NOVEL | ナノ

 前触れもなく唇に触れた一瞬の感触の前になぜか頭のなかを巡ったのは高専に入ってからの記憶だった。走馬燈のように思いだした記憶は不思議と私を冷静にさせた。寄せられたままの顔は鼻先がふれあいそうなほど近い。至近距離で改めてみつめる彼の顔立ちはまるで造りものめいた美しさがあった。けれどその頬は熱を帯びていて、彼が血の通ったまぎれもない人間であることを思い知らせている。肌の白さが頬の赤さを際立たせていて彼もこんなふうに頬を赤らめるのだなと思った。
 つかまれた手首が痛かった。私の手首をすっかり覆ってしまえるような大きい手のひらには遠慮なく力がこもっていて熱っぽい。
 私はなにも言わず彼の顔を見上げていた。されるがままの私に彼は焦れたような顔をする。
「なんか言えよ」
 耳まで赤くなっていると言ったらどんな反応をするんだろう。なってねえと否定するのかな。興味はあったけれど私は言葉の代わりにつかまれていない方の手を彼の頬へと伸ばした。なにかに導かれるような気持ちだった。私の手はどうしてだかとても冷たくてそのせいで余計に彼の頬を熱く感じた。
 今度は私から彼に唇を寄せる。奪うように彼がした先ほどの口づけとは違い、ゆっくりと時間をかけてから体を離した。彼のくちびるはやわらかくて薄かった。
「すき」
 何かを我慢しているように彼の眉間にしわがよるのが一瞬見えた。一瞬しか見えなかったのは彼がそのあとすぐに私のことを力任せに抱きしめたからだ。彼の体に私の体ははすっかりおさまってしまう。高専の制服越しに伝わる彼の鼓動に、何故か無性に泣き出したいような気持ちになった。
 手首をつかんでいたときと同じように遠慮のない抱擁はやっぱり痛いくらいだったけど、そうされることが嬉しかった。ずっとこうしていてほしいと凄く思った。
 彼の腕のなかで、私はこうして彼を抱きしめるために、彼のものにされるために生まれてきたのだと知った。突拍子もない考えだというのにそれはなにより私のなかで"しっくり"来た。足元がうわつくような感覚があって、それが"理解"してしまったからなのか、こうして抱きしめられているからなのか、私には分からない。

 あのときのキスが初めてだったのだと聞いて目を丸くした私に彼はなにか文句があるのかと面白くなさそうな顔をした。
「なに、初めてだったら悪いわけ」
 拗ねているようにすら聞こえる声音に私は耐えきれずに笑ってしまった。笑ったことでますます機嫌を損ねたのかわざとらしく顔を逸らすので、そのほっぺたにキスをする。
「嬉しいなって思っただけだよ」
 「たくさんしたことがありそうだと思っていた」と付け加えると「してて欲しかったのか?」とさっき悪いわけと言った声と似た声を出され、そのまま腕を伸ばされて抱きしめられた。ぎゅうぎゅうと抱かれて唇にキスされる。あのときとは違う、舌を絡めるキスだ。触れるだけのキスもこうするキスも好き。心がとけそうになる。
 彼はさっきからぶつかっていたサングラスを外し、至近距離で私を覗き込む。彼は真剣な顔をしていた。
「いい?」
 何がとは言葉にされなくても分かって私もうなづく。
「ちゃんといいかって聞くんだね」
「俺のことなんだと思ってんの」
 まあ別に嫌だって言っても抱いたけどと彼はつづけたが私が本気で嫌がったり怖がったりしたらなんだかんだで辞めてくれることは、なんとなくわかっていた。私が彼に触れられて嫌がることなんてないから、そうなることはなかっただろうけれど。
 立ちあがってリモコンに手を伸ばした彼が流していたテレビと、それから電気を消す。彼はベッドの上に座っていた私の隣に腰かけ頬にキスすると、そのまま押し倒した。
 柔らかな衝撃をともなって横たわった私の上で、彼はこちらを見下ろしている。窓からさすとろけそうな落日の光が、彼によってできた大きな影を私の上に落とす。光が明るくあたたかいせいかその影はより濃く、黒かった。思わず窓の外に視線をやる。オレンジと赤の混ざったような熱のこもった光と、それによってできた影によって部屋のなかははっきりと明暗にわかれていた。流れる時間すらゆっくりに感じる、生ぬるくて、穏やかな夕暮れだった。
「どこ見てんの」
 彼の白銀の髪に光が透ける。落日の光を受けて私を見下ろす彼は、こういうことをしていることすら忘れそうなほど神々しく見えた。彼の中身が神様というには人間じみすぎていることくらいちゃんと知っていても、その姿は私の知るどんなものよりも綺麗だ。その姿を、ずっと忘れたくないなと思った。
「逃げたい?」
「どうして」
 逃げたいと思ったことなんて一度もないよ。私の告げた言葉に納得したのかは分からない。彼は私のその言葉になにも言わず、キスをした。乱暴で、そのくせ、どこかためらいのあるキスだった。キスをした瞬間に堰を切ったように、彼のなかでスイッチが入るのがわかる。
 大きな瞳は鋭さを増して私をとらえている。肌がざわついてゾクゾクした。もし叶うならば、その瞳で私のことをずっと見ていてほしかった。
「お前、されるがままだから不安になる」
 ささやかれた言葉は小さい。つぶやかれた言葉はおそらくほとんど一人ごとに近かった。
 ベッドの上で一枚一枚お互いに脱いでくっつきあうと人肌があたかかった。真面目ぶった顔をしあっているのがやはりおかしくて笑っていたのも触れ合うまでだった。彼の指先が体の輪郭をなぞり、肌をくすぐるたびに、感じたことのない幸福感や気持ちよさが体をふるわせた。好きな人に触れられるとこんなふうになるのだなと、驚くと同時に彼もそう感じていてくれたらいいなと思った。
 彼の手つきはゆっくりで、性急さはほとんどなかった。いつもはじっとしていられないような人なのにこういうときに優しくできるんだなと思うとずるかった。余計に好きになる。
 体のいちばん柔らかいところに彼がふれて、ことさら動きが優しく、ゆっくりになる。
「せっま。これ、ほんとに入んの?」
 戸惑いの滲んだ声が少しだけおかしかった。痛くてもいいよと言うと、よくねえだろと返ってくる。当たり前みたいに言う彼の言葉に思わず口元が緩みそうになった。本当に、痛くたってよかったのに。
 もういいと縋りつきたくなるくらいならされては焦らされる。私だけが先に気持ちよくされてからようやく彼は私の目を見た。
「大丈夫そう?」
 こくこくと頷く私をなだめるように額に彼の手が触れる。髪をかきあげるようにして頭を撫でられておでこやこめかみに唇をおとされるとぞくぞくとむずむずがまざったような感覚で肌が満たされた。
 呼ばずにはいられないというように名前を呼ばれ、彼の体の重みがより強くかかる。衝撃に息が引き攣れる。それでも幸福だった。幸福なのに、なんだか涙がでた。
 涙でかすかに滲む視界のなかで見上げる彼は痛みを我慢するような苦しそうな顔をしていた。その表情はひどく無防備だ。
「痛い?」
 私よりもずっと彼の方が痛そうに見えた。緩く、首を横に振る。抱き合っているから顔が見えない。それでも否定したのはわかったのか、彼はなじませるように動きをとめた。彼の顔を覗き込む代わりに体にしがみつく。私とはつくりが違う、厚みのある体は汗ばんでいて熱い。そのかたい体にくっついていると、自分の体がやわらかく、もろいものにになったような気持ちになる。
「もっと」
「うん」
「もっと、名前、呼んでほしい」
「名前」
「……お願い、もっと」
 彼の声で名前を呼ばれるとたまらなかった。幸せなのに、こんなに幸せなのに、切なくて胸が締め付けられて苦しかった。肉体の痛みはほとんどなかったのに、この胸だけがずきずきした。耐えきれなくて涙が一筋だけ目から零れる。
 私の涙を指先でなぞりながら、彼が何度となく愛おしそうに呼ぶ自分の名前に、私の名前はきっとこうやって彼に呼ばれるためにつけられたのだと思った。
 なじんできたなかに、彼がゆっくりと体を動かし始める。なかをこすられると自分の口からとろけたような声がひきずりだされるようだった。背骨から体が全部ほどけて、くずれてしまいそうだ。
 そんな私の様子を見て、彼が笑う。私の余裕も消え失せていたが、彼の余裕もあまりないようだった。その口元に浮かぶ笑みに、体が勝手に反応する。
「なあ俺のこと好き? ちゃんと好きって言えよ」
「すき、だいすき。ねえだいすきだから、離さないで」
「……お前、ほんとかわいいな」
 彼が深く息が吐く。俺も、と軽くキスされて顔が緩む。その頬を彼が撫でるから、もっと幸せな気持ちになる。
 そこからはお互いに言葉も少なくなって、ただただ求め合った。彼の体はごつごつしていて、抱き合えば抱き合うほどに私とはちがうものであることがわかった。彼にあわせるように私の体がやわらかく形を変えていくような錯覚があって、それはどこか空恐ろしかったが、その恐ろしさを凌駕するような喜びがあった。
 最初は押しつぶさないように気遣われていた彼の体がどんどんのしかかるようになって、重さが体にかかる。その重さすら気持ちいい。ぎゅうとつむった眼の奥で何度となく瞬く白い光に、脳髄が焼ける。このまま全部とけてなくなっちゃえばいいと思った。
 薄く、浅い夢から目覚めると、視界のなかにベッドに腰かけている彼の肌色の背が入った。つけられた電気のまぶしさに思わず目を細める。彼の手にはペットボトルが持たれていることだけ視認できた。
 思わずその大きな背中に名前を呼ぶ。
「ぐったりしてるから死んだかと思った」
 振り向いた彼の手が伸びてきて、私の頬にかかった髪を耳にかけ撫でた。丸まったようにして横になったまま、彼を見上げる。目を細めてこちらを見る彼の目には愛おしさが見える。むずがゆいような恥ずかしいような気持ちになって、それを隠すように私は上体を起こした。
「私も飲みたい」
「……もしかしておねだり?」
「違うよ」
 そう言ったものの結局そうしてしまうのだった。ほら、という彼に目をつむって応えるように顔を寄せる。目に見えていたことだったけど水を移すための口づけがどんどんじゃれあいになっていき、遊びから必死さが混じりかける。本気になってしまう前に彼から体を離す。
 不満げな顔をする彼からペットボトルをとって、今度こそちゃんと水分を得た。水を口に含むと自分がどれだけ喉が渇いていたのかがわかる。思わず夢中になって水を飲み込む私の頬を彼がつつく。
 水を飲み終えた私がじっと見上げると、キスを待っていると思われたのかそのまま唇を奪われて体を押し倒される。されるがままでいると、私がそうしたように彼はじっとこちらを見ていた。
「なにその顔、後悔してんの?」
「してないけど、ふふ、その顔かわいい」
 その無防備な表情が私だけのものであって欲しいなと思った。同時に、そんなことを強く感じる自分がおかしかった。
「出会ったときはこうなるって考えたこともなかったから」
 彼の頬を撫でる。今もどこか夢見心地だ。体が地から浮いているような気さえする。
「全部あげちゃったね」
 体も心も、全部、なにもかも。そう考えると不思議な恍惚感があった。
 言葉を迷うように、躊躇いを見せてから彼が口を開く。
「……俺も全部お前だよ」
「初恋も?」
「そうだよ。こんな風になったのはお前が初めてだし」
 目を丸くする私に言ってから恥ずかしくなったのが彼は自分の顔を隠すようにそっぽをむいた。それでも彼がいたたまれないような顔をしているのは分かってしまう。
 私は彼の体に縋るように抱きつき、そっと囁いた。
「私に全部くれてありがとう」
「恥ずかしいやつだな」
 そういうくせに彼は私を抱きしめる腕に力を込める。抱き合いながらベッドに転がる。彼は強く私を抱いたままでいた。縋りつくような強さで私を抱く彼の背に腕をまわす。肩越しに見える窓の向こうは既に日が落ちていて、宵闇にのまれている。
 つたわってくるあたたかな体温にまた眠ってしまいそうになって、お風呂とつぶやく私にあとでいいだろと彼が言う。私も本当はもう少しこのままでいたかったから、もう何も言わずに抱かれたままでいる。
「私はこうしてもらうために生まれてきたんだと思う」
「はあ?」
「もう死んじゃってもいい」
「お前さあ」
 呆れたようにこんなこといくらでもしてやるというので私は笑った。幸せで、なんだか胸がいっぱいで、どうにかなっちゃいそうで、笑った。
「……一緒に入る、風呂?」
「狭いから絶対体あまっちゃうよ」
「いいよ、それでも」
 うん。私もそれでもいい。それでもいいんだよ。自分でもなにに対してなのかわからないけど、そう思った。
 まぎれもなく幸せだというのに、何故だか涙が滲む。自分でもどうしてこんな気持ちになるのかさっぱりわからなくて必死に泣くのをこらえた。きっと、こんなに幸せだからそんな風に思うのだろう。
 ゆがんで見える電気の光に私は目をつむって、彼の肩口にただ顔をうずめた。彼のにおいがする。そのにおいは安心とともにやっぱりちょっとだけ、私をさみしくさせた。

ハッピーエンド・オン・ザ・ミー

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