love song from my hell garden | ナノ

あなたに幸福の名をあげたかった

 最後に残った記憶は、彼の色の抜けたような表情だった。突き飛ばされた衝撃で私はなにが起こったのかわからず激痛の走る自らの腹をおさえた。お腹から噴き出るのはあざやかな赤だった。見慣れたそれの正体を認識する前に、体から力が抜けていき私は地に横たわる。
 彼によってささやかれた私の名前はどこか悲し気で、そんなふうに悲しそうにしないでと思った。私を見下ろす彼をまえにまぶたが重く落ちていく。伸ばした手は届かない。行ってしまうと思った。その背中が目に焼き付く。そうして意識を失った私を迎えたのはすでにすべてが終わってしまった現実だった。

 扉が大きな音をたてて勢いよく開いて、私は思わずそちらへ目をやった。扉を力任せにあけた正体である五条くんは私の存在を見つけるとこちらに大股で歩みよってくる。
 立ったまま窓の外を見ていた私の前まで来て、五条くんは正面に立ち、私の顔を見た。そうされると体格さゆえに見下ろされるようでもあった。私は彼にどんな顔をすればいいのかわからなかった。そのいちばんの理由は、私に負い目があったからだ。
 五条くんは前置きは無用とばかりに直球に本題を口にした。
「高専やめんの?」
「……先生から聞いたの?」
 五条くんは肯定しなかったがそのない答えが物語っている。五条くんは柳眉を逆立てると近くにあった席の椅子を引き寄せ、腰かけた。その長さを持て余すように足を広げると、彼は私をもう一度見つめる。五条くんは答えを聞いただけで会話を終わらせるつもりはないらしかった。
 お前も座れよとばかりにあごで指し示されたので私も自分の椅子を引き、向き合うようにしようとすると、五条くんに隣になるように椅子をなおされる。わざわざなおされた椅子に私は彼と並ぶように座った。教室に用意されているそもそもの数が少ない席のひとつはつい先日減ってしまった。
 隣に座ると、五条くんの体格の良さがよく分かった。五条くんに話せる機会があったら話さなければと思っていたのに言葉は出なかった。お互いになんにも言わなかった。私は窓の外を見ていたし、五条くんは目を伏せ、手を組むようにして足を見ている。
 どれほどそうしていただろう、口を先に開いたのは五条くんだった。
「傑はお前のことを殺そうとしたわけじゃない」
「……うん」
 もし夏油くんが本当に殺そうとしていたのなら私はあの夜に死んでいたはずだ。私と夏油くんの実力差で『殺さなかった』はあっても『殺し損ねた』はあり得ない。
 五条くんがそう教えてくれたのは、夏油くんのことを庇いたかったからなのか誤解をしてほしくはなかったからなのか、どちらもかもしれない。それでもその事実をちゃんと理解しているという意味で大丈夫だよとそっと告げた。
 私は治療を受けた病院のベッド上で彼が呪詛師として処刑対象となったことを聞いた。夏油くんが最後に担った任務に同伴していた私はすでに事情聴取という形で公にすべてを話していた。任務先で非術師の子供がいたこと、その子がどんな環境に置かれていたか、それを見た夏油くんがしたこと。私はそれに協力をしたのか否か。私が夏油くんによって軽くはない怪我を負わせられていたこともあり、疑い自体は軽いものだったがそのまま放免されそうなところにただ彼のしたことを最後まですべて見ていて私がなにもしなかったことをつつみ隠さずに答えた。処罰がくだるならそれでもいいと思ったけど、私にはなにも課せられなかった。
 夏油くんが私にわざわざ死なない怪我を負わせたのはたぶんそのためだったのだろうなと思っている。そうでなければわざわざこんなことをする必要はない。夏油くんは私と夏油くんの間になにもなかったことをその傷で証明したのだ。
 そう、私たちの間にはなにもなかった。残ったのは置いて行かれた私と、お腹の癒えない傷だけだった。硝子の反転術式でもどうにもならなかった傷が私のお腹にはいまだに残っている。その傷と同じように私の目にはあの夜に見た夏油くんの背中が焼き付いていた。きっと一生忘れられないだろう。
「傑とこの前会った」
「どこで?」
「硝子に会いに来やがったから、こっちから会いに行った」
「元気そうだった」
「……どうだか」
 ほんとうにわからないといった様子で彼が言う。その声は途方に暮れていた。
「傑、お前には何か話した?」
「任務の前もいつもと変わらなかったから、……今思うとどうでもいい会話ばっかりしたかな」
「……」
「でもあの任務の少し、ううん、結構前にそういうこと、ちょっとだけ話したの。そのころにはもう、考えてたのかな」
「俺は一度も傑の口からそういうことを聞いたことなかったよ」
 投げやりな口調に、私は不思議と親近感を覚えた。初めてのことだった。おそらくこんなことにならなければ一生感じなかったと思う。
 例え話してもらっていたって、その事実が導くのはそれでも私が彼を止められなかったこと、私が夏油くんのことをなにもわかっていなかったことだけだった。私は夏油くんのことが好きだった。だけど私はたくさんのものを夏油くんに与えてもらったのに、夏油くんになにひとつ返すことはできなかった。
 ふとしたことで実感するその喪失に、私はときどき耐えられなくなる。
「高専やめてどうすんの」
「わからない。まあ、どうにでもなるよ」
 どうなってほしいのか、自分でもわからなかった。いいや、それはきっと正しくない。私は昔に戻りたいのだった。まだ夏油くんがいたころに。そしてそんなことは不可能だった。なら、もうすべてがどうでもよいように思えた。
 自らが夏油くんに向けていた感情が、依存めいていたことを、私はその存在を失って改めて突き付けられていた。
 お互いにぼんやりしたまま外を見ていた。五条くんがなにを考えていたのかはわからなかったのでぼんやりしていたのは私だけかもしれない。ふたりでそうしてずっと外を見ていた。五条くんとそんなふうにふたりきりで過ごすのは初めてだった。
「お前、傑と付き合ってたの」
「わからない。でも、私は、好きだった」
「ふうん」
「五条くんも、親友だって思ってたんでしょう」
「今も思ってるよ」
「そっか」
「現場に傑の校章落ちてたって、知ってたか」
「……知らなかった。そっか。そっかあ」
 その事実を知って、私は改めて夏油くんがここではない道を選んだことを、理解した。理解すると同時に思わず下を向く。夏油くんに負わせられた傷には確かに痛みがあるのに、それでも私は心のどこかでこれがいつか覚める夢なんじゃないかと思っていた。でもそんなことはなかった。夏油くんはもう、選んでしまった。
 五条くんの手のひらがひざにおいていた私の手に伸びる。右手をとると、彼は私の手のひらに何かを握らせた。五条くんの手のひらは私の手をあっさり包んでしまいそうなほど大きくて、あたたかかい。
 私の手の中におさまるサイズの円形のそれは高専生であればよく見慣れた校章だった。先ほどの会話もあり、一瞬でそれが誰のものなのかを分かってしまう。
「お前に渡しとく」
「……こんなの、ほんとは、没収されちゃうんじゃ」
「一回持っていかれたけど取り返してきた」
 こともなげに彼は言ったが、それがどれほど無理を通したのかはわかる。五条くんが夏油くんと親しい仲であったことから私と同様に夏油くんとのつながりを疑われてたことは聞いていたので、余計に大変だっただろう。
「なんで、五条くん、持ってなくて、いいの?」
「いい、お前が持ってろ。いらねえなら、まあそれでもいいけど」
 必死に首を横に振った。ごめん、と私は何度もそれだけを口にした。
「お前のためにしたわけじゃない」
 もう一度首を横に振った。だってそれだけじゃなかった。夏油くんを止められなくてごめん。夏油くんのことをわかってあげられなくてごめん。私にこれを渡させてごめん。大変なことをさせてごめん。
 あらゆるイフが頭のなかで駆け巡った。ほんとうに今更なのにあらゆる場面を思い出してはあのときこうしていればを何度も思った。
 私の謝罪に意味なんてないことは分かっていた。だって謝ったって夏油くんは帰ってこない。そうしておそらく、私がどんなことをしたって夏油くんは行ってしまうのだろうということも理解できてしまっていた。私にできることはなにもなかった。私の存在に意味なんてなかった。それでも私がなにかをすることでこうすることは止められたのかもしれないと思ってしまうことを辞められなかった。
 泣いてもどうにもならない。五条くんもそう言うだろうと思った。その通りだ、私の涙に意味なんてない。
 五条くんと夏油くんには私がそこには干渉できない特別な信頼があるように見えた。私がこんなふうに思うのなら、なにかができたと苦しく思うのなら、親友だった五条くんはもっとたくさんのことを思っただろう。それなのにその彼の目の前でこんなふうに泣いてしまう自分が、死にたいくらい情けない。
 しゃくりあげる私に五条くんは突如として腕のなかに私のことを抱きしめた。
 仰天して思わず息が止まる。こわばったのがわかったのかこちらをのぞき込んだ彼と至近距離で目が合う。なにか言おうとするもののまったく言葉にならない私を見て彼が眉をひそめる。
「黙って聞いてろ」
「……」
「これはお前が悪いとか悪くないとか、そういうことじゃなかった。どうにもならなかったことはどうしたってあって、それが傑だった」
 語調がきつくて冷たさすら感じるその言葉は、恐らく、勘違いでなければ私への慰めだった。
 そう言い切った彼は、怖い顔のままなにかを躊躇うようにしていた。その怖い顔はこわばっていて、怒っているというより困惑に近いものに感じた。五条くんが困っている、ということに気づいて私は目を疑う。言葉に迷うようにしているのがわかって、私は彼の顔を黙ったまま見ていた。
 けれど、五条くんは結局なにも言わないまま深いため息をつく。
「慰めるとかそういうのは傑のほうが得意だろ。苦手なんだよ」
「五条くんにも苦手なことがあるんだね」
 思わず思ったことを口にしてしまうと五条くんはサングラス越しに私をにらんだ。その顔は怖いままだったけどもう、怖くはなかった。
 あまりにびっくりしたせいか涙は止まっていて、私はちょっとだけ笑ってしまった。私が表情を緩めると、彼が、かすかにほっとしたような顔をする。素直な表情に、私はずっと前に悟は分かりやすいといっていた夏油くんの言葉を思い出す。私はその言葉に五条くんが言いたいように言うところを連想したけど、夏油くんが言っていたのはこういうところだったのかもしれないと今更思った。
 私はずっと五条くんのことをこんなふうに正面から見たことがなかったから、見ようとしなかったから気づかなかっただけだったのだ。
 五条くんが目を伏せる。長いまつ毛がその白い肌に影をおとした。背中に添えられた手のあたたかさを感じながら、私はその影を見ていた。
「お前のためじゃないって言ったけど、嘘だよ。お前のこと考えてたらそうしてやりたいと思った」
 触れた場所から五条くんの鼓動がとくとくと伝わってくる。生きている、と思った。私も、五条くんも、今こうして生きている。
「俺がお前と一緒にいる。俺がお前を守るよ」
「……私、もう辞めるんだよ、危ないことなんてない。もう、いいんだよ」
「いいなんてことないだろ。そんなの、ひとつだってないんだよ」
 どうしようもないことと言い切った五条くんだったけど、彼自身にとってだって私と同じように「どうしようもないこと」なんかじゃないに決まっていると気が付いて、私は悲しくなった。喪失による強い悲しみが私たちをさざなみのように揺らし、浸す。
 大きなてのひらが私の濡れていた頬をこすってぬぐう。手加減をされていないのか痛いくらいだったけど私はされるがままだった。ほんとうに彼は慰めなれていないのだろう。その五条くんが必死に私を慰めているのがおかしかった。
 抱きしめられながら見える窓の外の景色は、秋めいている。季節は確実に変化し、あれだけしつこく暑かった夏が終わろうとしている。最近はぐんと肌寒くなることが多くなった。すぐに冬が来て、いずれは春が来るのだろう。もう二度と、夏油くんと同じ季節を過ごすことはない。
 高専に入って三度目の冬だ。夏油くんのいない冬が来る。
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