傷 | ナノ

「痛かっただろう」
 彼の方がよほど痛みを感じているような声で言うので、私は人の痛みを自分のもののように感じることができる人は本当にいるのだということをその時初めて知った。
 痛みを与えないように、できうる限り気遣っているのがわかる優しい動作で、彼は私の手をとる。包帯越しにしか彼のてのひらの温度が分からないことが惜しいと思った。けれどこうしてケガでもしなければ彼はきっと私に触れなかっただろう。
 私の手に視線を落とす伏せた彼の目はこちらを見ない。
 西日が満ちる教室の中はあたたかく、暖房もついているせいか暑いくらいで自分のうなじに汗がにじむのがわかる。熱せられたろうそくのように熱くてとけそうだと思った。そのくせ足元は寒くて少し震えそうだった。たぶん彼に手を握られているのも関係していた。
 彼が日を遮るように立っているために私に影が差す。逆光のせいで彼の顔も影が差すように見える。それでも近かったから表情はわかった。まぶしいものを見るような、それでも価値のあるものを見る柔らかな表情で彼はほほ笑んでいた。
「君は優しいな」
 本当に、本当に、感銘をうけたというように、その言葉こそ優しく、彼は口にした。初めて彼がそんな風に声を出すのを聞いて、心臓が痛いほどに高鳴っているのが分かる。見ていられないような気持ちになって思わず逃げるように視線を下げる。すごく嬉しかった。だって本当は、きっとずっと誰かにいってほしい言葉だったから。
 だから私は、私があなたの思うような人間でもないことも、あなたの方がよほど優しいことも、けして口にはできなかった。

 彼の目が私の処置された手の甲を見た瞬間につりあがったのを見て、その思った通りの反応に私はいつものように笑ってしまった。私の反応にすかさず笑いごとじゃないと注意が飛んでくるのも予定調和だ。
 お風呂に入ってガーゼがはがされ傷がさらされた手の甲を眺めながら、飯田くんはため息をつく。その反応はやはり変わることがなく、私はその変わらなさに安堵するし喜んでしまう。
「痛そうだ」
 そんなにもつらそうな声を出さないでほしい。そんな気持ちをこめて、私は飯田くんのくちびるの端にキスをする。くちびるを押し付けたその瞬間に一瞬彼のからだが硬くなった。いくらでもキスをしたことがあるというのに飯田くんの頬は赤く染まっていく。自分でもそれがわかっているのだろう、彼は咳払いをしてから私を見つめた。
「こういうことで誤魔化そうとしても駄目だ。今日こそ約束してもらわなければ」
「嫌だった?」
「嫌なわけがない!」
 思わずというように大声を出す飯田くんに私はうんと頷く。
「嫌じゃないなら良かった」
「……君に触れられるのが嫌なわけがないだろう?」
「私も飯田くんに触ってもらうのすき」
 さすがにはしたないかなと思ったものの本心だったのでそのまま告げる。寄りかかるようにくっつくと飯田くんは応えるように私の肩を抱く。だけどもう片方の手で私の手を持ちあげたままだ。傷を指でそっとなぞられる。治りかけの傷は違和感がある程度でもう痛みもなかったし手を使うのにも支障はない。
「傷はついた瞬間がいちばん痛いから。だから、大丈夫だよ」
「痛みは比べるものじゃないだろう。痛みには変わらないんだから。……何度もいってると思うが『個性』を使うのは控えてほしい。君が傷ついたところを見るのは、嫌なんだ」
 弱弱しい声音の最後の一言に、罪悪感が胸を撫でる。ざらつくその感覚に私は確かに心を痛めながらその痛みから逃げるように、それと同時に飯田くんを慰めるために彼の膝をぽんぽんと叩いた。
 私の個性は他人の傷を自分にうつすことができるというものである。患部に触れることで傷を場所も深さもそのままに自分にうつせるのだ。飯田くんはそんな私の個性を優しい個性だと褒めてくれる。だけど私がその個性を使うのを彼は嫌がる。私は場を和ませるようにわざと軽い口調で笑った。
「実はこれ、今回は私が負った傷なんだ」
「……」
「ごめんなさい。嘘です」
「……全く」
 呆れたようにため息をついた飯田くんはちょっと怖い顔をして私を見た。そうして彼は私の手に唇を押し付けた、と思うと舌でその傷をなめた。びっくりして手を引っ込めようとするも手はしっかりと握りしめられている。
 ひっこめることもできずどうしようもなくてされるがままになっていると、だんだんと舌づかいが変わっていく。舌で傷を確認するような動きが行為の最中のようなものへと変化するのを私の体は敏感に感じ取って、それだけでスイッチが入ったように体がびくびくする。
 ようやく手から舌が離されるも、そのまま今度はくちびるにキスをされる。深く、深く。最初から舌を使うキスをされて息も絶え絶えになってしまった。
 抱きしめられながらパジャマのボタンがひとつひとつはずされる。少し冷たい、乾燥したてのひらがパジャマのすきまをぬうように私の肌をなぞる。てのひらは、なにかを探すようにして動くとある場所でとまった。てのひらでその部位をなぞられる。前に同じように個性でうつして怒られたときの傷だ。まだ完治していない。傷のまま残っている。
 あの時は目に見える場所ではなかったので飯田くんに直接自分から言わなかったのだ。そうしてこんな風に抱き合ったときに、ゆびさきでふれ、それが傷だと理解した瞬間の飯田くんの顔を私はいまだに覚えている。
「まだ残っているね」
 そっとささやくようにそういって、飯田くんはゆびさきで私の傷跡を確認するように何度もなぞる。くすぐったい。やはり、その傷ももう痛みはない。さっきのような性感を高めるものではなく、慈しむようなそのゆびの動きにうっとりしながらされるがままになっていると、飯田くんは深く息を吐き私のことを強く抱きしめた。
「君が優しいのは知ってるさ。だけど少しは一番に自分のことを考えてもいいんじゃないか?」
「……怒った?」
「怒ってないさ。……ただ、心配なんだ」
「……」
「時々考えては恐ろしくなる。君の目の前にどうしようもないケガを負った誰かが現れた時、優しい君はどうするんだろうって」
「飯田くん」
「君を失いたくない」
 私もあなたを失いたくない。思わずそういって泣き出しそうになった。うつむいた私の髪に飯田くんは触れる。彼のてのひらに愛情をもって、そうやって撫でられるとたまらない気持ちになった。
「好き」
「僕もだ」
 泣き出しそうなまぶたのうえにくちづけがふってきて、一粒だけ涙がこぼれてしまった。私はその涙をかき消すように、彼にくちづけをねだる。
 体のやわらかな部分に、飯田くんのてのひらが伸びていく。口から喘ぐような声がこぼれて、私はそのてのひらに体をゆだねる。
 飯田くんに優しいと言われるたびに、私は動けないような錯覚におちいる。それは自分自身が一番、私が彼のいう優しいに値しない人間だと気づいているからだ。私はただ飯田くんをつなぎとめるだけに『個性』を使っている。
 ―――私の個性は傷を自分にうつすだけではない。私は自分の傷を他人にうつすことができる。
 私の持つ『個性』は飯田くんのいうような優しいだけのものではない。でも私はきっと永遠にそれを飯田くんに自分から伝えられないんだろう。だって飯田くんは優しい私が好きだというから。傷だらけでいれば、優しい私でいれば、飯田くんは私を好きでいてくれるから。
 私はきっと今後も飯田くんと一緒にいたいがために誰かの傷をうつし続けるだろう。
 はやく、もっと、隙間をうめてほしいと思った。こうしていられることや、飯田くんのぬくもりやにおいだとか、そういうものだけが、私を許してくれるような気がしたから。
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