NOVEL | ナノ

 いつも参加しない飲み会に参加してそこで二宮さんと顔を合わせたのはほんとうに偶然のことだった。二宮さん自身と接点もなくあまり話したことはなかったが、友人である望ちゃんのくちからよく名前を聞いていたこともあって、本人と親しいわけではなかったけど少なからず知っているというような距離感だった。私が二宮さんに直接話しかけたのはちょうどその前に恋人と別れ話をしていて、妙にハイになるような、やけになるような気持ちがちょっとだけあったからだ。勢いだったといってもいい。ほとんど私が話していたけど二宮さんは不思議と嫌そうな顔を見せなくて、普通に言葉が返ってきた。思ってもみないほど当たり前に会話を出来ているのが嬉しくて自分でも話しすぎていると自覚するくらい口を動かしていた記憶がある。
 嬉しかったのと同じくらいびっくりした。望ちゃんのくちから聞く彼はもっと傍若無人のように思えたし、傍目から見る彼はもっと厳しい印象だったからどうしても意外だったのだ。
 なので時間が来てその会が終わり、雨が降っていた外で傘をひろげた私に彼が部屋に来るかと誘ったとき、それにもまた驚いた。その時にはもう、部屋に行ったあとでどうしあうのかなんとなく分かっていたと思う。いつもなら断っていたはずだ。だけど私はうなずいていた。心が浮ついていたのもあるけど話をしていて彼をもっとこうしていたいと思ってしまったから。
 私はともかく二宮さんが私のような人間とこうするのは意外で、もしかして酔っているかと聞くと抱きしめられながらそう聞くと、彼は表情のない目で私を見た。
「俺は酔ってない」
 その言葉はほんとうのようで、二宮さんからお酒のにおいはしなかった。私も酔ってないよ。ほとんど無意識にそう言いかけて、だけどくちを閉ざす。そう言ってしまった瞬間に、それこそ取り返しのつかないことになるような気がした。酔っていないのに私とこういうことをするのかも聞いてみたい気もしたけれど、その瞬間に手を離されてしまったらどうしようと思ってしまって、浮かんだその言葉を誤魔化すように私は彼にくちづける。
 子供がするような軽いくちづけだった。だけど二宮さんは軽く瞠目するように目を見開く。それも一瞬で彼はすぐにいつもの表情に戻ってしまったけど確かに彼がそういう表情をしたことに、私は楽しいような気持ちになって思わずふふっと声をあげるようにして笑ってしまった。
 笑ったことに彼はなにも言わないまま、代わりというように私の首の後ろを引き寄せるようにして噛みつくようにキスをした。驚いて震える私の唇を開かせるようにした彼に、目をつむってされるがままになる。頭のなかにたくさんのことがよぎって、自然と目が潤んだ。走馬灯のように目の前を渦巻いて過ぎ去っていく景色は一瞬で、私は彼の肩に腕をまわすようにして応えた。
 キスの合間に二宮さんの吐息が肌にふれる。身を寄せ合うようにしたからだから伝わってくる体温も添えられた彼の手のひらも舌も全部が熱かった。あんなに温度がなさそうなのに彼の体はふれていてぞくぞくするくらい熱を持っている。その温度で私の体も心も、すべて焼かれてしまいそうだと思った。
「二宮さん」
 ほとんど吐息のような声音で二宮さんを呼ぶ。彼は視線だけで応える。二宮さんの表情は苦しげに見えた。そのせいでただでさえ鋭い印象のある瞳がより鋭く見える。私が興奮しているように二宮さんも興奮しているのだと認識すると思わず身震いした。かすかに震えた私の背を、彼がゆっくりと撫でる。彼は視線だけでその先についてのことを問うていた。勢いで進める気はないようだった。だから体の力を抜く。ふれられていた背から少なくとも抵抗する意図がないことが伝わったのか私はそのまま後ろに押し倒された。
 のしかかられた重さや触れあっていたからだのかたさに、私は二宮さんが男性であることその瞬間に強く意識した。急激に思い知らされたその"事実"に言葉に出来ない入り混じった感覚を覚え体が浮つく。不安に似た気持ちに私は身に着けていたネックレスに触れていた。不安なときにそうして触れるのが癖になっていたのだった。
 見上げるようにすると彼は手のひらで私の頬を撫でた。まるで慰めるみたいなその動きは優しくて、二宮さんってこういうときにこんなふうに優しくふれるんだなと思った。手から力が抜けて、私は自らのネックレスに触れていた手を自分から自然と離していた。だけど同じくらいそれが私に与えられていることに気後れするような恐れ多い気持ちがじわじわと心に滲む。
 私は今度は自分から深いキスをした。と言っても緊張のせいか上手くできなくて必死なだけのキスだったけど拙く舌を動かしていると、二宮さんが主導権を奪うようにしてくれる。さっきより乱暴なキスや彼の指先にさっきよりも性急さあらわれるのがわかって私は安心した。あのまま大切にされているみたいにふれられることを考えると、目を背けてしまいたくなるような、苦しいような気持ちになったから。
 全てを終えたあとに、抱き合うようにしたまま彼の長い指が私の髪の毛にふれて、梳くのを感じて私はぼんやりとした意識のなかでその指の動きを追っていた。こういう必要以上のふれあいをしなさそうなのにその指の動きはやっぱり優しい。抱き合って知ってしまったことのひとつひとつが胸をじりじりと焦がすようで、私はその指から逃げるようにして目を閉じる。二宮さんの腕の中でそうしていると、ゆっくりとした彼の心臓の音がふれあっている肌越しに聞こえる。
 窓の外はいまだ雨が降りつづけていて、かすかに雨の音が聞こえていた。そのうちにかすかに寝息が聞こえてくるまで、私は目を閉じたまま雨の音と二宮さんの鼓動だけに耳を澄ませていた。そうしていると世界にふたりきりにでもなっているみたいだった。
 時間すら二宮さんの鼓動と同じようにゆっくりと過ぎ去っていくような感覚があって、すべてが安らかだった。だけどどれだけ目をつむっていても私は眠れなくて、彼が眠りについてしばらくしたあと起こさないように注意を払いながら体を起こす。雨の音はそのころには弱まっていて私が感じていたのは二宮さんの鼓動や体温だけだったから、それ以上そうしていたら動けなくなりそうだった。
 起き上がって二宮さんの寝顔をそっと見下ろす。目にかかる髪を皮膚にはふれないようにしながら指で撫でてみる。起こしてしまいそうでほとんどふれるかふれないかくらいの接触だった。少しもしないうちに手を放す。名残惜しさが後を引くのが怖くて、それ以上はふれられなかった。
 息を深く吐いてから私は脱いだ服を再び身に着け音をたてないようにしてできるだけ急いで帰る準備をする。
 ほとんど逃げるように外にでて帰路についてからも焦燥感に似た後悔が胸のなかでざわめきつづけていた。知りたいと思ったから関係を持ったのに、あんなに優しくふれることを知らないほうがよかったと思ってしまう。そう思うこと自体も申し訳なくて耐えかねるように思わず吐息が漏れた。
 
 次に彼の顔を見たのはあの夜からいくらかの日がたってからのことだった。もともとそういう頻度でしか顔を合わさないのだから当然のことでもあった。
 二宮さんは私を見ても顔色も変えなかったしいつも通りだった。対面すると私も不思議なくらい冷静でいられた。なにも知らない顔でいると、ほんとうになにもなくて夢だったのではないかとすら思えてくる。恋人とされる人以外と関係を持つのは初めてのことだったけど"そういうもの"なんだなとしっくり来た。その時は本気でそう思っていたはずだった。
 だけど呼び止められた瞬間、心臓が嫌な痛みで軋んだ。全然平気でもなんでもなかった。自分でもびっくりするくらい緊張していた。それこそあの夜よりもずっと。
 私の名前を呼んで呼び止めた二宮さんが無言のまま外へと顎で促し先導するようにするので、おぼつかない足取りで彼についていく。どんどん人気の少ないほうに向かっていってあまり使われていない自販機の近くの前にまでたどりついたときようやく二宮さんは足を止めた。
 人気も話し声もない中、自販機のかすかな電気の音だけがする。その音にくちの中が乾いているのに気づいて、私は自販機に目を向ける。
 迷ってから、自分のものを買った。それから二宮さんに飲むかどうかを声をかける。
「いや、いい」
 さっき二宮さん飲み物買っていたということを思い出して納得する。すぐに飲み切れるものを適当に買ってから、私は手にした缶に視線を向けるようにして下を向いた。
 立ちすくんでいたからか、座れよと彼がいうので私はその言葉に従うようにして近くのソファーに座った。促した彼と見上げるようにして目が合う。
 彼も立ったままだったので私は隣で指をさすようにしてからどうぞと言った。断られるかなと思ったけど二宮さんは黙ったまま私の隣に座った。促しておいてなんだけどこうして隣り合うと近かった。触れているわけでもないのに体温を感じそうだった。
 二宮さんの肌に手を伸ばして触れた感覚が脳裏によみがえる。感じたものをごまかすように缶に手をかける。だけど手が滑ってまったく手ごたえがない。
 何度か挑戦してみたもののあけられず、そうして彼の隣でできないことを延々としているのが恥ずかしくなり諦めようとしたとき、スッと手が伸びて缶を取り上げた。二宮さんの手だ。器用な手のひらは私の奮闘など嘘のようにあっさりと缶をあけるとそのまま私へと渡してくれた。
「……ありがとう」
 そして唐突に初めてまともに彼と向き合って話したときにいちばんに印象的だったのは彼の指だったことを思い出した。長くて綺麗で、でも骨ばっていて男の人の指だと思ったことを覚えている。
 その手が優しいことを私はもう知っていた。目をそらすようにして伏せる。せっかくあけてもらったのにその缶を手の中におさめたまま動けなかった。
「飲まないのか」
 別に急かしているわけではなく、あけたのに私がいつまでもそうしているから疑問に思ったのだと思う。聞かれて無言のままに私は缶にくちをつけた。くちびるが震えていた。そうして変に意識しすぎるせいで噎せた。甘い液体がのどの奥でひっかかる。
 突然噎せ始めた私に二宮さんが視線を向けているのが分かって余計に恥ずかしくなった。おいと声をかけられて大丈夫と噎せながら答える。ハンカチで口元を隠すようにしていると少し落ち着いてきた。彼が隣で小さく息を吐いたのが分かって、私は逆に息を止めた。
 二宮さんはもう一度私に手を差し出す。その手の中になにかが入っていることに気づいて、私はおずおずと手を出した。大きい手のひらは私の手にふれることなく、手の中にあったものをその上に置いた。
 私がつけていたネックレスだった。よく見に覚えのあるそれに私は目を丸くした。ここ数日ぼんやりしていたこともあって、今ようやくそれが手元になかったことになくしたことに気づく。あの日、二宮さんの部屋に落としてきてしまったのだろう。
 全然気づかなかったことにはもちろん、今それを差し出されたことにもびっくりして、私は思わず無言のまま彼を見た。私を呼び止めたのもあの日のことを話すためではなくこのためだったのかと思うとほっとすると同時に恥ずかしかった。
「つけてやる」
 無言のままの私に、二宮さんはなにを思ったのかそう言う。彼の表情はいつもとなにも変わらない。私の返事よりも先に、二宮さんの指がネックレスをつまみ留め具を外した。それを前にここで強く拒否するのもおかしいような気がして、私は二宮さんに背中を向ける。自分の髪を横に流してまとめるようにする。
 そうすると彼が後ろで動いた気配がして、むき出しになった首にふれる感触がする。見えないのに二宮さんの指の様子が脳裏に浮かんだ。
 それからいくらかもしないうちに、二宮さんの手が私の髪にふれた。今度こそ体をすくませた私の髪を彼が軽く梳くようにしていつもの状態へ戻す。できたことを促すように肩を叩かれて、ぎこちないしぐさのまま彼と向き合いなおした。
 どうして、という言葉が頭によぎった。こちらを見つめる彼を見上げる。どうして、何度も何度もよぎるのに、私のくちからはひとつもその言葉はこぼれなかった。
 凍り付くようになっていた私のくちが少なくはない時間をかけてひらく。ほんとうはなにをくちにしたかったのか自分でもわからないまま、呼べたのは二宮さんの名前だけだった。
「二宮さん」
「なんだ」
 そう聞かれても自分でもわからなかった。わからないまま気が抜けたようにただ笑った。それから私は二宮さんともう一度寝た。
 繰り返せば繰り返すほどに抵抗感が薄まっていくように、私は二宮さんと関係を持つようになった。二宮さんがこの関係についてどう思っているかをくちにしたことはなかったけど、思いがけないほど積極的というか、少なくとも肯定的に捉えているように思えた。二宮さんは不思議なほど私に優しい。
 私へのふれ方や言葉だとかそれらひとつひとつ、大仰な優しさではなかったけど、一緒にいて"大事"にされているとよくわかるものだった。その優しさが降り積もっていくほど二宮さんは一度抱いた女にはこうなるのだろうかと思えてなんとも言えないような、だけど重い気持ちになる。それがどういう感情なのかは自分でもやっぱり分からない。自分の中で触れないようにしているのにそれはどんどんと重さを増していくのをふとしたときに実感する。
 二宮さんはそういうときに必ず最初にキスをした。キスが好きなんだと思う。二宮さんはそういう場面じゃなくても戯れるように私の肌にそのくちびるを押し付けてきたりする。
 キスの上手さとかはよくわからないけど、それでも二宮さんのキスは気持ちよくて、甘やかされているようで、求め合っているみたいで、ドキドキした。
「二宮さんとするキス、好き」
 思いついたままにぼんやりとそう言うと、私の衣服に視線を落としていた二宮さんが視線をあげて私の顔を見た。だけど何も言わない。少し恥ずかしくなって、照れて思わず笑ってからもっととせがむようにくちびるを彼のくちに押し付ける。キスが好きという私の言葉に少なからず何かを感じたのか、最初はゆったりとした動作でくちづけられていたのに、どんどん熱を帯びて激しいものになる。
 二宮さんは私の言動に素直に煽られてくれたり乗ってくれたりする。そう感じるたびに愛しいと思う。
 キスがどれだけ激しくても私の衣服はもどかしいくらい、丁寧にひとつずつはぎとられていく。私を見下ろす彼の瞳に熱が見えるのが分かる。それでも二宮さんの手はやっぱり優しいことに胸の中がひやっとした。
 行為だけを求めるようにしてほしい。私は、二宮さんの首の後ろに手をまわすようにして、その体に抱き着いた。私からそういうことをするのは初めてだった。
「どうした」
「そんなに優しくしないで」
「……酷くされたいのか?」
「痛いくらいでもいいから」
 こんなふうにしないでほしい。彼氏にだってこんなふうに抱きしめてもらったことなかった。縋りつくようにする私の髪を彼が撫でる。
「そういう趣味はない」
 吐息交じりのその声とともにもう一度キスされる。なだめるようなキスになぜか心がひどく波立った。だけどどう言えばいいか分からなくて、私は息を殺す。
 すべてを終えると二宮さんは私を抱きしめるようにする。すぐに体を離そうとはせずに私の体のいたるところを撫でてみたり、肌にキスをしてくれる。最初は足りないのかと思って応えようとしたこともあったけどそうではないのだ。そうじゃないのに、そうしてくれる。『触れている』だけでも二宮さんは満足らしかった。それが今日はなぜか耐え難くて、私は彼がそうしたいことに気づかないふりをしながらみじろぎをして、シャワーを浴びたいとゆっくりと体を離した。
 彼は素直に体を離されるがままだったが、その代わり、私の首元に手を伸ばした。私の首にはあの日二宮さんに拾ってもらったネックレスがつけられている。
 チェーンを指でゆるく引っ張るようにしたまま、彼は囁いた。
「いつも付けてるが気に入っているのか」
「……ずっと身につけることが多かったから、今でもつけてるとちょっと安心する」
「落としても気づかないくらいに?」
「あの時は特別だったから」
 声の穏やかさから多分からかっているというのが分かって私はほほ笑んだ。
 二宮さんは私を抱き寄せるようにしてこめかみにもう一度キスをした。私は目を閉じて、そのくちびるの感触を受け入れる。
「外すと寂しい気がする、思い出したいわけでもないのに」
 もらった相手を今でも思っているわけではないのに何故かそれを外すことに躊躇いがあった。自分でもぼんやりした口調なのがよくわかる、言うつもりもなかった言葉がくちからこぼれる。抱きしめてくれる二宮さんの腕はあたたかくて、優しいから、たぶんそのせいだ。
 その瞬間に肩をつかまれ思わず目を開く。眉を寄せた彼が私と目を合わせる。表情はなかったけど、私の顔から何かを探るように見ていた。その変わりようにびっくりした私をよそに、ネックレスに手をかけられ外されてとりあげられる。首筋がすうすうした。
「どうしたの?」
 目を丸くしながら聞く。外されてしまって冷え冷えとする首元に私は思わず手を当てた。それに二宮さんは何かを言おうとしてくちを開き、だけどすぐに閉ざしてしまった。
「シャワーに行くんだろ」
 それ以上聞いても答えてくれないだろうことがわかって、私はその言葉に素直に従うことにした。二宮さんがふたりきりのときにそういう険しい顔をするのは珍しい。いらないことを言ってしまったなと思った。
 戻ってくるとすでに二宮さんはいつも通りに戻っていた。ネックレスも返してくれたけど、あの日のようにつけてくれることはなかった。
 帰る準備をしようとする私の体を二宮さんは手を引いて胸元に抱いた。何もつけていない首元を指でなぞられる。
「帰らなくていい」
 私が泊らずに帰るのはいつものことだった。彼が泊っていけばいいというようなことをくちにすることは時折あったけどこんなふうに抱きしめられて物理的に引き留められたことはなかった。
 私は、少し迷ってから二宮さんの頬に手を伸ばした。そのまま手を添えていないほうの頬にふれるだけのキスをする。
「また来るよ」
 苦笑じみた声で言ったからだろうか、二宮さんは返事をしなかった。それでも手が離れたので、今度は私がなだめるように彼の手を握った。やっておいてなんだけどそれこそ恋人の戯れみたいだと、思った。でも二宮さんは嫌そうにはしなかったし、手も振りほどこうとはしなかった。だからその手を外すとき私の方こそ寂しくなった。

「それでどうなの?」
 望ちゃんは直接的だ。特に私に対してはより顕著にそういうところがあった。親しい人に対して発揮される彼女のそういう一面が好きだった。
 どうなの、と切り出されたのは私の元恋人の話だった。もう別れて大分たってるよ、大丈夫だよと答えると、望ちゃんは言外にその目で私が身に着けているネックレスを差した。
 思わずひるむ様にそのネックレスに手をやると、隣に座っていた望ちゃんは身を寄せるようにする。鼻をくすぐる甘いにおいにドキドキする。ほんとうにもう終わりなら外してもいいんじゃないと囁くようにされる。何故か誘惑されているような気持ちになる。
 もともと私の元恋人のことを望ちゃんはあまり好きではなかった。別れがこじれたので余計にそうなったようだった。たくさん慰めてもらったけど望ちゃんは私とあの人が離れたことを喜んでいる節がある。
 彼女の柔らかな体に身を寄せ、甘えるようにして肩にもたれかかる。望ちゃんは慰撫するように私の肩にふれてくれる。そのふれ方はどこまでも労りに満ちていて、はからずも心がほどけるのがわかった。
 あなたはされるがままだから心配になるのと、それこそ優しい甘い声で言われるとふわふわとした気分になった。望ちゃんの膝に置かれていた彼女の手に手を重ねる。撫でるようにして、望ちゃんと甘えた声で囁き返すと大丈夫というように指を絡めてくれた。
 望ちゃんの指は爪のかたちまで綺麗だ。その指先になぞられると不思議な高揚が体に走る。綺麗な手だねと言うと、彼女はにっこり笑ってあなたの手はかわいいと言うのだ。
 当然ながら男性である二宮さんの手はもっと大きくて、かたかった。彼の手が望ちゃんのやわらかくしなやかな手をつなぐことを想像してみる。私が二宮さんとそういうことになる前に彼との関係を聞き、見る人間を華やな気持ちにさせる、でもそれ以上を聞くことを怯ませる笑みでほほ笑まれたことがあった。
 そうして肩を寄せたまま雑談をした。そうしているうちに会話がとぎれ、不思議な沈黙が訪れる。望ちゃんはそこで切り出した。
「そういえば最近二宮くんと仲が良いの?」
 珍しいことに望ちゃんが話題を切り出すタイミングをうかがっていたことが分かって、私は安心させるように微笑む。きっかけの、あの夜を思い出すと遠い昔のように感じた。ずいぶん遠いところまできてしまったなというような感慨がある。彼を知りたいと思ったせいで、知ったせいで、ずいぶん離れがたくなってしまった。
 私は極めて平静を保った、穏やかな声を出した。
「うん。優しいよね」
「……」
 私の返答に何かをためらうように、少し声を潜めて、彼女は言う。
「二宮くんが優しいのはあなたにだけだと思うけど」

 二宮さんの部屋にある私の物は最小限にしていた。彼はこともなげに置いていったらいいといったがそうはしなかった。毎回彼の言葉を思い出して迷ってから結局置いていくのを辞めていた。
 二宮さんにそういう躊躇いはあまりないのか、部屋の鍵まで簡単に渡されたときはびっくりした。といっても彼のいないときに彼の部屋に勝手に入ることには物を置くよりも抵抗があったので本人から先に部屋で待っているようにと連絡が来た今日のようなとき以外使わずじまいだ。 
 あれから遅くなるという連絡が来てシャワーを浴びてベッドで待っていたものの手持ち無沙汰だった。
 まずいと思うのに、二宮さんのベッドの上に丸まるようにして横たわっていると寝る準備をすっかりおえてしまったからか体が眠気を訴え始めた。ベッドは二宮さんのにおいがして、安心してしまう。においなんてなさそうなのになと、ぼんやり思った。二宮さんを知るようになってからほんとうに意外なことばっかりだった。性欲があるのもいまだに不思議な感じがする。思うたびにそう言うと俺をなんだと思っているんだ?と呆れた顔をされて、それがおかしくて、そんなふうに思い出すと楽しくて笑ってしまいそうになりながら、まぶたがおちていくのを感じる。あ、と思った瞬間に意識が暗闇に吸い込まれていった。
 目覚めたのは、髪を撫でる感触によってだった。うつろな意識のなかで、誰かが私の髪を撫でている。私をこんなふうに優しく撫でてくれるのは望ちゃんだけだったはずだった。でもそうじゃなくなった。望ちゃんじゃない。―――二宮さんだ。
 私の髪を撫でながら、二宮さんがこちらをじっと見つめているのがわかる。こうしてずっと撫でていてほしいという抗いたい気持ちがあったけど、私はそうっと目を開いた。まぶしい。思わず目に手をやると、言葉にだしてお願いする前に二宮さんはベッドサイドに手を伸ばすとそのまま電気を絞ってくれた。
「……おかえりなさい」
 そう言うと、二宮さんの手がピクリと反応するのがわかって、私はまた失言をしたなと思った。図々しかったと謝ろうとして、でもそうするのも嫌味っぽいかもしれないと迷ううちに、彼が私の顔の近くに手を置いて覆いかぶさるようにした。このまましたい気分なのかなと思ったけど彼は口のすぐ横の頬にキスだけしてそのまま体を離す。思わず頬に手を当てる私をよそに、二宮さんはすぐにベッドから離れてシャワーに向かってしまった。
 それ以上のことをもうしているのに思わず赤くなってしまった顔に手をあてる。びっくりするくらい熱かった。
 二宮さんはシャワーを浴びるとすぐに出てきた。私はといえばさっきの衝撃がまだ抜けず、なんとなく正座をして待っていた。正座をしている私に二宮さんがちょっと怪訝な顔をする。その顔に気づかないふりをして、私はシーツを見ていた。
「し、しますか……?」
 思わず敬語になると二宮さんの視線が強くなるのがわかる。ダメだ、変に意識してしまう。顔を近づけられると、妙にドキドキしてまた顔が赤くなるのがわかった。ぎゅっと目をつむる。だけど訪れるはずのくちびるの感触はいつまでたってもふれてくれない。
 おずおずと目を開くと、二宮さんが至近距離でこちらをのぞき込んでいるのがわかった。
「今更照れるのか」
 その声があんまりにも優しいから、余計に顔が熱くなって、泣きたい気持ちになった。誤魔化すように自分の着ていた服に手をかけて脱ごうとすると、そのうえから手をおかれて静止される。
 脱がなくていいと言われて、思わず咎めるように彼の目を見た。
「会ったからって絶対にしないといけないわけでもないだろ」
 じゃあどうして呼んだんだろうという顔をしたのがわかったのか、二宮さんはより形容しがたい表情をする。そしてそのままなにも言わずに私のことを後ろから抱きしめた。顔が見えない。私の肩越しに彼が息を深く吸うのがわかる。
「ただ顔が見たい日があって悪いのか」
 呻くような、小さい声が耳に届いて、私は小さく息を飲んだ。甘えるような額を押し付けるような動作とその言葉に、胸の奥がぎゅうぎゅうと痛む。
 彼の手が私の髪を梳いて、いつかのように横に流す。むきだしになった首筋にくちびるが寄せられる。跡をつけられているのがわかった。そんなふうに二宮さんがするのは初めてのことだった。私は息を殺して、彼にされるがままになる。
「今日もつけてないんだな」
「……うん」
 あのネックレスをつけていると外されてしまうので彼の前でつけることは辞めていた。誰にもらったネックレスなのかなんとなく伝わっていたんだと思う。私が同じようにされたらたぶん悲しくなってしまうと思うから、そうなってしまったから、つけるのはやめるようになっていた。
 二宮さんがベッドの脇に手を伸ばした。なにかをしているのが気配でわかる。だけど、それが何なのかがわからなくて振り向こうとする私に彼が動くなと言う。その言葉に従ってじっと待っていると私の顔の前を彼の手が横切るようにして首にまわった。ネックレスをつける動作だ、と一拍遅れて気が付いた。だけどあのネックレスは家に置いてきていて、この部屋にはないはずだ。どうしてここにと思って、首元にかけられたネックレスがまったく違うデザインのものだと気が付いて、一瞬にしてなにも考えられなくなった。
「これ」
「つけていると安心するならこっちをつければいい」
 二宮さんらしくぶっきらぼうな言葉だった。その言葉に、息が詰まった。こみ上げてくるものを必死で我慢しているととても声が出てこない。私が無言になると同時に、二宮さんも無言になった。
「……気に入らなかったのか」
 その言葉に必死に頭を振ってから向き直ると、彼の胸に額を押し付けるようにした。鼻先をこするようにすると、くすぐったかったのか身じろぎされる。だけど引きはがされたりしなかった。拒絶されるかもしれないと思っても二宮さんは一度も私をそうしたことがない。「二宮くんが優しいのはあなたにだけだと思うけど」望ちゃんの言葉が頭をよぎって思わず二宮さんとくちのなかで彼の名前を呼ぶ。何度も何度も彼の名前を胸のなかで呼んだけど声にならない。かろうじてかすれた声で嬉しいとくちにすると二宮さんは私の頭を撫でた。私の反応に二宮さんが喜んでいるのが、撫でてくれる手つきで伝わってきて、余計に胸が苦しくなった。
 いつものように首元のネックレスに手を伸ばして、いつもとは違う感触が手に伝わる。好きだ、と思った。ただただ強く、そう思ってしまった。

DISTANCE

×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -