APH | ナノ
 割れた窓から落ちかけている。私のからだはイヴァンさんに抱きしめられて支えられていて、そのイヴァンさんの腕はアルフレッドさんが引っ張っていてくれている、らしい。らしいというのはここからはアルフレッドさんの顔はまったく見えないのだ。声だけが届いている。
 どうしてそんなことになったのかはあまり重要ではないと思う。大事なのは今の絶体絶命の状況で、つまり私は私の体を抱きかかえてくれているイヴァンさんとともに地上Nメートルで宙づりになっていた。
「名前! 無事かい!」
「無事です!」
「僕には聞かないの?」
「目の前にその顔が見えてるんだから聞く必要が感じられないよ!」
「イヴァンさんも無事です!」
 アルフレッドさんの大きな声に釣られて私の代わりの返事も声が大きくなる。距離が分からないので届いているか不安になったけど返事をしてくれたのでちゃんと聞こえてくれていたみたいだ。
 私の体はイヴァンさんの胸にしっかりと抱かれていて、その安定感といったら目を瞑ったらきっと地上で抱きしめられているのと変わらないくらいだった。でも足が浮いている。思わず下に視線をやると気の遠くなるような向こうに地面が見えた。ここから見たら気が遠くなっても、落ちたら一瞬なのかもと頭に浮かびかけて慌てて前を向いた。前というのはつまりイヴァンさんの胸元だ。恋人のように抱擁されている事実と距離にそんな場合じゃないのに羞恥で顔に熱が集まりそうになる。
「さっさと上がってきてほしいんだぞ!」
「出来るならもうやってるよ、分からない? あっ、この子のことを離したらできそうかも」
「は、離さないで……!」
 悲鳴混じりの言葉が思わず口をつく。感じていた羞恥などかなたに飛んでひしと腕に力をこめた私を見下ろしてイヴァンさんはいつもの笑みを深めた。
「離さないでって縋られる役目はどう考えても俺がするべきだろうに!」
「アルフレッドくんこそ引き上げられないの?」
「出来てたら君たちが抱き合っているのをそのままになんかしないでもうやってるよ!」
 先ほどとは交代した言葉を二人は交わす。言葉の強さはいつもと変わらないけど、どこか切迫している声が飛び交うのを私が一番はらはらしていた。私とイヴァンさんの体重を一人で支えているアルフレッドさんの声にはいつもあるはずの余裕が薄れている。彼に持ち上げられないのに他に助けられる人がいるのだろうか? あるいは間に合うだろうか? 私を抱いているイヴァンさんが私ごと落ちたら、それに引き留めてくれているアルフレッドさんまで引きずられたらどうしよう。
「ここから落ちたらジャムみたいにぐちゃぐちゃになっちゃうだろうね」
 歌うような優し気なイヴァンさんの声とは裏腹に血の色を想像させる言葉に"ジャム"になった自分を想像して余計に血の気が引く。
 私と目が合ったままイヴァンさんは何故か顔を近づけてくる。恐らく青ざめていた私の頬に、なぜかイヴァンさんは首をすくめるようにして自分のほっぺたを押し付けてきた。キスする以上の近さと面積の多い接触にイヴァンさんさんのつけている香水が強く香った。甘くて重い香りだ。さっきとは違う意味で小さく悲鳴を上げたのを聞き取ったのかアルフレッドさんが見えないけど何してるんだ!と言っているのが聞こえてくる。
「頬が冷たくなってる。怖い?」
「こ、怖いです」
「そう」
 平坦な声で聞かれ、イヴァンさんは怖くないですか? となにも考えず聞きそうになり、止めた。代わりに縋っていた手を出来るだけ負担をかけないように伸ばし、彼の背中を大丈夫だという意味を込めて撫でた。この状況、―――二人に命を握られ、助けられている状態ではまったくもって信頼がないのは分かっていたけど、そうしてあげたかった。
 薄い紫色をした美しい瞳を真ん丸にしてから、彼は口元を緩めてどこか憂いの感情がこもった薄いほほ笑みを浮かべると怖いのは自分のくせにと言う。
「しょうがないな」
 しょうがないという彼には似つかわしくない言葉を、彼がどこか優しい声で言うので私は急激に不安になって名前を呼んだ。
「……イ、イヴァンさん?」
「僕が一人で下りるよ。君だけならアルフレッドくんも引き上げられるだろうからね」
「お、降りるって……そんな……」
「昔にもっと高いところから降りたことがあるんだ。その時も僕は死ななかったよ。あの時は今日とは違って下が雪だったけど」
 イヴァンさんは"人"ではない。それがその言葉通りであることを私は知っている。だからと言ってこの高さから降りてただで済むとはとても思えなかった。例え彼の言う通りに"死ぬ"ことはなくても酷く痛みを覚えることになるはずだ。
 私を抱きすくめるイヴァンさんはひとの肉体をしている。こんなふうに抱きしめられれば厚い生地のコート越しでも体温を感じるし、鼓動だって聞こえてくる。このひとの体が拉げて傷つき痛みを覚えることを思うと、そしてそうなっても今のように平気な顔をしているだろうことに私は泣きたい気持ちになる。
「こんなところから降りたら、……い、痛いですよ」
「知ってるよ」
 彼が私の目を見たまま静かな声で言う。堪らなくなった。
「私一人が降ります! 少しは軽くなると思うのでイヴァンさんを引き上げてあげてください!」
 私はイヴァンさんではなくアルフレッドさんに向かって叫んでいた。
「最高のアイデアをこんな時にどうもありがとう、反吐が出るほど素敵だな! イヴァンも分かってるだろうね! 彼女を離すな!」
「アルフレッドくんに命令されるいわれはないけどね。でもそうだよ、何言ってるの」
「良いんです! 私が降ります! 頑張ります!」
 私は今まででいちばんの勇気を振り絞って下を直視した。私たちが元いた階の階数が頭に浮かびそうになって冷や汗が滲むのを感じながら落下したときにクッションになってくれそうなものを探してみる。以前テレビ番組で見た転落事故では下にあったもので九死に一生を得たと言っていた。車、あるいは木があればなんとかなるかもしれない。
 出来るだけその上に降りられたらいいなと心に決めて確認する私が本気だということが分かったのか、イヴァンさんの声が低く、ひとを脅かす響きを帯びる。
「君は人間の君がここから落ちるのがどういう意味か分かってないよ」
「それは、わ、分からないけど、だってこうするしか……」
「そもそも君が降りても関係ないよ。彼は"僕"を持ち上げられないんだ。君なんて些細な重さでしかない」
「さ、些細な重さの私の方が降りたとき平気かも」
「絶対に嫌だなあ。離さないから」
「私も嫌です……。私にイヴァンさんをジャムにさせないで……」
 イヴァンさんの声の圧に自分が先ほど上げた大きい声を忘れどんどん掠れていく。哀れなほどに震えた私の声から見つめあって数秒後イヴァンさんは大きな大きなため息をつくと先ほどまでの会話と違い、アルフレッドさんにまでちゃんと届くような声を出す。
「じゃあ一緒にぐちゃぐちゃになろうか」
 アルフレッドくんが全然役に立たないせいだねとイヴァンさんが言う。と同時にずるりと、確実に体の位置が下がった。イヴァンさんの瞳と鼻先がぶつかる距離で目が合う。そこまでいくと近すぎて顔が見られず彼の瞳のぼやけた色や肌しか分からない。私は彼のその瞳の色を見ると花の色のようだと思う。
「でもそのおかげで僕たちは一緒になれる」
 折れてしまいそうなほどきつく、力のせいではなくその必死さに胸が苦しくなるくらいに抱きなおされたそのとき、ずっと感じていた恐怖が消えた。私もまたイヴァンさんのことを力の限りに抱きしめた。万感の思いをこめるように、もう二度と離れなくて済むことを願っている恋人のように。考えて動いたことではなかった。
「あっ」
 浮遊感が私たちを包む。共に"落ちた"のだと私は完全に信じ切っていた。その感覚はイヴァンさんに抱き留められたままアルフレッドさんのいる床に転がって、空ではなく天井を見つめることになっても続いていた。
「散々言ってくれたな。いつまでそうしているつもりなんだい?」
 アルフレッドさんが転がった私たちの上から見下ろしている。その顔を見て、やっと地面に足がついていることを実感した。彼が"腕力"だけで私たち二人を空に投げるようにして戻したのだ、と分かってどれほど力があったらそれが出来るのだろうかと何故か安堵より疑問の方がわきあがってくる。でも力が入らないので私はイヴァンさんがからだを起こすまで彼の腕のなかに抱かれたままだった。
 イヴァンさんが起き上がるとアルフレッドさんが私の腕を引き寄せた。今度は彼に抱きしめられる。遠慮のないハグに込められている力はイヴァンさんのときのようにそれこそ"折れそうだ"と思ったがその腕にこめられた心配と安堵に、私はなにもくちにしないまま彼のからだを抱きしめ返した。
「ケガはしてないだろうね?」
「イヴァンさんがずっと抱きしめていてくれたので……。ありがとうございました……」
「助けたのはイヴァンじゃなくて俺だよ」
「引き上げられるなら最初からやってよ」
「その前に聞く必要のある言葉があると俺は思うけど」
「アルフレッドくんの持て余した馬鹿みたい力が役に立ってよかったね」
 聞き取れないが絶対に良いものではないと分かる言葉を吐くアルフレッドさんを後目にイヴァンさんは立ち上がり衣服を払う。くたびれちゃったと人が集まってくる前に立ち去ろうとする彼の顔を見上げた。あれほど近く、体温を感じるほどに近づいた彼が離れていくのを見て、私は感傷的な感慨を抱く。こちらに視線をやったイヴァンさんと目が合って、どこか驚いた顔をしたので私はよほど変な顔をしていたのかもしれない。
 それきりイヴァンさんは顔色を変えることなかったが、私に耳打ちした。
「君となら本当に二人で落ちても良かった」
 その言葉の意味を考える私とイヴァンさんはもう目が合わなかった。彼の背を目で追う私の肩を彼がつかみ、自分と目を合わさせる。
「君を、助けたのは、俺。イヴァンじゃないよ」
「アルフレッドさん、ありがとうございました。死んじゃうかと思いました」
「うん」
 単語を切って噛んで含めさせるように言われ、私は素直にそれを受け止めて改めて目を見てお礼をする。晴れた明るい空の色をした青い瞳が満足そうにするので私の心まで満たされる。彼には単純な腕力のみならずそういう魅力がある。
「君が落ちていく姿なんて想像だけでゾッとする。君の前でイヴァンが落ちていって、それが君の心に影響を及ぼすのもね」
 彼は私を見ながら、目の前にその景色があるとでも言うように嫌そうな顔をした。
 今の騒ぎでようやく建物の中の人が、上から下からあの割れたガラスの場所に集まってきている。そんな観衆の中で構わずに抱き上げられるとまるで映画のワンシーンみたいだ。それこそさっきもそうかもしれないと終わった今だからこそ思った。からだにかかる疲労感とともにでも私には荷が重いなとそうも思った。
 寄ってくる誰か、恐らくこの建物の人間に彼がこの騒動の始末の手配をさせる間も私は当然のように腕に抱かれて、彼の声を聞いていた。そしてその存在だけであけさせた人込みの中の道をアルフレッドさんは私を抱えて歩いていく。顔をうずめることになったアルフレッドさんの首筋からはイヴァンさんとは違う爽やかな香りがした。そう感じるほどに近い距離に照れと羞恥を感じ、手で押して距離をとろうとするも、アルフレッドさんの手によって後頭部を押され簡単に戻される。
 「歩けます」という下ろしてほしいという遠回しのお願いも却下されたあと(イヴァンにはあれだけ素直に抱かれて、それも自ら抱き着いていただろうと私に言った。イヴァンさんと私がしたことは、当然自分もする必要が、そうする"権利"があるというような言い方だった。)抱かれ慣れずにぷらぷらしていた足を膝の下からすくうように横に抱きなおされ、これだと本当に映画みたい、と思う。ようやく目的地に付き、下ろされたとき、私は久しぶりの地面を再び踏みしめながらもふらふらする。アルフレッドさんはそんな私の耳に、イヴァンさんがしたようにくちを寄せた。
「君とイヴァンが二人で共に落ちていくなんてことありえないよ。一緒にもならない。俺がそうさせるはずがないからね」
 あっけにとられた私の目と太陽を擁するように輝く彼の目が合うと快活にほほ笑まれる。聞こえるはずのない距離、声の大きさだと思っていたが、彼もまた"人"ではないということをそのとき私は思い出すのだった。

×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -