NOVEL | ナノ

 雑踏の中で前触れもなく名前を呼ばれて振り返る前に腕を掴まれたとき、あまりにその力が強くて、人に手を掴まれたと思わなかった。その瞬間に自分の手に私の力では外れることのない拘束がされてそれを無視して動いてしまったようにすら感じた。だから、よろめきながら自分の腕を掴む誰かの手のひらを見たときに内心で驚きを感じた気がする。
 私の腕を掴む白い大きな手は、男の人のものだった。その手に向けていた視線を相手の顔へとあげる。身長の違いのせいで顔を見あげるのが大変で下がりたかったけど、腕が強く掴まれていたから出来なかった。この距離だとちゃんと見あげないと視線が合わない。近くにいるとこちらを見おろす高い身長だけではなく体の厚みが分かって、傍に立たれているだけで圧倒される存在感があった。
 目の前に立つ彼の顔を見て一番初めにサングラスを身に着けているという情報を認識して、その上でも浮世離れした顔立ちをしているのが見て取れた。サングラスに隔てられているのに見つめられているのが分かった。激しい視線に焼かれそうだった。
 周りから音が遠のく。彼は昏さとは対極の髪色をしていて、その髪に日の光が透ける様子を思わず逃避するように見つめた。緊張と恐れが体を満たしていて、でもその感覚は力で絶対に敵いそうにない男性に手を掴まれているからだとかそういう納得出来る理由があるものじゃなかった。
 彼に見覚えはなかった。出会っていればよほどのこと≠ェなければ忘れることは出来ないだろうと思えたが、心当たりがなかった。
 何かを言葉にしなければと尋ねようとしたがくちが重く、開かない。彼に具体的に問いかけを向けて自分が彼を知らないことを伝えることに躊躇があった。だけど私の抱える疑問を沈黙で理解してしまったらしい彼は表情を変えた。その顔を見て傷つけた≠ニ思った。そして彼のその表情に何故か私まで傷ついていた。
 怯えは今も薄れることなく指先まで凍らせて体を動かなくさせているのに、彼の表情は私を必死な気持ちにさせ、そんな顔をして欲しくないと、心から、強く、思わせた。胸が詰まって、声も呼吸も奪われたようだった。ここから今すぐ消えてしまいたいとも感じているのに、目の前の彼に笑って欲しいとも思う。彼の表情は私を簡単に支配していた。
 立ちつくす私をつかまえていない方の手で彼がサングラスを外す。光の元に晒された眩い瞳が私を見据えて細められて、こんなに綺麗な色を一度見たら忘れることなんてやっぱり出来ないだろうと私は思った。そして彼の持つ髪や瞳の特別な色彩が彼本来のものであると、何故か見てすぐに分かった。
 ほんの一瞬だけ浮かべた表情を消した彼は私を見てほほ笑む。その顔にどこか寂しそうだと感じたことを覚えている。
「私、価値のあるものを何もあげられません」
 そんな風に出会って、一緒に時間を過ごすようになって、その中であまりに優しくされるから、こうやって手をかけられるような意味は私にはなく、差し出せる特別なものがあるわけでもない存在であると改めて伝えたとき、彼は不服そうな顔をした。
 手にしていたフォークに刺されていた果実をくちに運んだ彼は私の顔を正面から見据える。磨かれた銀のフォークやその果実に照明の光が反射していた。
「僕がそういうものを欲しがるためにわざわざ誰かに優しくすると思う?」
 懐柔という言葉は彼という存在から遠く離れたものに思えた。彼がそのために動くというのも、少なからず共に時間を過ごすようになった今でもあまり想像出来ないなと思った。
 だけど彼が私に優しくする現実的な理由もそれくらいしか想像出来なかった。そうくちにすると彼は含むように笑った。
「本当に?」 
 テーブルの上に置いていた私の手のひらの上に、彼の大きな手が重ねられた。跳ねた指先ごと握りしめられる。互いに冷たいデザートを食べているはずなのに彼の手のひらはとてもあたたかかった。私とは反対だ。
 手のひらに彼の体温が移っていくのを感じると同時に頬も熱を帯びるのが分かった。彼は自分の手元の皿から果実をムースにつけて私のくちの前に差し出す。
 こちらをじっと見つめる彼に、私はそっとくちを開いた。ひんやりとした食感を舌先に感じ、歯で噛みしめると瑞々しい甘さとともに滑らかなムースの味がくちのなかに広がる。咀嚼する私を見る彼の目が細められているのがサングラスの端から見えて、くちのなかの冷たい温度と頬の温度がより乖離していく感覚を味のほかにも味わうことになった。
 飲み込んでから「おいしい」と囁きに近い声音でくちにすると彼はますますまなざしを緩めた。その視線に今度は照れや嬉しさではなく、泣きだしたい気持ちによって目が熱を持った。せっかく連れて来てもらったお店でとても美味しいデザートを食べているのに、そのデザートよりも彼が私を見つめる視線に感情が昂って、飲み込んでからもくちを噛みしめかたく閉ざす。そうしなければおかしなことをしでかしてしまいそうだった。
 握られていない利き手で私は自分のタルトをフォークで切り分ける。そして今度は私が彼のくちへと差し出した。躊躇いと緊張で指がかすかに震えていた。
 彼は驚いた顔を見せてから、でもくちを開けてくれて、受け入れられることに軽く眩暈がした。彼の瞳や口角に滲む表情に美味しかったんだなと私まで嬉しくなった。彼が私に向けた緩めたまなざしの裏にある思いを、そうやって受け入れられて、同じ気持ちを抱いて、理解してしまう。
 フォークを持つ手をゆっくりと引き戻した。彼がテーブルの上の私の手を離してくれた瞬間も指は震えたままで、気持ちを誤魔化すように手を伸ばした紅茶の入ったカップを持ちあげるときもとても気をつけなければいけなかった。
 カップをおろし、ようやく震えがましになった手を握りしめて、私は勇気を振り絞ってくちを開いた。そして直接的な言葉をくちにした。こんなことを彼に言うのは躊躇と羞恥があった。でもいつかは伝えなければいけないことだと思った。
「これ以上を望んでもらっても上手く期待には応えられないと思います。……ちゃんと楽しませられるとも思えなくて」
 伝えることが憚られて、声を潜めてまともに人と付き合ったこともないことを打ち明けた。
 誰かと特別に深い関係になったことがなかった。そうしたいと思う気持ち自体が希薄で、二人きりで誰かといると違和感があった。人と一定以上に近づきかけると何故か無性に寂しくなって、悲しくなって、だから一人の方がよかった。ずっとそうやって生きていくのだろうなという静かな諦観があった。
「君は、誰も選ぼうと思わなかった?」
「……違うなって、気がするから」
 考える前に無意識に自分の気持ちをくちにしてから、違う°Cがするだなんてすごい理由だなと思えて、思わず自嘲の笑みがこぼれた。
 彼といるときだけ、いつもの悲しい気持ちにはならなくて、ただ一緒にいるだけでなんだか嬉しかったし楽しかった。代わりに、足元が地面から浮いているような気持ちにすらなる。だから、今、目の前にいる彼だけが、私にとっては既に特別な存在だった。
 私が今まで感じてきたことは誰も好きにならなかったからだったのだろうか? 彼を好きになってしまって、浮かれて、だから彼が特別に感じるんだろうか?
 伏せていた視線を強い視線を感じて自然とあげる。私が考え込んでいる間、それまで彼がくちを噤んでいたことにそのときに気づいた。
 言葉を発することなく私を見ている彼と目があう。彼の瞳は爛々と輝いていた。その瞳は光が満ちている空間の中で異彩を放っている。
 彼はサングラスを外して手元へと置いた。その動作を視界に入れながら私は彼の瞳だけを見ていた。蠢くような蒼い輝きを放つ美しい虹彩の中で瞳孔が開かれ、視線が私にだけ注がれていた。その目は、目を見た人間の血の気を引かせるような心地にさせるだろうと思えた。
 彼の振る舞いは強引で自由だ。それが許される人間だけの無邪気さと魅力があって、そんな言動に滲む私への甘さが印象的だった。彼はいつも私を丁寧に扱っていて、それを私は常に感じていた。体に手を伸ばされたのも出会ったあのときに掴まれた腕くらいだ。彼自身の性質に危うさを感じたことはなかった。
 彼は誰から見ても特別だったけど、そういう普通の特別≠フ範疇からも逸脱しているのかもしれない。
 でも私は彼のその瞳を見るとドキドキした。やっぱり綺麗な瞳だなと思った。怖い人なのかもしれない。なのに、彼のそういう面を見て胸がじわじわと熱を持つような幸福を感じた。彼のことをよく知っているなんてきっと言えないのに彼らしい≠ニも思った。
 彼は隠すように自らの顔を片手で覆った。そして声を出して笑った。手が顔から離されたとき、それまで纏っていた彼の雰囲気は既に消え去っていた。
「君が可愛いこと言うから思わず笑っちゃった」
 彼はなんだか嬉しそうだった。不思議なくらいに。
「君には僕以外いらないと思うな」
 言葉だけを聞くと自信に満ちているのに、彼の声音がやわらかくて甘くて、でも切なげに聞こえて、その切なさが私にも浸透していくように、聞いていると心がざわめいた。気づいたときにはテーブル上の彼の手に自分の手を伸ばして、今度は私から握っていた。こうして一緒にいるだけで波立つ感情で私の手はいつのまにか彼の手のようにあたたかくなっている。
 指先を絡めて握り返してくれる指先に心にまで触れられている気がして、彼の言葉をそうなのかもしれないなと思う。こうやって私の心に触れて、嬉しくさせてドキドキさせて切なくさせて、幸せにして、そうしてかたちを変えてしまうことが出来るのがこの世に彼しかいないのなら、私が求めてしまうのは彼だけだろう。
「欲しがられるようなもの、私には本当に、何もないんだよ」
 関係がより深まったとき、私は以前と同じことを思わずくちにしていた。彼は私にただただずっと優しくて、変わらない好意を与え続けてくれたけどその愛情を与えられる価値も欲しがられる価値も私に存在しないと分かっていた。
 彼に握られた手を握り返しながら、私は取り返しのつかないことをしでかしている気持ちにもなっていた。優しくされてきたのに、強いられたことなどなかったのに、私はとっくに彼を大事に思っていたのに、彼の気持ちを受け入れることを考えるといつもそうして動けなくなる。どうしてなのか、説明も出来ない。
 彼といるとふわふわとした不安な気持ちに(それは今までの他の誰かといるときに感じた気持ちとは全くの別のもので、以前に彼が告げた「君には僕以外いらないと思うな」という言葉が正しいことを既に私は理解していた)なった。薄氷の上を自分が歩いていることを知っているような心もとなさに、次の瞬間に天が崩れて落ちてきてしまうとか、地面が割れてすべてが飲み込まれて終わりを迎えるとか、圧倒的な力によって一瞬の間にすべてが奪われて失ってしまうようなそういう根拠のない想像をする。
 交際が始まったとして、これまでのような彼の関心が失われることが怖いのだろうかと考えた。もちろんそれがどれほど悲しいことなのかは分かっていたけど、そんなに悲しいことよりももっと耐えがたいことが起こるような、そういう予感を彼といるとふとしたときに感じて、本当にいつか起こってしまうのではないかという気持ちがあった。なに≠ェ起こるかも分からないのに、私はそれを感じるたびに恐れていた。
 彼の部屋の広いカウチソファーの上で、私の隣に座る彼は、自身の指を絡めたままこちらの指先を撫でた。ここにいることを確認しているような動きだった。私が抱いている得体の知れない恐れも、結局彼にこうして手を伸ばされたら取るに足らなくて、きっとどうしたって手を握り返さずにはいられないように思う。
「僕から逃げたい?」
 そう思うことは私には出来ない。繋がれた手に目を背けるように視線を落としたまま首を横に振った私に、彼は私の言葉に対する答えではなく、全く別のことに触れた。
「名前に初めて僕が声をかけた時、名前は怯えてたでしょ。急に声をかけたしね。 でもあの時も逃げようとはしなかったね」
「だって、……だって、寂しそうな顔してたから」
「僕が?」
 投げかけられた問いに、思わず顔をあげて頷く。あの瞬間に、どうして彼を傷つけてしまったかは理解していなくても私の言葉が彼を傷つけた事実だけは、自覚していた。彼が寂しさを気配に滲ませると、私はいてもたってもいられなくなる。
 初対面の人間が自分を見て寂しそうな顔をしたと感じていたという、そうなる道理のない私の言葉に、彼は笑うことはなかった。
「膝も震えてたくせに、僕が寂しがった方が気になったんだ」
 サングラスが外されていたから彼の顔から表情が薄れたのがはっきりと見て取れた。強い視線が私をとらえる。その瞳は室内の光の加減のせいかいつもより深い青色に見えた。夜が訪れた外から隔たてられている部屋の中の照明に彼の瞳は照らされて、いつもとは違う色合いを見せていたのに、うっすらと発光しているようにすら見えるその瞳に見つめられるとなぜか郷愁に似た切なさを覚える。
 顔立ちのせいか表情がないと彼の纏う空気すら温度がないように見える。光の下で私に笑いかけてくれる彼とは様子が違っても、やっぱり怖くはなかった。私は彼自身が怖いと思ったことは恐らく出会った瞬間から一度もなかった。私が怖いのは――。
 そのとき、彼は初めて有無を言わせない力で私を抱きよせた。手を繋がれることはあっても彼にそんな風に抱きしめられるのは初めてだった。それなのに彼のその抱擁は私の全身にしっくり≠ニ馴染んだ。
 彼の肉体と自分の体の差異は傍で過ごしているだけで十分に知らしめられることだったけど、抱きしめられると重さとともに自分とは本当に全く違うことが伝わってくる。体格が違いすぎて抱きしめられると包み込まれるようだった。全身で感じる彼の存在に力が一気に抜ける。
 それまで感じていたことも考えていたこともなにもかもが消えて、私のすべては彼でいっぱいになる。私はずっとこうして欲しかった≠ニ、こうされることを求めていたのだと思い出した気がした。
「僕が欲しいのは名前自身だよ」
 彼が私に囁く。いつの間にか体が震えていて、彼はその手でなだめるように私を撫でてキスをした。その瞬間に私の腕は彼の首に伸ばされ、抱きしめていた。応えるように彼の腕が私の体を抱きしめ直した。
 強く抱きしめられることでゆっくりと力強く打つ彼の鼓動が直に聞こえる。彼の体には私よりも高い温度があり、抱きあっていると呼吸をしているのが分かった。彼の体温や鼓動を感じながら私は泣いていた。目を瞑って、どこか夢うつつに近い心地のまま、くちを開く。
「ここにいる?」
「うん」
「もっと抱きしめて、お願い……」
 彼は私の願い通りに腕に力をこめてくれた。彼がここにいるという事実を私はそのときに正しく理解した。今まで現実味を感じていなかったんだなとも思った。悲しくならないまま一緒にいられるなんて私の願望を映した夢の中みたいだったからかもしれない。
 彼の鼓動に耳を澄ませていると自分の心臓の拍動にも気づいた。彼の鼓動よりもずっと早くて、感情の昂ぶりをそのままあらわしているような鼓動を聞いたとき、唐突に頭の中がぐらぐらして息が苦しくなった。
 額を彼の肩に押しつけて体を預けていたのに視界が揺れていた。死んでしまいそうなほどに早い自分の鼓動を感じたことに頭を揺らされているような強烈な既視感を覚えた。
 閉ざされて暗いはずの視界の中で白い影≠目の前に見て、私は思わず目を抑える。目を瞑っているのに今まで意識があるときに一度も見ることのなかった白い影を見た=Bそれ以上見つめれば、向こう側を見てしまう≠ニ思った。目をもっと強く瞑っても、影は消えるどころか、暗いはずの眼裏を白く染めていく。
 意識がすべて侵される前に彼が私の名前を呼んだ。彼の声によって自然と目が開く。視界に彼の顔が写り、垣間見た影はそれこそ夢だったように遠ざかった。
「名前もここにいてくれる?」
 体を離した彼が、近い距離で私の瞳を覗きこむ。肩を掴む彼の指先にこめられた力は痛いくらいだったけど私は彼の瞳だけを見ていた。
 彼が言葉を続けようとしたけど、私はとっさに彼の体にしがみつくことで言葉をとどめてしまった。それ以上彼が言葉を贈ってくれる前にあなたのものだと囁く。私は彼だけのものだった。もうとっくに、彼と出会わずに通り過ぎていった過去すらも、そうだった気すらした。
 そして私は彼と恋人になった。恋人になっても想像したように天が落ちてくることも、地面が割れて私を飲み込んだことも未だなかった。抱いた不安はかたちになって私に訪れることはなくその予兆もなかったけど、それでも私は時折不安に駆られる。今が幸せだと心から思っているからなのかもしれない。
 恋人になってからは一緒にいろんなところに出掛けた。そうすることを彼は心から楽しんでいるようだった。私は彼と一緒にいること自体やそんな彼の様子に心から幸せを感じた。
 ある日に訪れたその場所は夏から遠い季節でも太陽が眩しかった。気候にあわせた薄手の服装をして一緒に街を歩いた。シーズンから外れていたけどそうやって歩いていると同じように観光に訪れている存在がちらほら見かけた。雑踏の中で彼の腕に手を添えたまま、出会ったあの日になんの面識もない状態で人波の中から手を掴まれて見つけられた≠アとを思い出す。人の多い場所に彼と一緒にいると、たびたびそのことが思い起こされた。
 ヴィラが面している海の近くも一緒に歩いた。砂浜に降りてから、歩くために選んだ白いスポーツサンダルを脱いで波に足を浸すと泳ぐ季節には早くても気持ち良かった。心地よさに気を抜いたからか私の足がとられ、海へと膝から崩れてワンピースの裾を濡らしかけたとき、それより先に隣にいた彼が私の腕を掴んで支えた。びっくりしたままその腕に縋る。彼の体は私と同じように足を海に浸かっていても、私が体重をかけて縋っていても、揺らぐ気配がなくて安心感があった。
 こちらを見つめる彼の顔を見あげたまま、足を波がくすぐられるのを感じる。そうして目をあわせていると、自然と二人で笑い出していた。ただ楽しくて楽しくて、私は思わず彼に正面から抱きつく。二人で波の狭間で抱きあった。
 こちらを見つめている彼が悪戯っぽい表情を浮かべたと思った瞬間、私は海の中から抱きあげられる。彼の腕の中にいるまま、彼が砂浜を歩き、揃って裸足になっていたその足先が波を蹴るのを私は見ていた。私を抱えたまま私のスポーツサンダルを拾いあげた彼が海から引きあげるときも、彼の腕の中で私は穏やかな海を見つめていた。
 ヴィラに戻ってシャワーを浴びて、大きな窓から臨む海をベッドで見つめながら彼を待っていると、私のあとにシャワーを浴びた彼に手を伸ばされて、抱きあった。高い位置にある日の光が窓越しに私の肌を撫でるのを意識の端で感じたけど目の前にいる彼の体温の方がよほど熱くて、それが私のすべてだった。シャワーを浴びた直後だったからかもしれないけど、強い日差しの下を歩いたせいかどこか熱っぽくなっていた私の体よりも彼の体を熱く感じた。体温の上がっていた体で抱きあうといつもより熱く感じて、とけてしまいそうだと思った。彼に抱きしめられたまま弾けて液体のように崩れる自分を思わず頭の中に思い浮かべた。
 感じている熱を抱きしめられながら無意識に言葉にしようとしたが、彼が私のくちを塞いで飲んでしまったので言葉にはならなかった。彼は私の声も滲ませた涙もすべて呑み込んでしまったので、食べられているような気持ちになる。そうして抱きあってからもくっついていると、私の意識はいつの間にか遠ざかっていた。
 瞼をなぞられる感覚がして、優しいその動きに促されるように私は微睡みから意識を取り戻す。目を開けると、私の顔に触れている彼と目があう。自分の瞼の辺りが濡れているのが分かった。彼はベッドに腰かけるようにして私の顔を覗き込んでいる。彼のティシャツを私が着たままで、彼は下だけを履いていた。
 自分が眠っていたことにそのときに気づいた。どれほど眠ってしまったのかは分からなかったけど白い日の光が外から差したままだったから、短い間だったのかもしれない。体には外を歩いてまわったことによる倦怠感と抱きあった気だるさが残っていた。
 彼の顔を見あげたまま瞬きをすると瞼にまだ残っていたのか涙が数滴こぼれた。濡れている頬を思わず手の甲でこする。
「悪い夢でも見た?」
 少し考えてから私は誤魔化すように首を傾げた。夢を見ていた気がするけど覚えてはいなかった。そしてそれは今までにもよくあることだった。夢≠思い出そうとするといつも眼裏に白い影≠ェ揺曳する。私に残される唯一のその白さは脳裏にも私の人生にも焼き付いていた。
 起きたときには何も覚えていないのに、私はその夢を見るたびに泣いている。でもいつしかそういうものとして、受け止めていた。何も思い出せないのに、その白い影≠ェ残される夢は同じ夢だということを私は認識していた。
 でもそもそもそれを彼に打ち明けたことも彼の前で夢を見て泣いてしまったこともなかったから、焦りを感じて「平気だよ」と説明しようとしたが同時に「平気ではない」という言葉が何故か浮かんで、私は言葉に迷ってしまった。
 眉が下がりかけた私の口元に彼が手を伸ばす。彼の指先を押しつけられた唇に濡れた感触がして、私は自然とくちを開けていた。舌先に柔らかな食感が触れて爽やかな甘さが口内に広がり思わず目を見開いた。
「オレンジだ」
「あたり」
 美味しさに頬が勝手に緩む。そうすると彼の顔にもほほえみが浮かんだので余計に嬉しくなった。ねだるようにくちを開けると、彼は私に再び食べさせてくれた。
 彼の手元には白い皿とオレンジを剥くためのナイフがあった。既に剥かれていた半分のオレンジを二人で食べあってから、残っていたオレンジを彼は危なげなく剥き終える。その様子を見ながら彼と一緒に買い物をしてそのオレンジを購入した際に皮が薄いからナイフで剥くように説明されたことを私は思い出していた。
 自分のくちにオレンジを運ぶ彼の様子を見あげながら、濡れたそのくちびるに目が行く。起き上がって彼の体にくっつくと見越していたのか、その前に持っていたナイフを私にぶつからない距離へと離した彼は、彼をじっと見あげる私にキスをした。
 ベッドの近くに置かれているラウンドテーブルの上に彼の手によってナイフごと皿が置かれる。彼の体にもたれながらテーブルの上のティッシュで果汁で汚れた手を拭く姿を見つめる。彼は手元に視線をやったまま、くちを開いた。
「アイスもあったよね」
 とってくるから名前も食べるでしょと言った彼がベッドから降りようとしたのを、考えるより先に彼の腕を伸ばしていた。腕に縋った私の顔を彼は不思議そうに見てから、笑った。
「アイスより僕?」
 彼の顔を見ていると「置いていかないで」と何故かそう言いたくなる。こうして特別になる前もなった後も置いていかれたことなどないのに。
 私が何も言わずに彼の腕を引いて体に縋りつくと、もう彼はベッドから離れなかった。抱きついたシャツ一枚越しの体温は熱く感じた。
 私の肌もまだぽかぽかしていたけど彼の体は今もそれ以上だ。彼がむき出しの私の足を撫でるとその手の乾いた熱さを感じて、なんだか安心して私はますます彼にすりよった。今日は特に感傷的な気持ちになっている自覚があった。一緒にいるのに夢を見たからかもしれない。
 ベッドにもう一度押し倒されながらキスをする。二人でわけたオレンジの味がすると思った。
「足りない?」
 耳に触れる距離で囁かれる。そのじゃれあいの言葉によって、むしろ今この瞬間が満ちていると自覚していることと、だから失いたくないと自分が考えていることに気づいた。
 私は彼の顔に手を伸ばしてその頬を撫でる。彼はされるがまま私を見つめている。私もまた彼を見つめながら、初めて出会ったあの日を思い出す。私には、一緒に見る海の色よりも美しく見えてしまうその瞳を見つめながら、彼に出会ってしまったなら、忘れられるはずがないと実感を伴って思う。――そうなってしまうとしたら、それは。
 それ以上を考えるのを私は自然と止めて、彼を抱きしめた。問いかけの答えとして彼の名前を今度は私が彼に囁く。
「大好き」
 切実になってしまった私の声に彼の動きが止まり、それから性急になった。私は目を瞑って、彼の手に触れられることだけを感じた。
 彼との交際は絵に描いたような幸せをかたちにするように続いていた。彼と出会ってから季節が巡り、彼と一緒に過ごした季節の記憶も重なっていく中、それでも理由もない私の不安がなくなることはなかった。彼といると紛れもなく幸せであり、今感じている幸せは彼の傍以外には存在していないということが分かってしまっていた。
 でも同時にこうも感じる。今がこれ以上なく幸せなのに不安を抱くのなら、不安を抱かなくなる日が訪れることはないのかもしれないと。
 彼が、私が雪を好きだと思っていたのを初めて知ったのは、そうやって既に何度か一緒に冬を過ごして先のある日のことだった。
 その年、初めて雪が薄く降った冬の日にぼんやりしたままカーテンを閉めた窓を見ていると、私の隣で同じベッドにいた彼が「開けなくていいの?」と声をかけた。「雪が降るとよく見てたよね」と何気なく、そう信じて疑わない口調で続けた彼に、自分の目が見開かれるのが分かった。くちを閉ざしたまま私は知恵を絞って適切な言葉を探した。
 私には彼の前でそう振舞った覚えがなかった。彼にそう言わせるほど雪を見つめることが出来る気がしなかった。私は雪が好きではなかったから。
「……私じゃない人?」
 咎める意図にならないような声を出そうとしたものの、その代わり囁きに近い声になった。私は大事にされていた自覚があったし、そもそも本当は私が一緒にいるような人ではなかったのにそれまで一度も他の異性の存在を感じさせられたことがなくて、だから私に向けたものではないと思う言葉を見せられても咎めたい気持ちは抱かなかった。
 私の言葉を受けて彼は何故か呆気にとられた表情を浮かべた。何を言われているのか分からないという顔にも見えた。私は彼がこういう状況で取り繕うための嘘をつくために表情を偽ることをわざわざしないと考えていたから、間違えたという顔ではなかったことに、もうそれでいいのかなという気持ちになっていた。
 確かにそう思ったのに、自分の眉が下がるのが分かった。その瞬間に彼に肩を掴まれていた。
「全然違う。僕が名前のことしか好きじゃないの分かるでしょ」
 そのまま肩を揺らされる。彼の手の動作によって私の体は大きく揺れた。なんだかその勢いにおかしくなってきて思わず顔を背けると「マジで違うからね」と勢いを増して言葉を重ね続けられて、ますますおかしくなってしまった。
 私が笑っていることに気づいた彼がほっとしたように息を吐いて、今度はこちらの全身を抱きすくめる。
「……必死だ」
「そりゃあそうでしょ。誤解されたくないし」
 冗談めかしてもう一度囁いて返された言葉から感じる迷いのなさに、胸の奥が疼いた。好きだなあと思った。
 手にこめられたいつも触れるときより強めの力や表情や声音の珍しいほどの必死さがおかしくて、嬉しくて、それでよくなってしまった。嘘だと分かったとしても私は見ないふりをしてしまうかもしれないとも思った。
 違う誰かと勘違いしていたわけじゃないことを念を押されて頷くと、彼は私の髪を撫でた。
「名前のことじゃなかったら覚えてない」
 確かに彼が私に関する何気ないことや私の持つ嗜好についてだとかを関心を持って知ってくれているのも分かっていたけど(既に知られていることだけでなく初めて行うことを彼に名前は好きだと思うよと言われて試してみると実際に好ましく感じるし、諫められて遠ざけられたものを行う機会がまわってくると彼の言う通り私には向いてないのだった。彼は私以上に私を知っているようですらあった)他者にもちゃんと向いていることも知っていた。ずるい性質だ。彼のような人に自分のことを覚えられているのが分かったら嬉しくなっちゃうだろうなとそういうところを見るたびに思う。少なくとも私はもっと好きになってしまう。
「名前のことだから、覚えてる」
 そんな風に思ったけど、私を抱いたままの彼の声の先ほどまでとは全く違う静けさに何も言えなくなった。底の見えない深い穴に沈みこむような、静寂な声だった。
 何かを言う代わりに私は彼の手に手を伸ばして重ねた。声とは裏腹に、彼の手には私の持つ体温以上の熱がある。どこかほっとして、その手を撫でた。
「じゃあもしかして好きじゃない?」
 問われて頷くと、嫌になるようなことでもあった? と先ほどとは違う聞き慣れた声音で尋ねられて、私は体の力を抜いて彼にくっつきながら考える。
 嫌いになるような経験はなかったはずだ。嫌いになるようなきっかけも理由も思いつかない。でも雪の降る景色≠ェどうしても好きではなかった。雪の日に自ら窓の外を見ようと思うことは私にはやっぱり出来ない。
 何もないはずなのに雪の降る灰色の空を見あげると私はおかしく≠ネる。
 雪の降る灰色の空を見あげたその日の夜は必ず夢≠見た。記憶を振り返ると思い出せるぎりぎりの遠い日でも、繰り返されるあの夢を既に見ていたから私の人生は夢≠フ残像である白い影≠ニずっとあったようなものだった。
「……寂しくなる気がする」
 結局ちゃんとした答えは出なくて曖昧な答えをくちにすると彼は「僕といても?」と彼からも握ってくれた手をからかうように揺らした。
 それから彼は「あっ」と声をあげた。そして今度一緒に過ごす場所として雪のある場所を選択肢に考えていたことを教えてくれた。今まで彼と共に冬に訪れた場所は全てあたたかい場所だったので、こうしてちゃんと考えることはなかったけど、だから良い機会だと思った。
「一緒になら行きたいな」
 私がそう言うと、彼は私の目を見た。表情を伺われているのが分かったからじっと見つめ返した。そうして目をあわせていると、彼の方が先に「分かった」と笑った。
 「寂しくなるから」という答えは本当はかなりやわらかな言葉だった。私は雪を見ていると自分が永遠に一人であることを突きつけられて死ぬより酷い気持ちになる。でも彼の言う通り、彼がいるなら、平気なのかもしれないとちゃんと思えた。思えたはずだ。
 彼とそう話して訪れたその日は、実際にちらほらと降る程度の雪が降っていて、彼の隣で改めてその光景を直視したけど、大丈夫だった。彼がいたから本当に「寂しくなる」程度になったはずだった。
 そうして彼とともに雪の降る場所を訪れたその夜、夢を見た。夢の中でも雪が降っていた。雪の積もった見知らぬ場所に私は立っていて、空を見ていた。雪が降っているのに空は青ざめている。でも今にも夜が訪れそうな暗さを感じた。
 降っている雪の量が多くて、これからもっと積もるのだろうことが分かる。いつも雪を見ると目を逸らしたくなるのにその光景を見ている私はそんな風には思わなかったし、恐れもなかった。綺麗だとすら感じていた。
 雪の美しさを素直に感じる気持ちは当たり前のように私に馴染んで、本当は私は雪が好きだったんだろうかと思った。「嫌になるようなことでもあった?」彼の声が夢に混ざる。私はどうしてそうなったんだろう? いつから雪を好きではなくなった?
 囚われたかのように空を見ていた私の上に影が差す。陰りに思わず顔をあげると、いつの間にか隣に彼が立っていた。影は彼が私に差して向けてくれた傘によるものだったらしい。彼は黒い着物の上に黒い羽織を着ていて、それにあわせた色のマフラーをしている。彼の持つ傘の赤色が彩度の低い世界で鮮烈に感じた。
 大きな赤い傘の中に彼は、肩を抱きながら私を入れた。彼は私を傘に入れたままま少しの間こちらを見おろすと、次の瞬間に私に傘を持たせ、自らのマフラーを外して私に巻いてしまった。彼のマフラーは重みがあり厚くてつけているだけでもあたたかかったのに、それまでつけていた彼の体温も残っていて全身がぽかぽかした。雪の中にいるはずなのにそれまで何も感じなかったのをそのときに初めて気づいた。彼にそうして優しさを与えられて、彼の体温を移してもらって、初めて温度を認識した。
 彼の頭に傘をぶつけないようにつま先立ちになっていた私から傘を受け取ると、彼は私の背中を軽く押して促した。どこにいるかも知らないのに私の足は向かう場所を知っているようにちゃんと歩いた。
 雪の中をそうして彼と歩くうちに近くに椿が咲いているのが見えて、私は思わず足を止めた。白い世界の中に咲いている赤い椿の鮮やかさは彼が持つ傘のようでもあった。私は彼を呼びとめその椿を指さして、何かを彼に伝えた。
 何を伝えたのか自分でも分からない。雪に映えるねとかとかそういうことだったかもしれない。多分取るに足らないことだったと思う。彼もまた足を止めて、椿に視線をやった。瞬きで彼のまつ毛が震えるのを私は見ていた。
 自分が彼に向けた言葉は分からなかったけど、椿を見て彼が「綺麗だ」と言ったのははっきりと認識した。彼が世界を綺麗だと言うことがなんだか嬉しくて切なくて、胸にこみあげてくるものがあって、思わず私は傘を持っていた彼の腕に両腕で縋ってくっついていた。私はいつだってそうするのだろうと思った。
 前を向いたまま腕に縋ったから顔を見ることは出来なかったけど、彼は違う手に傘を持ち換えてされるがままでいてくれた。でも彼の顔をちゃんと見ていれば良かったなと思う。彼の一つ一つの言動を、忘れないでいたかったことだった。大事な記憶≠フはずだった。
 そして、目が覚める。暗い天井が一番に目に入って、それこそそれまで見ていた夢の中のように、どこにいるのか分からなくて、目を瞑りなおした。感じる自分の鼓動の強さが苦しかった。
 瞼の隙間から唯一つけられていた明かりのテーブルランプの光が瞼に遮られながらも目に入ってくる。その光に、彼と共に旅行に訪れたホテルのベッドの上にいるという現実の認識が戻って来て、息を深く吐きながらそっと目を開けた。しばらくの間、ただ天井を見あげていた。
 夢に見た内容が頭の中で反芻されていた。私にはあの黒い着物を着た彼と一緒に雪の中を歩いた経験はなかった。彼と出会ってから過ごした冬のことを一つ一つ思い出してみても、そんな記憶は見つけられない。そもそもこんなに雪のある場所を一緒に訪れたのも今回が初めてだ。本当に?
 夢があまりに鮮明で、夢の中の自分の感情が私のものにしか思えなくて、生々しさに、横たわっているのに視界が揺れている気がした。
 白い雪の夢ではあったけど、いつも見ているあの白い影≠残す夢ではないと思った。きっと初めて見る夢だった。
 夢ではなく本当の現実に意識を戻すために、今日のことを思い出す。一緒にとった食事や訪れた場所より先に彼が着ていたコートの白を最初に連想した。シルエットに沿った白いコートを着ている姿はよく似合っていて、私は彼のその姿を見るのが好きだった。
 それからホテルの近くで椿を見たことを思い出して、だからこんなに具体的な夢を見たのかもしれないと考えた。今日、確かに見た椿と、見たことがないはずの夢の中の椿の赤さが重なって、思わず両手で顔を覆う。何も見えないように隠した眼の裏に幻ではないことを示すように赤色が焼き付いていていた。
 隣をそっと伺うと彼は眠っていて、その姿を見ているだけで頬が緩む。そうして彼を見つめていたものの、私はベッドから降りてベッドルームの外に出た。
 リビングルームの入り口からすぐのコーナーソファーセットが目に入ってそのまま端に座ろうかとよぎったものの、私は立ち止まらなかった。避けていたはずの窓へと足は勝手に向かっていた。
 意識せずに窓へ向かってしまったように、気づけば両手でカーテンを開いていた。窓の外では勢いを強めた雪がすべてを白く染めあげている。窓に近づくほど冷えた気温を感じたけど部屋の暖房のせいか寒いと感じることはなかった。寒々とした輝きを帯びた白い景色と感じている気温の違いもあって、硝子の先はなんだか別の世界のように見える。
 窓辺に立ちすくみながら空を見あげた。夜なのに明るく見える空から落ちてくる雪を見ていると限りなくゆっくりと時間が流れる錯覚をした。そうしていると雪の白さに侵食される錯覚をする。――白い雪がすべてを覆い隠してしまう。
 冷たい温度をした不安がふっと心をざわめかせ、思わず窓に触れていた。私の手は向こう側≠ノは届かない。あるべきものを失くしているということをその瞬間にはっきりと認識して、それは向こう側≠ノ、あの雪の下にあるということにも気がついた。
 息が止まる心地なのに心臓が強く打っていた。ああ、こんな風に自分の死にそうなほどに打っている心臓の音を、前にも聞いたことがある。彼に初めて&きしめてもらったときを思い出したけど、それよりもっともっと……、一体いつのことだっけ? なに≠見てそうなったんだろう? ああ、でもこんな風には積もっていなかった=B
 私にはそんな風に心を波立たせる出来事なんてないはずだった。彼に出会うまでは。
 白い影≠フ気配の狭間でただ息をして生きてきた。私はきっとずっと空ろだった。彼といるほどそう強く感じた。彼といるようになって満たされた≠ゥらそのことに気づいてしまった。そして私は彼と共にいてもまだ欠けていた=B
 蘇るべきではないと感じる予感とともになにかが開放されかけている。私はそれを心の底から恐怖した。彼と出会ったときや恋人になったときよりももっと深刻な感覚だった。
 発作的に強く目を瞑ったとき、目の前が瞬き、私はこの空とも先ほど見た夢の中の空とも違う鈍く濁った空を、その下で彼の背で靡く羽織の白を見た。見慣れた彼の白いコートの姿が、その背に重なる。でも、そうじゃない。今日じゃない=B胸に思いがこみあげるまま背中を見つめ続けるとこちらに彼が振り返り、笑って手を振る。そして、――雪が降る。
 雪だ、と思った。私が今まで見ていたのはあの白い影は雪だ。感じていたのはとこしえの冬の気配だ。
 雪の降る暗澹とした空の下で私はなくしてしまった。だから喪った瞬間に降り出した雪に近づくと喪失の予感を覚える。縋りついたときに理解してしまった喪われた事実を、思い出しそうになる。すべてを凍りつかせ、私の時を止め、あけることのない冬が私に訪れた瞬間の気配に心が軋みだす。
 喪ったら耐えられないもの。この世で最も大事なもの、世界で一番愛しているもの、自分の命より大事なもの。私にとってそれは、いつだって、ただ一人の存在であるという事実に、無意識にたどり着きそうになる。永劫にその存在を失った自分がどうなるのか分かっていた。私には耐えられない=B
 その思考と共に今すぐに飛び出して向こう側≠ノ向かいたいという衝動が増していき、強迫的な衝動が頂点を越えようとしたとき、私の体は後ろから熱に包まれた。抱きしめられている背中から伝わる熱い体温に体から力が抜けて、私は考えることを止めた。腕に抱かれていることを自覚すると膝から力が抜けて、投げ出すように彼に体を明け渡す。ぼんやりとしたまま窓の向こうを見た。
 彼は私の体を抱きしめていた腕で簡単にこちらを抱きあげると窓の近くに備えつけられていた一人掛けのソファーに座った。窓を向かせたままの私を膝に乗せた彼がこちらの髪を撫でる。
「僕を置いてくくらいやっぱり雪が好きだったの?」
 彼は笑ったけど、私の頬は動かなかった。むしろ私が彼を待っていたんだと思う。見る≠アとを選んだ日から、彼を送り出したあの日から、私は、ずっとずっとずっと、彼を、彼が私の腕を掴んだあの日を。いや、待てなかったからこうなったのだ。
「悟さん」
 音もなく降りしきる窓の外の雪を見たまま、私はくちを開いた。
「ちゃんと待てなくてごめんね」
 髪を撫でてくれていた彼の手が止まる。部屋の中はしんとしていて、空調の音がかすかに聞こえるばかりだった。
「私、何も分からなくなりたかったの……。待ってるって言ったのに、出来なかった」
 彼の腕が動いたとき、その手で体は横を向かされ膝の上で彼の顔を見あげた。視線が交わる。何を言っているのか、そもそも何を考えて話をしているのかすらもはや自分ですら理解出来ていなかった。だけど彼はもう笑わなかった。
「ごめんね、僕こそ遅くなった。君は十分僕を待ったよ」
 彼の瞳を縁取るまつ毛が瞬きによって震える。根元から白いその長いまつ毛や彼の髪が、夜の中でも窓から差す透明な光によってきらきらと反射していた。
「君は僕のものだった。ずっとだよ、君が覚えていなくても。……だから、苦しいなら戻らなくていい。君がどうだって僕のものだってことに変わりはないんだから」
 貴方のことがずっと好きだよ、私はそう伝える。残される日が来ても、それでもやっぱりずっとずっと好きだった。貴方が好きだった。
「今も大好き?」
 深く頷く。「死んじゃいそうなくらい好き」そう伝えたときの彼の薄いくちびるの僅かなわななきが、近い距離だから見て取れてしまった。
「こうやって苦しませるくらいなら、僕と一緒に連れて行ってあげればよかったね」
 大きな手のひらが私の目を覆い隠す。彼の言葉はどこか遠かった。ちゃんと声が聞こえているのに、会話をしているのに、言葉が上手く理解出来ない。それなのにそうだったら私は喜んだんだろうなと思った。でもそうしないことこそが彼の愛だとも、分かっていた。
 開放されかけたものが彼の言葉によって深く深く沈んでいく。私からあの光景が遠ざかっていき、鮮明さを喪っていく。
 私が今手離そうとしているものは大事なものでもあった気がする。取り戻しかけた気配が薄れていく感覚が寂しくて切なくて、でも安心する。何も見えない彼の手の中の闇を心地良く思った。もう見たくはなかったから。見たくないと恐れているのにそれがどうしてなのかすら私は忘れてしまった。
 彼は私をソファーの上から再び抱きあげると窓辺から遠ざけるようにベッドルームへと向かった。自らの足を一度も床につけないままベッドにおろされる。ベッドルームは厚いカーテンが引かれていたから、もう窓の外は見えなかった。
 サイドに置かれたテーブルランプによって私を横たわらせる彼の影がベッドの上に落ちた。一緒に横になった彼は二人の上にデュベをかけ直し、その上から私の体を安心させるように優しく叩いてくれる。照明の光は暖色でそれだけで十分に明るかったけど、だから彼の影をより濃くさせていた。私の顔をじっと見つめている彼の顔にも陰影がかかる。
 さっきの話には二人共触れず、楽しかった今日の話をした。そしてこれから行きたい場所やしたいことの話をした。未来の話が彼によってなされることを噛みしめる。
「……また海の近くにも行きたいな」
 共に行きたい先を問われて、そう答える。でも彼と共にいられるならどこだって楽しいんだろう。日の光の下だって月の光の下だって等しく嬉しく思うだろう。
 彼となら、雪のある場所でもやっぱりよかった。こうして向きあって未来の話が出来る瞬間がそうであるように、雪を見て寂しさや怖れを感じる瞬間があっても、それでも幸せだ。だって、彼がいてくれるのだから。私にとってはその場所が北でも南でも変わりなかった。二人でならどこにだって行きたかった。一緒に歩くことが出来るのなら、私はずっと幸せだろうから。
 こうして彼に見つけてもらって、抱きしめてもらって、彼といられて初めて私は自分が生きていると思った。
「きっと私はずっと寂しかったけど、悟さんと出会ってからはそうじゃなかった。私にあった穴はきっと悟さんが埋めてくれたんだね」
 そう言うと彼は見たこともない顔をして、私を強く抱きしめた。窒息しそうなほどの力の強さは出会ったときのことを思わせた。私の腕を強く掴んだ彼の手を、私を見つめた彼の視線を、私の名前を呼んだ彼の声音を思い出す。
 私は彼と出会ったときにどうしてあんなに怖かったのか、何を恐れていたのか、今になって気づいた。彼といると、私が失っている何かを思い出しそうになるからだ。喪失する予感をつきつけられるからだ。一緒にいるときに感じる不安もその延長だった。
 でも出会わないままでいたいと思うことは私には不可能だった。耐えがたい喪失があるのだとしても、彼と出会って彼を選ばないでいることがどうして私には出来ない。
「君にその穴を開けたのが僕だよ」
 彼の声には苦しさや喜びが相反して混ざっている。私はその言葉にそうなのかもしれないなと納得した。こんなに大事だと思う人のことでなければ欠けたり≠ヘしないだろうと思えた。
 私の心に触れることが出来るのがこの世に彼しかいないのなら私が欲しいのも彼だけなのだろうと考えたことがあったけど、きっと逆だった。最初から彼だけが特別だった。そもそも私の心は彼のものだった。
 彼だけが私には特別だった。何を忘れても、欠けてしまっても、どこにいても、私が私であるなら、彼でなければ駄目なことが変わることはないのだろう。私は彼がいなければ幸せになることはない。出会わなくても出会ってもきっとずっとそうなのだ。悟さん以外の誰もいらない。そう言ったのは私自身だった。
 彼の腕の力をどこにもいけない力の強さだと思った。でもそんな風に抱きしめられなくたって、彼を愛したときから、私、もうどこにも行けない。

対岸、橋は架からない

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