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 シャワーを浴び終えて部屋に戻ると、外に出ても恥ずかしくないようになおした私の服装と顔を一瞥して巧くんは眉を上げた。目に見えて気に入らないという表情だった。こうして関係を持つようになって巧くんは分かりやすく私にそういう感情を見せるようになった。
「帰るつもり」
 ベッドの近くまで近づいて自分の鞄を手にしながら頷くと、巧くんが私の手を握る。私は立ったままされるがままになった。
「この時間もう電車ないだろ。わざわざ帰らなくても朝までいればいいじゃん。……二人で出社する?」
 責めるように始まった言葉だったけど最後は甘えるような声音だった。そのまま手を引かれてベッドの中に戻ってしまいそうだった。
「わざわざこんなにきっちり着込んじゃってさあ、また全部脱がせてやろうか?」
 ベッドに座ったまま私の手を離さず、巧くんが言う。そうなったら本当に明日会社に行けなくなってしまう。その時はきっと巧くんも一緒に休ませることになるだろう。首を横に振る。帰りたいとだけ主張する自分の声は自分自身にも悲しそうに聞こえた。
 私の言葉に、私以上に悲しそうな顔を巧くんはした。傷つけた、と思った。巧くんも帰った方がいいとも告げるとその顔は一瞬でかき消え、私を見上げる巧くんは自分のした表情を誤魔化すように笑った。意地悪な笑みだ、そういう意図を持った表情だと思った。
「してる最中はあんなに甘えてくるくせに終わると冷たくない?」
 巧くんに求められるまま彼の名を呼び甘える声をあげる自分の声が頭の中によみがえる。私自身がとても直視できないような甘えた声をあげて巧くんに縋るたびに、彼は頬を緩めて、この世界の中、私に与えられる声の中できっと一番に甘い声で私の名前を呼び返してくれた。何度も何度もそうした感覚が、今は手しか触れ合っていないのに疼きとともに体に満ちそうになって、私はそっと巧くんの手を外した。
 そうして完全に手を引っ込める前に巧くんが今度は私の手首をつかみなおす。強い力だった。
「じゃあ今度は俺の部屋に来てよ。約束してくれるなら帰してあげる」
 その言葉を受け入れずに押し黙ると巧くんは立ちあがり、私の顔を覗き込んだ。
「なんで? あ、分かった。部屋より外で抱かれたいってこと? 本当に貪欲だよね」
 私が黙ったのはそうではないと知っていて、わざとそうしているのを感じるくらい強く巧くんは言葉を重ねる。私がただただずっと黙って今度は彼の顔を見上げていると、ついに巧くんはなんでなにも言ってくれないのと眉を下げた。彼はきっと知らなかったけど強引にされるより、そういう顔の方がよっぽど効果があった。
「外で会ってくれるならもう会社で無理やり抱いたりしないから。……まあ、少しは触れたくなると思うけど」
 会社でそうされるのは大変だった。でもそれ以上に巧くんにそれに耽させることの罪悪感のことを考えて頷く。破顔した巧くんは、私の肩に手をおいたままそっと顔を寄せた。近づくと巧くんのにおいがする。知ってしまった巧くんの匂いに胸が痛くなって、そうされることを何度となく求められたように巧くんの背に手をまわしそうになって、耐えた。
 巧くんは私にそっと口づけた。優しいキスだ。もっと胸が苦しくなる。触れることを繰り返した巧くんは、それから手を後頭部にまわし、堪らなくなったというように舌を入れて深くした。そのキスが再び行為の始まりとなる前に私は後ろに下がる。壁に体がぶつかった。
 光が絞られた暗い室内の中、私は巧くんの顔を見つめる。巧くんは不安そうな顔で惜しむように私の髪を撫でた。
「優先輩だったら朝までここにいてくれた?」
 答えなくていいよと言って、巧くんは私を強く抱擁した。離したくないという強い力に思わず目が潤みそうになる。こらえるために唇を噛みしめながら、巧くんの抱擁を甘受する。
 "もう先輩と恋愛なんかできないでしょ"。そう言った巧くんにあの時何をされて、何を言われたのか、そうして確かに傷ついた痛みも、あの瞬間を思い出すたびに感じる泣きだしたい衝動も本物なのに、巧くんと抱き合うたびにそれだけではない感情が芽生えていく。抱いた感情があの時のことを押し流していくのが怖いのにどうしても止められない。
 だから、優先輩がそれを知ったとき知られたくないと思っていたはずなのにこれ以上そうならなくて済むとも思った。思ってしまった。でも実際はそうじゃなかった。私は優先輩が巧が悪いと言うたびに、それだけじゃないことをもう知っていたらから楽にはなりきなれなかったし優先輩が巧くんに『事実』を強い口調で言って、巧くんがそれに傷つくのを見て苦しくなった。
 あれから、巧くんはもっと私に甘えるように求めるようになった。二人きりのときにより恋人のように振舞う彼を私はもう拒べない。
 ベッドの上で膝の上に甘えるように頭を預けてきた巧くんの色の薄い髪をそっと撫でる。頬に触れると体温が手のひらに伝わってくる。目つきが鋭く見える顔立ちだ。そんな巧くんが私を見て甘く緩めるとき、巧くんが私を愛しく思うように私も巧くんを愛しく思った。
 私には巧くんが飄々としながらなんでも上手くこなすように見えていた。でも巧くん自身は比較することで自分に出来ないことを自覚していて私が表面をなぞるように見ていた人とは巧くん自身が大きく違うことを知ってしまった。―――知ってしまったらその前には戻れなかった。
「なーに。くすぐったいんだけど」
 目を細めた巧くんが酷く優しい声で言う。私から巧くんに触れるとき、巧くんはいつも嬉しそうだった。愛したかったんじゃなくて、愛されたかったんだろうと優先輩が言ったあの言葉を思い出す。私は酷いことをしたくなるくらい私が好きな巧くんを、酷いことをされたとしても愛を欲しがる巧くんの姿を、可哀そうだと思ってしまった。
 ぼんやりしながら頬に触れていた私の手に巧くんが触れ、握りしめる。
「何考えてんの?」
 巧くんのことだと言うと巧くんは目を丸くした。それからなんだか泣きそうな顔をする。
 体を起こした巧くんが私を抱き寄せた。巧くんの腕の中に大人しくおさまっているとそのまま額にキスされた。額から頬、こめかみに、全ての場所に触れて愛したいというようにキスが落としされていく。
「こんなに近くにいるのにそれでもまだ足りなくて俺で頭の中いっぱいにしてるの? そんなの俺のこと大好きって言ってるようなもんでしょ」
 言い聞かせるように巧くんは私の耳に囁いた。もう拒めないと思ってしまった最近は特に巧くんにそう言われるとその通りかもしれないと思う。
 否定も肯定もせずに黙ったまま巧くんの顔を見上げる。その沈黙が否定ではないことが伝わったのか巧くんは私をもっと強く抱きしめてから肩口に顔をうずめた。
「そういう顔する時、本当に俺のこと好きなのかもって思って嬉しい」
 俺は最初からずっとお前のことだけで頭の中がいっぱいだよと巧くんは言った。懺悔するみたいな声だった。私は巧くんを抱きしめ返して彼の髪をまた撫でた。出来る限り優しく、巧くんが少しでも苦しくありませんようにと思いをこめて。
 私は自分から巧くんを抱きしめ返せるようになって、受け入れられるようになって、自分からも触れられるようになった。優先輩とあの夜に一線を越えることで、自分が巧くんに抱いている気持ちからもう逃れられないことを知ったから。そして私は同時に優先輩がどれだけ甘く私の名前を呼ぶのかも知ってしまった。
 巧くんは私の首筋と鎖骨のあたりを撫でた。私の衣服を脱がせる人間にしか見せられない位置につけた優先輩の痕だった。
 それを覆い隠すように上から強く唇を押し付けられる。噛みつくような仕草だ。
「絶対、最後は俺だけのものにする」
 もう先輩と恋愛なんかできない、巧くんがそう言ったように、私は優先輩とただの恋愛関係の恋人にはなれなくなった。でも巧くんともそうだ。何もかもがもう取り返しがつかないことだった。
 もはやどちらを選ぶことは出来ない私がその言葉にごめんねと言うと巧くんは苦しそうに言った。
「それでも好きだよ」
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