NOVEL | ナノ

 付き合ってもいいくらいには僕のこと好き? といつも見ていた彼の様子よりずっと弱さを感じるような問いを投げかけられて、それに頷いて始まった関係だった。
 彼は、私が彼を好きだと言うといつも本当に嬉しそうに笑った。そうして笑うときの彼は静かで、目に見えて視線が甘くて、それがくすぐったかったくて嬉しくて愛しかった。
 常日頃から仕事で忙しくしている彼とは恋人という関係が始まってからも一緒にいるということが一番難しくて、でもそれ以上に大事にされていたので気になったことなんてなかった。幸せだった。ただただ、幸せだった。人生における幸せの絶頂があるのなら、今この瞬間に違いないのだと思った。
 幸せだと感じたから、意識したから、失いたくないなと思った。彼自身が時々急に寂しくなることを言う人だったから余計そう思ったのかもしれない。私はいつかの終わりを考えるようになって、それから一線を引くようになった。
 明確に言葉にしていたわけじゃなかったけど、彼は分かっていたと思う。もの言いたげな視線を向けることはあったけど、彼は無理に言いくるめるようなことも強引なこともしなかった。彼は初めからひたすらに私に優しかった。
 それは行為に関してもそうだった。私は彼しか知らなかったけど、それでもそれがどれだけ特別なのか十分に分かるほど甘やかされていた。
 肌同士が重なっていると安心するし彼が今ここにいることが分かる。抱きしめられると幸せで胸がぎゅっとなって愛されている、と"分かる"。
「……きもちいい」
 熱に浮かされた自分の声を耳にするといつも別人みたいだなと思った。彼は私の言葉に「僕も」と笑うのが空気で伝わってくる。そうしている間だけはいつもより素直になれて、彼がそれに対して嬉しそうにするのが、心のどこかでいてもたってもいられない気持ちになる。
 優しくされすぎて焦れる気持ちで、閉じていた目を開けて彼を見上げると目をのぞき込むようにしてくれる。私は目を合わせるのが好きで、それを知っている彼はいつもそうしてくれた。
 汗で額に張り付いた私の髪を彼がその大きな手でかき上げる。
「もっと?」
 ちゃんと僕に言ってと唇を撫でられて、導かれるように口を開く。さわって欲しいと乞い願った。
 目をとろけそうにした彼が私の髪を撫でてくれる。体の芯から幸福と心地よさに震えた。
「可愛いね」
 彼の声は本当にうっとりした調子で、それを聞いている私の方がおかしくなりそうだった。
 指を絡めて繋いだ指すら熱くて、汗で濡れる感触を感じる。彼の肌に汗が滲み、私に興奮をしているのを実感すると許されていると思った。
 彼が好きだという思いで頭の中が埋め尽くされる。声には出せない。言葉に出来なかった思いが飲み下され喉の奥に落ちていく。その代わりにキスしてほしいとねだった。
 仕方ないなあと彼が甘い声を出してその声のように甘いキスをしてくれる。何もかもが崩れてとけていくような心地に浸る。
 気持ち良さには際限がなくて、つくったはずの一線すらとかされていくのが怖い。それでもやっぱり彼と触れ合うことが好きだと思う。理性ではどうにもならない感覚だった。
 触れ合うことを終えたとき、ぐったりとしたままベッドに横たわったまま、彼が動くのを見ていた。その様子を見ながらありがとうと掠れた声で今度はちゃんと伝えた。人としての形が崩れるような感覚を与えられた余韻がいまだに残っているのが怖くて、それ以上を与えられるまえに力の入らない体を起こした。シャワーに向かおうとするとその前に彼が制止する。
 ちょっと待ってと言われて、大人しく従った。彼はサイドテーブルから何かを取り出すと座り込んでいた私を正面から抱き寄せるようにした。そして彼が私の首の後ろに手をまわす。熱がまだ残る体温より冷えた感触が肌を掠めてネックレスをつけられているのだと分かった。出来たと彼の手が離れる。視線を下ろすと青く輝く石が胸元に輝いていた。
「これって……」
「うん」
 私が何を言いたいのか分かったのか彼が頷く。私は彼と以前にした会話を思い出す。
 一緒に映画を見たときにした会話だ。映画のなかでまるで子供の玩具のように大きい宝石が出てきたときに何気なく綺麗だねと口にした。欲しい? と冗談でもなさそうに言われて、慌てて首を振って、だけどその中の青い宝石を差して一番好きだと私は言った。海みたいとも口にした。でも本当は、海の色ではなく彼の色だったから、その色に惹かれたのだった。彼と付き合うようになって、私は青色を見ると強く彼を意識するようになっていた。だって彼が私を見つめてくれるその瞳の色だったから。
 覚えていてくれた切なさと嬉しさで、私は唇を噛みしめる。泣きそうになった。
「嬉しい」
 もっとちゃんと伝えたかったのに、私にはそれしか言えなかった。私は彼に対して彼を好きだという気持ちをもうまともに伝えられなかった。そうしなければとずっと考え続けたせいで口にしようとすると喉が動かなくなる。
 それ以外に何も口に出来なかったのに彼は私の顔を見て、どうして泣きそうなのと優しい声で言って頬を撫でてくれた。なぜこんなに泣きたくなるんだろう? それは私が彼が好きだからだ。彼が好きだから、どうしようもなくなる。
 私は息を静かに吸って彼の頬に手を添えると、口の端にキスをした。あっけにとられた顔をする彼の反応に私の頬がどんどん熱を持つ。こうしたスキンシップにおいて自分から彼に何かをするということはその頃にはほとんどとらなくなっていた。
 羞恥ですぐに離したその手の手首を彼が簡単に握ってしまう。彼の手に触れられるたびに大きな手だと思った。そのまま後頭部に手がまわる。今度は私がしたおままごとみたいなキスではなかった。熱く濡れた舌が口をこじ開け、私を蹂躙する。たくさん支配されてから、解放されたときには私の顔はもっと熱くなっていた。そのまま、ベッドに押し倒され、先ほどまで離れようとしていた体を彼の腕によって連れ戻される。
「初めて誰かに選んだけど楽しかったな」
 何気なくといった調子でそう言う彼は私の首にかかっているネックレスに指をかけるようにして引っ張る。
 そんなつもりはないだろうし力加減も分かっているだろうけど、ちょっと不安になって乱暴にしたらダメだよという意味で彼の手に手を重ねてやんわりと制すると代わりにそのまま手を握りしめられた。
 私の手を握りしめる彼の太い指の前だとどんなアクセサリーも華奢に見える。この指で金具をつけた瞬間を想像すると大変だったろうなと思った。だけど手間取った様子もなかった。彼は本当に器用で、なんでも出来る。
「今度は一緒に選びに行こうか」
 そう言って彼は私の左手の薬指を撫でた。言葉に出さなくてもその仕草の意味は伝わってきて、体が竦む。指輪をもらったら嬉しいだろうなと思うのに、心のどこかで怖気づきそうになる。恐れと罪悪感と嬉しさが入り混じった感情と同時に、『指輪をもらう』ということにもその意味にも現実味がないと私は感じていた。
 返事をしない私に焦れて彼が私の肌を噛んだ。その甘噛みに私が思わず声を上げると、彼は拗ねた目で私を見る。
 迷ってから、手を伸ばして頭を撫でてあげた。さらさらしている髪の隙間に指を入れると、彼は表情を和らげる。もっとしてよと甘えるみたいに彼がぐいぐい私の胸に頭を押し付けてくるので猫みたいと思った。むき出しの胸に顔をうずめられると髪の毛が皮膚に触れてくすぐったい。思わず声をあげるともっとくっついてくる。
 そうしてじゃれていると、彼がねえ、と私に聞いた。
「僕のこと好き?」
「……好きだよ」
 大好き。初めて誰かをこんな風に思った。失いたくないと思うし、私をずっと好きでいてくれたら幸せで嬉しい。彼から離れるとき、きっともの凄く苦しくて辛いと思う。
 好きという言葉に沈黙と躊躇いを見せて、曖昧に笑った私を彼が見つめる。だからもう一度だけ大好きだよと言葉にした。彼はそれに、僕はもっと好きと私の体をきつく抱きしめる。
「なんでもしてあげる」
 静かな、静かだからこそ本気だと分かる彼の言葉に、今まででいちばん胸が痛んだ。私はそれを誤魔化すためにはっきりと冗談だと伝わる声音を意識して、もっと会えるようになったら嬉しいなと言った。
 それでもうんと素直に頷く彼の声が沈んだように聞こえて、彼の頭をそっと抱きしめる。いつでも離せるように緩い力で、彼の頭を胸にかき抱く。
「意地悪言ってごめんなさい」
 そっと囁くと、腕を外されて今度は彼の胸の中に抱きしめられる。その体に抱きしめられるといつも拘束めいた感覚を受けた。
 私を包むあたたかな檻の中で、そのぬくもりを失うことが恐ろしく思った。だけど"そのとき"が来たら私はそれ以上に、彼にこうして抱きしめてもらえなくなるいつかが訪れることを恐れなくていいということに安堵してしまうだろう。
 想像したことが現実になったとき、私はやっぱりそうだったのだと思い知る。私は彼の意志で彼から手離されることを恐れて自分から彼の手を離した。
 別れ話は簡単に終わって、私が自分で切り出したことなのにその日が頭をよぎるたびに苦痛を覚えた。思い出すべきではないと思うほど、その思い出は強固になっていった。
 久しぶりに会って抱きあっている間も上の空だった私が事後、遠回しに切り出すと(馬鹿みたいだと分かっているけど、この段階になっても、別れ話を自分で切り出すときですら、彼に厭われることが怖かった。)彼は私の顔をのぞき込み、何かを口にしかけた沈黙を挟んだものの、言葉の代わりに私に薄く笑った。そうして関係を終えた。
 改めて本人のいない彼の部屋を最後に訪れたときに贈ってもらったネックレスも返すか迷って(形が残る大きなものは贈られることを私はずっと望まなかったからネックレスは本当に唯一のものだった。)彼が以前にプレゼントに関して、返されるなら捨てると言い放ったことを思い出した。それは私にプレゼントを受け入れさせるための理由でもあったしきっと事実でもあった。私が返したネックレスが彼の手によって価値のないものみたいにゴミ箱に捨てられるのだということを考えると、それを知っていて置いてくることは私にはどうしても出来なかった。
 手元に残ったネックレスの、見る条件で青の深さが変わるその石の色合いはどんなときも彼の瞳を連想させて、それが苦しかったから、私はこれまでずっと着けていたネックレスを、目にすることのない場所に結局しまい込んだ。
 プレゼントにもらったあのあと、私はその石について詳しく調べていた。その石は彼の誕生石でもあり、宝石言葉は贈ってもらった私よりも彼自身によほど似合うとも思った。人生を良い方向へ、選択を助けてくれるともあったけど、せっかく贈ってもらったのに私には"上手く"できなかったのだ。
 彼と別れたあと、私は流されるように簡単に別の男の人と付き合うことになった。一人でいたって誰かと一緒にいたって心は何も変わることはなくて感慨は薄かった。全てが目の前を素通りしていっているような感覚だった。
 新しくできた恋人は良くいえば意志が強く手を引いてくれる人で、良く言わなければ強引な人だった。なんでも決めてくれるので彼に従うだけで良かったから一緒にいると楽だった。何も考えなくて済んで、ちょうど良かった。全てが空虚でもうなんだって良かった。
 そうして付き合い始めて時が経った頃、恋人の忙しさによって会うこと以上に連絡すら少なくなった。機会を見て彼の部屋まで訪れると、困憊した様子を見せる恋人と対面することになった。仕事と実家のことが重なったのだと恋人は珍しく言い辛そうに口にする。どこかで私がしたように別れ話になるのだろうかと考えていた自分が恥ずかしかった。
 恋人のそんな様子を見ることは初めてで、事態の重さは明確だった。だから考えるより先に私に出来ることなら力になりたいと口に出していた。
 恋人が弱さを見せてくれたのが初めてだったように私が自分からそんな風に強く言い出すのも初めてだったから彼は驚いた様子だったが、嬉しいと言ってくれた。その顔を見て私がそう口にしたのは間違いではなかったと思えてほっとした。私の言葉に顔をほころばせた恋人の様子を見てこれでよかったのだと思えることに安心した。
 そうして話が出来たことは良かったけど、問題自体は解決どころかどんどん悪化しているようだった。恋人の姿も日に日に窶れていく。それを見ているだけしか出来ないことに無力さを感じ、自分に出来ることはないかを考えるも具体的なことで役に立てることはないに等しかった。
 どうすれば力になれるのかを悩んでいるときですら、私自身を空中から見ているようなどこかで他人みたいに考えている自分がいる。彼と別れてからどんなときも、こんなときですらずっとそうだ。あの日から私の人生は余生のようだった。
 仕事を終えて一度自宅に戻ってからシャワーを浴びて、彼の部屋に向かう準備をして家を出る。明日が休日であっても彼は部屋に戻ってくることはないかもしれないなとぼんやり思いながらも彼の部屋で用意する食事のことを考える。夜もすっかり更けた道なりもそうして考え事をしながら歩いているとあっという間だ。
 彼のマンションが見えるあたりでふっと顔を上げたとき、人影が近くに立っていた。街灯もない暗い道の中でも分かる大きな影だ。気づくより先に心臓が強く打った。考える前に体が反応する。季節には似合わない冷たい汗が肌に滲む。私の目が暗闇に慣れていたせいで、人影がこちらを向いたのが分かってしまった。
「久しぶり」
 久しぶりに会うことを感じさせない何も変わらない声だ。私はとても顔を見ることが出来ず目を逸らした。
 私が震えた声で彼の名を呼ぶと忘れられたかと思ったよと言う。冗談なのか本気なのか分からない彼の言葉に抱いた感情を誤魔化すために"いつも"みたいに曖昧な笑いが自分の顔に浮かんだ。彼といるあの頃、自分の感情を誤魔化すためにいつもそういう笑い方をしていた。その表情を浮かべるのも久しぶりだったのに全てを覚えているというように私の顔は考える前にそういう動きをした。
 どうしてここに? これからどこかかに? と頭の中を言葉がくるくるまわる。冷えた汗が肌に滲み、口の中が渇いていくのを自覚した。
「大変みたいだね」
 私があたりさわりのない言葉を口にする前に彼がそう言う。なんの話だろうと思って、それから気づいた。私が今、誰かに大変だと思われるようなことはひとつしかなかった。
 どうして知ってるんだろう? と思ったけど、でもそれは重要なことじゃなかった。彼は付き合っているときもなぜか伝えてないはずのことを既に把握しているということがあったからそれの延長かもしれないし、そもそも『どうして?』を教えてもらっても意味があることでもない。
 顔を上げると彼の後ろ、その少し先で街灯が明滅しているのが見えた。切れかかった光が瞬いているのを見つめながら私は口を開く。口の中が渇いているせいで、声が出にくかった。
「……」
 私の声は音にはならなかった。そもそも何を言えば良いかすら分からなかった。彼が苦笑する。
「今行ってもいないと思うよ」
「だ、……大丈夫です。知ってる、から」
 思わず敬語を使ってしまってから、嫌味に思われるかもしれないと思って付け足したように言葉を崩した。元恋人である彼との接し方を私は知らなかった。
 沈黙が満ちて、私はそれに耐え切れずに喉から言葉を引き絞った。
「……大変、だからこそ……私も頑張るよ」
 近況を話す言葉として可も不可もなく、変な心配を抱かせず、流しやすい言葉を選んだつもりだった。けれどその言葉を放った瞬間に明確に周りの温度が下がった。
「健気だね。会う時間も作れないのは僕と同じなのに、僕の時とは違って別れようとはしないんだ?」
 刺すような言葉に私は目を見張った。別れるときですらそういう声を使われたことはなかったからだ。
 凍り付いたように動けない私の首を彼の視線が撫でる。彼に贈られたネックレスを身につけていない時間の方がすでに長くなっていたのに、ネックレスを常に身に着けていたあの頃に戻ったように首元がすうすうした。
「今は何もしてないんだ。あれは捨てちゃった?」
「す、……捨てててない」
 主語のない言葉が何を指しているのかすぐに分かる。きっと私に捨てることは不可能だった。私が沈んだ態度を見せたせいか彼の声が目に見えて柔らかくなる。
「僕はあの時、あのネックレスも僕みたいに置いて行かれるんだと思ったよ」
「……置いていったら、返したら、捨てちゃうって言ってたから」
 沈黙がまた落ちる。
「僕に贈られたプレゼントを捨ててもいないし、僕に捨てて欲しくもなかったんだ」
 未練がましい自らの様子を彼に口にされることは耐えがたいことで、私はそれに目を伏せた。
「覚えてる? 何気ない顔で渡したけど本当は僕、すごくドキドキしてたんだよね。だから喜んでくれて嬉しかった」
 彼が吐く言葉はどうしてと聞きたくなるくらい、変わらずに甘い。久しぶりに触れるには優しすぎるその言葉が余計に私の罪悪感を刺激した。彼に一方的なことをした自覚がずっとあったから余計だった。
「……ごめんなさい」
 私の謝罪に彼が私に一歩近づき、穏やかな声のまま言う。
「僕と同じでも別れようとは思わないくらいに好きになったの? 僕のことは捨てたのに?」
 声音が変わらないまま言葉の勢いだけが増す。
「僕、ずっと優しかったよね? 優しくされるのじゃ物足りなかった? ああいう男が好きだった? 僕との付き合いっておままごとみたいだった?」
 彼はその言葉通りずっと私に優しかった。始まるときも付き合っているときも関係が終わるときも、ずっと私にしたいようにさせてくれた。私の意志を尊重し大事にしてくれていることは痛いほどに分かっていた。
 私は別に彼が忙しい人だから別れたがったわけじゃない。彼がない時間のなかで私に会ってくれていたことはよく分かっていたし寂しいと感じないとは言わないけどそれを理由に離れたいと思ったことなんてない。
 ただただ彼のことが大好きでそのせいでどうしようもない不安が私にあっただけだ。それは私自身の問題であって、本当は私が向き合って解決しなくちゃいけなかった。でも私はそれから逃げた。だから、彼は何も悪くない。あんなに大事に優しく尊重されて逃げた私が全部悪い。
「なんで僕はダメなのにあれは許されるの?」
 どこまで彼が私のことを把握しているのかは分からなくても、私が他の男性を恋人としその相手が忙しくするのを許し付き合い続けたことが、彼にとっては受け入れがたいことであるようだと言うことは、彼の語気でなんとなく分かった。
 別れを切り出した瞬間以上の勢いに押されるように自然と一歩下がる。そこで初めて、私は彼の顔をまともに見つめた。彼は仕事から帰ってきたときに見かける闇に紛れるあの黒い服装だったけど、いつものサングラスはなく、素顔だ。青く輝く瞳が私を見ている。表情のない美しい顔にその瞳だけは異常なほど爛々と輝いていた。
 その瞳を見た瞬間に私は考えるより先にもっと後ずさり、来た方向に駆けだしていた。逃げる必要はない。逃げることなんてない。逃げる方が変だ。そうだよね? だって彼は何も私から奪うことなどしていないし、されたことだってなかった。そもそも彼が私に何かをするほど、私に価値なんてない。自意識過剰だ。自問自答する。でも足は止まらなかった。
 転びかけて、よろける。履いていた靴がその拍子に片足だけ脱げたけど裸足のままで走った。頑張って走ってまた転びかけて、今度こそ体が地面に崩れ落ちそうになる。名前が呼ばれたと思ったときには私の体は支えられ抱きかかえられていた。私が逃げたことなんてなかったような一瞬の挙動だった。それはいくら私の足が早くないとしても異常だった。そもそも彼が追いかけてきている様子だってなかったはずなのに。
 何をされたのか理解出来ない現実味の無い彼の挙動に、私がどう逃げてもまたこうして簡単に捕まってしまうだろうことが分かる。同時に、掴まれている手首にもう逃げるために走り出すことも出来ないと思い知らされる。こんなに久しぶりに触れられても、やっぱり大きな手だと思った。
「こんな風に落とすなんて僕に拾ってほしかった?」
 突然の全力疾走で整わない呼吸に熱を帯びた頭では彼の言葉が届かず、一拍を置いてやっと理解してから首を横に振る。体に力が入らない。
 距離をとろうと彼の体に手をつき離そうとした私の足の汚れを手で払うと、拾って来てくれたらしい私が先ほど落としてきたオープントゥのミュールを手ずから履かせる。だけど下ろしてはくれなかった。
「今、すごく大変≠ネことになってるんだよね?」
 私を、こんな場面には似つかわしくないほど優しく抱えなおすと、彼が念を押すように言う。
「僕が助けてあげる」
「助けるって……」
「君の今の彼はね、このままだと死ぬよ」
 彼の言葉が冗談ではないことはすぐに分かって、自分の血の気がサッと引く音が聞こえた気すらした。
顔色を変えた私を彼がのぞき込む。瞳が近い。私を見つめる彼の、表情の変化や光の加減で色合いが変わるその瞳が、部屋にしまい込んだままそれでも忘れることも手放すこともできないあのネックレスを思い出させる。
「でも僕なら助けることが出来る。君が僕に縋るなら、すぐにでも」
 無言のままでいる私に彼は続けた。
「なんでもしてあげるって言ったでしょ?」
 にっこり笑う彼に、私はそこでようやく彼が見たことがないほどに、強く怒っているということにやっと気づいた。何に? 私に? 私の恋人に? 抱き上げられているのに彼の怒りが重力として体にのしかかるように重たくて、私は自分の指先に力が入らず、痺れているのを感じていた。
 彼の唇が弧を描く。どこか演技じみた美しい微笑みは大仰さも含めてまるでつくりものみたいに完璧だった。こめられているのが怒りだと分かっていても見惚れてしまいそうなほどだったけど、完璧なその表情は怖い顔をされるよりもよほど彼が今どういう感情なのかを他者に理解させた。
 その笑みは別れ話のあのときを思わせた。私はそこに至って初めて、あのときの彼もこんなふうに強い感情を抱いていたのかもしれないと思った。今気づくということに、あのときの私は本当に私のことしか考えていなかったし頭になかったんだなとも、思った。
「私が、どうすれば、……叶えてくれる?」
 なんでもしてくれると言ってその言葉通りに彼が“なんでも”を施してくれたとき、私はいつも自分に出来る代わりのことを返した。だから彼の言葉は私が返さずにいられないことを知っていてわざと口にしている。それを分かっていても望まれた答えを返した。
「僕が何を求めて欲しがって、ここにいるのか分からない?」
 彼がここに足を運んでまで欲しいもの。恋人の命の代わりのもの。怒りを見せた相手に助けてもいいと思えるくらいに値するもの。
 彼が金銭的な意味での対価をわざわざ会いに来てまで必要とするとも求めるとも思えなかったが、他に私が彼に渡せる価値のあるものを他には思いつかなくて、どれだけ頑張っても支払いますと口にすると、彼は「あはは」と声を出して笑った。少しも楽しくなさそうで、怖い笑い声だった。
「本気で言ってる?」
「だって他に私に渡せるものなんて、……ない、から」
 彼は私の頬を撫で、触れた。先ほどまで彼が見せていた怒りとは裏腹に愛情に満ちた仕草だった。でも私にはとても外れない力がこめられている。彼はその仕草で言外に何を求めているのか指し示した。
 まさかという言葉が頭をめぐる。恋人の死を予言された瞬間以上に信じられない気持ちの方が大きかった。取り繕う前に言葉を失った私に彼がとどめを刺す。
「君自身を僕に返して。君の全てを差し出して」
 その言葉に私は考えるより先に言葉にしていた。
「どうして?」
 困惑だけが滲む私の返事に、彼は表情を変えずに私を見つめた。そしてどこか寂しさの滲む顔をした。瞬きの間のことだった。
「僕が一番欲しいものが君だから」
 頑張るんだよね? と私自身の答えを聞く前に、彼は歩き出す。私が向かっていた場所とは正反対の方向だ。彼の背中越しにどんどんとマンションの姿が離れ、遠ざかっていく。
 彼は私を抱えたまま、私の左手の薬指から嵌まっていた指輪を引き抜いた。彼がその指輪を手の中に握りこむと不可視の圧力を受けたように捻じれて潰えて砕ける。あまりにもあっさりとした指輪の終わりは夢の中の出来事みたいだった。
「今度こそ僕とお揃いの指輪、一緒に買いに行こうか」
 靴も履かせたし、こうして助けに来たし、僕って王子様じゃない? と彼が言う。先ほどまでとは違う、感情の起伏のない平坦な声だった。彼がそうだったとしても私はきっとお姫様にはなれないなと思った。
 指輪を引き抜かれた指をいつかされたようになぞられる。太い指にそうして触れられると先ほど彼の手の中で残骸にすらなれずに粉々に砕け散った指輪の様子を想起させた。その気になれば彼は私の指はもちろん私自身を簡単にそうできるだろう。今この瞬間もそうだし、今までもそうしなかっただけだったのだと気づく。
 私はなぜかこんな状況で、あのネックレスをもらってから石の名前の由来を調べて彼と話したことを思い出した。由来の一つにその宝石がとれる場所の空の色をしているというのがあって、だから見てみたいなと言った。でも私にとっては空を見ることが目的じゃなくて、彼と一緒にいたかっただけだ。一緒にいられるなら本当はどこだって良かったし空を見られなくたって良かった。そしてそれを彼にはやっぱり伝えられなかったし、終わりまでそうだったのだ。
 彼は私の彼の忙しい日常を考えたら夢を見ているような言葉を否定しなくて(それこそなんでもしてあげるという言葉の通り、私が願ったことは難しいことでも彼はずっと許してくれた。)いつかそうしてどこかに二人で行けたらと約束をしてくれた。私から願ったその約束も果たされる前に結局私自身が手を離した。
 彼はきっと今も昔も変わらない。私がただ"間違えた"のだ。もし私がもっと違うことを考えて行動していたらこうはならなかっただろうか? と思う。でも私という存在はいつかきっと同じ間違いをしただろう。だって私は今でも恐かった。彼自身でもなく、彼が今から私に何をするのかでもなく、彼の意志で私を必要ないことにされるのが、恐い。きっとそれは本当の全ての終わりだ。だからその前に私は間違いを選んだ。
「君がそういう男を好きなんだったら最初から僕もしたいようにすればよかったね。全部奪えばよかったんだ。優しくしたって愛してると分かってくれないならさ」
 彼の瞳と目が合う。苦い笑みを浮かべた彼は私の頬を、唇を、指で確認するように撫で、最後に額に触れてくれた。その瞬間に意識が遠のく。走馬燈みたいに彼との今までのことが頭の中をよぎった。そして彼を堪らなく好きだと思った。
 私はやっぱり今でも彼が好きで、彼はまだ私になんらかの感情を抱いていてくれたのかもしれなくて、時が経ってもなお取り返しに来てくれた。だけどハッピーエンドにはならない。歪なことばかり思う私がお姫様なわけがないから、童話みたいな結末は迎えられない。私が彼の元に戻ったとしても今までと同じようには、間違う前には戻れない。
 でも強引に彼のものにすると言ってもらった今この時のほうがこれまでのどの瞬間よりも私にとっては安心があった。私の全てが彼のものにしてもらえるならもう離れることなんて考えなくて済むのだろうか、そう思うと、それだけで、私は。
 真っ暗な中に全てが落ちていく。昏闇の中に星は見えず、彼の色も見えることはない。ただ、呑まれていく。

暗晦の夜

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