NOVEL | ナノ

 乙骨くんという男の子は困ったように笑う男の子だった。纏う穏やかな雰囲気や優し気な顔立ちを見て負の印象を覚える人間の方が少ないだろう。少し接しただけでもただの印象だけでなく、実際に優しいことがわかる男の子だ。だから彼を前にするとなぜこんなにも逃げ出したくなるのか私自身にもわからない。
「名前さん」
 彼に名前を呼ばれると私は震えそうになる。
 顔をあげた私に、乙骨くんはほほ笑んだ。彼が今日、この時間帯に任務を終えて帰還することはすでに知っていた。知っていて、心の準備をしていたはずだった。それでも心臓がずきずきしている。私はその目を直視することを避け、目を伏せてお帰りなさいと言う。すでに用意してある手続き上の書類を差し出すと彼はそれを受け取って、記入し始めた。
「……今回の任務はどうでしたか? 怪我、してないですか?」
「大丈夫ですよ。でも遠くて移動がちょっと大変でした。名前さんの分もお土産を買ってきたのであとで渡しにきてもいいですか?」
「いつも気を遣ってもらってすみません、嬉しいです。怪我がなくて、なによりです」
 目を合わせられずに、上手く話すこともままならない頼りない年上に、それでも乙骨くんはいつも優しかった。
 他の人に対してよりも目に見えて気遣われていた。そうして気遣われていることが心苦しく、まともに対応しなければと思うのに、私はそれでもままならない不安に駆られた。
「お願いします」
 書き終えた書類を彼に差し出され受け取ろうとした瞬間にお互いのゆびさきがぶつかって、私は力の限りにぶたれたように手をひっこめた。目を丸くした彼を前にはっとする。
 慌てて謝って、落ちた書類を拾おうとした私を手で制止すると代わりに乙骨くんが拾ってくれる。書類を拾いあげた彼はもう一度差し出してくれた。
「ごめんなさい、私」
「いいんです、僕こそ驚かせてごめんなさい。痛くなかったですか? 大丈夫かな」
「ううん、大丈夫です。……ごめんなさい」
 なんといえばいいのかわからずにもう一度謝る私に、乙骨くんはやっぱりほほ笑んだ。私は彼にそうして心配してもらいながら、そのこと自体より、今この瞬間彼と同じ空間にいることにこそ不安を感じている。初めて出会った瞬間、目と目が合ったそのときから、私は彼が怖い。
 前触れもなくざらついた不安が胸を撫でることが昔からあった。ふとした瞬間に感じる私自身を苛む不安や気配に時々居ても立っても居られなくなった。
「名前は人より勘が鋭いんだろうね、他が気配すら感じないようなものまで感じ取ってる」
 そう声をかけて、長い間向き合って、助けてくれたのは五条さんだった。昼間の、まだ日が校舎に差すさなか、よく目立つその後ろ姿を思いがけずに見つけ、私は駆け寄る。五条さんはその背の高さも相まって、この人影が少ない校舎のなかでも、たくさんの人込みのなかでもいつも存在が際立っている。
「五条さん」
 彼の姿をみとめ思わず大きく響くくらいの声で名前を呼んだ私を振り返ると五条さんは明確にくちびるを緩め、目隠しをしていてもわかるくらいに破顔した。それにつられて、私も頬が緩む。
「こんにちは、高専にいらっしゃったんですね」
「そう、今日はこっちでお仕事。名前は変わりない?」
「変わりないです。 五条さんは大丈夫ですか? ついこの前戻ってきたばかりだって聞きましたけどお疲れじゃないですか?」
「うん、名前の顔が見られて元気になった」
「私も五条さんの顔が見られて嬉しいです」
 言ってから、いつものことではあるもののちょっと照れてしまって、照れ隠しに笑う。五条さんは出会ったときから私を気にかけてくれて、こうして言葉をかけてくれた。だから私も顔が見られて嬉しいといつも本心を返す。それがお約束のようになっていた。大丈夫かを聞いて返ってくる言葉はいつも決まっていたけど、それでもかけずにはいられないのは、五条さんの持っている仕事がいつも危険で大変だということをよく知っているからだ。
 高専に戻ってきては出るのを繰り返し、五条さんは飛び回っている。だからこんなふうに偶然に顔が見られるのは幸運なことだ。
 廊下の端によりながら、話をした。五条さんは私の話をいつも嬉しそうに聞いてくれるのでいつも思わずいっぱい話をしてしまいそうになる。そんなふうに話過ぎても五条さんはにこにこしているので、ついついそうしてしまいがちだ。
 任務の先での五条さんの話を聞いて、びっくりしたり感心したり、そのうち話の流れでからかわれて私が思わず高い声で彼の名前を呼んだときだった。
「名前さん」
 後ろから自分の名前を呼ばれる。振り返らなくてもわかる声に一瞬で体温が下がった。
 表情と同じで優し気に、どこか甘く聞こえる声だ。顔を見なくても彼がどんな顔をして私を呼んでいるのかが想像できる代わりに私は声を失う。
「憂太」
 手をあげて後ろへ振って見せる五条さんに私は思わず視線をあげた。五条さんが私を見て、不思議そうな声で名前? と呼ぶ。私は恐らく困った顔をしている。そんな顔を見られることが恥ずかしくて、もっと困る。視線を下げて、息を吐き、そっと振り返った。
 勇気をあげて視線を向ける。想像通り、穏やかな表情を浮かべる乙骨くんがそこにいた。人を安心させるだろう笑みに私はいてもたってもいられないような気持ちになる。今すぐどこか、彼のいない違う場所に逃げたくなる。
「こんにちは、五条先生。名前さん、五条先生といたんですね」
「……うん」
 目の前で、五条さんと話をする乙骨くんに私はすぐさま視線を落とした。 
 私の態度はおかしい。なにもされていないのにこんなふうに変わった態度を出すのは彼にとっても失礼で、おかしくて、傷つけてしまうかもしれないと思う。でもどうしてもこうなってしまう。態度を繕えない。彼の前だと息ができない。
 私をよそに五条さんと乙骨くんはふつうに話をしている。混ざることもここから消えることもできずに立ちすくんでいると、ふと思い出したというように乙骨くんが言った。
「そう言えば五条先生、呼ばれてましたよ。怒ってたから、急がないとまずいんじゃないかな」
「そうなんだよね。実はもうだいぶ過ぎてる」
「え!」
 居心地の悪さにずっと下を向いていた私だったがその言葉に驚いて声をあげた。その反応に名前のせいじゃないよと五条さんは言うけどどう考えても関係のない話をして引き留めた私のせいだ。
「じゃあそろそろ行ってあげようかな」
 五条さんが動こうとする。待たせているというなら、しかもそれが私のせいだと言うなら、私こそが送りださなければいけないだろう。それなのに、今ここで乙骨くんとふたりきりにさせられるのかと思うと、思わず手が伸びて五条さんの服をつかんだ。明確な沈黙がその場を支配する。ふたりが私を見ている。羞恥で顔が赤くなり、そのくせゆびさきの温度が緊張で冷えていく。なにか言わなければ、手を離さなければと思うのに、凍えてかたまったゆびを彼の服から離すことができない。
 その場の空気をもとに戻したのは凍り付いたままの私でもそんな私をずっと見ている乙骨くんでもなく五条さんだった。私の冷え切った手を、彼がそのまま上から握りしめた。ぎゅうっと大きな手が包むように触れてくれる。私を許してくれる温度がそこにある。五条さんの手は熱くて、その熱に力が抜ける。私自身が服から離せなかった手が空にこぼれ落ちそうになったのを五条さんはすくいあげて握ってくれる。
「名前は人見知りだから話すのが苦手なんだよね。まだ憂太に慣れてないのかな。怒らないで許してやってくれる?」
「許すなんてとんでもないですよ、怒ってもないです」
「……ごめんなさい」
 五条さんに手を握ってもらっていることで、恐怖がはっきりと薄れる。薄れてようやく動けるようになり私は頭を下げた。
 乙骨くんはそんな私に気にしないでと首を横に振り「でもいつか、僕とも仲良くしてくれると嬉しいなと思います」とほほ笑んでくれる。そのほほ笑みか、五条さんの手の体温のおかげか、こわばっていた心がかすかにほどけるような心地になった。
 乙骨くんが私に手を差し出す。握手だとわかって、私は躊躇いを覚えながらも五条さんから手を離し、右手を出そうとする。だけど五条さんはそれを制するようにしっかりと私の手を握りなおした。
 思わず五条さんの顔を見あげる。五条さんは私の視線を受け止めながら代わりに自らの手を乙骨くんへと差し出した。
「名前は恥ずかしがり屋だからね。代わりに僕と握手しようか」
 乙骨くんはなにも言わず笑みを浮かべたまま、五条さんと握手を交わした。私はふたりが握手を交わすのを五条さんの隣でじっと見ていた。
 握手を終えた五条さんは私をそこに置いていこうとはもうせずに、私の手を繋いだままその場所から連れ出してくれた。
 それを見送った乙骨くんが私と五条さんに手を振りながらいつまでもそこに立っていて、こちらを見ているのがわかる。ようやく視線が途切れたときに五条さんはくちを開いた。
「名前は憂太を前にするといつもああなの?」
 五条さんは不思議だ、というように首を傾げる。その疑問も当然のことだろうと思った。彼の前で明確に乙骨くんと話す機会は今までなかったので、こんな姿を見せたのは初めてだった。
 どうして怖いのか私にはどうしても言語化できない。彼を高専へと導いたのは五条さんだったし、私よりも彼と親しく近しいからこそ、私が彼を怖がっていることを変に思うだろうと思った。彼の人柄を知って怖がるなんて間違っていて、おかしい。なのに、もう目の前に彼がいないのに、彼の前に立つ自分自身のことを思い出すと私は不安になった。
「怖いんです」
 自分でもおかしいと思うんですけど、とかすかに震える声で、だけどちゃんとそう言えたのは五条さんが相手だったからだ。乙骨くんの乙骨くんと同年代の学生の子やほかのひとには言えなくても、彼だったら言えた。彼は特別だったから。
 私の答えを聞いた彼はじっと私を見つめた。といってもいつもの目隠し越しだったので本当に目が合っていたかどうかは五条さん本人にしかわからない。遮られている彼の表情もわからなかったが、私はその沈黙に震えるような心地になった。五条さんに打ちあけておかしいと言われてしまったらもはやどうにもならないだろうと思う。私は私がおかしいことを受け入れなければならない。
 でも五条さんはその気持ちを否定しなかった。私の肩を慰めるようにふれ、五条さんは無理に近づくことはないと言ってくれた。きみはずっとそうしてきたのだし抱く気持ちを押し込めることはない。もし望むのなら必要以上に近づくことのない仕事をまわすようにすることもできるとも言ってくれる。
 私はたぶんどこかでそう言ってもらうことを望んでいたのだと思う。大丈夫だと、変わらなくていいと五条さんに言ってほしかった。無意識のうちにため息が出た。
 いつもこうして甘えてしまう。迷ってから、私は乙骨くんにも悪いので頑張ってみると答えた。そんな私に五条さんは少しの沈黙を置いて問う。
「昔、僕を怖がっていたのと同じように怖い? 怖い気持ちは似てる?」
「……はい」
「そっか」
 五条さんはそう言うと黙ってしまった。その沈黙にひやりとしたものが肌を撫でる。だから私は確かに感じた不安を誤魔化すように笑った。
「でも、五条さんを怖がっていたのが間違いだったみたいに、今回もおかしいんだと思います。心配かけちゃってごめんなさい」
 昔の私は"五条さんに対しても恐れを抱いていた"のだ。そしてそれは間違いだった。私の勘はやっぱりどこかおかしい。だから、きっと同じだ。今の私が五条さんを信頼しているように、怖れてはいないように、いつかは乙骨くんの存在を受け入れることだってできるだろう。
 五条さんの言葉を受けて、昔の私を思い出す。私は五条さんを怖がっていた。それこそ乙骨くんと同じで出会った瞬間、目と目が合ったそのときに私は五条さんを恐れた。
――「それなら"優しく"してあげる、そうしたら怖くなるかな」
 怖いという気持ちをおそるおそる吐露した私に五条さんはそう言った。初対面のときから理由もなく恐れを見せた私に五条さんは言葉の通りにしてくれた。そもそも言葉の前からそうだったと思う。五条さんにとって私は気に掛ける価値もないはずだった、それなのにずっと優しくしてもらった。一緒にいてくれて、時間をかけて怖くないということを教えてくれた。五条さんはずっとずっと優しかった。だから大丈夫だと思えるようになった。
 もう一度、今度は五条さんに向けて下げた私の頭を彼は撫でた。撫でて貰うたびに大きな手だ、と思う。その手はその気になれば今すぐに私を殺してしまえる。だけど五条さんの手は私を傷つけないと知っていた。それなのに触れられると肌がざわめく。まだ五条さんを怖いと思っていたときの気持ちを思い出す。
 五条さんは怖くない。大丈夫。そう思いながらされるがままでいると楽になっていく。そうしているうちに恐ろしさに安心感が混じって不思議な感覚になる。頭皮を撫する彼のゆびの感覚にぞくぞくしながらされるがままでいると五条さんは言う。
「名前は本当に可愛いね」
 だけど、逃げていいからね。と五条さんはつづける。名前は弱いから無理をしなくていいよ。私はその言葉に、弱さの肯定に、ちょっとだけ切なくなって、ちょっとだけ悲しくなって、でも安堵を覚える。五条さんの隣に恐怖はない。五条さんが強いから、ほかの怖いものから守ってくれるから、だから怖くない。
 今度こそ私も五条さんを見送って、その背を見ながら五条さんを"怖い"と思っていたころのことを思い出す。
 五条さんを恐れた理由は今でもわからない。ほかのことに対して怖いと思ったときにも原因は見つかったり見つからなかったりした。だから私が乙骨くんに抱く恐れの気持ちは五条さんのときと同じで理由もなく感じる不安に類するものなのだろう。
 強いてなにか理由をあげるとするなら、私はたぶん五条さんの強さが怖かったのだ。乙骨くんも同じだ。いつかは慣れる。優しくしてくれた五条さんに慣れたように、私はいつか、優しい乙骨くんに慣れて、怖いことなどなくなるはずだ。だから大丈夫。大丈夫。
 慣れたから、私は五条さんが怖くなくなったのだろうか。なら、私は本当の意味で五条さんに怖さを感じなくなったわけではないのだろうか。そこまで考えてから抱いた疑問をかき消すように首を振った。
 五条さんが少し長く海外に任務に行くことになると本人から聞いたのはそのあと、少したってからのことだった。終わったらいちばんに顔を見に来るねと言ってくれた五条さんに嬉しいですと告げ、当日に見送ったあと、私はいたって平穏な生活を送っていた。大丈夫と答えたはずだったが、五条さんとの会話のあと、乙骨くんと直接的な接触のある仕事がなくなっていたのも平穏の要因の一つだった。
 そんな私の住んでいる部屋に乙骨くんが訪れたのは突然のことだった。
 扉をあけてから、鳴らされたインターフォンに相手が誰かも確認せずに外に出たことを後悔した。乙骨くんに会わない毎日に、私は気が緩んでいた。
 目が合って言葉を失う私に、そこに立っている彼はいつもと同じ、困ったような顔でほほ笑む。
「名前さん」
 その声に、本物だ、と思う。意識しないようにすればするほど私はその声を意識した。意識しすぎてその声が誰のものなのか、たぶん他の誰かの声よりわかってしまう。
 ここ数日、乙骨くんは東京にはいないはずだった。どうしてここにと疑問が駆け巡るものの、そのままでいられるはずもなく、私は迷ってから彼を部屋に上げた。中に彼をあげることに躊躇いがなかったわけではないが、それでも立ち話をするのに外の温度は冷えすぎていた。
 上がってくださいと声をかけると、乙骨くんは驚いた顔をする。その顔はあどけない。彼はあどけない表情をよくした。怖くて目が合わせられなくて、近くに彼がいるとどうしようもなくなるせいで、私は逆に乙骨くんの存在を強く意識していた。私自身が彼の視界に入ることがないときには安心することができる。だから遠くからなら彼を見ることができた。友人と一緒にいる乙骨くんはよくそういう顔をしていた。
 部屋に上げたものの同じ空間にいることに耐え切れずに、お茶の用意のためという理由で彼を部屋に残してキッチンに立つ。ケトルでお湯を沸かしながら部屋に戻れずそのまま立っていると、いつの間にか後ろに彼が立っていた。びっくりして音をたてるケトルにぶつかりそうになった私を庇うために彼が抱きしめる。思わず距離の近さにからだが縮こまった。
 落ちかけたケトルを乙骨くんが元の位置に戻すのを見ながらありがとうと言うと、彼はそれには答えることなく違う質問をした。
「名前さんは五条先生と付き合っているわけではないんですよね?」
 私は目を丸くした。質問の内容というより乙骨くんのくちから聞かれたことに目を丸くしたと言ってもいい。その質問自体はよく他人に問われたものだったので慣れていた。近しい人にも見かけたこともない初対面の人にも聞かれたことがある。幸運なことに五条さんに人より目をかけてもらっているという自覚はあったが、付き合っている事実はどこにもない。
 私が違うと答える前に、答えるのを制するように、乙骨くんは質問を続けた。
「五条先生のことが好きですか?」
「……今日は質問をしに来たんですか?」
「好きじゃないですよね。名前さんは五条先生のことを怖がってる」
 誰かからそんなふうに聞いたのだろうか。彼の前で五条さんに必要以上に親し気な態度をとってしまい、それを見られてしまった記憶はあったが、五条さんを恐れた態度をとった覚えはない。むしろ乙骨くんにこそそういう態度をとっていた。どうしてそう思ったのか、今度は私が視線で問うと彼は不思議そうな顔をした。どうしてこんなにも簡単なことに気が付かないんだろうというような、気づかないことが不思議だという顔だった。
「だって五条先生は僕と"同じ"だから。だから名前さんは怖がってるんですよね」
 自らのゆびが反応するように震えて、私はそれを隠すようにもう一つの手で握りしめた。昔の私が五条さんに抱いていた恐ろしさと今の私が彼に抱いている恐ろしさは良く似ている。それは五条さん以外の誰にも言ったことがないことだった。
 前はよく言われた。怖がっているよね、気持ちはちょっとわかるよ。でももう言われなくなった。懐いているよね、いつからあんなに親しくなったの? あの人はあなたに優しい。 優しいよ。だから五条さんは怖くない。怖いことなんかない。そう感じることは間違いだ。間違いだと思う方がずっと怖いままでいるよりも幸せだった。
 握りしめてもなお震える手の上に、彼が手を重ねる。あたたかい手のひらだ。五条さんのような大きさではなくても、私より大きいその手は簡単に私の手を包んでしまえる。嫌でも性別を感じさせるかたい手のひらは私たちの間にあるあらゆる隔たりを強引に凌駕していた。
「でも名前さんは五条先生のことは"許そう"してる。五条先生に優しくされたからそう思ったんですか? 僕ももっと頑張ったらそう思ってくれますか?」
 彼の手が私の手の甲を滑る。その手に強く握られると泣き出してしまいそうな不安に駆られた。怖い。顔をゆがめる私に乙骨くんは自分がそうさせているとはとても思えないような痛ましげな顔をする。
「そんな顔をしなくても大丈夫ですよ。ただ、僕とも仲良くなってほしいだけなんです」
 首のうしろに冷たい汗がにじむ。自らのからだに緊張が漲っていて、死んでしまいそうなくらいにこわばっている。私が伝えたい意志が何一つ決定的に彼に届いていないような感覚があった。どうしたら諦めてくれるだろうと必死に思考をこらす。
「私になにかすると五条先生が来るよって、聞いたこと、なかったですか?」
 いざとなったら僕の名前を使ってもいい。乙骨くんと出会う前から五条さんに言われていた。だけど初めてくちにした。強い抵抗感に冗談めかそうとした言葉の語尾がひっくり返って変な声になる。彼は私の言葉に真正面から切り返した。
「五条先生のことが怖いのに、助けを求めるんですか?」
 明確に怯えをみせた私の顔を彼が覗き込んだ。黒々とした彼の瞳に子供のように途方に暮れる私が映っている。それでもとっさに五条さんの名を呼ぼうとした。その名前は私を支配するよすがだった。
 私が声に出して呼ぼうとした名前が誰のものだったのか気づいたのだろう、乙骨くんに握られたままだった手首を引かれる。くちびるが重ねられて、その名前は音となる前にかき消えた。背にシンクがぶつかる。どこにも逃げられない。それは許されていない。
 彼のくちびるや薄い舌には手と同様に体温があり、そのことにぞっとした。触れたこともないからこそ遠くに感じていた彼の存在がより密接に私に突き付けられる。その温度に侵食されていく。
「たくさん言われましたよ、耳にタコができそうなくらい。みんな名前さんは止めておいた方がいいって言うんです。でもそれが僕が名前さんを好きなことに関係があるんですか?」
 濡れた舌の感触に背筋にしびれが走り震えた。顎をつかまれたままもう一度舌を差し入れられると強張っていたからだから力が抜ける。抵抗しなければという衝動が薄れ、妥協に飲み込まれていく。いつの間にかゆびを絡めるようにして握られた手には必要な力だけが込められていた。私の意志を折るのに最適で最小の力だ。彼はその力加減を知っている。絶対的な存在のまえにすべての意志が塗りつぶされる。
「僕、名前さんのことが好きです」
「……こんなの、こんな、怒られます」
「誰に? 名前さんが僕に抱かれるのを怒れる人なんてこの世にいるのかな。だって名前さん、誰とも付き合ってないんでしょう」
「ダメなんです……、お願いだからわかって……」
「ダメなことなんてひとつだってないですよ」
 ついに私のくちからこぼれた許してくださいというか細い言葉に彼は囁いた。
「名前さんが誰かに許してほしいなら僕が許します」
 そう言った彼はいつもの困った顔をすると、私の頬にキスをする。私はその言葉にすべてを諦めた。彼が私を押し倒し、服をひとつひとつ脱がせ、肌に触れるのを彼の下でされるがままに大人しく受け入れた。彼は私に必要以上の痛みを味わわせる力を使わず、それでも私はひとつとしてまともな抵抗をしなかったので、同意の上の行為ということになるのかもしれなかった。それでもそこにいるのは支配する男と支配される女でしかなく、私は彼が早く満足して、この行為が過ぎ去っていくことばかりを祈った。
 はやく、と私のくちからもれた弱った声に、乙骨くんは苦笑する。彼はそれが行為を指していることを知っていたと思う。だけど乙骨くんはけして自分だけの満足を得て終わらせようとはしなかった。それは私にとって、とても苦しいことだった。
 彼は何度も何度も私に可愛いと告げた。言い聞かせるみたいに繰り返される。心がその言葉におかされていく。
 甘い甘い声でほんとうにそう思っているみたいに言うから、私の心がふやけて、とけて、おかしくなっていく。それがこの状況でそうなることがいちばん楽だったからそう感じるのか、それとも本当に絆されてしまったのかわからなくて、でもこれ以上そうなるのが怖くて私はぎゅうっと目をつぶった。
 だけど乙骨くんは目を開けて僕を見てと言う。有無を言わさないその語調に私はやっぱり抵抗できす、おそるおそる目を開ける。私を見下ろしている乙骨くんと目が合う。"命令"を私が聞けたことに彼は嬉しそうに愛しそうに笑う。
「名前さんはいい子だね」
 褒めて貰ったことに、心のどこかで喜びを覚えている自分に体温が下がった。今更逃げようと身をよじっても、おなかのおくを穿たれた状態では、余計に自分を追いつめるだけだった。思わず出したことのないような高い声で悲鳴をあげた私に彼は顔をほころばせる。
「名前さんってどうしてこんなに可愛いのかな、食べちゃいたい」
 もし本当に食べて貰ったら、もうなにも考えなくてもよくて、楽になれるのだろうか。
 手遊びのように髪を梳かれながら、その優しい仕草に五条さんによくそうされたことを思い出して心の奥が冷えた。顔色を変えたことで、彼は私が違うことを考えたことを察したのかどこか甘えた声で私の名を呼ぶ。そんなふうに甘えた声を出そうともこの場も、私のからだも、心も、命も、すべてを支配してるのは彼なのだった。
 すべてが終わったのは、もう少ししてからのことだった。現実として流れた時間を余韻の残ったからだでは少しもわからなかった。少なくとも私にとってその時間は永久のようにながく感じられた。
 まだ足りなさを見せる様子で彼は惜しむように私の肌の至るところを手でなで、くちびるを押し付けた。
「名前さんのことが好きだからこうしたんです」
「好きだって言うなら、こんなことしてほしくなかった」
 彼はそんなことを言われるとは思わなかったというように目を瞬かせた。本当に子供みたいな友人と過ごすときと変わらないあどけない表情だった。眉をさげ、困った顔で彼は言う。
「じゃあ名前さんはどうしたら僕を受け入れてくれましたか? 教えてほしいです」
 黙り込んだ私を彼が抱きしめた。
「名前さん自身も答えられないならこれが正しかったんだ。そうですよね?」
 彼がそうっと耳にくちを寄せる。
「僕を選んでください」
 吹き込まれる懇願の体をした命令に私はからだを震わせる。諦めたからなのか、慣れてしまったからなのか、こうして抱かれる以前よりも私は彼に怖れを抱いていないことに気が付いた。これ以上の怖いことは起きないような気がしたからかもしれない。
 私は五条さんに慣れた。だからきっと乙骨くんにも慣れる。あれだけそれを願っていたのに私は今更それが、そうなってしまった現実が、空恐ろしかった。
 私はそれから乙骨くんと抱かれるようになった。求められるたび、私はもはやかたちだけの抵抗もしなくなった。私は乙骨くんを選ぶとも好きとも言えなかったが、それでもいいのだと乙骨くんは言う。なにがいいのか、きっと私には一生わからない。こうして触れられて嬉しい、好きだと言われるたびに、ならどうしてという気持ちになる。
 顔を合わせるたびに嬉しそうな態度をすることを隠さなくなった乙骨くんに私は怖がる態度を出さなくなった。それを見て、今までの私の乙骨くんへの態度を知っているみんなはやっと慣れたのだろうというような反応をする。ふたりきりになればみんなの前では声を交わすだけで嬉しそうにする乙骨くんに抱かれる日々を送りながら、自分のなかのなにかがどんどん麻痺していった。それでも、五条さんの帰還だけが心のなかでずっと引っかかっていて、今度は私はそれを恐れていた。あの日からずっとそうだった。五条さんを前にしたとき、私のこの状態もなにもかもを見透かされてしまうような気がした。
 五条さんの帰還より先に乙骨くんが任務で高専から離れることになって、彼は惜しむように私に触れた。行ってくるねと彼は任務の前に私にキスをした。目をのぞき込まれる。じっと見つめられ、その目から視線を逸らさずにいると、彼は頬を染めた。
「こうして見つめ合うのって照れますね。でも目が合うの、嬉しいなあ」
 彼に囁かれて、もう一度きつく抱きしめられる。私がもっと早くに目を逸らすことをやめていたら違ったのだろうかと、どうしようもないことを思った。
 見た目以上にかたくてがっしりとした彼のその胸板に自分のからだを抱きよせられ、抵抗をさせる気を起こさせない強い腕の力を感じる。そうすることを求められていることがわかったから、私は彼の背に腕をまわす。力が入っていなかったから抱きしめるというより添えているだけだったけど、そうすると一層彼の腕の力は強まった。あたたかい体温越しに彼の心臓の音が聞こえる。
「名前さん」
 こうして私を呼ぶどこか弾む声もさきほどの頬を染めた幼げな表情も、力で私を支配する人間のものにはとても感じられない。私がたかがこんなことをするだけでそんな風に嬉しそうにするのが不思議だった。彼の機嫌が良いということにほっとする。私のするこれっぽっちのことで喜んでくれるなら、痛いことも酷いこともされないなら、もうそれでいいのかもしれないと思う。
 触れ合うようになってから、私が乙骨くんが怖いと感じたのは、乙骨くんが私にこうしたいと”強く”と思っていたからなのかもしれない、と時々感じた。
 抱きしめられながら頭のなかで五条さんのことを考える。いちばんに顔を見に来ると約束をしてくれた五条さんが帰ってくる。
 乙骨くんが任務で旅立った数日後に五条さんは高専に帰還した。私はいつものように自分から会いに行くことなどとてもできなかった。彼にすぐに次の任務が入れば顔を合わせないことになるだろう。顔を合わせることがありませんようにといつもと正反対のことを願った。遠ざけてどうにかなることでもないのに、それでも、私は乙骨くんとのことが五条さんに発覚することが本当に怖かった。
 私の願いとは裏腹に、約束をしていたのに顔を見せないから心配してくれたのか、五条さんは私のもとへその日のうちに訪れた。私は心のどこかでそうなる気がしていた。
 いつも以上に気配を消すようにしていた私を見つけ出し、つかまえた五条さんは、私の顔を見ながら口角をあげた。ただいまと言われて反射的にお帰りなさいと言う。からだがそういうふうになっていた。
 座って仕事をしていた私のそばまで寄ってくるとそばにあった備品の椅子のひとつに彼が腰かける。長さの余る足で足を開くようにした座り方をされると威圧感がある。私の心が勝手にそう感じているだけかもしれない。
 表面だけをなぞるような、いつもより静かな会話を交わしながら、五条さんに今日の名前は昔に戻ったみたいだねと言われて心臓が強く跳ねる。
「……昔の私、失礼なこといっぱいしちゃいましたよね」
「昔の名前も今の名前もどっちも可愛いよ」
 私の言葉に彼は答えになってない答えを返す。そして切り出した。
「憂太と仲良くなったんだね。みんな言ってたよ。僕のときみたいに優しくしてもらって慣れたのかな?」
 肩が自分の意志と離れて、震えた。
「乙骨くんは、五条さんと違って、優しく、ないです」
 きっとなにも伝わらない、だけど、私の本心そのものを伝える。五条さんはなにも言わないまま私を見た。目隠し越しでも見つめられていることが理解できる。理解できるくらい見られている。そうしてじっと見つめられると私のからだに与えられたもの、奪われたもののすべてが伝わっているようでいたたまれない気持ちがわきあがった。
「名前、僕に助けてって言わないの?」
 その言葉に私は自らの手をきつく握りしめた。核心的な言葉を一つも交わさなくとも、やっぱり彼はすべてをわかってしまうのだと思った。
 私はあのとき五条さんに助けを求めて呼ぼうとした。でも、今更、もうそんな風に彼を呼べない。乙骨くんに無理やりくちをゆびで割り開かれ「憂太くん助けて、って言ってみてください」と乞われたことが頭に浮かんだ。助けなら僕に呼んでほしい、必ず僕が助けにいきます。私を追い詰めるように抱きながら彼はそう求めた。
「僕は名前は"優しい男"が好きだと思っていたんだよね。そうじゃないなら遠慮することはないのかな」
 今すぐに逃げてしまいたいと思った。だけど逃げることは許されていないともわかった。私はなにも言えないまま、彼が私に手を伸ばすのを見ている。されるがままになる。
  乙骨くんの言う通り、彼の名前を呼べばいいのかな。乙骨くんの前で五条さんの名を呼んで助けを求めたみたいに?
 あのときの乙骨くんからは五条さんが逃がしてくれた。ずっとずっと五条さんに助けてもらった。じゃあその五条さんからはどうやって逃げればいいと言うんだろう。
 五条さんは自らの目隠しをおろして、直接私を見た。久しぶりに湧き上がる彼への強い恐れが、不安が、心を支配する。見据えられているのが怖いと思う。頭を撫でられなくても、触れられなくても怖い。なにをされるのかわからなくて怖い。私がなにをしても、彼になにをされても、きっと逃げられないから、怖い。
 ずっと見ないようにしていた感情が噴き出す。一度自分が怖いと思っていることに気づいて認めてしまうとあとからあとから怖くなった。おかしいな、ずっとずっとこんなふうに思わなかったのに。"大丈夫"になったはずなのに。
「私は、やさしい、五条さんがいい、です。やさしい方がすき、です」
「でも"優しく"しても名前は僕を特別にしてはくれないんだよね」
「特別です、五条さんは、ずっとずっと特別です」
 必死に言葉を募る私を五条さんはただ見ている。どうしたら諦めてくれるだろうと思った。思ってから乙骨くんのときにもそう思ったことを思い出す。諦めてもらうことなんてできなかったってことも、思い出す。
「特別だって言ってくれるなら、名前のことをもう僕のものにしてもいい?」
 私の言う特別は本当に特別だったのだとしても今ここで彼が言った意味のものではなかった。そのことも、特別という言葉でどうにか誤魔化そうとしたことも五条さんはきっと知っている。
 私の言葉が彼に対して少しも良い選択ではなかったことが彼の気配でわかる。乙骨くんのときのように、目の前でほかの誰かの名前を呼んで助けを求めなくてもダメだった。もはやどうすればいいのかわからず、首を横に振る。私の拒絶に彼は私の手と自分の手を繋いだ。乙骨くんの前で繋がれたときと温度は変わらない。熱い手だ。私の手はあのときと違う緊張で冷えていた。
「名前の勘はずっと当たってたよ。僕を怖がったのも憂太を怖がったのも、名前は正しかった」
 繋がれた手首はぎりぎりと音をたてている。五条さんは顔色を変えずに力を込める。私はそれに泣き出しそうになる。胸の奥がざわざわする。恐ろしさに自分から距離をとろうとして、そのくせ突き放された気持ちになって、苦しい。
「怒らないで、痛くしないで」
「怒ってないよ。ただ、もっと早くこうしていればよかったかなと思うだけ」
 子供が縋る様な言葉に彼は苦笑した。私は本当に一度も五条さんに痛みを与えられるような真似をされたことがない。それなのにそんな言葉が出た。名前に痛いことなんてしないよと彼が言う。憂太はそんな風に怯えるくらい名前を酷く抱いたの? 私は黙ってまた首を振る。彼等は私に痛いことはしない。傷をつけられたわけじゃない。でも、奪われてしまう。私の意志も心もからだも命も、すべてが、彼等の手のなかにある。
「名前が好きだよ、僕を選んでほしい」
 乙骨くんと同じことを言って、五条さんは私にキスをした。背を撫でられる。優しいだけの接触に肌がわなないて恐怖を示す。逃げていいと言ってくれた、怖いものから守ってくれた五条さんが、私のその弱さを手ずから優しく踏みにじる。
 のしかかられるように抱きすくめられると直接重さをかけられたわけではないのに、息が止まりそうになって喉が勝手に引き絞られる。声が出ない私に、五条さんはいつものように可愛いと囁く。五条さんの言うその"可愛いね"という言葉は、乙骨くんが私に言う"好き"と同じなのだと気づいた。どっちも同じだ。彼等は蹂躙することを愛と呼んでいる。私がどう思っているかなんて大した問題じゃない。強者かれらの愛はただ一方的だ。
「名前、僕に助けてって言って。いつもみたいに助けてって言ってくれたら全部"大丈夫"にしてあげるから」
 どうして彼らは自らの強さで有無を言わさず私を奪うのに、私に助けを求めさせるのだろう。もう誰にも助けてなんて言えないくちに口づけられながら、私は彼の瞳を見た。乙骨くんとは違う色をした五条さんの瞳に途方に暮れた私が映る。
 もうなにも見たくなくて、彼の胸のなかで強く目を瞑った。それが彼にとって、彼等にとって、なんの意味もないのだと知りながらそうする。五条さんも乙骨くんもいない、ここではないどこかに今すぐに逃げてしまえたらと思った。どこにいったって捕まえられてしまうだろうということは私がいちばんわかってしまっていても。

愛に似た災い

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テーマ「人外ファンタジー」
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