※現代パロディ

「あのねあのね」

 なまえの家に居候して一ヶ月。
 ぐつぐつとスパゲッティを茹でるなまえの背中がゆらゆらと揺れた。グラスに入った麦茶の色した世界で僕はなまえを囲い込む。さながら籠の中の鳥のようだ。自由も何もないのは僕の方だけれど。
 振り返ったなまえは、少し困った顔をして笑っていた。

「伊作くん、あのね」
「何だい」
「あはは、そんなに見詰められたら背中に穴が開いちゃうよ。ミートソースとカルボナーラどっちがいい?」
「なまえはどっちがいい?」
「私は…そうだな、ミートソースかな」
「じゃあそれでいい」
「わかった」

 手早くレトルトパックされたミートソースが鍋の中に入れられる。既に火の点いた鍋が、じゅわあ、と楽しげに笑い声をあげた。トマトのちょっと酸っぱい匂いが立ち込めてきて、なまえがお腹減ったね、と小さく呟かれた言葉に頷き、膝の上で開かれたまんまの本に目をやると、難しい論文が躍りだしてくる。目が痛い。僕はすぐに読むのをやめて、またなまえの背中を見ていた。



 一月前、僕は捨て猫だった。
 勿論、捨て猫というのは言葉の綾で、当時から僕はちゃんと人型をしていれば、立派に大学へ通って医学の勉強もしている。ただ、家が無かった。学部学科問わず、友人の家を訪れてはそこで暮らしていた。人間、ご飯と寝るところさえあれば何とかなるらしく、僕は友人の家を渡り歩いては、それなりに幸せに生きていた。
 それが何故、なまえの家に住み着くに至ったかというと、それは、彼女との出会いに総てある。
 なまえは同じ大学の違う学部に属する二回生の女子であった。ちなみに僕は三回生になるので、僕の方がなまえより一つ年上に当たる。
 四月というのはあらゆるものをけなしあい、祝福する季節である。僕はあちこちのサークルで行われる新歓コンパに顔を出して、ふわふわと漂う海月のようにタダ飯食っては食費を賄っていた。先立ってバイトを辞めてしまっていた僕にとってはそこが数少ない栄養源であり、生きていく上で必要なことであった。そして、そこで僕はなまえに出会った。
 僕がそこを訪れた時、なまえは上回生と思われる先輩に半ば強引に勧められて、缶チューハイをちみちみと飲んでいる最中であった。一回生のふりした僕が隣に座った時のなまえの助かったといった顔は今でも僕の記憶の中に組み込まれている。その時からなまえは困ったような笑い顔をしていた。

「名前は?」

 そう問われたから、僕は自分の名字名前を述べた。その時咄嗟に嘘をつけなかったのは、きっと運命というやつであると僕は考える。とにかくなまえは僕の名前を聞いて満足したのか、「伊作くんね」とにっこりと笑った。

「学部はどこなの?」
「医学部です」
「へーえ、じゃあ頭いいんだね。医学部に友達がいるけど、前何やってるか見せてもらったら全然さっぱりだった」
「そんなことないですよ」
「えー、まぁいいや。伊作くんはどっかサークル入るつもりなの?」
「まあ。今悩んでる最中で」
「そっか、そうだよね。沢山あるもの、沢山悩まなきゃ」

 取り留めのない会話だった。なまえはいつの間にか缶を横に置いて、長い丈のスカートを丸めてビニルシートの上で丸く座っていた。まるで猫みたいだ。にゃあと鳴きそうだと思ったら、本当ににゃあと鳴いて、その後ふふと笑った。僕はというと頭の中が透かされたみたいで驚いていた。

「びっくりした?これやるとね、いつも皆に猫って言われてね」

 成る程、それでは彼女はエスパーでも何でもないのだ。
 しかし、その時僕は気付くべきところを見落としていた。年は僕より一つ下だが、なまえは僕より幾分大人だった。どこか物事を達観したところや、僕のちっぽけな嘘を見ないふりしてくれるところとか。これは今も変わらない。

「猫の骨格ってヒトよりも40くらい多いんだって。だからあんなに身軽なのね、羨ましい」

 僕はこの間終始無言だったが、なまえは楽しそうにしていた。
 僕は捨て猫である。しかし、ちっとも身軽ではない。
 春といえどまだ肌寒いからか、手にした料理がひんやりと冷気を帯びる。喉を通ると、胃の中がぎゅううと縮こまった。途中、なまえが「余ったチューハイいる?」と訊いてきたので受け取ったら、それもとても冷たかった。何だ、冷たいものばかりだ。

「伊作くんは自宅通い?それとも下宿とか?」

 その声に我に返ると、なまえはさっきと変わらない格好で葉桜へと変わりつつある桜の木の枝先っぽを見ている風だった。きっとたわいのない会話の延長として話したんだろう。視線が交わらない。


「……僕は、」


 ああ、何故あの時僕は僕でいたのだろうか。
 口をついて出たのは本当のことで、ぱちくりと大きく開かれた目と、その後の「そっかあ」という、酔いが回ってきた時のような少し呂律の可笑しい声はソーダ水みたいな色をしていた。
 動揺、そして後悔。
 けれど、知らぬ間に言ってしまったこととはいえ、見ず知らずの人間に素直に話せる自分がまだ存在したことに安堵したのもまた事実であった。
 
「じゃあさ、住むとこ無いんだったら私の家おいでよ」

 猫の様な伸びに、僕は頷いた。今思えば、有り得ない。彼女は女である。確かに友人を頼り続けるのは偲びないが、しかし初対面の彼女を頼るのも道理に合わない。でも、僕は彼女を選んだ。万有引力か何かが僕らを引き合わせたんだろう、と僕は思う。



「ご馳走さまでした」

  かちゃり、とフォークを皿に置いて、なまえがにっこりと微笑んだ。口の周りがうっすらと赤くなっている。子供みたいで可笑しかったので笑うと、なまえが首を傾げながら「伊作くん、口にミートソースついてるよ」とティッシュで僕の唇を拭った。笑いは当然引っ込んだ。
 片付けは二人でするのが暗黙の了解だ。エプロンをつけ直したなまえと布巾片手に立つ僕と。流れる水音をBGMにしながら、僕達は黙々と作業した。



「はい、ここが私の家。基本的にテキトーに使ってくれて構わないから」

 初めてなまえの家に入った時、お日様みたいな匂いがした。薄いレースのカーテンから差し込む淡い日の光に、ゆらゆら陽炎が見える。綺麗に整頓された部屋の中にいると、何だかとても泣きたくなった。

「…え、伊作くん。どうかしたの」
「別に、何も。……あのさ、」
「うん?」

 捨て猫は段ボールで新聞紙に包まれながら、何を思うのだろう。暖かい家に、真っ白なミルク、自由な場所。飢えた声で鳴きつづけるのだろうか。

「実は、僕、君より一つ年上なんだ」
「…というと、三回生?」
「そう、三回生」

 困ったような、それでいて楽しそうな、百面相みたいにコロコロ変わる表情を見ながら、僕は待った。静かだけど、とても穏やかな時間だった。やがて、なまえは口を開いた。笑っていた。

「何だ、じゃあ先輩なんだ」



「伊作君、伊作君」
「え…あーごめん。少しぼーっとしてた」

 些か過去に浸りすぎた。僕は食器を拭く手を止めて静かに微笑みかける。案の定、なまえは困ったように笑って、あのね、と言葉を紡いだ。

「伊作君はもしかしたら判らないかもしれないけど、私は伊作君がうちに来てくれてすごく嬉しいんだよ。それまでは、ずっと、一人ぼっちだったから。淋しかった。私は伊作君を利用したのかもしれない、ううん、きっとそう」
「……なまえ、」


 夢を視る。このままずっと側にいられたらいいのに。永遠など、どこにもありはしないのに。
 結局は、僕もなまえもお互いの傷を舐め合っていただけだった。捨て猫であったのはなまえもだったのだ。ただ、容れられた箱が少し大きいだけで。
 恐らくは僕らはもう依存したままなのだろう。でも、このまま死んでしまうのも、悪くないと思えてしまうのは可笑しいのだろうか。


「…なまえ。僕は、なまえのことが好きだよ」


 狂ってる。嗤うなら、嗤え。


 

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