NOVEL | ナノ

 危ないことから必ず守ってくれるお守りの話を耳にしていちばん最初に思ったのは伏黒くんのことで、私はいてもたってもいられなくなってしまった。話を聞いているうちに、真剣な顔になった私に興味があるならと好意で紹介してもらった場所で私はそのお守りを買うことにした。
 ふつうの神社ではどのお守りを買えばいいか正直分からなかったので(家内安全が近いのだろうかといつも思っていた。私はとにかく危険から守ってくれるお守りを探していた)とてもちょうどよかった。
 私はそのお守りを買ってからすぐに、伏黒くん会って渡すことにした。持っていてくれさえいたら私も安心できる気がしたのだ。
 伏黒くんが常に命をかけているのだということを私は知っている。この世にすごく怖いものがあることも。だからそういう怖いものからそのお守りが伏黒くんを守ってくれればいいなと思った。私はいつも、伏黒くんが大丈夫でいてほしいと願っている。
「伏黒くんがもう怪我をしなくて済めばいいなって」
 伏黒くんは私が差し出したものに目を丸くして、なにかを言いかけてから、それでも受け取ってくれた。
「ありがとな」
 伏黒くんは視線を落としてじっとそのお守りを見ていた。そのお守りはよく見かけるお守りに近いデザインで、買った場所の名前が小さく刻印されていた。できるだけ小さくて、持っていても邪魔にならないものを選んだつもりだったけど、まずかっただろうか。
 余計なことをしたかなと今更抱いた不安が顔に出たのか、伏黒くんは明確に表情を緩めて私の頭に手を伸ばした。優しく撫でてくれる。私はそうしてもらうことが大好きだった。伝えたことはないけど、たぶん伏黒くんも知ってる。知ってるからしてくれるんだと思う。
「嬉しいよ」
 私も嬉しい。そんな気持ちがあふれ出る。伏黒くんはそのお守りを私の前で自分のものにつけてくれた。
 他にも買ったのかとか、こういう場所によく行くのかを聞かれて否定すると、もし次にこういうものを買うときは相談にのれるから一緒に選ぼうといってくれた。よく考えたらそっちの方がずっと良くて、伏黒くんにそんなふうに言ってもらえたことも嬉しかった。
 そのお守りを買った場所の名前を良くないニュースで見たのはそのあとのことだった。以前からそういうことをしていたらしい。買う前に評判もたくさん調べてみたのにと思いつつ私は慌てて伏黒くんに連絡した。伏黒くんがあのお守りをもらった時の反応を思い出すとどう考えても知っていたのだろうと思えた。
「それでも嬉しかったから」
 聞いてみると伏黒くんはそう言った。こういうのは気持ちだろとも言ってくれる。私も伏黒くんにもらえるならなんでも喜んでしまうと思ったけど、それでも、効果がないと知るのは、絶対に守ってくれると信じ切っていたわけではなくてもやっぱりショックだった。もしかしたらを祈っていたから。
 私は伏黒くんと出会って、そういう効果のあるものに縋りたくなる気持ちが分かるようになった。もしかしたら効果があるかもしれない、もしかしたら危ないときにそのお守りが効果をもたらして彼を守ってくれるかもしれない。そう考えてしまう。
 気配が沈んだことにスマホ越しに気づいてしまったのか伏黒くんが私の名前を優しく呼ぶ。
「ちゃんと伝えたほうがよかったな」
「伏黒くんはなにも悪くないよ、申し訳なかったなって思って、私こそごめんね」
 効果がないと分かっていたのに、伏黒くんはそれでも目の前でつけてくれた。それはひとえに私のことを思ってくれたからだろう。伏黒くんはすごく優しい。その気持ちを思うと胸の奥が熱くなってたまらなくて同じくらい切なくなった。
 なにかを考えているような沈黙を経て、伏黒くんは言う。
「今度は俺が贈ってもいいか」
 スマホ越しに分かるわけもないのに私はすぐに嬉しくなってしまってこくこくと頷いた。
 次に会ったときに伏黒くん差し出されたのは私の贈ったものよりきちんとしたお守りだった。入れられていた桐箱から取り出してみる。すごい、ありがとうとお守りに視線を奪われながらお礼を言った私に伏黒くんはもう一つの桐箱を取り出した。
「俺のことを気にしてたみたいだから」
 お揃いのお守りらしい。私が効果のないお守りを贈ったということより(もちろんそれもショックだったけど)お守りの効果がなかったことに、伏黒くんを守ってくれると思ったものが違うのだと知ってしまったことにショックを受けていたことに伏黒くんは分かっていてくれるらしかった。私はそれに泣いてしまいそうになる。
 もう一度つけてくれるところを見せてくれた伏黒くんに、私もつけるところを見せたかったけどいちばん使う鞄は今は持ってきていなかった。家に帰ったらつけた鞄の写真を送るねと伝えて、もらったお守りを大事に大事に鞄にしまい込んだ。なくしたら絶対に嫌だ。
 そして伏黒くんはもう一つを取り出して私に手渡した。手のひらにおさまるサイズで丸みを帯びていたが、どこか機械っぽい。手のひらで持って見てみる私に伏黒くんは防犯ブザーだと言った。
 もしかして危なっかしいと思われているのかな? と思ったしこういうのは危険な場所にいく伏黒くんの方が持っているべきなのではないかとも思ったけどありがたく受けとることにする。そもそも買ったお守りでこんな風に騙されていたという前科の前で危なっかしいとかそういうことにとても反論できそうになかった。
「それ、鳴ると俺のスマホに位置と連絡が入る」
「えっ?」
 鳴らしてもなにもないならそれはそれで連絡をくれればいいからと伏黒くんは言う。思っていた以上に本格的な様相にちょっとびっくりしてしまったが、伏黒くんの目は真剣だった。
「できるだけ俺が助けに行く」
 私は思わずそれを握りしめ、伏黒くんの肩によりかかった。彼の名を呼びたくなってくちにすると、伏黒くんは肩を抱いてくれた。伏黒くんがこれを選ぶときどんな気持ちだったのか、私には想像できる。私も伏黒くんに渡すお守りを選ぶとき、きっと同じ気持ちだった。
「伏黒くん」
 肩を抱いていないほうの彼のもう一つの手を握る。ごつごつした男の子の手だ。私に優しく触れてくれる、大好きな手だ。
「……大好き」
 この気持ちをほかにどういえばいいのか、どう表現すればいいのか私には分からない。手を離し、彼に向き合って、もっといっぱい伏黒くんを大好きって言ってもいい? と聞くと、ちょっと恥ずかしそうな顔をされる。答えの代わりにそっと頬を撫でられ、寄せられた顔に私は目を瞑った。そして愛しい体温を受け入れる。
 そしてそれからいくらかの日々が過ぎたあと、そのお守りが手元にないと気づいたのは家に帰って最初にシャワーを浴びたあとだった。もらってから常につけるようにしていた鞄にない。なかにも入っていない。すべてをひっくり返して確認しても見当たらない。落としてしまったのだろうか。いったいどこで? 喪失の予感に、胸がざわざわしていてもたってもいられなかった。手元に存在していないことに胸がすうすうする。
 すでに日が沈んでから時間もたっていて、辺りは暗くて探すのは難しいかもしれなかった。一瞬だけ迷ったあと、それでも私はスマホと財布、そして伏黒くんにもらった防犯ブザーを持って外に出た。
 その日通ってきた道を振り返ってみる。帰る途中でついているのを見たから、その時まではあった。歩いたのは確かこの辺りでと道をうろうろして公園を通りかかる。すでに日が落ちていることで予想通り街灯の明かりだけでは心もとないものがあったが目を凝らす。もっと見やすいようにスマホを取り出してランプを灯そうとしたとき、後ろの、本当に近くで足元から砂を踏む音がした。人の気配に、なにを考えるでもなく、ほとんど反射的に顔をあげようとした私の頭に思い切り衝撃が襲った。からだがバランスを崩して、そのまま地面におちる。
 どういうことなのか分からないまま転がった私のうえを誰かが覆いかぶさる。暗くて顔は見えないけど男の人だ。私の頭になにかかたいものが二度三度と打ち付けられて、真っ暗な視界のなか目の前に火花が走る。横になっているのに眩暈がする。とろとろした生暖かいものが顔を伝ってから、ああこれ血だと気づいた。
「助けて」
 こぼれた言葉を、鼻で笑われる。掴まれた腕に、性差の違いを思い知らされるように強く力を込められた。殺されるかもしれないと思った。でも私の衣服に手をかけられてから、殺される前にもっとひどいことになる予感がした。服の隙間に入ってくる血よりも生暖かい手の温度に総毛立った。
 遠くの街灯が視界の端に入るけど、それではやっぱり相手の男の人は鮮明に見えなくて、私の上でその男の人が動くたびに、その手が私のからだをつかむたび、闇よりも濃い影が蠢くようだ。
 切れたらしい肌がどくどくと脈打つのと同時に、血がこぼれていくのを感じる。頭がぼうっとしていて、喉が動かなかった。声が出ない。どうしようと困り切ってしまった。
 唯一地面に投げ出された手のさきだけがかすかに動く。耐えるようにゆびをばらばらにうごかすと爪先にかたいものがぶつかった。持たされた防犯ブザーだと気づいた。一緒に地面に転がったらしい。
 伏黒くんが助けてくれたのだと思った。私は濡れた目をぎゅうっと瞑ると、手の中に強く握りこむようにして、それを押した。
 姦しい音が空気を切り裂くように響き渡る。突然のことに私の上の影がからだを震わせた。私が鳴らしたことが分かったのか、手の中から取り上げられる。だけどその防犯ブザーの音を抑える方法が分かりづらかったし(そのために伏黒くん本人と一緒に止め方と鳴らし方を確認していた)音が響くなかでながながと作業をしたくはないだろうと思った。
「……余計なことしやがって」
 頬を強く張られた。うまくいかなかった鬱憤をそうするように何度も何度もそうされた。そのうち満足したのか、それとも諦めたのか、男は私のからだの上から退くと、すぐさま駆けていってしまった。
 男の気配がしなくなってようやく、地面に横たわったまま、私は深呼吸をする。深呼吸をするたびに頬とくちのなかが痛んだ。こっちも切れたのかもしれない。でも解放されたのだという安心があった。
 この音を止めて、立ち上がって、服をなおして、それから家に帰ろう。スマホで伏黒くんに間違って防犯ブザーを押してしまったと連絡もしないと心配させてしまう。大丈夫、酷いことはあったけど最後までじゃなかったし、それに、生きている。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせていると気が遠くなった。と思ったのは勘違いで、実際に目の前が白くかすんだ。でも気を失うのはまずいし、このまま見つかるのはもっとまずい、と思った。このまま通報でもされたら、きっと私、隠し通せない。伏黒くんの顔が浮かぶ。私のこの姿を見たら、伏黒くんはきっと心を痛めるだろう。それを想像するだけでひりひりと胸の中が痛んだ。伏黒くんに知られたくない。伏黒くんを悲しませたくない。私の傷を思いやる伏黒くんは私以上に傷つく。嫌だ。伏黒くんに悲しいことは起きてほしくない。私、伏黒くんを傷つけたくない。
 響き渡っていたはずのあれだけ大きい音が遠ざかるように消えていくのを感じながら私は馬鹿みたいに伏黒くんのことを思った。
 次に目が覚めたのは、ベッドの上だった。いちばん最初に目に入ったのは白く、無機質な天井で、転がっていたあの場所でないことに私は茫然としていた。
 動かそうとしたがからだが痛い。そしていたるところに包帯かなにかが巻かれている。声をかけたら誰か来てくれるだろうかと思って考えているとベッドごとを隔てていた簡易のカーテンが開いた。カーテンを開けたのは伏黒くんだった。すでに目を覚ましていた私と伏黒くんの目が合う。伏黒くんは目を丸くした。
「気づいたんだな」
 伏黒くんはそう言うと看護師さんを呼んでくれて、ここに至るまでの話をしてくれた。やっぱりあの防犯ブザーで気づいてくれたらしい。こんなに早くに役に立つことになるとは思わなかったけどなという伏黒くんの声は静かだった。
 看護師さんに改めていろいろと見て貰ってから今日はこのまま病院に泊まることになること、寝ている間に頭を縫ったこととかそういうこと、説明をされた。
「……怖かっただろ」
 付き添ってくれたのならたぶん知っていただろう、私の服の乱れた様子についてなにが起こったのかとか、そういうことを伏黒くんは聞かなかった。ただそう言ってくれた。その優しさに胸の奥がじくじくして、私を見つめる伏黒くんの目が切なそうだったのが、私の持つ痛みまで感じとっているみたいだったから、だからもっともっと苦しくなってつい頭を横に振った。
 振ってからそう言えば頭を動かすなと言われていたことを思い出した。慌てた顔をした伏黒くんがこら、と私の頭を抑えるようにそっと触れる。伏黒くんの手はひんやりしている。
「ごめんね」
「お前が謝ることなんてひとつもない、俺こそ遅くなって悪かった」
 私はもう一度首を横に振りかけて、違うの、と言葉に出す。
「あのね、私、お守りを」
「お守り?」
「……落としちゃったの。まだ見つけられていなくて」
 伏黒くんの長いまつ毛が瞬き、大きく見開かれる。
「探してた? だからこんな目にあった?」
 私は上手く答えることができずにくちを噛みしめた。お守りのせいだなんて絶対に言いたくなかった。落とした私が悪いのであってお守りのせいなんかじゃない。
「そんな風に探すぐらい大事にしてくれたのは嬉しいよ。でも、そのためにお前がこんな目にあうことになるのは違うだろ」
 伏黒くんのその声はやっぱり静かで切なげだった。さっきの目と同じだった。事故みたいな状況にあったあの間は耐えきれたのに、伏黒くんのその顔を見ていると涙が出てきた。伏黒くんの手が私の頬に触れる。指先が、私の涙をぬぐってくれる。ごめんなさいと何度も謝ると、彼はお前は何も悪くないと言った。でも私はこうして伏黒くんを悲しませている。
 伏黒くんはいつものように私の頬に触れようと手を伸ばそうとした。だけどやめてしまう。
「俺のこと怖くないか」
「伏黒くんを怖いなんて、今までも、これからも、絶対に思わない」
 そう言うと伏黒くんは手を迷うようにして、それでもあやすように私の手を握ってくれた。ぎゅうっと握ってもらえると安心した。触れられているのが同じ男の人でも全然違った。きっと同じように殴られても、伏黒くんがそうするなら仕方ないことだったのだと思える気がする。そう言ったら困るかな。でも私、伏黒くんが絶対にそんなことをしないと知っているのと同じくらい、されたっていいと思う。私はこの手にならなにをされたっていい。触れてくれるならきっとなんだって嬉しいよ。
 伏黒くんとそれから、話をした。お守りをおとしたと思われる場所のこと、だからそこを探していたこと。もらった防犯ブザーがとっても役に立ったことに改めてお礼を伝えた。遅くなんてなかった、あれがなければ私は助からなかった。だから伏黒くんが助けてくれたんだよ。直接的なことはさすがに言えなかったけど、でも感謝の気持ちを熱を込めて伝えると、伏黒くんはこわばった表情をいくらかといてくれた。
 伏黒くんは可能な限りぎりぎりまで一緒にいてくれた。時計に視線をやっと伏黒くんに、切なくなるまま、私は本当に言いたかったことを、くちにした。
「おまもり、せっかくもらったのに、せっかく、私」
 落としてごめんなさい。なくてしまってごめんなさい。こんなことに巻き込まれて心配させてごめんなさい。いっぱい言いたかったけど言葉にはならなかった。でも伏黒くんは目を細めて、安心させるように分かっているというように頷く。
「大丈夫だ」
 伏黒くんはそう言うと私に自分のお守りを持たせてくれた。こうしていつも持っていてくれるんだなと思うと、胸がじわじわと熱くなって、もっと泣きそうになった。伏黒くんの手がお守りを持つ私の手の上から包む様に握ってくれる。私はもう手放さないようにきつく握りなおした。
「俺がもう怖いことは起きないようにする」
 私は彼の目を見た。彼は視線を受けてじっと私を見つめる。そして私にかかっていたふとんをきちんとかけなおすと、最後に私の額にかかっている髪をそっと撫でた。
「伏黒くん」
「うん」
「いっちゃう?」
「また明日来るよ」
「うん」
 彼が眉を下げる。それに申し訳なくなって、もう一度うんと頷く。本当は病室の外に出て見送りたかったけど、大丈夫だからもう寝ていてほしいという伏黒くんに私は言うことを聞いた。
 一度ベッドの上に横になったものの、どうしてもいてもたってもいられなくて、もう動いたりしないからと言い訳をしながら私は窓に近づいた。病室の位置から見られるかどうか不安だったけど、幸運なことに入口を見下ろせた。
 そうしてずっと待っていると伏黒くんが病院の外に出たのが見えた。あっ、と思って釘付けになっていると、伏黒くんは私のいる病室の方を見上げた。遠くて暗いからたぶん分からないだろうと思ったけど、私はそれに手を振り返す。それだけで胸がいっぱいになる。世界で誰より彼が好き。早く明日になってほしい。会いたい。

 どうしようもないやつは一生どうしようもない。慣れたと思ってもそれを身をもって実感するたびにどうしてこうなんだと心底辟易する。
 彼女のように自分の危機にあっても他人の心を慮る人間の隣に、他人を踏みにじることになんの痛痒も感じない、弱者とみれば力をふるいたがる人間は平気で存在している。そういう"どうしようもない"やつはこの世に死ぬほどいる。馬鹿みたいだ。
 駆けつけたときに見た彼女の乱された服を、頭から流れる鮮血を、白い肌を染める毒々しい痣の色合いが、からだに巻かれた白い包帯が、涙を流している横顔が、夜を駆けるなか脳裏にちらつく。思い出すたびに湧く怒りが殺意と化して脈打ちながら自分の身体中を駆け巡っている。怒りが限界を越しそうになるたびにポケットのなかに手を入れて、以前に彼女にもらったお守りを握りしめた。もらったときのことを考える。俺の身を案じてずっと考えていてくれたことは知っていた。だからそれが効果のないお守りだったのだとしても嬉しかった。本当に嬉しかった。でもこうして俺のために騙されることになったことが申し訳なかったし、少し心配になった。
 あの後に買ったふたり一緒のお守りの片割れは今は彼女の手にある。きっと彼女はずっとあれを握っているのだろう。胃の腑が焼かれるような怒りを感じていても冷静に自分のすべきことを考えられたのは彼女の存在と手の中のその感触のおかげだった。そのふたつの存在が、思考をまともたらしめてくれていた。
 平等はこの世にない。その人間の善いも悪いも関係なしに不幸は降り注ぐ。そんなことは当の昔に分かっているはずなのに、それでも、彼女を見るとずっと幸せでいてほしいと願ってしまう。恐ろしいものすべてから遠いところで、苦しいことも悲しいことも痛いことも知らないまま、微笑んでいてほしいと思ってしまう。
 そのために俺がどんなことをすることになってもいい。俺が呪って、殺してやるから、だからなにも知らないまま、いつものように笑っていてくれ。
 その場所はすでに把握済みだった。彼女に付き従いながらもこのための手配をしていた。そいつはすでに放棄された建物のなかに隠れるようにしていた。
 足を踏み入れる前からその建物が呪霊の吹き溜まりのようになっているのが見て取れる。その男を目にして、見つけていちばん最初に思ったのはこいつが正当に捕まえられることにならなくてよかったなとということだった。そうでなければこうはできなかったから。
 随分と気配に敏感になっているのか、わざと音をたてなくともこちらの気配を感じ取った男が移動するのが分かる。逃げ出す男と明確に目が合った。俺の顔を見て男は悲鳴を上げる。俺の顔がよほどひどいのか、それともこうして見つかったらまずい心あたりが多いのか。どちらもかもしれない。
 それを追い立てる。男は何度も転び、あちこちにぶつかった。呪力はないようだが呪霊を避けているそぶりもある。あちらこちらに呪霊を感じるこの場所なら、呪力がなくともなにかしらを感じていたのだろうか。こんな場所にずっといればおかしくなるだろう。いや、もうおかしいのにおかしくなるというのも変な話だな。
 突如として陰から姿を現した呪霊が、男を襲った。今の今まで息をひそめていたものたちが、俺が来たことで、あの男の恐れの感情で、浮足立ちざわめいている。男は悲鳴を上げながら前のめりに走る。
 汚れた地面を血でもっと汚しながらその男が肢体を引きずった。ずるずると引きずるたびに、血の跡が残る。とぎれとぎれの赤い道をつくりながら逃げるその男は、時折こちらを振り返っては小さく声をあげた。男は助けを求めていた。
 名前もこの男の手にかかったときに助けてと思ったし、くちにしただろう。名前もこうやって血を流していた。それをこの男はきっと笑ったに違いない。こういう人間はいつもそうだから。
 俺も笑ってやろうかと思ったがとてもそんな気持ちにはなれない。なにも面白くないし、吐き気がする。早く消えてほしい。
 逃げ惑う男はビルを上へ上へと昇り詰めていく。鍵はもともとかかっていないのか、それとも呪霊がそういうふうにしていたのかは分からないが都合がよかった。最後の逃げ場として屋上まで追い詰められた男は、振り返り俺の顔と前を見比べる。どっちでもいい、こっちに逃げたら俺が殺してやる。言葉にしなくてもこちらを見た男は怯え、端の、追い詰められた場所から最後まで迷った様子を見せて飛び降りた。俺に殺されるよりは逃げる方がまだ可能性があると思ったのだろうか。
 ビルの縁に飛び乗り、下を見る。中身をぶちまけた男は最期までやっぱり汚くて見るに堪えない。帳はおろしてきたから、この死体は誰の目にも留まることはない。一人孤独に無様に迎えた死だ。
 これから下にいって、あの醜い死体を片付ける。そして建物内の呪霊を祓えばおしまいだ。任務として片付けられる。これからやるべきことを一つずつ考えながらも、気持ちは落ち着かない。
 これで名前を傷つけた人間はこの世からいなくなった。その事実に少しも爽快さはない。こいつが死んでも名前には襲われた記憶は残り続け、怪我も治るのに時間がかかるのかと思うと、本当に本当にくだらなかった。
 でももういい。俺がこだわり続けることは名前にとって良いことだとは思えない。男は死んだ。どうでもいい、早く片付けてこの男がいたことをなかったことにしてしまおう。そうしたほうが良いはずだ。そこまで考えて今更だと思った。名前はこんなこと望んでいない。全部自己満足だ。
 きっと名前はあんなふうにされてもこの男の死を喜ばない。そんなことは知ってる。名前は優しいから、きっとあの男がくちだけの謝罪をしても許してしまうのだ。だが、たとえ名前が許せても、俺はそんなことをとても許せない。
 名前のそういう優しさが心の底から愛しいと思う。でも世界は名前のその優しさのすべてに報いるほどまともではないから、だから名前の分だけ俺が代わりになればいい。名前がそのままでいられるように、変わらず笑っていられるように。
 帰りに名前が話していた場所、襲われた場所へと向かった。探してみるとしばらくしてから目的のものがその場所近くで見つかった。拾い上げるとあの男がそうしたのかほかの誰かだったのかは分からないが踏みつけられて汚れている。そのままごみとして扱われても仕方ないような有様だった。
 それでも名前はこれを欲しがるのだろう。できるだけ汚れが目立たなくなるようぬぐってからお守りをポケットへ入れる。時期を見てこれは自分のものと一緒に返納をすることにすれば納得してくれるだろうか。今度お守りとして渡すなら簡単に落とさず、なくさないようなものを渡したほうがいいかもしれない。その方がこういうことにならず安心できる。もっと頑丈なもののほうがいいか、どういうものがいいだろう。そもそもなくしても気にならなくなるくらい贈ったらいいのか? でも名前なら全部大事にしてしまいそうだ。
 そんなことを取り留めもなく考えていると、いくらか気持ちが楽になった。そのことに自分でも笑う。ようやく、溜飲もマシになった気がした。
 翌日、改めて病院にいる名前のもとへと向かった。名前はなにも知らないまま見舞いに来た俺を迎えてくれる。検査が終わったらすぐに退院できるんだって、と報告する名前に、自然とほほ笑むことができた。名前のその嬉しそうな表情には俺が心配していたから急いで聞かせてやろうという気持ちが込められているのが分かったから、余計だった。
 持ってきていた昨日拾ったお守りを渡すと、予想していた通りに、名前はぱっと顔を輝かせた。汚れてるぞと言う俺にうんうんと言いながらその細い指で大事そうにお守りを撫でた。この上もない愛し気なしぐさを見ているとなぜだか自分がそうされているような気恥しさを感じる。
 話を変えるように必要があるものはあるかと聞いてみる。名前は考えこむような顔をしてから、それから照れ臭そうに笑って、俺の手に遠慮がちに手を伸ばして重ねた。
 白い手だ。その白い手から伸びる腕にも包帯が巻かれているのを知っている。そうすると喜んでくれると知っているから、傷を撫でてやりたいと思った。そう思ってから、でもそれは違う意味を帯びるのではないかと、考えて一人で妙な気持ちになった。
「退院したら、怪我が治ったら、早く伏黒くんに抱きしめてほしい」
 今すぐに抱きしめてやりたくなった。代わりにその手を俺から握ると、名前は顔をほころばせる。名前は本当になにをしたって喜ぶ。それが嬉しくないわけではないが、どこか危なっかしさを感じてひやひやする。例えば俺がここでなにをしても、頷いてしまうような、そういう危うさだ。
 小さい手がおずおずと指を絡めてくるのをそうっと握り返した。やわらかい指に壊してしまいそうで怖くなる。俺がそんなふうに思っていることも気づかないまま、触れるだけで名前は幸せそうな顔をする。俺が昨日、お前を犯そうとした男が目の前で死ぬのを見ていたことも知らないのだ。一生知らなくていい。
「あのね、本当は伏黒くんに知られたら、すごく心配かけちゃうだろうなって思った。でも、来てくれてすごく嬉しかった。……ありがとうね、大好き」
 俺こそ好きだと思った。彼女にそう言われるたびに思う。彼女の顎に手をかけて自分の顔をそっと寄せた。なにをされるのか察した彼女が頬を染めて目を瞑る。触れるだけの接触で顔を離すと名前は目を開いた。その瞳は潤んでいる。
 いつもするように甘えるように俺の胸に頭を寄せた彼女を、巻かれた包帯と傷に障らないように引き寄せた。胸のなかにいる彼女の表情は見えないが笑っているのが分かる。名前がほほ笑むと、俺は幸せになる。名前が笑っていてくれるなら、俺は"なんだって"したっていい。

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