけねーーーだろ! 俺だって言わないようにしてたんだよ! 言ったら、」
 叫ぶような彼の言葉が止まり、私は思わず「言ったら?」 と心の中で反芻する。でも五条くんは「好き」と言われたくないんじゃないんだなと思ったら、気づいた時にはその手の下で告げていた。
 五条くんは私の口から手を離すとその手で私を抱きよせた。強く強く抱きしめられて、勢い余って一緒に畳の上に倒れ込む。
「結局言うのかよ……」
 弱っているような五条くんの声を、そう言えばこんな風にいっぱい触れられるのはこの部屋に来る前以来だったことを思い出しながら、私は聞いていた。五条くんは人と距離が近くて私に対しても手を引いてくれたり肩に手をまわすことだってあったけど、この部屋に来てからはほとんどそうされなかった気がする。
 互いに畳に横になったまま、酷く近い距離で自然と見つめあっていた。投げ出された足同士が重なっていて、乱れたスカートの裾から出ている私の膝と五条くんの制服に包まれた膝が擦れる。触れているところから伝わってくる体温が隙間のない距離の近さを改めて(五条くんは制服の上着を脱いでいたから、余計に近く)感じさせた。背中や体に添えられている彼の腕や体温に、私は無条件の安心に近い気持ちを抱いていた。
 私が彼の顔をじっと見つめたまま「五条くんからも聞きたい」と囁くと五条くんは視線を逸らした。顔を彼の胸元に押し付けられる。
「言ったら止まらなくなるだろ」
「止まらなくなったらダメ?」
「…………なんでここに連れて来られたか分かってる?」
 もはや悔しそうな声を彼が出した。そしてその時に初めて私も、自分がここで禁じられていることを(自分とは無縁の行為だったのもあって呪霊の存在で迷惑をかけていることを考えても、してはいけない行為はどこか他人事だったから)やっと自分のものとして考えることになった。
 五条くんは苦々しく、行為に至るまでの手順として判断される触れあいがどこまでなのか分からないなら、こうして抱きしめる以上の名称がある行為は避ける必要があることを、誰が聞いても納得できる具体的な理由と共に言葉で強く述べた。五条くんの言葉は論理的で、筋が通っていて、勉強にもなって、理性的だった。
「キスするのもダメなんだ」
 私の口から独り言に近い、ほとんど感想みたいな言葉がこぼれた。ちゃんと考えてくれている五条くんと違って、私は先ほども彼の顔を見つめている時に綺麗な顔だな、キスも出来そうな距離だなくらいしか思えていなかった。
 そう言った途端に私の肩に添えられていた彼の手のひらに力がこめられて、骨が少し軋んだ。
「お前さ、わざとやってる? ……それとも呪霊のせいでどうせ無理だと思ってるから俺の前でいつもいつも無防備でいられんの? それとも呪霊がさせてる?」
 五条くんの言葉に心当たりがなくて疑問符を浮かべそうになったが、最後の「呪霊がさせているのか?」だけは意味がちゃんと分かって、「ずっと前から、この部屋に来る前から、五条くんが好きだよ」と彼の胸に抱かれながら伝えた。実際に呪霊に操られていたとして、そうだとしたら私には自覚も出来ていないのかもしれないけどそれでも五条くんを好きな気持ちはずっと変わらない本当≠フことだったから。
 五条くんの両手が私の頬に触れる。顔をよせられて思わず目を閉じた。こめかみに五条くんの唇が触れる。ちゅっと軽い音がして、ゾクッとした。
「口にはしない」
 五条くんが熱っぽくて重い声で私にそう囁いて、こめかみや頬にキスをした。その間も彼の手は私の髪や耳を撫でている。触れられて感触を確かめられているのが分かって、そうされることに肌が熱を持つように興奮を覚えた。
 五条くんが顔を少し離した時に改めて目があって、私は思わず彼の口元を見た。キスが出来ないということを認識すると口が寂しくなって思わず舌で自分の唇を舐める。キスをしたこともないしする感覚も知らないのに、こんな風になることにびっくりした。
 また五条くんの手に力がこもる。五条くんは私の口の端、ギリギリにキスをしてから首元に顔をうずめた。 
 何度も何度も私の肌にキスをしていた五条くんがその舌で肌を舐めるの分かって、気づいたら「あっ」と声を出していた。五条くんは私の肌に歯を立ててみたり、吸ってみたりする。キスが出来なくて寂しいと感じているのをそうすることで彼が我慢しているのを、同じ気持ちだから分かった。
 五条くんがそうして私の肌を味わうのを、私は彼を抱きしめながら受け入れていた。彼を抱きしめる腕に力をこめると五条くんはもっといっぱいキスをした。
 私はぼうっとしながら、いつの間にか自分から五条くんの首筋にキスしていた。それまで私に触れていた五条くんが動きを止めて、受けいれてくれようとする。嬉しくなってもう一度口をよせようとして、その前に彼のシャツの留められているボタンに指をかけた。
 首から胸元にかけて既に痺れと微かな痛みが発している自分の肌は確認しなくても痕に残っていることが分かって、きっとすぐに消えないだろうことが想像出来た。この家から出ない私と五条くんは違うから、見えるところに同じようにキスをしてしまったら見つかってしまうだろう。
 ボタンを開けてシャツを緩めて、彼の肌を僅かに露出させる。黒色のインナーとシャツの合間の彼の肌を目の当たりにすると自分がしていることになんだか罪悪感を抱いた。なんとなく、あの日に彼に抱き起こされた瞬間を思い出す。何度となくここに来てくれた彼のことを思い出す。彼と過ごして、彼の隣で、彼を見ていた日々を思い出す。五条くんのことが大好きだと思った。そう思ったら大好きだから切なくなった。
 愛しさが衝動を凌駕して、したいからというより慈しむために彼の肌にそっと口づけを落とした。私が五条くんのことが大好きだと思っていることが伝わればいいなと思った。
「五条くんが好き」
 口を衝いて出た言葉は縋るような声色をしていた。五条くんは私の体を抱きしめ直して、私の肩に額を押し付けた。五条くんはどこか苦し気に息を吐いていた。ぎゅっと抱きしめられたまま五条くんの吐息が私の肌に触れる。その吐息は彼の肌と同じように熱を帯びて濡れている。
「五条くんが好きだよ」
 世界にはその言葉しかないみたいに何度も必死に囁いた。伝えるたびに五条くんの腕の力が強まって体が軋んだけど、それも嬉しかった。
 抱きしめられているだけでずっと心臓がドキドキしていて死んでしまいそうだった。でも五条くんの体温もこちらと同じくらい熱くて、私と一緒だったことに幸せを感じた。
 そうして隙間もなく抱きあっていると彼の体が私と同じように反応しているのが分かった時、私は思わず彼の顔を見た。あれだけ五条くんに説明をされて、ここに私がいる理由も分かっていて、それでも思わず「本当にしなくていいの」と彼に尋ねていた。
「抱いたらお前が死ぬって分かってて抱くかっつーの」
 五条くんは私を自分の好きなように出来るのに私が大事だからそうしないのだ、ということに言葉にもならない思いになった。
 余計なことを言ってしまったからか五条くんが額に額を強めに押しつけてくる。私は彼がその前に私にしたように、五条くんの頬に両手を伸ばして添えた。額同士を重ねながら五条くんの薄い唇を指で触れる。侵入する″s為が手順として解釈される恐れがあるという五条くんがくれた言葉がよぎりそれ以上は何も出来なくて、惜しむように彼の唇の表面だけを撫でた。
 吐息がぶつかる距離のまま、好きだよと囁いた。五条くんとこうしていられるのが幸せだったし五条くんの思いも嬉しかったし五条くんにありがとうと言いたくて、でも伝えきれる気がしなくて、すべての意味を込めて囁いた。
「……俺だってお前が好きだよ」
 五条くんのその言葉に私は泣きそうになりながら「うん」と頷く。彼の体から手を離した私を、五条くんは今度は後ろから抱きしめるようにした。私の体にまわったその手が、まだ印≠ェ刻まれている腹部に触れる。薄い生地越しに感じる彼の大きな手は直に触れられているようにすら思えて、触れられていることを自覚すると、もっとドキドキしてしまった。お腹に触れられると自分が特別な意味で触れられていることをより強く意識して、体が震えた。
 印≠ェ消えることを、目に入れるたびに、目に入れなくたって意識するたびに願ったけど、消えてしまえばここにいる理由もここで五条くんと過ごす時間もなくなるんだなと思うと、寂しさもあった。
 自分の着替えるたびに目の当たりにする印≠フ様子は目に焼き付いている。ここにいるうちに薄れていった早さや残っている様子からするとこの部屋にはもう長くいられないだろう。思っちゃいけないと思っていた寂しく感じる気持ちを、私は五条くんに、その時初めて伝えた。
「俺は、呪霊が消えたとしてもずっといる≠アとにしたらお前のこと閉じ込めとけんのかなって思ってた」
「そうなんだ」
「そうなんだじゃねえよ、分かってんの? 俺がしようとすればお前のことなんていくらでも好きに出来るって言ってんだけど」
 どちらかというと閉じ込めておきたい≠ニ思うほど思われていることを言葉で伝えられてびっくりして返した反応を、薄いと感じたらしい五条くんがどこか脅すような声でそう続けた。
 それでも、五条くんはそうはしないんだろうと漠然と思った。
 五条くんが自分の手元に置くことで私を助けてくれたことは、五条くん以外の誰の手も届かないところで私を好きなように扱えることでもあったのだ、と今更気づく。今日も、今日じゃない日も、きっといつだって好きに扱えたはずの私に五条くんは優しかったように、今、言葉にされて改めて気づいてしまうような甘さを私が持ち続けていられるくらいに優しくされていたことにも。
 好きに出来たのにしなかった≠フが五条くんだった。例え、五条くんが口にした好きにされる℃桙ェ来ても、そうして与えられたことを、五条くんが選んでくれたことを、私はきっとずっと愛しく思い続けるんだろう。
 それに、今、私を思って抱かないと言ってくれる五条くんをどうして怖く感じたりするだろうと思った。
 体を抱かれたまま首だけで振り返って、彼の瞳を見つめる。「いいよ」、声に出さず彼にそう囁くと、五条くんは瞬きをしてこちらの肩に額を強く押しあてると「よくねえ」と言って呻き声をあげた。
 五条くんは本当に何かがあっても私をこの家に置いてくれるつもりだったのかもしれない。ずっとを許してくれたのかもしれないな、とその時に思った。
 五条くんが打ち明けてくれたのに私は口に出来なかったけど、彼が自らの責任として私を引き取ったことを知った時、私も覚悟を決めていた。責任を取って対処に当たるということは、つまりいざとなれば彼が私を殺すことになるということだったから。だから、その時が来たら五条くんの手ではなく、ちゃんと自分でそうするべきだと思っていた。
 五条くんが私を欲しがるということを今日まで考えたことがなかったから私なんかをあげられるかを考えたことはなくても、それでも、もうとっくに、五条くんにどうされても良かったと考えていた気がする。五条くんが私を守ろうとこの部屋に置いてくれた日から、私は私自身を勝手に五条くんにあげてしまっていた。
「オッマエさあ……本当に……馬鹿なヤツ……」
 私に額を押し付ける五条くんはしばらくそうしていた。五条くんが最後に私を強く抱きしめて腕を離した時、抱きしめあっていただけなのにお互いに体温が上がり切っていて私はヘロヘロになっていた。
 体勢を起こしたものの、座り込んだまま近くに転がっていたサングラスを拾って渡すと「かけて」と促される。私の前で素直にかけられるのを待っている彼の姿を見ながら好きだなあと思って、思わず手が止まりかけながら、そっとかけてあげた。
 私が開けたシャツのボタンを五条くんが自分の手で閉じていく。その様子に釘付けになっていると五条くんは「見すぎ」と笑った。
 ふっと気づいて、私は五条くんの背中を見た。五条くんの背中のシャツは力いっぱい縋ってしまったから皺になっているかもしれないと思った私の想像通りになっていた。なんとなくその部分に触れて、自分がどれほど力を入れて縋ったかを思い出した。
 畳まれて置かれていた彼の上着を差し出しながらそのことを謝ると、五条くんは私の頭に手を伸ばして撫でてくれた。
 上着に手を伸ばして袖を通す五条くんを私はやっぱり見つめていた。身支度を整える五条くんの様子に、元々この後の予定について先に伝えられて分かっていたけど、帰っちゃうんだなと思ってしまう。窓の外はいつの間にか真っ暗な暗闇に包まれていて随分長い時間を彼と過ごしていたことが分かっていたけど、余計に名残惜しかった。五条くんは任務で、しばらくここに来られないということも伝えられていたから。
 それでも彼を見送るためにふらふらする足で立ち上がって部屋から出ようとした私をじっと見た五条くんは、私の髪を耳にかけながら囁いた。
「終わったら覚えとけよ」
 久しぶりに制服に袖を通して、高専の敷地に足をつけたのはその日からすぐだった。五条くんが私を抱きしめてくれたその日の夜に呪霊は私から消えた。家≠フ敷地に貼られている呪霊に反応する結界の範囲を踏み越えて確認して、外に出られた自分の足を見た時、ああ、終わったんだなと実感した。
 呪霊の消失を私は五条くんと夜蛾先生にすぐに報告して、次の日には夜蛾先生が迎えに来てくれた。それから高専に戻って、みんなに帰って来たことを挨拶して、報告書を作ってバタバタしているうちに日は過ぎた。五条くんはまだ任務で帰って来ない。
 思い返してみるとあっという間の出来事だったなと、高専に、いつもの日常に戻ってから思った。高専のみんなの態度が私が呪霊に呪われて帰って来ても何も変わらないでいてくれたように、何も起こっておらず、私の夢だったかのような気すらした。木陰のベンチに腰掛けながら五条くんが帰って来る日を待っていた日々のことを考えるとますます現実感を失う気がした。
 風が頬を撫でるのを感じながらぼんやり木漏れ日の眩しさに目を細めていると日差しが陰り、視線をあげると五条くんが立っていた。
「菓子折り……」
「菓子折り?」
 五条くんの顔を見たら思わずその言葉が口から出ていた。五条くんにも五条くんのお家にも物凄くお世話になったために用意させてもらったのだ。
 五条くんがサングラスを外して、私のことを上から下までじっと見つめる。そうして満足したらしい五条くんは勢いよく私の隣に座った。勢いが良すぎて膝同士がぶつかる。ベンチの背もたれに手をまわすようにした五条くんが互いの太ももをくっつけたまま私を見つめた。
「体は?」
「変わらず元気だよ。印ももう完全に消えてくれた」
 思わず自らのお腹に手をあてた。印≠ヘあの夜に消えて、むしろ五条くんがつけた痕の方がまだ私の体に残っている。
 五条くんの顔を見上げると彼と真っ直ぐ目があった。すごく近い距離で、五条くんの肌や髪や瞳に光が透けるのを見た。太陽の下の彼を見た私は、その時にやっと自分が外にいることや彼が私を抱きしめたのが夢だったわけじゃなかったことを実感した。
「俺がいなくなった途端に消えるのかよ」
 私を見ながら、彼が面白くなさそうに言う。その声を聞くことに自分の表情が緩むのが分かった。
「なんで笑ってんの」
 こうして五条くんと会えるのが嬉しいから。そう伝える代わりに「おかえりなさい」と伝えた私の緩んでいる頬を彼の手が撫でる。
「……うん。ただいま」
 頬を撫でていた五条くんの手が私の口元へ動いて、唇に指で触れられる。五条くんのかたい指先は、私の唇に沈むのを繰り返した。そうして口を撫でられながらふっと思い出して、購入したばかりの飴を私は取り出した。包み紙を開けて五条くんの口に押し当てる。五条くんのあの別家を出てからコンビニに自分の足でよった時に買ってきたものだった。
「あげる。今度はちゃんと私からだね」
 五条くんの口が開き、飴が彼の口の中におさまる。あの部屋にいる際に、五条くんが買ってきてくれた飴を衝かれているように見えた五条くんに渡したことがあった。それが心苦しかったので、今こうしてちゃんと渡せたことに満足を覚える。
 飴を入れられたために舌が五条くんの口内で動いているだろうことが分かった。モノを入れられて口を閉ざしている彼の、私がよく見た姿を見つめて、ずっと彼に思っていたことを伝えた。
「私ね、あの部屋に閉じ込められなくたって五条くんが帰って来てくれるのを待ってるよ」
 耳打ちをしてから五条くんの顔を見上げ、自然と目を細めた時、五条くんは私の肩を引きよせて次の瞬間には口が重なっていた。外であることも束の間に忘れた私は五条くんの背中に手をまわして、ようやく得られたその口づけを享受した。
「……覚えとけよって言ったよな」
 唇にキスをした五条くんは私の耳にあの日のようにそう囁く。もう許されるんだなと思うと同時に私は五条くんを願ってもいいのかなと思ったら、彼の口にもう一度自分からキスをしていた。あの日したかったようにその唇をちょっとだけ舐めるとほのかに飴の甘さがした。
 びっくりしたのか、途端に五条くんが口の中で飴をかみ砕いたのが分かって、私はひそやかに笑った。

白日の落下地点まで

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -