NOVEL | ナノ

「私も見てみたい」
 ホラー映画を一緒に見ているときだったと思う。私はそうくちにしていた。くちにして初めて自分がずっとそう思っていたことを理解する。
 頬杖をつくようにテレビを見ていた彼は見上げるようにして私の顔を見た。仕事でこういうものと触れ合っているのにも関わらず、彼はわりとこういう映画も見た。自分の仕事に関する映画とかドラマはリアリティが気になったりするという話も聞いたことがあるけど彼はそれも含めて楽しんでいるようだった。
「そんなにこういうの好きだっけ?」
 首をかしげて不思議そうにする彼に、ちょっと迷ってからくちにする。
「……だってこういうの、見えてるんだよね?」
 同じものが見てみたいと思ってしまった。好きだから、好きな人と同じ世界を見てみたいと思ったのだ。
 彼の仕事のことは伝えられていた。たぶんそのときから思っていたんだと思う。一緒に見てみたいとくちにした自分の声は小さかった。実際に言葉にするとなんだか、ものすごく無理を言っているように聞こえて、自然と小さい声になった。
 だというのに彼は私の肩を抱き寄せるとそのままキスをしてくる。
「かわいい」
 あんまり楽しそうに言うのでからかわれているのかと思った。でも彼はひどくやさしい顔をして私を見ているのでなんだか恥ずかしくなってその胸に頭をよせた。彼が髪の毛を撫でくれる。
「でも名前は今のままでいいんじゃない? 怖くて泣いちゃうかもよ?」
 今度こそからかうような調子で告げられて、じゃあ泣かないように一緒にいてほしいと言うともちろんと軽い声で返される。顔を見上げると彼は目を細めて私を見つめていた。見えなければよかったと思うことはあったのかなと聞いたことがある。そうかもねと彼は言った。そのときも軽い声だったけど、彼が私の前でくちにすることはほとんど本心だということを私は知っている。
 私は彼の瞳に手を伸ばして、強制的に暗闇に閉じ込めた。見えない私が見えるようになることはできなくとも、見える彼に見せないようにすることはできる。
 自らの手の甲ごしに彼の目元にキスをした。見えていないはずなのに彼は「直接して」とねだると私の手を引いて一緒に座っていたソファーに倒れこむ。蒼い瞳がじっと私を見ていて、私は今度こそ彼のまぶたにキスをした。彼の目に怖いものなんてもう映らなければいいのになと思ってそう言うと彼はかすかに笑う。私は心の底からそう思っているけど無理なんだろうなってその笑い方でわかる。
 お返しというように、彼が私のくちびるにキスした。触れるだけのキスだった。そのまま抱きしめられる。すぐに離されると思ったその腕に込められる力は強くなっていくばかりだった。ぎゅうぎゅうと抱きしめられるのは苦しい。でもそうやって苦しくなるくらい抱きしめられると、なんだか弱みをさらけ出してもらうようで嬉しくなる。いっぱい抱きしめてあげたくなる。なんだってしてあげたい。
 彼が見せたいものがあると言ったのは、私が同じものを見てみたいと告げてから少し経ったあとのことだ。
 外出するのに珍しくサングラスも目隠しも外した彼にそれだけを言われて連れられてたどり着いたのは近くの公園だ。
 そこで渡されたのは手のひらに収まるほどの長方形のケースだった。開けてみてと言われたので手をかけて開いてみる。中に入っていたのは眼鏡だった。
 黒ぶちの、どこにでもあるような眼鏡に見える。どういう意図で渡されたのか分からなくて、その眼鏡をじっと見ていると少しさきを歩いていた彼においで、と手招きされた。
 彼のもとに駆け寄る。かけてみてと言われたので素直にそうしてみた。視界はかける前と少しも変わらなくて度は入っていないようだ。彼が私の肩を抱いてから、どこかを指さす。私は指をさす方向に視線をやって思わずくちを手で押さえた。
 黒い肌をした生物が何本もある手足をばたつかせて蠢いている。犬や猫よりもずっと大きかった。なにより毛並みがない。虫みたいだったが、こんなにも大きいものがいるはずがない。それがなんなのかまったくわからなかった。大きなみっつの目が視線を定まらせずにぎょろぎょろと動いている。
「目を合わせないように」
 彼はそう言った。体がふるえたのが伝わったのか、安心させるように私の肩を撫でてくれる。その生き物が襲ってくるんじゃないかと思えて息ができない。説明されなくても、恐ろしいものだと見てすぐに思った。
 外してみてと言われて、私はそれに従って手を伸ばして眼鏡をずらしてみる。するとその生き物は視界から消えてしまった。びっくりしてもう一度かけてみる。するとやっぱりその生き物はそこにいるのだ。
 思わず彼の顔を見上げる。彼は私の様子をじっと見ていた。
「怖い?」
 表情のない顔をしている彼が聞く。彼の渡してくれたこの眼鏡が、私にあの生き物を見させているのだとわかった。
 生き物が大きく跳ねる。目を見るなと言ったのに、私は飛び跳ねたその動きに思わず直視してしまった。ぎょろぎょろとした大きな目と私の目が合う。私を見つめる彼の後ろで、あの生き物がこちらの存在をみとめたのがわかった。あっと思うと同時に、それはこちらにすごい勢いで向かってくる。
 私が彼にしがみつくと同時に、彼は振り返り私を背で隠すようにする。そしてあれを指で差した。先ほどと同じ動作だと言うのに、彼の指先からなにかが放たれる。一回、二回と放たれたなにかに貫かれ穴だらけになったその生き物は、黒い霧となって消えてしまった。
「今の……」
「僕の見てるものが見たいって言ってたから。そんなふうにねだるの珍しいでしょ。だからどうしようか迷ったんだけど」
 やっぱり見ないほうがよかったって思ってる? とばつが悪そうな、それこそプレゼントが失敗したみたいな顔をしている彼に、言葉にできない感情がわきあがって思わず抱き着いた。
「びっくりした。でも、嬉しい」
 彼はあんな、どうしようもない我儘みたいな私の願いをずっと気にかけてくれていたのだ。そのためにここに連れてきて、見せてくれた。嬉しくないはずがない、愛しくないはずがない。
 なんていえばこの気持ちが伝わるかわからなくて、いてもたってもいられない気持ちのまま私はただ彼のことを抱きしめた。
「えっ、泣いてる」
 びっくりした声を出されて笑いながらも涙がこぼれた。あの生き物を簡単に消してしまった彼が困っている。よしよしと子供にするみたいに私の頬を撫でてくれた。
 怖かったねと言われて私は迷ったものの首を横に振った。ほんとうは初めて見てびっくりしたし、怖かった気持ちもある。でもそれ以上に、彼がいつもあれと対峙しているのかと思うとあの生き物の存以上にその事実が怖かった。
 あの生き物を見ても彼は少しも動じた様子を見せなかった。あんなふうにこちらを認識したとたん襲いにかかってこられることに、目にするだけで害意を感じる生き物に、彼は慣れている。私はそれが悲しい。勝手だとわかっていてもそう感じずにはいられなかった。
 その夜、彼に手をつながれて帰ったその道すがらあの初めて目にした生き物の話をした。あれを祓うのが仕事だということを改めて伝えられて私は彼の手を強く握りしめかえした。あれが見えるのも生まれたときからの才能で、見えないひとは一生見えないままなのだそうだ。
 あの眼鏡は私のために用意したので好きに持っていてもいいけど「見られている」ことを認識したとたんに襲ってくるのもいるからむやみにつけて歩かないこと、自分のいるところでなら好きにかけていいからと彼は私に言った。私は素直に頷いた。認識できないということは今、この瞬間に隣にああいう生き物がいるかもしれないのに、見えない私はそれに気づけないんだなと思った。あんなどこにでもある公園にすらいるのなら、もうほんとうにどこにでもいるのかもしれない。私はそれに気づかないだけで。
 その眼鏡は何度確認してもほんとうにふつうの眼鏡だった。眼鏡を裏返したりふちをなぞってみたりしてもかけない限りなにも変わった様子はない。何でできているんだろうと首を傾げてしまう。
 せっかくもらった眼鏡だったが彼と一緒にいるときにかけても、そもそも簡単にああいうものはあらわれないし私がそれを「見る」まえに彼が消してしまうので(私が知らないだけでずっとそうしていたみたいだ)そのうち私の部屋の戸棚にしまわれていることが多くなった。出番といえばいつもしまわれている戸棚から私の手によってときどき出されてみがかれたり日を透かして見たりとそれくらいになってしまっていた。
 せっかくもらったのにそんな風にしか使えなくてごめんねと言うと、彼はそれでいいんだよとなぜか笑うのだった。くれたのは彼なのに、私が「あれ」を見る機会がないことに満足しているようだった。
 そんな眼鏡をそとに持ちだしたのは、話すことの多かった同僚が体調の悪さをよくくちにするようになったことがきっかけだった。季節の変わり目だからかな、でも一度病院で見てもらったほうが安心できるよねとたぶん誰でも考えつく当たり障りのないことをくちにしてからはっとした。眼鏡を通してみたことのある、ああいう生き物のせいではないのかと思い当たったのだ。なぜそう思ったのかは分からない。ほとんど勘だった。
 そしてそれは正解だった。私の目にはいつもと変わりなく見える同僚の姿は、持ってきた眼鏡を通してみるとその背には彼と一緒に見たあれとよく似た生き物がのっていた。
 思わず目をそらす。イメージチェンジ? 眼鏡も似合うねと言ってくれた彼女にあいまいに笑いながら最近なにかしたことはなかったかと聞いてみる。不思議そうに思い当たることはないと答えられて、私は困ってしまった。たたられるようなことはしたかなんて直接聞けない。もし私が彼女と同じようになにも知らなかったら聞かれても困ってしまう。
 何も知らないことは恐ろしいと思った。私も彼と出会ってこの眼鏡をもらっていなければこの生き物が原因だと思うことすらなかっただろう。そして大概の人間はそうなのだということを改めて思い知って、怖くなる。
―――理由なんてないんだよ。あっても当人が納得できるものなんて少ない。ああいうのはほとんど理不尽なんだ。
 ふっと彼の言葉を思い出した。大事なのはこれがどうして彼女に憑りついているかじゃない、このままだときっと彼女は大変だということだ。
 私は彼女の様子を見ながらタイミングをうかがった。そして今だと思った瞬間に彼女に気づかれないように私はそれに手を伸ばす。さわったこともないので掴めるかは賭けだった。
 ふるえる体を叱咤してわざと目を合わせると、「それ」はにんまりとくちをゆがませた。ああ、と思った瞬間に、それが肌にふれ、手を通して私へとうつる。あれっ? と声を出す、どこか顔色の明るくなった彼女の代わりに私の背に重みがかかった。よくこれにずっと耐えていたなと思った。
 彼女と違って、そこに「いる」ということを認識するのは恐ろしいことだった。タイミングも悪くて、私にそういうことを教えてくれた彼はちょうど国外に出ていた。帰るのは大分先の予定だった。
 彼はあんなにも簡単に消していたが、私に消し方は分からない。連絡をしようか迷ったが、出先で忙しくしている彼にわざわざ伝えて心配させることに躊躇いを覚えて結局伝えることはしなかった。
 代わりにお祓いをしてくれるお寺や神社を探してみた。すぐに行ける近場で探して予約をいれて休日に訪ねてみたが、私の話を否定せずに聞いてくれるものの私の背負っているものを認識してくれているわけではなく、祓ってくれる人は見つからなかった。帰りに気休めにお守りを買ってみたが効いている様子は見られなかった。何度か探してみてもどこも似たようなもので私は祓ってくれる人を見つけることをついに諦め、彼が帰ってくるまで待つことにした。
 それにのしかかられるようになって日にちが経つにつれ、重みは増しているようだった。背中だけだったはずのそれは、首にまで重さを感じるようになっていた。冷たい金属のような鋭いもので、ときどき首をなぞられる感覚があって、私はそのたびに自分の首がおちるのではないかと恐怖を覚えた。
 そのうち仕事以外ではベッドにこもり切りになるようになった。なにをするにもやる気が起きない。仕事で顔を合わせる同僚の彼女はすっかり元気になったようで、入れ替わるように体調を崩した私を気にかけてくれているようだった。
 彼女のその元に戻った様子を見てよかったなと思った。自分のしたことに後悔せず、素直によかったと思えることが嬉しかった。これを祓うことが仕事だと言っていた彼に、彼だったらこんな状況にならないとわかっていても、少しだけ近づけたような気がした。こうなって改めて他人のために自分の命を危険にさらしている彼を改めて尊敬した。人を助けるってすごく大変なことだ。
 そのうち、私は家を出るたびにあらゆる死に方を考えるようになった。そんなことを考えたいわけではないのに、ふとした瞬間に死ぬ方法を想像している。なにかに強いられるように何度も死ぬことを考えながら、平気な声で彼と電話をするたびに、突然自殺をする人はこうだったのかなと思った。
「もうすぐ帰るから」
 楽しみにしててと彼が言う。彼の声を聞きながら私は明日の出社時に電車に飛び込むことが頭に浮かべる。変なものは買ってこなくていいからねと私は釘を刺す。彼はときどきびっくりするようなものを買ってくることがあるのだ。私はそれを思い出しながら彼が帰ってくるまで自分が生きていればいいなと思った。このままだといまにもそこらへんから飛び降りてしまいそうで思わず彼の名前を呼んだ。
沈黙がお互いの間をつなぐ。「なにかあった?」と彼が声色を変えた。気遣われている、と、思った。電話越しの声が妙に優しく聞こえて、こらえていたものすべてがダメになる。
 会いたいとくちにしかけて、くちにしたら帰ってきてほしい、今すぐ顔が見たいとすがってしまいそうで、耐えた。だから待ち遠しいなあと思ってと、わざと明るい声をだす。僕もだとやっぱり優しい声で彼が言うので私は滲んできた涙を手の甲でぬぐった。
 ちくちくと、首にあの感覚がする。今ここで首がおちたら突然電話が切れてしまう。そうしたら彼が心配してしまう。部屋においてある鏡が目に入った。私の首に手をかけるそれと鏡越しに目があう。それのくちがはやく、はやくと動く。なんと言っているのか聞こえなくてもわかる。はやくしねとこれは繰り返し私に囁いている。
 電話を終えたあと眼鏡をはずしてベッドに入った。あの日から私はずっと眼鏡をかけていた。だってこれが彼の見えている世界なら、私も同じものが見たかったから。
 鏡にうつった私の首にミシン目のようなあざができていたのを想いだす。最初は喉のあたりだけだったこれが首の後ろまでまわったらどうなるのか。
 ミシン目に沿ってキチキチと音をたてて切り離される自分の首が浮かんでくちびるをかみしめた。泣くのを耐えたせいで喉の奥に痛みを覚えながら私は目を閉じる。
 そしてついに会社に行けなくなった。出社のために家に出たはずなのに足が動かなくなって、いつの間にか私は電話で休む旨を伝えていた。こんなときでもちゃんと連絡をしているのがなんだかおかしかった。
 うろうろと目的もなく人込みのなかを歩き回りながら、赤信号が目に入る。交通量の多い道路に思わず飛び出しかける足を引きずりながら、私は彼の部屋へと向かうことにした。目的の人がいないことは知ってる。でもそうせずにはいられない。ずきずきと痛む首をさする。あざはほとんどもう一周しかけていた。
 だけど彼のマンションにたどりつく前、私は適当なビルのなかに入ってしまった。もう足が思う通りに動かない。エレベーターに乗り込んだあたりでそろそろもうダメだなということがなんとなくわかった。
 「そういうものは理不尽だ」と言った彼の言葉を再び思い出す。そして彼はこうも続けた。「だから一番に自分の身を守ることを考えてほしい。一緒にいるときは守ってあげられるけど、どうしたって一緒にいられないことはあるから」
 エレベーター特有の浮遊感に身を包まれながら悪いことをしてしまったとぼんやり思った。あんなに私の身を思ってくれたのに。
 それから手をつないで帰ったあの夜を思い出す。そう、彼はいつも隠している素顔を出していた。どうしてあの日はサングラスも眼鏡もなかったんだろう。あれは視線があわないようにするためだと言っていた。今日はつけないの? と聞いたとき彼はなにも言わずにほほ笑んだ。
 そこでやっと気づいた。私がいたからだ。彼は私に目を合わせないようにと言った。それは私を襲わせないためだったはずだ。なら彼は? 目を合わせないためのものをどうして外す必要があった? もし襲われるようなことがあっても私ではなく自らをそうさせるためだったんじゃないか?
 真相は分からないし、たぶんもう聞けない。私はいつのまにかこぼれていた涙をぬぐいながら屋上へと向かう。外に出て、風になびく髪を押さえると同時に着信が鳴った。彼だった。私は屋上の端に向かいながらそれに出る。
「いますぐそこで止まって」
 予想していた声よりずっと緊迫した声だった。まるで私に起こっていることが分かっているみたいに。
 だけど足は止まらない。スマホが手からこぼれ落ちる。フェンスに手をかけ昇りはじめたとき、後ろで大きな音がした。落雷みたいな音だった。
 後ろを振り返る。コンクリートの床にクレーターみたいに穴ができていた。その真ん中に彼が立っていた。あっと思ったその瞬間に、手に力が入らなくなった。重力にひかれて、からだが空に放り投げ出される。眼鏡が外れてとんで行ってしまう。
 視界の端で彼が消えたと思った瞬間に、私のからだは抱きしめられていた。急激な強い重力が、一瞬にして緩まる。よく知ったその体温に包まれながら私は、数週間ぶりの心からの安堵を感じて体から力を抜く。
 そのあと地面におろされてから力いっぱい抱きしめられた。まだ予定の日じゃないのにとどうしてここにと頭に浮かんだ疑問をそのまま聞くと彼は顔をゆがめた。言いたいことはいっぱいあるのになにから言えばいいのかわからないと言いながら彼はただただ私を抱きしめた。
 抱きしめられてやっとまだ生きているのだという実感に目が潤んだ。彼の背中に手をまわしてぎゅっと抱きしめ返す。
 落下の最中、彼が背中を撫でてくれたときから背中にあった重みは消えてもうない。あまりにもあっさりと消えてしまったので思わず手を首にやってさする。ここずっとそうしていたからかくせになっているみたいだった。
 彼は私の首に目をやると、いちばん顔をしかめた。まだ痕は残っているのかもしれない。
 どれくらい抱きしめあっていただろう、ようやく彼から体を離したとき遠くに眼鏡が落ちているのに気づいた。私のように守ってもらえなかったからだろう、落下したせいで粉々になっている。そのことに胸が張り裂けそうになった。せっかくくれたのに泣きそうになった私にこんなものよりきみが無事でよかったと、彼は言うのだった。
 それから彼にすべてを打ち明けるとものすごく怒られた。とくに同僚に見えた霊を自分にうつさせたあたりで彼の顔色が怒りの赤から血の気の引いた青に変わってその白い顔から表情が消えて完全に怖かった。諸々の解放感からなにもかも素直に打ち明けたことも余計に怒りを悪化させたことにあとから気づいたが後の祭りだ。もう少しオブラートに包めばよかった。
 彼はあの電話から私の様子がおかしいことに気づいて仕事を速めて終わらせ飛んで帰ってきてくれたらしい。ここまでとは思わなかったけどちくちく言われた。いっぱい言われたあと、間に合わなかったら最悪なことになっていたんだからねと改めて言われて、その顔が怒りというより悲しそうで、すごく罪悪感でいっぱいになった。罪悪感でいっぱいの私は前々から進められていたがそのままになっていた一緒に住む件とかもろもろ言いくるめられて推し進められることとなったのだった。
 抵抗があるから話が止まっていたわけではなく、私のアパートの契約更新の期日だったりだとか、そういう問題だったからなので、無理になにかをされたわけじゃない。むしろこうなってよかったのかなとも思ったりした。
 眼鏡はもうダメだと言われてしまったので、私が霊を見ることは(またああいう殺されかける状況におちいれば私のような人でも見られるらしいけどそんな機会はもう二度とないから彼は怖い顔と声で言った)たぶんもうないんだと思う。見なくていいよ、代わりに僕が見るからと彼は言うのだ。でも私はそんなふうに言う彼だからこそ一緒のものを見たかった。
「その気持ちだけで十分嬉しかったから」
 だからもういいんだと彼は私を撫でる。いいのかなと思いつつ、私は彼が望むようにそれを受け入れ、大好きだから、私は彼を抱きしめる。私が部屋にいるようになって彼は嬉しそうだった。だから私は、これからも彼と一緒にいる。死ぬくらい心配させた罰としてずっと一緒にいてと彼は時折くちにするようになった。そんなの罰じゃないのに。
 たぶんそのうち他のすべてを捨てないといけなくなるかもしれない。でも私は彼が好きなので、彼がしたいことなら結局なんだってしてあげたいなと思ってしまうのだった。

 自らの首を確認するように撫でる彼女を思わず腕のなかに閉じ込めると彼女はくすぐったそうに身をよじった。こちらを見上げる彼女の目をのぞき込む。彼女の瞳にあるのは愛だけだ。恐怖も不信もそこにはない。
 彼女が頬を緩め、そうして抱きしめかえそうとしてくる。されるがままでいると胸に顔をうずめてくるのでくすぐったかった。
 彼女が手を伸ばす。頬に触れられて、そっと撫でられた。愛情に満ち溢れたしぐさだった。顔を見て何かを思ったのか「大丈夫」とちいさく囁かれてぐ、と息がつまる。こみあげてくるものがあって、息を止めた。言葉が出てこない。
 首に手を添えられて今度は彼女が顔をのぞき込んでくる。彼女はこういうじゃれあいが好きだ。お互いにふれあうのが好きだった。彼女とするから好きだ。
 自分よりずっと小さい彼女がそうしていると、縋りつかれるかたちになる。にも関わらずそうされるたびにまるで自分が縋りついている気持ちになった。
 彼女自身が時折そうするように、彼女の首に手を添える。あの痕はすっかりと姿を消してもとの肌へと戻っていた。もう痕は残っていないのに、彼女の癖としてそれは残っている。そのしぐさを見るたびに、あの痕を思い出して血の気が引くような思いになる。皮膚がざわめいて、ぞっとする。許せないと思う。
「好き」
 ぼんやりと彼女を見ていると、首に手をかけられているような状態だというのににこにこしながら言うので、苦しいような、どうにかなりそうな衝動で彼女のことを抱きしめる腕に力をこめる。傷つけない範囲で手加減はあまりしなかった。苦しいだろうに彼女はそれでも幸せそうに笑っている。その笑顔を見るたびにらしからぬと思っても誤魔化しきれない熱が心に帯びる。可愛い。どうしようもないほどに愛しい。同時に酷く哀れだと感じる。
 失うかもしれなかったと思うと胸の中が嫌なもので満ちた。彼女はここにこうして腕のなかにいるのに幸せと相反するように冷えた感情はあれから増して”そこ”にあった。それが失う恐怖だということを知っている。
「僕は愛してる」
 彼女の髪を耳にかけて、自らが抱いているものなどないようにとびきり甘く囁いた。彼女の頬に赤みがさす。照れくさそうにしているその頬を手でさすって確かめる。その熱にいっそ頭から食べてしまって今すぐにでもすべてを自分のものにしてしまいたいような気持ちになった。
 胸のうちに酷い感情がわきあがる。その感情が心のすべてを埋め尽くすまえに彼女にキスをする。もっともっと彼女を自分だけのものにしてしまいたいという思いが、彼女自身のやわらかなくちびるの感触で和らぐ。抱いた気持ちをなだめるために、そのくちびるに乱暴にかみついた。
 彼女の息を飲む音が伝わってくる。その吐息すら飲み込むように小さい舌を食んだ。服の隙間から差し入れた指で肌をなぞる。体温が、感触が、においが、彼女の存在そのものが、隙あらば湧きあがるどすぐろい色をした感情を塞ぎ止め、かろうじてまともたらしめていた。
 彼女があの日見て怖がった呪霊も彼女に憑りついた呪霊もきっと自分に比べれば随分まともなものだという自覚があった。もし次にあんなことがあるのなら、彼女が自分以外に奪われるようなそのときは、それが誰のためでも誰の意志でもきっとそのまえに自分はこの手で彼女を縊り殺してしまうに違いないのだから。

DASEIN

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