love song from my hell garden | ナノ

あなたに幸福の名をあげたかった

「はいこれ」
 彼の手に持つ箱の中身を私は見なくても知っている。玄関を開けると同時に手渡されたそれを私はいつものように受け取る。五条くんは促さなくても当然のように部屋の奥へと進んだ。その背中を私もすでに見慣れており、声をかける代わりに私はキッチンに向かって水のいれたケトルをセットした。お湯が沸く間に、お皿とフォークを用意する。
「このなかで食べたいのある?」
「なんでもいいよ」
 いつも通りの返答だった。お約束じみている。彼には甘ければなんでもよいというようなところがあった。
 箱を開けると予想通り、色とりどりのケーキが並んでいた。五条くんは二人で食べるには多いような量を買ってくる。前にホールで渡されたこともあったこともあった(そしてそれを五条くんがほとんど食べた)くらいだ。
 箱のなかに煌めくケーキのなかから私は素直に欲しいものをひとつ選んで、彼の分は私とは違う種類のものを選んだ。そのうちお湯が沸いたので、そのお湯で紅茶と、それにいれる紅茶用の砂糖を用意する。私も甘いものは好きだったけどそれ以上に五条くんが甘いものを好むので、この家の砂糖はもっぱら五条くんによって消費されていた。
 マグカップに用意した紅茶とケーキを五条くんのもとに運ぶ。後ろのベッドもその前のテーブルも五条くんにとっては窮屈そうだ。五条くんの存在は一見すると背景から浮き上がったように違和感がある。
 高専を無事に卒業した私だったが、結局呪術師を辞め、違う職業についた。死となんら関わりのないようなその日常は平穏そのものだ。平穏に満ちている日々に戻ってきたという懐かしさよりも違和感のほうが強くて私は自分でも思っていた以上にあの世界に浸っていたんだなと思った。
 呪術師を辞めてからも、五条くんは定期的に私の前に姿を現した。高専を出たあとには知人以上の関係を作らなかったので、プライベートで会う人間は五条くんがいちばん多かった。次は硝子なので、高専を辞めても私の持つ人間関係は大して変わっていない。
 五条くんが高専の特級呪術師として学生時代よりも精力的に働いていることは呪術師を辞めてからも耳にしていた。当然忙しいだろうに、五条くんは私の部屋に来るのを辞めなかった。
 友人というには一方的な関係だった。もし五条くんが私の部屋に訪れるのを辞めたら、もう会うことはなくなるだろう。私が連絡もせずに引っ越しをしたらどうするんだろうと、考えたことがある。五条くんはなにも教えなくてもいつものように私の部屋に訪れる気もしたし(彼は私が高専を出て一人暮らしを始めたときに住所を教える前にやってきた)それで終わりになるかもしれないと思った。私はきっと、よほどがなければ引っ越しをすることがないだろう。
 じっと見つめていた私を、五条くんは勘違いしたのかフォークで自らのケーキを切り分け、そのまま私の口の前に差し出した。
「はい」
 目隠しで隠されている表情はサングラスのときよりも分かりにくい。ありがとうと伝えて私はそれをくちのなかにほおばった。頬がとろけそうなほどおいしい。お返しにいまだ口をつけていなかった私の分のケーキを同じようにフォークで切り分けて彼に渡そうとした。フォークを渡そうとしたのに彼が手首をつかみそのまま自らの口の前に誘導する。あーんをするようにケーキが彼の口のなかにおさまる。
「こっちも美味しいね」
 彼の言葉を確かめるように、私も自分のケーキを食べてみる。彼の言う通りこちらも大変おいしい。五条くんが買ってくるデザートに外れはない。季節ごとに買ってきてくれる種類が違うので私の日常において風物詩のようになっていた。
 彼はデザートを手土産になんでもない顔をして私の部屋に訪れる。私と一緒にそれを食べながら、話をして、帰っていく。
 一度、恋人を作らないのかと聞いたことがある。五条くんは答えの代わりにお前は?と聞くので私はつくれそうにないと素直に答えた。私の答えになにを思ったのかはわからないけど、五条くんは真面目な顔をして同じようなもんとくちにした。同性の親友をなくすのといちばん好きだった人をなくすのは意味合いが違うように思えたが、大きな喪失であることには変わりない。私もそっかと返事をした。それ以降はお互いに恋愛の話をすることはなかった。
 特級の呪術師が一人増えたという大きな話題を終え、五条くんはマグカップに残っていた紅茶を飲み干す。ブルーのそのマグカップは五条くん専用のものだった。彼がこうして部屋に訪れるようになってから私が用意したのだ。彼のものを家に用意するという行為に思わず恥ずかしいような、胸がうずくような気持ちになったのを覚えている。彼はそういうことにとても目聡かったからからかわれるだろうかとぼんやり考えていただけど、五条くんはそのマグカップを見て、何も言わずに目を細めていた。それが余計にむずがゆさを生んだ。
 すでに五条くんはケーキを食し終えて、ぼんやりしていた。彼がなにも離さずぼんやりしているのが不思議な感じで、私は控え目に彼の名前を呼んだ。
「五条くん?」
 私の瞳を見返す五条くんの顔に表情はない。マグカップにかけていた五条くんの手が、私の肩に伸び、あっさりと私の体は押し倒されていた。
 電気の光が五条くんの体によりさえぎられて、影がおちる。大きいからだだなと改めて思った。のしかかられたら重そうだった。
 彼は学生時代のあの慰めの抱擁以来、私にまともに触れようとはしなかった。さっきのような手首だとかに触れることあっても、それ以上はなにもない。彼は深夜だろうが時間も曜日も構わずに私の部屋に来たが、最後の一線を引くようにそれだけはずっと守っていた。
「どうしたの」
 答えずに彼が私にのしかかるようにする。やっぱり重たい。首元に顔をうずめられて、くすぐったかった。だけど彼はそれ以上に私になにかをしようとしない。私は彼の背中に手を回して抱きしめ返した。
「さみしくなったの?」
 五条くんははやっぱりなにも答えない。だからそのままでいた。男の人にのしかかられると重たいなと思った。怖くはなかった。だって彼は私に一方的にとりつけた約束をその実、ずっと守ってくれた。
 夏油くんのあの夜の任務について、私は本来処罰を受けるはずだったのにそれを五条くんが尽力してなかったことにしたというのを彼ではない人から聞いたのは高専を卒業してずいぶん経ったあとのことだ。あの校章を私に渡すためしたように、ずいぶん無理を通したらしかった。
 彼が私を傷つけるとは思わなかった。あるいは、傷つけられたっていいような思いだった。でも結局その夜に、彼は私を抱かなかったし、そのままずっとずっと抱き合っていた。

 しばらくぶりに硝子から連絡が来たのはつい先日のことだ。お酒の場への誘いだった。私はその先で、五条くんが特級過呪怨霊に取りつかれた少年の処遇のために自らの命と処遇をかけ、その生徒を高専で学ばせているのだということを聞いた。硝子が呼び出した一番の目的はそれを話すためだったらしい。
「どうせお前には伝えていないだろうと思ってね」
 その通りだ。その晩、私は彼女と何も考えず浴びるように飲み進めた。といってもぐだぐだになったのは私であって、昔から強い硝子は最後までしっかりとした足取りだった。
 送っていこうかという気遣いを丁寧に断り、タクシーに乗り込む。タクシーの窓から見える過ぎ去っていく景色を見ながら、いろんなことを思った。自分の大事なことを教えてくれないんだろうという、自分でも的外れだとわかっている感情が身のうちで熱く煮えていた。どうしてみんなそうなんだろう。私は恋人ではないし恋人だったとしても心のうちのすべてを打ち明けなければいけないなんて決まりなんてない。でも、それでも、どうしてという気持ちを抱いてしまう。私はずっとほんとうのことを言ってほしかった。いなくなってから知らなかった、わからなかったことを突き付けれること以上に悲しいことなんてない。傷つけられたってよかった。後から知る方がもっと傷ついた。
 時間がたつにつれて、怒りに似た感情はすべて悲しみに代わっていった。このまま海にでも行って沈みたいくらいだった。
 部屋に帰るとなぜか電気がついて行った。消していかなかっただろうかと酔っ払った頭で首をひねるも、ついで玄関に私のものよりずっと大きい男ものの靴を見つけて原因を理解する。五条くんははほとんど事前連絡なしでくるので時折私とすれ違うことがあった。ほとんどないに等しかったが前にも彼が家で待っていたことがある。
「おかえり」
 音を聞きつけたのか、彼が姿を現す。私はそれを無視して洗面所に向かい、手を洗った。手を洗いながら、のどが渇いたと思った。キッチンに戻ってコップに水を注いでいると無視された五条くんが近くに寄ってきた。
「もしかして酔ってる?」
「酔ってない」
「誰と飲んでたの?」
「硝子」
「僕は? 呼んでよ」
「五条くん忙しいでしょう」
 ふらつきながら飲み干したコップを片付けようとするとそのまま五条くんの手によってコップが外される。代わりにコップをシンクに置いた五条くんが部屋の中まで酔っ払った私の手を引くようにした。
 定位置に座った五条くんの隣にいつものように腰かける。当たり前のようにそうするので、私は思わず泣き出した。涙腺が緩んでいるのか涙は限界のようにただぼろぼろと零れ落ちていった。
「泣き上戸だったっけ」
「違う、五条くんが」
「僕が?」
「どこにも行かないで」
 私は、五条くんの胸に縋っていた。五条くんの体が触れているところからこわばるのがわかる。困らせていることはよくわかった。でも、限界だった。
 五条くんの嘘つきと胸をたたく。されるがままなのがまたはがゆさに拍車をかける。胸に顔をうずめたまま硝子から聞いたことを話すと彼は納得したような困ったような声を出す。どこか気の抜けたその声に気持ちが荒れ狂って、彼の胸をまた叩く。
「実際に殺される気もないし、そうなることもないよ」
「……聞いてびっくりした。心臓が止まるかと思った」
 またいなくなっちゃうのかと思った。声にならない声だった。でも五条くんには伝わったと思う。五条くんの胸に顔をふかくうずめる。彼は私を引きはがさなかった。それを良しとばかりに、私は彼を抱きしめた。
 五条くんが、胸に顔を寄せた私の髪をなだめるようになでる。
「お前に話しておかないといけないことがある」
「……」
「近いうちに傑と戦うことになる」
 息をのみ、顔をあげた私は彼と目が合う。
 いつのまにか手のひらが重なっていて、私たちは手をつないでいた。もう離れないように、離さないように強く握りあう。離さなければいけないと知っていたからこそ、それを惜しむように指を絡めた。
 彼のことが好きだと思った。きっと気づかないようにしていただけだった。
「お前のことが好きだった。傑がいたときから、ずっと」 
 うんと、頷く。なんといえばいいのかわからなかった。でも、言葉はたぶん必要なかった。
 お互いになにも言わなくても自然とくちびるが重なった。頬をなぞる指や首に添えられるてのひらに強く異性を感じてぞくぞくした。生まれて初めて男の人としたキスだった。
 夏油くんと、一度だけ、キスをしそうになったことを思い出した。前後の記憶は薄れていたのに、その瞬間の記憶はいまだ鮮明に覚えていた。こんなふうに顔を寄せて、それから。
 舌がはいってくる。どろどろのキスの前に思い出がとけていく。けれど唐突に唇が離された。
 息が荒いまま、五条くんを見上げる。目の前にある彼の唇が唾液でてらてらと濡れているのがやらしかった。物欲しそうな顔をしていたのか、五条くんが顔をしかめたような顔をする。
「このまま続けてたらお前のこと抱くぞ」
「……」
「言っておくけど、一回お前のこと抱いたらもう我慢しないからな。俺がどれだけ」
 言葉の途中で私は無言のままもう一度彼にキスをした。五条くんの深いため息が肌をなぞる。そのままベッドへと体をもちあげられ横たわされた。今度は彼から口づけてもらう。それはまぎれもない幸福の温度だった。
 彼の腕のなかで夏油くんのことを思った。目に焼き付いた背中を、まぶたをとじると思い出す。いまだに彼を夢に見ることがある。彼はもう、私のことなど忘れてしまったかもしれない。
 私を呼ぶ悲しそうなあの声が耳によみがえった。心が引きつれる。生々しい悲しみが、寂しさが、心を満たしていく。悲しみがかたちになって零れ落ちるように涙が流れるのを五条くんがぬぐった。辛い? と合間にささやくように問うと彼はなにも答えず、私をかき抱く。いまだお腹に残る夏油くんによってできた傷を、五条くんがいつくしむように何度も何度もなでた。
 我慢しないといったくせに、五条くんはこれ以上なく優しく私を抱いた。私を腕のなかに閉じ込めるようにしたまま、彼は私の耳にそっと、ささやいてみせた。
「昔、お前に聞いたことがあっただろ」
「……何を?」
「付き合ってんの? って。付き合ってなくとも傑はお前のこと好きだったって知ってたのに言ってやらなかった。ずっと、お前が悲しんでるの見るたびにあのとき言ってやればよかったなと思ってた」
 思い出を惜しむように五条くんが口にする。彼は目を閉じていた。その目にうつっていたものが、高専での、彼にとって特別だった思い出だということがなんとなくわかって、私は彼のそのまぶたに口づけをおとした。私も同じだから、それがわかった。
「もう大丈夫だよ」
 大丈夫と安心させるように繰り返す。本当に大丈夫になれるように、私は何度も何度も繰り返して囁いた。彼の腕がますますきつく、強くなる。私はその腕のなかで久しぶりに夢も見ずに眠った。
 目が覚める。まだ朝早いのか、微かな光がカーテンの隙間から入ってくる。
「起こした?」
 すでに服をきっちり身につけている五条くんが、こちらを見下ろしていた。ベッドの隣に膝をつくようにして彼は私の顔をのぞき込む。
「まだ起きなくていいよ。このまま寝てな」
「帰るの?」
 返事の代わりにおでこのあたりの髪をなでられる。彼が忙しいのはよくわかっていた。そもそもその忙しい時間を縫うようにして来てくれているのだ。
 すでに準備は終えていたのだろう。また来るからと最後にささやいて、彼が背を向ける。その背中が夏油くんの背中と重なった。
 その背中が脳裏に焼き付いた夏油くんの背中とは違うことは、ちゃんと手が届くことだ。私が手を伸ばしさえすれば、その背中に触れられる。私はベッドから飛び上がり、後ろから彼の背に抱き着いた。彼のがっしりした体をそうすると抱き着くというよりは縋りつくようでもあった。
「五条くんは分かりやすくていいね」
 彼の背に顔をうずめるようにして、囁く。
「されるがままでいてくれるなら、嫌じゃないんだなって思う」
 彼にはずいぶんな口を利けるようになったように思う。高専生のときの私はとてもこんなふうに五条くんに言えなかっただろう。月日は平等で残酷なほどに過ぎ去っていく。その月日で失っていくものやすり減っていくものもあったけどきっと得たものもあった。
「言うじゃん」
「夏油くんにももっとちゃんと言えばよかったって思うよ」
「……なあ、前から抱きしめたい」
 私の腕に五条くんの手が重なる。外されるように動かされて、私はその手を離した。こちらを向いた五条くんが、言葉通りに私を正面から抱きしめる。苦しいぐらいの抱擁に私は涙が出そうになった。
 その腕の中で、私は五条くんが愛しいと思った。死んでほしくないと思った。幸せでいてほしいのだと思った。この気持ちは夏油くんを好きだった気持ちと似て非なるものだった。それでも彼のことが好きだ。
 私は夏油くんを忘れられない。五条くんもそうだろう。それでももう慰めや情じゃなくてつながりたいと思った。彼が愛おしいから触れたいと思ったのだ。
「待ってるから、ちゃんと帰ってきて」
「……当たり前だろ、僕のこと誰だと思ってるんだよ」
「大事な人」
 彼が言葉を失ったのが分かって私は笑ってしまった。彼はとても分かりやすい、その通りだった。
 唇が乱暴に奪われる。まるでたべられてしまうような気持ちになった。手を伸ばし、無理やり五条くんのサングラスを外す。青い瞳が私を見る。私の知っているなかでもっとも美しい色彩が、そのなかに私の姿をうつしていた。
 失いたくないと悲しいくらいに思った。永遠も絶対もないこともすでに知ってしまった私の、人生をかけた、最後の願いだった。
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