NOVEL | ナノ

 エミリオさんが勧められていたグラスに手を伸ばすのを見て、私は彼の手がグラスに触れるより先に掠めとり、口へと運んだ。突然の暴挙に呆気にとられた周りの視線の中でグラスを傾け一気にそれを飲みほす。燃えるような熱さを感じて目の前がちかちかした。注がれた液体が私の中を通りすぎていくのがよく分かるほどだった。冒涜的なほどに甘い味が口の中に広がる。強すぎる甘さを感じながらその味が果物に似ていることに思い当る。頭の中を一瞬だけその果物の名前がよぎった。
 天と地がひっくり返る感覚を覚え自分が地面に倒れてしまったのではないかと思ったが私はまだ両足で立てていた。自分が立っているかどうかも把握できなかったことに正直どう見えているのか、本当にそう振舞えているか怖かったけど問題はないように見える仕草をイメージしてエミリオさんを見上げる。気持ちだけでそこに立っていた。
「あまりに美味しそうなので、ついもらってしまいました」
 代わりにどうぞともう片方の手に持っていたグラスを彼に渡した。そのグラスの中身は私が飲んだグラスとは違いアルコールではない。私の行動の意図を察したのか、彼はグラスを受け取り、眉を下げた。
「……ありがとう。一気に飲んでしまったけど、平気?」
「これぐらいなら、大丈夫です。でももうあまり飲みすぎないようにします。エミリオさんも気を付けて」
 それから当たり障りのない会話をしながら彼の姿を見ていた。エミリオさんは私が渡したグラス以外に口をつける様子はなかった。何度か視線が合うたびに困った顔で微笑まれたので私が何を伺っていたのかは伝わっていただろう。
 他の人間に声をかけられ呼ばれたエミリオさんが、伺うようにもう一度大丈夫かを聞くので、私は笑った。大丈夫だと答えてなお私を連れ出してしまいそうなほどに心配そうなエミリオさんを送りだし会場の中で別れると交代するように後ろから現れ声をかけてくれたのはサイラスさんだった。へたりこまないことだけに意識を集中していた私の腕をとってくれる。
「戻ろう」
 耳打ちをされて素直に頷いた。そうして会場を後にする際に、こちらを見ているエミリオさんと目が合う。これ以上心配をかけないように手を振った。
 そうして自分のために用意されていた部屋に戻ってくる頃には足の力は抜けきり抱き上げられて運ばれていた。私を抱くサイラスさんのかたい肉体がより密着するのを感じながら、敏感になっている肌が触れ合う感触を目を瞑って耐える。自分を抱えさせていることへの謝罪を伝えるべきだと分かっていたが、口を開いたら聞かせるべきではない声が漏れそうだった。
 私の履いていた靴を脱がしベッドへと横たわらせてくれたサイラスさんが、跪くようにして私の顔をのぞき込んでくれる。
「エミリオを助けてくれてありがとう」
 私の様子だけでなくグラスを取り上げた所も見られていたらしい。その言葉に自分のしたことを改めて正しかったのだと思うことが出来た。だからやはり笑うことで答える。上手く笑えていたらいいなと思うが酷い顔になっていたかもしれない。
 サイラスさんは用意されていた水差しからグラスへと水を注ぐと、私の体を抱き起こしそのグラスを口元に寄せてくれた。口を開けると優しく傾けられ、手ずから飲ませてくれる。
「少しでも飲んでくれ」
 唇に触れる冷たい水が心地よかった。だけど汗ばんだ肌も渇いたくちのなかもどれだけの水を飲んでも本当の意味で癒されることはない。
 水を飲んでも酷くなっていくばかりの私の様子に医者を呼んで様子を見てもらうかと聞かれ首を横に振った。サイラスさんは私がエミリオさんの代わりにお酒を飲んでこうなっていると認識しているようだったが、自分の体に起こっているのがアルコールのためだけではないことを私は正確に理解していた。
 私がエミリオさんのグラスを取り上げたのは彼がお酒を苦手としているからだけではなく、あの場で彼にお酒と共に薬が盛られるかもしれないということを偶然にも直前に知ってしまったからだった。彼が飲まされることを計画されていた、命を奪うためではなく一夜を楽しむ様に作られた、道楽のためだけに存在する高価な薬が、肉体にどれだけの効果が発揮するのかを自分の体で感じれば感じるほど、彼自身がこんな風な目に合わなくて良かったと思った。
 汗で額に張り付いた髪を、サイラスさんの手がそっとよけてくれる。熱い。考える前に私はその言葉を口にしていた。額にほとんど触れるかどうかという手つきだった手が思わずというように私の頬に触れた。さっきまで触れていたからだと同じで、かたくてそして冷たい手だ。今すぐにこの手で熱を持った皮膚を沢山撫でてほしくて、そういう想像をした。私は思わず手を伸ばし、頬に触れる彼の手に自らの手を添えた。
 涙でぼやけた視界で見上げるとサイラスさんがたじろいだのが空気で分かる。本当だったらそんな想像をすることにもそんな反応をさせることにも罪悪感を覚えただろうと思った。だけど薬が限りなくそれすらも薄める効果を果たしていた。
「手……気持ちいい……」
 目を合わせたままそう言うとぴくりと彼の指先が反応する。気を抜いたらその手を握ったまま身につけているドレスの狭間に無理やり引き込んでしまいそうだった。その時彼は一体どんな顔をするだろう? 自分の思考の歯止めが利かなくなっていることを自覚しながらも止められない。だけど幸運なことに私が理性を失う前にドアが開く音がした。サイラスさんが顔を上げ、私も彼の視線の先に現れた人物を見つめる。
「エミリオ」
 サイラスさんが彼の名を呼ぶ。彼はベッドに腰かけて私の様子を見ているサイラスさんと私自身のどちらもを見た。彼は私たちの様子に何かを言いかけ、だけどそれよりも先にベッドに近づいてきてくれる。そしてサイラスさんがそうしたようにベッドの脇に跪き、私の顔を覗き込んだ。
「すぐに様子を見に来られなくてごめん」
 大丈夫と伝えたのは私だ。だからまた大丈夫と言葉にする。簡単に抜けて出て来られる相手ではないことを知っていた。そのためにも私は阻止するのでもなくエミリオさんに伝えるのでもなく、私自身が代わることを選ぶことにしたのだった。エミリオさんの顔を見つめ、彼の平素と変わりない様子に私のしたことは間違っていいなかったと再び思った。
 減っている水差しに視線をやったエミリオさんが訝し気な顔をして、だけど心配がこもる手つきで私の頬を撫でた。その触れ方の躊躇いのなさが、サイラスさんと違うなといつも思う。男の人だと良くわかるその手が、首筋に触れそうになって肌が粟立ち、私は唇を噛みしめた。
「ずっとこう?」
 エミリオさんがサイラスさんに聞くと彼は酷くなっていると端的に答えた。
 目の前の二人に水を飲んでも、時間が経っても、落ち着くどころか悪化している様子を変に思われているのが分かり、飲みすぎたかもしれないと答える。
「エミリオの代わりに飲んだあれ以外には飲んでいないだろう」
 よく見られていることにびっくりした。エミリオさんがいつ勧められるのかだけを緊張しながら注視していたせいでそれ以外を口にしている余裕も見られているのを気づくこともなかったのだった。
 もう平気だと言うも、そう口にする前に答えに迷ったのも伝わったのか二人の目が私を見る。
「……何かが入っていた?」
 核心を持った質問ではなかったのに、私は黙ってしまった。それが答えだった。医者を呼んでくるよと今度はエミリオさんが口にし、その言葉通りに踵を変えそうとする前に私は手を伸ばし、彼の衣服を掴んだ。
 薬の名前を知り、効果を確認したときにその薬の対処は時間が経つのを待つことだけだということも確認していた。医者を呼ばれれば少なからずここだけの話というわけにはいかなくなるだろう。理性のほとんどがとけていても薬の意味を言葉にすることは抵抗があったが私は二人の顔を見上げて、迷いつつ口にした。
「呼んでも、治してもらえない、ので……」
 私の途切れ途切れの言葉と今までの様子にどういうものなのか察しがついたのだろう。エミリオさんがああと小さく声をあげてため息をつき、サイラスさんが表情を凍らせた。
 命には関わらないから、二人は部屋に戻ってくれて大丈夫だとも伝える。沈黙が部屋を満たしたあとに、エミリオさんが口を開いた。
「その様子の君を一人には出来ない。万が一があっても対処できないだろう?」
「……俺が残ろう」
 その言葉にまたびっくりした。エミリオさんも同じようだった。エミリオさんの視線をサイラスさんが受け止める。サイラスさんは目を逸らさない。
「彼女が僕の為にこうなったなら、僕が残るのが筋だと思うよ」
 どちらも引く気配はなかった。彼らがけして荒らげることのない、静かな声と言葉で話をするのを後目に、私はドレスが肌に触れる感触すら耐えられなくなっていく。狂いそうになりついに自らのドレスに手をかけた。もたついているとそこで二人が私の行動に気づいてぎょっとした。
 泣きそうになりながら脱げません、脱がせてくださいと二人は沈黙する。動かない二人を前にもはや泣きながら無理に脱ごうとするが生地が裂けそうだった。怖い。でも耐えられない。見かねたのか「背を向けて」とエミリオさんに押し殺した声で言われ私は重い体を動かした。言葉に従い背を見せながら私はサイラスさんの手を引き、ガーターベルトのストッキングと繋がっている部分に持って行った。外してくださいと泣いたせいで震える声でお願いすると、彼は無言のまま、ゆっくりとした動作で留められている部分を外し、ストッキングを脱がせてくれる。
 二人が必要以上に私の肌に触れないように苦慮しているのが手つきで伝わってくる。だけどその必要なためな最小限の接触による些細な刺激だけでもうダメだった。
 ついにビスチェと下着のみを身に着けた格好となる。熱を持った肌に空気が触れて冷たく感じた。その空気にすら反応して足をすり合わせるのを二人が見つめられ、その欲望を示す動作が二人の視線に晒されていることが死んでしまうくらいに恥ずかしく感じている。だけどどこにも行かないでほしかった。本当に気が狂ってしまったと思った。
 部屋の中の空気が変化し異様な雰囲気を帯びていくのが余計に私の欲望を助長させた。いつもとは違うこちらを恐れるような二対の目が私の肌をなぞっていく。彼等はその目を逸らさずに、私を見ている。
 先に動いたのはエミリオさんだった。彼は深く息を吐き、私を抱きよせキスをした。奪われるようなその口づけに脳天から痺れるような幸福が走る。
 ベッドに押し倒され、エミリオさんの背に手をまわしながら私はサイラスさんにも手を伸ばした。目を見開いたサイラスさんに「来て」と声には出さず口の動きだけで伝える。戸惑いを見せたまま、それでも私の手を無視できずに触れてくれた彼の手を握りしめ、渦中へと引きずり込む。私の上で彼等が目を合わせるのを目にするがその交わされた視線の意味はもはやおかしくなってしまった私の頭では理解できるものではなかった。
 本当に構わないかを問われ、ここに至っても狂った言動を繰り返す私に確認してくれることに思わず声を出して笑う。自分でも何がおかしいのか全く分からないのに、ただただおかしくなってしまい、私は頬を涙で濡らしながら二人の手を両手に握り、情けを求めるために頷く。
 ドレスを脱いだ時点でからだは茹っていたのに二人はすぐに私の中には入ろうとはしなかった。恐ろしいほど丹念に準備をされる。
 サイラスさんが私の纏められていた髪をほどくその間に、私はエミリオさんに身に着けていた残りの全てを外される。足を開かされ、王子様のように美しい彼の顔がその場所に埋まることに耐え切れず震えると後ろから私を抱きすくめていたサイラスさんが、怖がっていると思ったのか握っていた私の手を撫でてくれた。彼の顔を見上げる。至近距離で目が合い、あ、と思ったときには唇同士は触れ合っていた。エミリオさんの口が触れるのも同時だった。
 堰を切ったように熱心に口づけられて私もそれに応えながら、自分が彼等と同時に"キス"をされていることに恐ろしいほどの背徳を感じて、縋りつくようにサイラスさんの首に腕をまわした。サイラスさんが私を抱擁する腕にも力が入って、それが嬉しいと思った。跳ねる体を抑え込まれるような力だった。
「……甘いな」
 サイラスさんに掠れた声で言われて、ひやりとした衝撃がからだに走る。口の中に薬と混ざったお酒が残っていたのかもしれないことに思い至り、私は顔を逸らした。彼の腕から急に逃れようとした私をサイラスさんは困ったような顔をしたまま、それでも腕を離そうとはしなかった。
「俺としたくないか?」
 じっと見つめながらそう問われて涙を流しながら首を振った。壊れてしまったように涙がとどまるところを知らなかった。薬が、と口にする。それでも彼は私の頬に手を添えて迷いなく口づけた。気遣いと優しさの混じった安心させるためのキスだった。肉体を支配する欲望を満たすのとは違う意味で与えられる優しさに瞼が熱くなって涙がもっとこぼれた。
 サイラスさんとそうしてキスをしあっていると「ずるいな」と下から見上げるようにして言ったエミリオさんの触れ方は激しくなった。震えながらそれを受け入れていると、私の肉体は簡単に準備ができていても彼等はそうではないかもしれないと今更思い当り、いろんな意味で恥ずかしさを感じた。私だけが愚かなほどその気になっているだけでは可能なことではなかった。彼等がしてくれたように、私からすることを呂律のまわらない言葉で提案する。気が付かなくてごめんなさいと言うと彼らは再び目を合わせる。そしてエミリオさんが微笑み私の体にのしかかった。
「君はただ気持ちよくなっていて」
 重い衝撃にサイラスさんと指を絡めながら繋いでいた手に思わず力をこめた。痛いことなんて一つもなかったのに自分の口から出る声は悲鳴みたいだった。口を押えようとするとその手をはぎ取られ、エミリオさんに口を奪われる。そうされることが気持ち良くて明確に力が抜けていった。体の中で彼が興奮していることが分かることやそのキスの激しさにうっとりした。
 エミリオさんが顔を離し、目が合う。輝くような瞳が私のために細められるのを見て、幸せだと思った。自分が出したことのないような甘い声で名前を呼ぶとその動きを速められ、今度はサイラスさんと目が合う。彼は眉間に皺をよせ、耐えるような顔をしていた。表情の薄い彼が私のために心配をしてくれていた顔を思い出す。彼が私にいつもと差異を感じさせる表情を向けるその特別さに堪らない気持ちになった。
 ずっと繋がっていたままだった手を離す。離すことを惜しむように握る手が一瞬強められることにゾクゾクしながら私はその手で、サイラスさんに触れる。既に十分なほど興奮していることが手と視覚から伝わってきた。
 焦ったように名前を呼ばれ、制そうとしてくれるのを知りながら手の中で熱い感触をそっと包んだ。触れるか触れないかの強さで撫でる。
 また名前を呼ばれ、その声にさっきとは違う意味でどこか必死な響きを帯びている。その声のおかげで手の中で濡れてより張り詰めていくのを感じながら指先で慰めるように優しく撫でることに夢中になった。意識してそうしていたわけではなかったけど焦らしているみたいだとぼんやり思う。するとすぐに「もう十分だ」と手を外された。
 わざとしているだろうと咎めるようなそういう声で言い、私を見下ろすサイラスさんの顔を苦しそうだと思った。初めて聞く声を甘く感じると同時に、中をより強引に擦られる。思わずエミリオさんの方を見ると口元だけで彼が笑った。彼が面白くないと考えているのがその美しい微笑みで分かった。
「サイラスに触れて興奮したの? 君を今抱いているのは僕なのに」
 こんなに近いと全部分かってしまうねと彼が言う。汗と涙で濡れた頬を撫でられる。白く、すらりとした、だけどサイラスさんと同じ戦うためのかたい指先だ。
「僕を見て」
 怒りに似た嫉妬を感じて背筋が痺れるような気持ち良さを覚えた。歪められた表情に、歪められても綺麗と思う。そうして求められるまま、エミリオさんに縋った。縋りながら、サイラスさんに手を伸ばす。肩越しに視線が重なり、彼の目が細められる。繋ぎ返されるその手に私は微笑んだ。"すべて"が欲しかった。
「……本当に甘いね」
 エミリオさんが、私に口づけて、言う。揺さぶられながらくるくると世界が、視点が、まわる。色鮮やかな夢を見ているようだった。世界はいつの間にか反転し、膝をつくようにしていた私が後ろからサイラスさんに抱かれている。私を見下ろすエミリオさんに今度は私が口で触れていた。記憶が飛んでいたが多分自らそうすることを望んだのだろうということが分かる。
 「辛くはない?」と問われて、私は笑うことで答える。辛いはずがない。だって私を見るエミリオさんの目が愛しいものをみるようにとろけていてその手は私の髪を優しく撫でてくれるし、私のからだをきつく抱きしめるようにするサイラスさんの腕の力強さは手加減がなくて、汗ばんだ体温や荒い呼吸が重なった体から伝わって私と同じ気持ちだということが分かる。だから不道徳なことをしていることなんてどうでもよかった。
 サイラスさんが私の髪を耳にかけ、首元に口を寄せる。名前を呼ばれながらそのまま何度も肌にキスをされた。痕が残るような強さだ。それを見ていたエミリオさんによって強引に体を抱き上げられる。思わずエミリオさんに抱き着くと、彼は私をきつく抱きしめ返しサイラスさんとは違う場所に、正面から私の肌に口を寄せた。二人に体を挟まれ頭の中が幸せでおかされる。おかされながらあまりの幸福に笑った。エミリオさんと目が合うと彼は目を見開き、そして細める。その仕草はサイラスさんとよく似ていると思った。
 「壊してしまいそうだ」と言われる。苦しそうな声だ。どちらに言われたのだろう? 分からないまま私は「壊して」と乞う。私の体にまわっていたサイラスさんの腕に力がこもり、エミリオさんが応えるように私にキスをする。そのキスの合間に後ろから、サイラスさんの手が伸びて、顔を向けさせられた。一瞬だけ視線が交わる。濡れた瞳だ。いつも静かな湖畔のような瞳が揺れている。それが愛しいと思う。奪うようにキスをされ、私は彼の首に手をまわし返した。彼が先ほど私に安心をさせるために与えてくれた優しいキスとは全く違う狂おしいキスだった。代わる代わるされるキスの合間に「こわして」とそれしか知る言葉はないみたいに何度も何度も口にする。二人の触れる手つきが今まで以上の熱が帯びるのを目を瞑って感じながら本当にこのまま壊されてしまいたいと思った。その思いは薬によるものではなかった。
 瞼を閉じていると、見てほしい、見てくれと囁かれ目を開ける。記憶はそこからほとんど分からなくなる。起きながら夢を見ているようだ。自分が今、目を開けているのか閉じているのか、何をされているのかも何をしているのかも理解できないまま、私のからだを燃やし尽くしてしまいそうだった欲望の代わりに、そのからだを満たした陶酔感に、幸せだと口にする。そして目が覚めた。
 瞼をあけると私を見下ろしていたサイラスさんと目が合った。先ほどまで見ていたと思った眼裏に蘇る景色は実感がなく、そしていつもと変わらない彼の表情に夢を見ていたのだろうかと思った。
「……平気か?」
 エミリオさんのグラスを取って代わりに飲んだことをサイラスさんに見られていたことを思い出す。 大丈夫と反射的に答えるも自分の出した声があまりにも掠れていて、思わず手で喉に触れた。
「無理をさせた」
 私のその様子に彼が眉を寄せる。その顔に昨夜のことは『本当の出来事』だったんだと悟った。だけど彼の言葉は正しくなくて、無理をさせたのは私の方だったから首を横に振る。言葉を発そうとして咳き込んだ私の背中に彼は手を添え、昨日そうしてくれたように水差しから水をグラスに注ぎ、飲ませてくれた。
「今日はこの部屋にいるといい。休めるように手配している」
 体に薬の影響は残っているかと問われてもう一度首を横に振る。そうかと安堵と憂いの混じった目を伏せるサイラスさんの顔が近い。誘われるように手を伸ばしてその頬に触れそうになってから、今はもうあの夜の中じゃないことに気づいた。下ろしかけた手は、彼によってとられる。視線を自らの手にやると、私の手首や袖からのぞく腕には手の痕がくっきりと残っていた。初めて見た自分の腕の様子に思わずまじまじと見つめると、彼は少しでも触れればその瞬間に痕が残ると思っているような仕草で私の手の痕を優しく撫でた。あたたかかった。そうして触れられると安心したし優しくされていることを実感した。
 ぼんやりしながら自らの袖から、自分の身に着けていた衣服に視線を見た。身に着けていたドレスではなかったし、濡れて汚れたはずの肌には違和感がない。私の視線に気づいたのか、彼は「着替えさせた」と簡潔に教えてくれたのでお礼を言った。
「礼を言われるようなことじゃない」
 自嘲するような声にそんなことはないと答える。彼のその自嘲が、着替えさせてくれたことだけじゃなく行為についてを指しているのは分かっていた。だけど二人を付き合わせたのも行為の最中もずっと自由に振舞い続けたのも私だった。謝る必要があるのは私の方だ。
「……ごめんなさい」
「お前が謝ることべきことなど一つもない」
 手に添えられていた彼のに力がこめられ、握られる。
「騎士として、男として、ああすべきではなかったと頭では分かっていたのにそれでも抱いたのは俺が望んだからだ。……エミリオに任せるべきだったのかもしれないが出来なかった」
 私はその言葉に思わず彼の顔を見上げる。
「お前がエミリオをずっと見つめているのを見ていた」
 目が合うと彼は伝えてしまったことに気が抜けたというようにふっと笑った。
「以前言っていただろう、無理をするところがあるからエミリオを放っておけないと。お前のその優しさは、向けられているエミリオだけでなく俺も救われている」
 だが、と言って彼は言葉を切った。そうして私の目を見つめる彼の瞳に滲んだ苦悩に近い熱に、私は彼の目を見上げたままでいた。肩に手を置かれ自然と目を閉じる。重なった唇はそれ以上深くなることはなく、触れ合うだけのものだったけど薬におかされながらするキスとは違うものだと思った。もう戻れないことが分かった。
 唇が離れ、肩を抱かれながらその胸に頭を寄せられる。とられたままだった手の甲にそっと口づけを落とされ、その感触に私は目を閉じる。
 その後サイラスさんに促されもう一度眠りについてからシャワーを浴びた。衣服の下には腕や手首だけではなく体の至るところに痕が残っていたのを見ることになった。
 部屋に戻ってくるとサイラスさんの代わりにエミリオさんが待っていた。誰もいないと思っていた私は思わず驚きに肩を跳ねさせた。びっくりした反応をしていた私をじっとエミリオさんが見つめる。
「体は辛くない?」
 薬はもう大丈夫ですと答える私の声はサイラスに答えたときと同じで掠れている。エミリオさんはその声を聞くと私をじっと見つめ部屋の主のように再びベッドで休むように促した。それに素直に従って上体を起こすかたちでベッドに入る。
 サイラスさんは私にエミリオさんのことを用事を済ませたら顔を出すだろうと私に教えてくれていた。ここにいるということはそういうことなのだろうか。無理をさせて来させてしまっただろうか。
「用事は……?」
「まだ完全には終わっていないかな。でももう君は心配しなくていい。僕が解決するから」
 エミリオさんの美しい微笑みに彼の言う"用事"が、サイラスさんが濁した言葉が何を指しているのかを分かってしまって私は口を噤んだ。エミリオさんを手に入れるために手段を選ばなかった"誰か"はその代償をけして望まない形でエミリオさんに払うことになるだろう。「飲んだのが僕だったらきっとどうでも良かった」とエミリオさんは独り言といった調子で口にした。彼は自分が飲んだ方がマシだったと思っているのかもしれない。でも私も同じ気持ちだ。
 彼にとってその話題は大した重さは持っていなかったのか、早々に話題は変えられる。完璧な微笑みを消した彼は気遣わし気な顔で問うた。
「君が"戻ったら"聞きたかったんだ。どうして代わりに飲んだりしたの?」
 聞かれているのはどうして庇ったのかではなくどうしてそんな手段をとったのかという意味だろう。私は簡潔に心配だったからと答え曖昧に笑った。その答えにエミリオさんは嘆息する。
「あんなことはもう二度としないで」
 悲痛な声だった。怒られるより胸がざわめき、罪悪感を抱く。それでも、たとえ今度はそれが毒であっても、知っていたらまた代わってしまうだろうなと思った。
 私の顔に何を考えているのか分かったのか、怖い声でこらと言われる。ごめんなさいと謝ると彼はため息をついた。
「謝るのは僕の方だよ。……だけど君に触れたことを僕は謝りたくないな」
 彼が私の頬に触れる。記憶は混濁し、ところどころ消えてすらいたけど触れられた感触だけは生々しく残っていたから、意図を持ってその指で肌に触れられるとか震えた。触れているところから伝わったのか彼が苦笑する。
「そんな顔をしないで」
 こうしたくなる、そう言われた瞬間にちゅっと音を立ててキスされた。近い距離でふふと笑う彼の声が耳をくすぐった。思わずぎゅっと目を瞑ると彼はもう一度私にキスをする。今度は長く重ねるキスだった。
 彼が手を伸ばし、私の腕に触れる。指先で手の痕をなぞりながら、彼が言う。
「……君はサイラスを優しい人だと言っていたよね。一緒にいると思わず頼ってしまうって」
 彼はほほ笑んだ表情のままだった。前触れもない話題に私は彼の顔を見たままでいた。
「君が僕のために心を痛めて、僕を思って身を挺して助けてくれたんだって分かるよ。でもあれがサイラスだったらあんな風に身を削るような真似をせずに、大丈夫なんて言わずに、頼ったのかな」
 エミリオさんが手を止め、今度は私の首元を撫でる。何かをなぞる仕草に、彼に何に触れているのかをその場所が見えなくても思い出す。シャワーを浴びたときに鏡越しに痕が残っているのを確認した場所だった。
 私にはもはやそれがどちらがどこにつけた痕なのか分からなくなっていたけどエミリオさんもサイラスさんも分かっているのかもしれない。彼が触れているのはエミリオさん自身がつけた跡か、サイラスさんがつけた痕のどちらだろうか?
「君がサイラスに体を預けながら出ていく様子を見ていたあの瞬間の僕の気持ちを教えてあげたいよ」
 腕を引かれて強く抱きしめられる。腕を握られたその手の力にあんな風に痕が残ることに納得した。
 エミリオさんの胸に顔を寄せながら目を瞑る。違う力で胸に抱かれながらサイラスさんと同じにおいがすることに気が付いた瞬間に口の中で昨日の夜に飲み込んだ冒涜的なあの甘さが強く蘇り、私の飲んだ薬は飲んだ人間を強制的に従わせるものではなく、むしろ本人の持つ欲望をより強めるものだと調べたときに聞いたのを思い出す。全ては私が求めることだった。
 舌の上からとっくに失われたはずのあの味に何を連想したのかがようやく頭にはっきりと浮かぶ。罪の味だと思いながら、それでも抗い難いその味を惜しむように思わず唇を舐めた。

口づけた毒薬の澱

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