love song from my hell garden | ナノ

お前の嵐を花に例えたりしない

 いまだ夏の名残が残るようなその日の任務も夏油くんとふたりのものだった。久しぶりの遠出の任務だった。
 朝に新幹線で乗り込んでから、今回の任務先はずいぶんと山の奥らしいからお土産は買うなら駅でにしようという話をした。新幹線に乗っている時間が多かったから、夏油くんと話をした。いろんな話をしたと思う。夏が忙しかったことだとか、ようやく落ち着いてきてよかったということだったりとか、灰原くんのことだったりとか。どうでもいいような話もした。私が主に話していたと思う。でもときどき夏油くんが同じように話をしてくれるのが嬉しかった。
 夏油くんは時折窓の向こうをぼんやり見ていたからうるさかったかなと申し訳なく思って、起こすから眠っててもいいよと声をかけた。夏油くんはありがとうと言ってくれたけど、たぶんその後も眠ってはいなかったと思う。
 お互いになんとなく黙りこんでいるうちに、私は購入した紙コップのコーヒーをひっくり返した。空調が十分に効いた車内だったためにホットを買ったのが余計に状況を悪くした。思い切りスカートと膝にかかったその液体に熱いと思わず声をあげてしまう。半分泣きながら片付けていると夏油くんもちょっと笑ってから一緒に片付けてくれた。申し訳なさはあったけど、夏油くんが笑ってくれたことがうれしかった。
 かかった部分をできるかぎり対処したものの、スカートにしみができてしまっていたのを見た夏油くんは上着を脱ぐと私の膝にかけてくれた。
「ごめんね」
「いいよ、でももう少し落ちついて。いつでもこうして私がいるわけじゃないからね」
 今の言動だけでなく術師としても、という意味だろう。その通りだったから素直にうなづいた。それから夏油くんが私の体調について聞いたから、それも素直に答えた。へたに隠せば余計に足を引っ張ってしまうことは分かっていたから。
 夏油くんは大丈夫?と聞いてしまいそうになって、私はそっと目を伏せる。最近の彼の様子を見て、前にすでに一度聞いていたことがあった。そのときと同じように夏油くんはきっと大丈夫だと答えるだろうことは予想がついたし、余計に気をつかわせてしまいそうだった。
 窓の外の景色が移り変わって、建物が減っていく。ようやく目当ての駅につき、新幹線をおりてから電車とバスを乗り継いでその市へとたどり着いたのはすでに午後をまわったところだった。聞いていた通り、一応市と名はついていたけれどほとんど村という印象のほうが強かったように思う。昔ながらの、といったらいいのだろうか茅葺屋根の家が田んぼを挟んで転々とたっており、見渡す限りの山に囲まれた場所だった。
 その村落内では神隠しや変死が頻発しており、その原因となる呪霊の祓徐が任務だった。呪霊自体はすぐに見つかって、祓い終えた。移動の時間のほうが長かったと思う。
 そうして呪霊を祓い終わったことを報告しに行ってまだ終わっていないだろうと見せられたのは部屋のなかにつくりあげられた堅牢な檻だった。
 慌ててその檻に駆け寄る。檻のなかのふたりの子供は怯えたような怒りのような顔でこちらを見上げている。抱き合ってお互いをかばいあいながら荒い息を吐いている様子は、怪我を負いながら世界のすべてを警戒して自らの身を守ろうとする猫を思わせた。
「これはなんですか?」
 夏油くんの低い声がその問を投げかける。私はしゃがみ込み、彼女たちを凍り付きながら見つめていた。
 返ってきたのは聞くに耐えない言葉だった。立ち上がり、私がそれを辞めさせようとしたところで夏油くんの手が制するように私の肩に触れる。彼の顔を見上げると、私は血の気が引くのが分かった。あっ、と思った。
「夏油くん」
 耐え切れずに呼んだ名前は自分でもどうかしているほど震えている。彼は一言だけそっと私に耳打ちした。
「あの子たちを」
 私は頷いて答える。それ以上の言葉は交わさなかった。
 村人を連れて、外に出て行ってしまった夏油くんの代わりに、私は檻をのぞき込む。その檻のなかには、おそらく非術師がいなければ苛まれることのなかった、健やかに生きていただろう子供がいる。
 後ろに下がっていてというと躊躇いながらも素直に下がった子たちを確認してから術式を使う。本来このような使い方をするものではなかったので少し不安に思っていたものの無事に南京錠のつけられていた付け根の木の部分ごと破壊される。鍵が地面に落ちた。妙な使い方をしたおかげで重さが増す体を無視しながら扉をあけ、できるだけ怖がらせないように声をかける。
「おいで、行こう」
 信頼するかを考えあぐねているのか、二人の女の子はお互いをみあった。もう一度しゃがみこみ、彼女たちの体を見つめる。おそらく幾日も同じ服を着させられているのかどこか薄汚れたワンピースはおそろいのものだ。ワンピースからむきだしの手足にはおびただしくあざや傷がのこっている。その細さに、ぞっとするものがあった。食事も満足に与えられていないのだろう。
「私の名前を教えるから、名前を教えてくれないかな」
 つづけて添えた私の名前に、いくばくかの間をおいて彼女たちはおずおずと名前を教えてくれた。ふと思い出し、ポケットからいくつかの飴玉を出した。一つ、目の前で私が食べて見せてから彼女たちにひとつずつ与える。なにも変なものは入っていないから食べてくれるとうれしいなと笑うと彼女たちはそれに手を伸ばしてくれた。それだけで私は泣き出しそうな気持ちになる。
 彼女たちの細い手をできるだけ優しく、でもけして離さないように握りしめ、連れ添うように檻から出る。檻のあった建物の外では日が沈み切るところだった。不安になってしまうくらい赤黒い夕焼けがそれ以上に深い闇にのみこまれていく。夜はすぐに訪れるだろう。私は彼女たちの手を引きながら日が沈むのが遅くなったなとどうでもいいようなことを思った。こんなときですらそんなことを思うんだなと不思議だった。
 完全に夜の闇が訪れたときに、村のあちこちで悲鳴があがるのがわかった。私はこれからなにが起ころうとしているのかをうすうす気づいていた。
 村の隅の小屋に隠れながら私は彼女たちの体に覆いかぶさるようにして抱きしめていた。遠くから悲鳴や助けを求める声がかすかに聞こえる。夜の空気はいまだ生暖かく、彼女たちとくっついていると熱いくらいだったのに、私の肌から吹き出すのは酷く冷たい汗だった。
「大丈夫?」
 震えているのがくっついているところから伝わったのだろう、私よりずっと不安なはずの子にそんなふうに聞かれてしまい、慌てて大丈夫だよと笑った。抱きしめる腕に力をこめる。外から入ってくる空気には血のにおいが混ざっていた。外の喧騒や血のにおいに腕のなかの子供たちはどこか興奮をしているようだった。
「ねえ、もしかして助けにきてくれた神様なの?」
「あんなやつら、ずっとずっと死ねばいいと思ってた」
 希望に輝いた目で見上げられて一瞬言葉を失う。彼女たちになんといってあげればいいのか、私にはどうしても分からなかった。
「神様だったら震えたりしないかも」
 冗談めかして言って、でももう痛い思いはさせないからとなんの根拠もないのにつづけた。そうであってほしかった。この腕のなかにある私より弱い命がこれ以上誰かにひどい目にあわされてほしくなかった。
 なんの覚悟もないのにずるいことを言っているとわかっていた。彼女たちの土や、血で汚れた髪をそっとなでてやる。触れた手に怯えないでいてくれたことがうれしい。こうして生きていてくれてよかった。でもそのためならほかの命を奪ってもいいのかという問いに、私はなにも答えを出せない。それでもきっと、選ばなければいけない。
 そうして何時間たっただろうか。すでに声は聞こえなくなっていた。その代わりに血の匂いは時間とともに増していた。私は夏油くんに借りていた上着と私の上着を彼女たちにかぶせて、けして物音を立てずに隠れているように言い聞かせてから外に出る。小屋の外に出ると血の匂いが一気に濃くなって思わず顔をゆがめた。なにが起きるかわからないので、小屋から目を離さず、離れすぎないようにしながら外の様子をうかがう。
 するとずるずると向こうから体を引きずるように動く人影が見えた。見知らぬ男の人だ。服には血がとんでいて、おそらくケガを負っているのだろう。その人影が、ケガをしていないのが、夏油くんでないことに思わずほっとしてしまう。きっと、その男の人をそうしたのは夏油くんだと、私は知っているのに。
 迷っていると男の人のほうも私を見つけたようだった。助けてくれと叫ぶようにして私に縋りついた男の人の体はあるべき四肢のいくらかが欠損しており、血はこの瞬間も流れ出ていた。そうして動けていることが不思議なほどだった。たぶん誰の目に見ても手遅れだということが分かる姿に、顔がこわばる。命の潰える気配に心臓が冷えていく。おそらく、本人にもわかっているはずだった。
 助けることも彼を楽にしてやることもできずに立ち尽くしている私に男の人はいらだったように私をゆさぶった。
「助けてくれよ、なんでだよ。……お前もアイツの、アイツらの仲間なのか?!」
 血走った目が私を見つめる。隠し持っていたのか、刃物のようなものを振りかざされる。
 刃が月の光を反射してきらめいた。時が止まるようだった。頭のなかだけは冷静で、きっとその刃物では夏油くんにも夏油くんの使役していた呪霊にもかなわなかったはずだろうなんていうことを考えた。今目の前にいる彼は死の間際で必死に生き残ろうとしている。たぶん私はこのまま殺されてもいいと心のどこかで思っていた。
 そんな男の向こう側に一瞬で現れたのは夏油くんだった。濃密な闇から降りてきたように姿を見せた彼が手をかざす。
「見苦しいな」
 その冷えた声が聞こえるとともに男の首が飛んだ。血が飛び散る。私はそれを呆然と見ていた。
 夏油くんが、目の前で、一般の人間を殺した。その現実に、私は一瞬これが夢ではないかと思ってしまった。あっけにとられたまま、口を開く。
「ケガはない?」
 ほかに言うべき言葉はあったはずなのに、私はそれが気になってしまった。夏油くんのことだけを考えてしまった。表情のなかった夏油くんは、その言葉に一瞬不意を突かれたような顔をした。それから優しい顔をした。私のことを見ているときにするいつもの顔だった。私は夏油くんにそういう顔をされる恥ずかしいような嬉しいような気持ちになって胸がうずく。こんなときだってそうなってしまう。たとえ彼が守るべき人を殺し、取り返しのつかない道を選んだのだとしても。
「君は本当に甘いな」
 聞きなれたトーンで、そう言われて胸が引きつった。誤魔化すように私は口を開く。
「あの子たちとずっと一緒に隠れてて、見てみた感じだと命にかかわるような大きい傷はなかった。でも、ケガの数は日常的に、その」
「そうか」
 目に焼き付いた彼女たちの手足の細さや傷を思い出して私は一瞬ぎゅっと目をつむる。
「殺したの?」
「ああ」
 わかり切った問いに返ってくるのは当たり前のような返答だった。私はこれを聞いて、どう答えてほしかったんだろう。
 理由がほしかったんだろうか。夏油くんには正しく、人を殺す理由があって、だからそういうことをしたのだと。だから今からでもあの日常にかえることができると、そう言ってほしかったのかもしれない。そんなことがあり得ないことはきっと私がいちばん知っていた。
「これからどうするの?」
「高専には帰らない」
「……」
「残穢から遠からず私がしたことは発覚するだろう。君はどうする?」
 私はなにを思ったのかそのまま彼に抱き着いた。どうしてそんなことをしたのか自分でもわからない。だけどなにかに急き立てられるように、『そうしなければいけない』と思ったのだ。
 夏油くんの体からは血のにおいがした。そのなかにまぎれるようにして彼のにおいがした。その瞬間にすべてが耐え切れなくなってしまった。私はずっと夏油くんに助けてもらっていたのに、救ってもらったのに、何一つ彼のためにできなかったことを理解した。私は彼に与えてもらうばかりで何も与えることができなかった。
 夏油くんは縋りつく私を突き放さなかった。私の肩をつかんだ彼の手に一瞬力がこもる。それから、その手は私の背中へ動いた。添える程度の、私が逃げようとすれば逃げられる程度の力で、彼が私の背中に触れる。だから代わりに、私が夏油くんの背に回した腕に力を込めた。
「君が呪術師でよかった」
 ささやかされた言葉は、私へのすべての肯定だった。今の今まで呪術師に向いていないといわれたことはあれど逆を言われたことなどないに等しい。自分でもそう思ってきた。でもその言葉は、私が呪術師でよかったのだと、この力があってよかったのだと、すべてを許してくれた。夏油くんは非術師を殺した。でも私が呪術師だったから今この瞬間、殺さなくてすんだのだと、それにほっとしているのだと彼はそう言う。
 シャツ越しに伝わる体温は温かい。その瞬間に私はこの人を殺すことはできないと気づいた。本当に正しい呪術師としてあるなら、殺されるとわかってでも彼を止めなければいけないのに。彼を殺すことも止めることも、一度自覚してしまえばもう無理だった。
 踏み出した夏油くんは今こうして見せたように、殺し続けるだろう。彼は殺し続けなければならないし止まることはできない。なら私は人生でたった一度くらい、夏油くんにいちばん寄り添う選択をしたかった。
「私も一緒に行きたい」
 顔をあげて、彼の顔見上げた。彼の顔に浮かぶ表情からはなにを考えているのかは読み取れない。私は手を伸ばし、夏油くんの頬に飛び散った血をぬぐった。
「夏油くんと一緒にいたい。夏油くんがいい。おいていかないで」
 本当は行かないでと言いたかった。でもそう言うにはきっと遅すぎたのだ。
 今度こそ突き放されるかもしれないと思ったけど、夏油くんは応えるように私の背中にまわしていた腕へ力を込めた。その事実に安堵しながら、もはやすべての取り返しがつかないことに涙がにじんだ。
 高専に入ってからの三年間が頭の中を巡った。おそらく生きてきたなかでもっとも濃密でもっとも幸せだった時間だ。高専で出会った人たちの顔が浮かぶ。これから選ぶ道にどういう顔をするのかと思うと、私は情けないことに足が震えた。それでも私は彼の腕のなかから離れたいとは思わなかった。
 五条くんのことを思う。五条くんなら止められたのだろうか。一緒にいたのが私でなければ、親友である彼なら。正しい道に彼と共に歩いて行けたんだろうか?
 五条くんのことを考えると、違う意味で胸が痛みを覚えた。私は彼の横顔ばかりを見ていた気がする。直接向き合ったことなどまともにない。この先もその機会は失われた。数えるばかりだったけど、時折見せてくれた五条くんの笑みが脳裏をよぎった。もう彼はあんなふうに私には笑ってはくれないだろう。 
 私の体に触れる夏油くんの手がかすかに震えているのを感じる。神様は震えない、そう言った自分の言葉を思い出した。今、こうして私を抱きしめてくれるこの人は神様なんかじゃない。だから、そばにいたいのだ。
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