蒸し暑い午後に降る夕立は誰にとっても恵みの雨となる。
学期が終わって長い休みがやってきた。私は家に帰らないけれど、学園にいる大半の生徒、および先生はおのおのの家族が待つ家に帰っていく。夏のうちはどこの家だって大抵忙しいのだ。農家の出の者は作物の収穫や手入れにてんやわんやだし、そうでなくても働きに出る両親に代わって家事がある。学園に通うには金が要るし、平気な顔で金を出せる程、余裕がある家庭は少ない。
こういう時、私は恵まれていたんだなと感じる。一度も家に帰っていないが、学資が途絶えたことはなかった。
そこにどんな意図が隠されているのか、私には分からない。きっと厄介払いの延長申請とでも思っているんだろう。

雨のお陰で少しばかり涼しくなった風を受けながら、私は食堂へと向かった。
時によっている時といない時があったが、幸いなことにどうやら今回の休みは食堂をすべて一人で切り盛りしているおばちゃんが学園に残ってくれているようで、食堂に着いた途端、私は温かく迎えられた。
おばちゃんがいない時は残ってる者で台所を交代に使って自炊しなければならないから、これは私としても大変助かった。特に料理が苦手なわけでもなかったが、夏の間も自学自習している身としては少しでも手間が省けるというのは大いに有り難い。
私は献立を見ながら、いつも頼む定食を注文した。はいはいと答えて、おばちゃんが器に移す間、たわいもない話が始まる。

「そよちゃん、また外で走り込みしてたんだって?休み中なのに偉いわねえ」
「耳聡いですね。放っておくと体はすぐ鈍っちゃうんで、これくらい当然ですよ。誰に聞いたんです?」
「久々知君よ。ほら、あそこの机に同じい組の尾浜君と食べてるでしょ」

私がその言葉に振り返ると、久々知と目が合った。目だけで挨拶して、私はまたおばちゃんに向き直る。

「忍たまの四年で残ってる子はあの二人と鉢屋君だけみたいよ。竹谷君は学園を出る時、置いていく動物のことを酷く心配してずっと渋ってたんだけど、彼らに泣く泣く頼んでったんですって」
「へえ、そうなんですか」

確かにらしいなと思って私は頷いた。
上級生になったとはいえ、まだ将来のことを考えるには早い、宙ぶらりんな時期にある四年生は学園に残る者は少なく、むしろこれが学業中に家族に会える最後の機会だと思って帰省する者の方が多いのだ。その中には家族が熱心に勧めて帰る者もいる。
だから竹谷が帰るというのは当たり前といえば当たり前の話だ。

盆にすべて料理が並ぶと、私はついさっき話題にのぼったばかりの二人の元へと歩いていった。
私が何を言わなくとも、二人は奥に詰めてくれて何も言わずにもぐもぐと口を動かしている。
私は静かに腰を下ろすと、いただきますと手を合わせた。ご飯と味噌汁と焼き魚という必要最低限の栄養を揃えた晩御飯は、疲れた体にとても染みる。旨い。

「実戦演習ぶりだな」

半分程食べ終えたところで、久々知が淡々とした口調で話し始めた。どうやら先に食べ始めた二人はどちらももう食べ終えたらしく、寛いだ姿勢になっている。
私は淡々とした中にも僅かに寄せられた久々知の眉間の皺に首を傾げながら、ずずっと汁を飲んだ。確かに久々知を見かけるのは実戦演習ぶり、しかも正確にいえば演習開始前の説明の時ぶりであるけども、私達は久しく会ってないだけで機嫌を悪くさせられるような仲ではない。
私が久々知の真似をして神妙な顔をしてみせると、隣で尾浜が笑った。

「何だ、何か今面白いことがあったか」きょとんとした表情で久々知が尾浜に問う。
「違うよ。そよ、兵助は別に演習について考えてるんじゃなくて、今日の献立に豆腐が一つも無かったからあんな顔してるんだ」
「なっ、勘ちゃん…」
「なーる」

頬に赤みがさした久々知がにやりとする私をきっと睨んだ。からかってやる性分でもないので、それきり食べ終わるまで何も声をかけなかったけれど、あれは相当恥ずかしい顔だ。
普段は澄ました顔をしているから何かと近寄りがたい雰囲気をしているが、実際に話すと久々知は笑うし怒るし色んな表情をする。人形みたいな綺麗な顔が笑うと、それだけで場が華やぐ。
私は存外、彼のことを気に入っていた。いや、久々知だけでなく同い年で面識のある人は大抵好きだった。たとえ鉢屋であっても。おそらく彼は知らないだろう。
温かい緑茶を最後に飲んで、ご馳走さまと呟くとまた三人で談笑を再開した。さっきの実戦演習に関連して話題は私の演習の成績に及ぶ。

「いやあ、それにしてもそよにはやられたよ」
「ああ、そうか。勘ちゃんはそよに会ったんだっけ」
「呑気に昼飯食べてるから、しめたと思ったらお握りを差し出してきて「食べる?」だよ」
「で、食べたら痺れ薬入りってね。尾浜の紐は有り難くちょうだいさせていただきました」ふざけてもう一度ご馳走さまの格好をすると、尾浜は露骨に嫌な顔をした。
「うわ、これだからくのたまって怖いんだよ」
「いい子もいるよ」私は言った。
「そう意味じゃなくて。」はあ、とわざとらしい溜息をつく。「もういい。じゃあ、そよが怖いんだ」
「それはどうも」

尾浜がべちゃりと机にへばりついたところで、私と彼の掛け合いは終わった。
尾浜が力尽きたお詫びに、盆を彼の分合わせて二つ返しに席を立つと、同時に久々知も立ち上がる。かちゃかちゃと皿を洗っていたおばちゃんに声をかけると、そこに置いといてちょうだいと返事が返ってくる。
また尾浜の元へ戻ってきたところでふいに久々知が口を開いた。

「んー、俺はその現場にいなかったから分からないけど」
「ううっ、何、頼むから兵助、これ以上俺を貶めてくれるなよ」
「いや、勘ちゃんのことじゃなくて」平然とした口調で久々知は首を降る。「痺れ薬って、確か一年生の時、そよが三郎にあげる饅頭に仕込んでたなと思って」
「ああ、そういえばそんなことあったな」

懐かしい、でもつい最近も思い返したばかりの記憶を掘り返されて、私はぱちくりと瞬いた。

「あら、今度は私の番?仕返しのつもりなら、こっちも負けてらんないけど」
「違う違う。何で三人揃って墓穴の掘りあいしなきゃならないんだ」
「…そういや、三郎といえばお前演習で三郎に出し抜かれたんだって?でも、そよったら補習なかったじゃん。何でなの」
「ああ、あれ」私はまた記憶を掘り返されて、今度は苦虫を噛み潰した気持ちになった。「鉢屋が私の分を律儀に残していってくれたの」

あの時、叢に倒れ込んで暫くしてから、私は起き上がって探索を始めた。
紐が奪われてしまったからには鉢屋から取り返すか、別の人を見付けてこちらが出し抜かなければならない。全部が全部ではないとはいえ、成り行き上十三も集まっていたのにまた最初からである。しかも一からではなく、零からの。
しかし、そういうときに限って人は見付からないもので、私は光の届かない森の奥まで歩く羽目になった。それでも見付からない。そうして諦めた瞬間、私はまだ一本残っているのに気付いた。
その時まで気付かなかったなんて、自分でも馬鹿じゃないかと思う。

「へえ、よかったじゃん」
「でも、嫌味な奴」
「…三郎は、いい奴だよ」ぽつりと、久々知が言った。「ああ見えていい奴だ」
「それ不破も言ってた。私が自分で痺れ薬飲んだ時ね。はあ、結局かつての汚点に戻るのか。いやんなっちゃう」

どうも最近昔を振り返ることが多い、年かと考えながら頭を振る。齢十三にして年寄りかと思うと悲しくなる。それも振り返るのは、いい思い出ではなくどちらかというと嫌な思い出なのだから質が悪い。
私は話題を変えようと、ふと気になったことを口にした。

「ねえ、鉢屋はどうしたの。四年が三人しか残ってないなら必然的に一緒に食堂へ来るもんじゃないの」
「三郎?いや、それが誘おうと思ったら部屋にいなかったんだよ。雷蔵が帰っちゃったから寂しがってたのにな」
「そよと一緒で自主練してるのかも」
「ふうん。そっか」

自分から切り出した話題だが、そこそこに切り上げて私は自室に帰った。
落ち着く間もなく、風呂の用意をしてまた部屋を出る。
火の扱いは常に慎重に行っているが、それでも火事は怖いもので早めに行かなければ風呂自体閉めてしまうのだ。汗だくになったのに身を清められないというのはかなり辛い。
脱衣所に入ると、そこには私一人しかいなかった。着替えも見当たらないから、他に残っている先輩が入ってるということもないのだろう。くのたまの四年生で学園に残っているのは私一人だけだ。
早々に忍装束を脱いで湯に浸かると、肩の力がするすると抜けていった。やはり一日の疲れを取るのはこれが一番だと感じ、静かに息をつく。元々人と馴れ合うのはあまり得意でない上に、同室がいなくなってからというもの一人でいる時間が一層増えたが、このだだっ広い共同風呂に一人というのは何と無く特別な気がした。
少し傷んだ毛先が濡れていって、試しに一気に頭まで潜ってみると全身が温かい中に包まれる。
赤ん坊の頃、確かにあった筈の母親の腕に抱かれる感触はついぞ思い出せないけれど、おそらくこんな感じなのだろう。
目を開けると、脚にある青い痣がお湯の中で揺れた。ぬるぬると魚が泳ぐ姿が思い浮かんで、私はそっと目を逸らして潜るのを止めた。

一通り体を洗い終えると、夜着に着替えて庭へ出た。折角一人なのだから屋根に上ってゆっくりしたいと思ったからだ。
もっとも相部屋の時もこっそり部屋を抜け出して、友人を心配させたものだけれど、幸い今は夏だから湯冷めする心配もないし、最悪部屋に帰らなくてもいい。第一、私は身を夜の空気に晒している方が落ち着ける。一人になれる空間が今も昔も大切だった。
屋根瓦の冷たい感覚が背中を通して伝わってくると、私は静かに瞼を下ろした。
夕方降った雨は小降りだったため、すぐに乾いてしまったけれど、まだほんのりと水の匂いがする。視界を塞いでしまったために、他の感覚が常よりも鋭敏になっている。鼻は雨と土の匂いをかぎ分け、耳は――耳は足音を捉える。

「誰?」と私は目を閉じたまま問うた。

しかし、その誰かは私の問いに答えることなく、屋根によじ上った音がしたかと思うと私の隣に腰を下ろした。そしてようやく、「分かってる癖に」と悪態をつく。
鉢屋三郎だった。鉢屋は雨と土の匂いに交ざって草木と、あと鉄の匂いがした。
きっと山の方にまで行ったんだろう。木々に囲まれて一人練習に励んでいる姿が不思議と想像できる。
私が鉢屋と会ったのは久々知らと同様、演習の時が最後だった。
湿気をめいいっぱい含んだ空気を吸い込むと、あの時の記憶がまた甦る。私は深く息をつく。

「自主練してたの?」
「ああ、一日でも欠かすと体が鈍るからな」
「久々知と尾浜が夕飯の時探してたよ。誘おうとしてたみたい」
「そうか、それはあいつらに済まないことをした。明日にでも謝りに行く」

鉢屋はいつもと寸分変わらぬ口調で答えた。目を開けたら、おそらくいつもと同じ不破の姿なのだろうが私はそれをしない。

「早く風呂に入らなきゃ閉まるんじゃない?泥の匂いがするから入った方がいい。寝苦しいだろうし」
「ああ、そうかもしれないな」
「うん。私は今晩、ここに居座るつもりだけど。生憎今日は演習みたいに鉢屋とじゃれあう気はないからね」
「……分かってるさ」

沈黙の中に染み渡るような返事だった。
その瞬間、鉢屋の気配が消えた。耳元で「そよ、」と声が聞こえる。否、残像のように音の一つ一つが頭の中に残っていく。「      」
おそるおそる目を開けると、辺りには誰もいなかった。私の愛する、星空がそこにあるだけだ。
彼は私を忍として認めない癖に、いとも簡単に私に入り込んでいく。
矛盾した行動だ。私は鉢屋が怖い。
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